02「傾国の狐。歌う烏。クラウディウス・アムレート」
アムレート公爵家の風呂場にて。テルマェイチ・アムレートは、今から半年前ほどにアムレート家の養子となった義妹のクラウディウス・アムレートと互いに裸で向き合っていた。
テルマは胸まで湯船に浸かっていたが、クラウディウスの方は浴槽の手前で立っていた。距離的にも高さ的にもちょうどテルマのすぐ目の前――「妹」であるはずのクラウディウスの股間には小さな男性器が存在していた。
「わたしはまだオチンチンが取れていないので。お姉さまに裸を見られる事は少し恥ずかしいです」
「……『まだ』?」
広い浴室内には白くて厚い湯けむりが立ち込めていた。
「そうなんです」
気恥ずかしげにクラウディウスが言った。
「わたしは成長が遅くて。オチンチンが取れるのは他のヒトよりも遅くなるかもしれないけれどオトナになる前には必ず取れるから心配しなくても良いって神父さまが」
「ちょ、ちょっと待ってくださる……?」
この子は一体何を言っているのか。理解が追い付かずにテルマは額に手を置いた。
クラウディウスの言った「神父さま」とは、アムレート家の養子となった去年まで彼女が暮らしていた孤児院の責任者の事だろう。その孤児院は街の教会に併設されており、運営も教会が担っていた。
彼女は赤ん坊の時分に捨てられ――もとい。教会に預けられたとテルマは聞いていた。という事はその「神父さま」はクラウディウスの育ての親もしくは親達のうちの一人という事になると思うのだが……。
……オチンチンが取れる……? ……嘘よね? そんな事……。
生まれた時にオチンチンがあれば男で。男として生まれたら一生、男のままよね?
途中でオチンチンが取れて女に変わるなんて事……無いわよね?
教会の神父――聖職者と言われるような方がどうしてそのような嘘を……? ……嘘なのよね? でも。聖職者が嘘なんて付くのかしら……? ……え? あら……?
「あの……お姉さまは何歳ぐらいに取れたんですか? オチンチン」
あまりにも無邪気に、そして堂々とそんな質問をされてしまうと、
「え……? あの……わた、わたくしは、はじめから……。……え? え……?」
自分の常識の方が疑わしくなってきてしまう。
良いのよね……? わたくしは生まれた瞬間から女というか女として生まれて……あら? あら……? 覚えていないだけでわたくしの股間にもオチンチンはあったのかしら……? 小さい頃には。取れたのかしら……?
テルマは混乱してきてしまった。あら? あら? あら……? 頭に続いて目までもおかしくなってきてしまったのか目の前に立っているクラウディウスのその奥に、もうひとつの人影が見える。
「――何かございましたか? テルマお嬢様」
テルマの専属メイドであるロウセンの声まで聞こえてきた。もはや耳までも――と自己暗示的に深い衝撃を受けてしまったテルマはこの信じ難い現実から逃げるが如く、すぅー……と静かに意識を失ってしまった。
「お嬢様ッ!?」
珍しく慌てたロウセンの声が聞こえた気がした。
「お、お姉さま……ッ!?」
クラウディウスの声は聞こえていなかった。もしも聞こえていたならば「姉として妹に恥ずかしい姿は見せられない」と意地で意識を取り戻していたかもしれない。
テルマの専属メイドであるロウセンは普段から、テルマの着替えの手伝いは勿論、入浴時にはその体を隅々まで入念に洗い上げたりとしていた。テルマの裸に対しても風呂場に突入する事に対しても躊躇は無かった。
ただ今回は「クラウディウスと二人きりで話がしたいのよ」という主人たっての希望を「ですが……。…………。……わかりました」と渋々ながらも了承してしまっていたという経緯もあって「きゃーッ!」というテルマの叫び声から「――何かございましたか?」と伺うまでに時間を要してしまった。ロウセンは悲鳴なら届くも会話は聞こえない距離に控えていたのだ。遠くに居た。主人に対して誠実であろうとし過ぎた事が侍従としては裏目に出てしまった。メイド歴こそ主人であるテルマの人生と同じ十五年を過ぎてもはや新人ではなかったが、その年齢は二十七とまだまだ若いロウセンであった。
「……反省ですね」
ベッドに横たわる主人を見下ろしながらロウセンは小さく呟いた。
しかし。混乱してはいたテルマだったが、最終的に彼女が現実から逃げ出してしまう事となってしまったキッカケである「あるはずのない人影」や「聞こえるはずのない声」が自分の仕業であった事には全く気が付いていないロウセンであった。
しばらくが経って、
「ん……」
とテルマは目を覚ました。
「……ロウセン?」
「はい。テルマお嬢様。御気分は如何ですか?」
ロウセンが尋ねる。テルマはゆっくりとまばたきをした後、
「……ねえ。わたくしにもオチンチンは付いていたのかしら……?」
とんでもない言葉を口にした。単語然り、その内容然りだ。ロウセンは、
「……お可哀想なテルマお嬢様。倒れられた後遺症で脳に深刻な不具合が……」
幼き頃より世話してきた主人の残酷な現状を不憫に思うがあまり、よよと泣き出してしまった。
大仰な仕草で涙まで流している芸達者な嘘付きメイドを目の当たりにして、
「……そうよね。そんなわけはないわよね」
とテルマは正気を取り戻す。ふぅ……と一息をついた。
「もう大丈夫よ。落ち着いたわ。ありがとう、ロウセン」
「お役に立てましたのなら幸いにございます」
必要以上にうやうやしく頭を下げてみせたロウセンの目はすっかりと乾いていた。
「それにしても。お風呂場で何があったのです?」
ロウセンの声色が変わる。
「――オチンチンがあったのよ」
「……お嬢様?」
ロウセンの声色が更に変わった。反射的にテルマは強く首をすくめる。猛烈な寒気が走ったのだ。テルマは慌てて言い立てる。
「嘘じゃないのよ。冗談じゃないの。本当に。本当にオチンチンがあったのよッ」
「……順を追って話してみてください」
呆れたみたいにロウセンが息を吐いた。およそメイドが主人にとって良い態度ではなかったがテルマは注意をするでも憤るでも不快に思うでもなく、ほっと緊張を緩めただけだった。
「――というわけで。クラウディウスは自分が女で。オチンチンもそのうちにポロッと取れると信じ切っているようだったわ。でも――そんな事はありえないわよね?」
目で見た事実を伝えた後にテルマは自分の考えも添えて同意を求める。
「ありえませんね」とロウセンは即答してくれた。
「そうですね。他国には性別を変える秘術があるとか聞いたこともございますが」
「えッ?」
「どうも眉唾――非常に疑わしい話でした。面倒な儀式を経ても成功率は高くないとか。まあ『そんな事までも出来る』という見栄や虚勢に『でもやらない方が良い』という逃げ道も用意されていた話でしたので。十中八九は嘘でしょう」
「そうよね。男に生まれた人間が自然と女に変わるなんて。ありえないわよね」
「現実には。そうですね。それこそ伝説やおとぎ話の世界ででしたら居られますが。『傾国の狐』は少年が絶世の美女となりますし『歌う烏』などは場面に合わせて男と女を行ったり来たりしていますね」
「止めて頂戴。わたくしの大切な妹と悪役の魔物を同列に並べないで」
テルマはむっとしてロウセンを強く見た。主人から叱責を受けたロウセンだが、
「大変に失礼を致しました」
何故か満足気に微笑んでいた。
「……何よ?」とテルマは訝しむ。
「クラウディウス様が男性であったとしてもテルマ様にとっては『大切な妹』であるとお聞かせて頂きまして。ロウセンは大変に喜ばしく思ってしまいました次第です」
ロウセンはまた少しばかり丁寧が過ぎるような言葉遣いで答えた。
「それは……」と数瞬の間を挟んでから「――そうよ」とテルマは頷く。
「クラウディウスに悪意は全く感じられなかったわ。わたくし達を騙しているという自覚も無いのでしょう。クラウディウスはクラウディウス。わたくしの『妹』だわ」
ロウセンに上手くしてやられてしまった気がしないでもないが。テルマは気持ちの整理が出来てしまった。クラウディウスはクラウディウス。テルマは自分が口にした言葉を心の中で反芻してまた一度、深く頷いた。
残るは実際問題だ。