134 何度でも、約束をしよう。
何度でも、約束をしよう。
金色の瞳を瞬かせ、ノルはゆっくりと森の方へと顔を向けた。
足元で戯れ付く狼達も何かを感じたのか、ノルと同じように動きを止めて鼻先を空に持ち上げている。
少し肌寒いものの、空は快晴で、まるで青い桜のような色だと思わせる。
今ノルがいる中庭からは森の様子を見える事はなく、何かがあったとはっきり分かるわけではないけれども、それでも、不思議と何かが起きたような気配を感じられていた。
それは胸騒ぎとは違う、例えば朝日が昇る瞬間の光を感じたかのようなささやかなものであって、到底言葉にはしようもない言いようのないものだ。
普段ならば絶対にそうした事を気にもしないというのに、と考えて、ノルは狼達の頭を撫でて、裏口へと足を向けた。
もしかしたらそれは、この身体を治した彼女の血や力のせいなのだろうか。
ノルは制服のポケットから鍵束を取り出し、森へと続く裏口の扉を開けると、咽せ返るような緑の香りがする。
青い桜は散り際のように鮮やかな色をしていて、まるで空と同化してしまいそうな程だった。
ぼんやりと見上げていると、ふといつもと違う事に気がついて、ノルは金属門に近づき、鍵を一つ一つ慎重に開いていく。
全てを解錠し、重い門に手をかけて内側へ引くと、遠くで狼達の遠吠えが聞こえていた。
(……霧が、晴れている?)
森の中は、常ならば青い桜の花弁から撒き散らされる白い霧で満たされているのが常の筈なのに、今ノルが見る森には、それらが目視出来ない程にすっかりと消えている。
どうして、と考えて、ふらりと森の中へと足を踏み入れると、はらはらと雪のように青い花弁が空から舞り注いでいる。
歩きながらぼんやりとその様を見上げていたノルは、ふと森の奥から柔らかな風が吹いている事に気がついて、視線をそちらへと向けた。
青い花が咲き誇る木々の騒めきが聞こえて、それから、ちりん、と不思議な音がしている。
森の中央で聞いた音だ、と気がついた時には、木々の向こうから、少しずつ桜の色が変化しているのを見つけて、ノルは思わず足を止めていた。
花々の青色が少しずつ淡くなり、次第に白い色へと変化していくと、その中から、一人の少女が走ってくる。
紺色の制服に身を包んだ、青い瞳の少女だ。
肩より少し伸びたその髪の色は、この森の桜と同じように青くなっていたけれど、今は、本来の色である、薄紅色をしていた。
そして、この森の桜を全て塗り替えるように、彼女が走る場所を起点に、青い桜が薄紅色へと変化していく。
それはまるで、この森の桜が、彼女の色で満たされていくようだった。
あたたかで穏やかな季節の訪れを知らせると言われている、桜の色。
春の色。
「リグレット……」
ぽつり、呟くようにノルが名前を呼ぶと、気が付いた彼女は指先を懸命に伸ばして、いて。
大きな青い瞳は涙で濡れ、陽光を吸い込んだ水玉が淡く光っている。
思わず駆け出して勢いよく飛び込んでくる彼女を抱き留めると、彼女はそのまま胸元に顔を押し付けて、ぎゅうとしがみついている。
「リグレット、どうした?」
何があったんだ、と聞こうとして、ノルはそれを口にする事が出来なかった。
抱き締めた小さな肩は震えていて、背中に回された指先はしっかりとノルの制服を掴んでいる。
子供のように大きな声を上げて泣きじゃくり、ぱたぱたと止めどなく流れる水玉は地面を濡らしていて、それは、何かを喪失した悲しみでいっぱいになっているかのようだった。
ノルは声をかける事を躊躇い、ふと視界に落ちる花弁に気がついて、空を仰いだ。
青い桜は、もうそこにはなく。
あるのは、リグレットと同じ薄紅色の桜の木々だけ。
鮮やかな青は、見上げる空の中に溶けてしまったかのように、広がっていた。
まるで、空へと還るように。
「──そうか。最後に、さよならを言えたんだな」
青い桜の森の中、自分と同じように病で苦しんでいた少女は、この国を深く恨んで、呪っていた。
その少女は、きっと、自分と同じように、目の前で泣く少女によって救われたのだろう。
迷いも躊躇いもなく手を伸ばして、あたたかさを連れてくる、春の色をした、この一人の少女に。
どうか、別れを告げた少女の行き先が、やさしい光で溢れた場所でありますように。
春のようにあたたかで、鮮やかに命が芽吹く季節のような、そんな場所で静かに眠れますように。
目の前で泣くやさしい少女を抱き締めて、ノルは静かに目蓋を閉じて願っていた。
***
肌に馴染んできた制服に身を包み、揃いの帽子を被り直して、少女は視線を上げた。
切り揃えた薄紅色の髪はもう胸元近くまで長くなり、あたたかくなってきた風に揺られている。
少女が駆けていく桜の森は、以前のように空よりも海よりも深い青ではない。
視界を塞ぐように漂っていた白い霧も、もうすっかりと晴れていた。
自分と同じ薄紅色をしている桜は、同じ名前を名付けられているせいか、不思議と親近感が湧いてしまい、少女は花弁が舞う中を軽やかに走り抜けながら、笑顔を浮かべてしまう。
桜の色が変化してからも、国は毒素が完全に消えたと判断出来るまで、森の封鎖を決めていた。
だが、それらが証明されれば少しずつ封鎖地域を狭めていくらしい。
そうしたら、きっと三つに分けられた区画が繋がる日も来るだろう。
その時は、今のようにたった一枚のメッセージカードだけでなく、たくさんの想いを込めた手紙を届けられるようになるかもしれない。
そんな事を考えながら森の中央まで辿り着くと、少女──リグレットは呼吸を整えて、大きな青い鳥居をゆっくりと確かめるように潜っていった。
風に揺られて、花弁が手元まで届くと、鮮やかに映るその色に、同じ色をした眼を柔らかに細める。
そっとそれを手のひらで包むようにして握り締めると、リグレットは顔を上げて、目の前に佇む大樹の元へと辿り着いた。
森の桜が全て薄紅色に変わった後、この桜は花を全て散らしていた。まるで、彼女の後を追うように。
それから一年。季節が巡った時、配達の合間にこの場所へ通うリグレットは、大樹が再び蕾を膨らませている事を知ったのだ。
目の前に広がる薄紅色をした桜の木々の中で、一つだけ。
中央にあるこの桜の大樹だけは、空よりも海よりも深い、鮮やかな青色の花を咲かせていた。
もう二度と誰かを、この国を呪う事はない、ただ大切な者との約束を守る為だけに、この青い桜の木は咲いている。
「リリクラヴェル、会いに来てくれたんだね」
そっと木の幹に手を触れて、リグレットは微笑んだ。
はらはらと空から舞う花弁は、その色は、彼女を鮮やかに思い出させてくれる。
長く青い髪を揺らして笑いかけてくれるかのように、やさしく降り注ぐ花弁。
手を繋いでくれるかのように、陽光に照らされた樹木に触れた皮膚からは、あたたかさを感じられる。
別れを淋しいだけの、悲しいだけのものにしないように。
そんなやさしい彼女がくれた約束が嬉しくて、リグレットは樹木にそっと額を押し付けた。
ありがとう、と呟けば、ぽた、と透明な水玉が落ちる。
まだ彼女を想うとまだこうして涙を流してしまうけれど、悲しむ自分の為に、彼女はやさしい約束をしてくれた。
そして、その身体が光に溶けて消えてしまうまで、やさしく抱き締めてくれていた。
ぱた、ぱた、と零れ落ちた涙が木の根に染み込むと、ちりん、と凜とした音が響いて、リグレットは顔を上げた。
それはまるで、彼女が優しく肯定してくれているようで。
「何度でも、約束をしようね。また、こうして会えるように」
さよならは、淋しいだけの、悲しいだけのものじゃなくって。
こうしてまた会う為の、やさしいものでもある筈だから。
リグレットはポケットからあるものを取り出して、桜の木の根元を見た。
其処には彼女の事を知った人々からの言葉が綴られたメッセージカードがたくさん置かれていて、その中に自分のメッセージを書いたカードを添えると、そっと両手を合わせる。
どうか、こうして会いにきてくれた彼女に、この言葉が、想いが、届きますように。
そう祈っていると、ちりん、と不思議な音がして、リグレットは顔を上げた。
あたたかな風に揺られて、青い花弁が優しく降り注いでいる。
その様子に、リグレットは笑顔を浮かべて帽子を被り直すと、大きく手を振って、再び配達へ戻る為に駆け出した。
陽光に照らされ鮮やかな青色をした桜の大樹の花弁は、彼女にそっと手を振り返すように、柔らかな風に揺れていた。
end.




