第38話 そんな焦った顔は初めてみましたの
――叩いた方も痛いものなのね。
初めて人を叩いた手がジンジンとしびれる。
だけど、そんな手の痛みよりも。怖かった。怖かったの……。
態勢と起こしてくれたレッドモンド殿下が眉根を寄せる。
「リュミ……エール? どこでそんな言葉を覚えたんだ……?」
「正直わたくしにも言葉の意味がわかりません。ですが、女性に怖い思いをさせるのが愛だなんて間違っております! 紳士ならば、ベッドの上でこそ女性に尽くすべきなのでは⁉」
――わたくしは何を言っているんですの⁉
わたくし風情がベッドの上でのマナーを殿方に説くだなんて⁉
でも……でも……シルバーがからかってくる時は、いつも怖いとは思わなかったから。恥ずかしいとか、むずがゆい思いをするとか、そんな思いばかりだったから。
――もう、わたくしは何を思い出しているんですか……。
頭がいっぱいで。なんだかいっぱいいっぱいで。
もう令嬢失格だ。わたくしは顔を押さえて嘆くことしかできない。
「うんざりよ! ヤンデレとかもうたくさん⁉ どうしてそんな一方的なの⁉ わたくしにだって心の準備とか、気構えとか、色々あるんです。そんな大人の世界なんか知りません! まだ十六歳になったばかりです! 学園に入学したばっか! ずっと屋敷で勉強して、たまにパーティーや茶会で談笑して……そりゃあ、そんな下世話な話をしてくる方もいらっしゃったけど? でも、わたくしには早いんです。まだ、怖いんです……」
視界が歪んでいた。涙でレッドモンド殿下のお顔がほとんど見えない。
それなのに、わたくしの口は止まらなかった。
「それに浮気ってなんですの⁉ そんなにわたくしのことが信じられないなら、どうか婚約破棄をお命じくださいませ。すべて、わたくしの非にしてくれて構いませんわッ!」
はぁはぁと荒い息が収まらない。
ようやく見えてきた光景の中で、レッドモンド殿下は目を見開いているのがわかった。
「リュミエール……きみ、言葉が……」
「嘘を吐いておりました。あの不埒な素振りはすべてわざとです。十分、不敬と称すに事足りる悪行ですわね? どうぞ処分してくださいませ。ただ、わたくし一人の愚行です。できれば両親含めラムネリア家には寛大な処置をお願いしたく存じます」
それは元から、腹を括っていたことだ。ここまで来たら、わたくしが懇願するのは家のことだけ。両親や使用人たちのみんなには極力迷惑をかけたくない。
――我ながら子供ね。
ただその一心で捲し立てたのに、殿下の疑問符は優しかった。
「どうして、そんなことを?」
「……あなたのヤンデレが気持ち悪かったから。それだけですわ」
わたくしの言葉に、殿下が明らかに固唾を呑む。
「オレの愛が、気持ち悪いと?」
「……はい」
――我ながら、最低なことを言っているわ。
その時だった。ドタドタと激しい足音が近づいてくる。そして勢いよく扉が斬り裂かれた。
「リュミエール、無事――」
扉を切り裂いた張本人のイエーロ様を容赦なく突き飛ばして――一目散に入ってくるのはわたくしの従者シルバーだった。
「あなた、なんて顔を……」
そんな余裕のない彼の顔を、わたくしは見たことがない。
一瞬見合っていると、視線を上下させたシルバーが舌打ちする。そしてすぐさまレッドモンド殿下に掴みかかり――とっさに、わたくしはそんな彼にしがみついた。
「もうわたくしが殴ったから!」
「……足りねーよ」
それにシルバーは動きを止めるも、とても不服げで。
だけど……もしもシルバーが殿下に手を上げてしまったら、それこそ極刑になるかもしれないから。
――そんなの、わたくし一人で十分よ。
だから絶対に、絶対に離さない覚悟でシルバーにしがみついていると。
シルバーの後ろから出てくる青い影。
「それなら――」
彼、ブルーノ=フォン=ヤッターメンは容赦なくレッドモンド殿下の顔に拳を入れた。
正直……あまり痛そうには見えない。だけど後ろのベッドに腰を落としたレッドモンド殿下は驚いた様子でブルーノ様を見返していて。
そんな殿下に、ブルーノ様は淡々と告げる。
「僕を裁きたいなら、好きに裁いてくれて構わない。だけど、これだけは言わせてもらおう――道を踏み外そうとした友を殴って、何が悪い?」
その言葉に、殿下は小さく笑っていた。
「友って……お前はずっとオレを陥れようと画策しているんじゃなかったのか?」
「……ふん。ならば、僕を幻滅させるな」
ブルーノ様が顔を赤らめれば、レッドモンド殿下は立ち上がる。そして「助かった」とご友人の肩を叩いてから……未だ何が起こっているのか把握しきれず固まっていたわたくしを真っすぐに見つめてきた。
「なんか……目が覚めたような気分だ。リュミエール、オレの方から願い出たい。今日のことだけでなく、今まで怖い思いをさせてすまなかった。オレの責任で、婚約を――」
「ちょーっと待った!」
そんな殿下の大事な言葉を遮るのは、わたくしが抱き着いたままだったシルバーである。
シルバーは「ちょっとお嬢様はそこでお待ちくださいね」とわたくしをそっと離してから、一度扉の外へ。そして、ずるずると引きずってきたのは――
「一番に謝るのはこいつです」
「え~なんであたし⁉」
「だってあんな攻略対象一斉のヤンデレ化、チート以外の何物でもないだろう⁉」
シルバーが叱りつけるのは桃色髪の令嬢だった。誰が見てもとても愛らしい令嬢である。そんな年下の令嬢の襟首を容赦なく持ち上げるシルバー。
だけど、そんな彼の無礼を指摘するよりも前に、わたくしを含めたほとんどが顔をしかめる。
「攻略対象……?」
それに、アイリーン=フォン=ヤッターメンはゆっくりと片手をあげた。
「あ~~……回想してもいいですか?」





