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空を飛びたいと願う鬼

作者: 体積2乗

深秋の夕刻。西空は濁ったオレンジ色。

地方都市の官庁街。数個並んだ古いビルが影を濃くし、路上には帰宅する人々の波があった。四車線の道路を車も走っている。風景は寂しくはないが華やかでもない。静寂は無く、響き渡る音もない。

凪の時刻。だが微かに空気が流れていた。西から東。下から上へ。


「寒いな」

二十階建てのビルはこの辺りでは目立って高い。その屋上で詰襟の学生服を着た標表太郎が呟いた。背が高く筋肉質。短い髪が逆立ち、赤く染めれば焔のように見えそうだ。頬が出っ張り、顎は頑丈そうで目つきは凶悪。

低いフェンスの手前で突っ立って、林立するビルの屋上を順々に眺めている。

「我慢しろ」

素っ気なく応じたのは紺の制服を着た古里あかりだ。整った顔だがこちらの表情もひどく険しい。

標から数メートル離れて、彼女もまた近くのビルの屋上を見ていた。

二人の周辺には小さな昇降口と排気口、防御用の簡易なフェンス。いずれも錆と埃で汚れている。他には何もなく殺風景だ。人が訪れることを考えてはいない場所。夕刻に高校生の男女が並んで立つには相応しくない。


「なにもねえよ」

「黙って探せ」

古里は右手を丸めて右目に押し当てている。拳で作った望遠鏡だ。

標は両手を両目に当てて、こちらは双眼鏡。夕日を浴びて二人の頬と額は紅い。

「だから、なにもねえって。四人とも飛び降りたのは夜になってからだろ」

「暗くなってからでは見つけられない」

「時間が早すぎてもみつからないと思うぜ。まだ来てねえだろうし」

地方都市の一応は中心街。その辺りには地裁や県庁、市役所の他に地銀や地元企業の本社などが固まっている。彼らがいるのは、そのビル群の端にある雑居ビルの屋上。

二人は地上を見おろすこともせず、夕焼けに目を奪われることもなく、何度も周囲に目を凝らした。それ以外は殆ど身動きもしない。

「あそこは?」

やがて古里が指したのは官庁街と商店街の境にあるデパートの屋上だった。

「妙な感情が残っている。そう感じないか」

「あれは二週間前に中学生が飛び降りたデパートだ。そんときの名残だろ」

そうだったな。古里は別のビルに視線を転じた。


この三週間、彼らの住む市で四人の女の子がビルから飛び降りていた。三人は即死。もうひとりも意識不明のまま二日後に死んだ。

中学生が二人、高校生も二人。彼女らに繋がりは無い。そして一人は標たちと同じ学園の生徒だった。

この連続飛び降り事件が偶然ではあり得ない。なにか共通した理由があるはずだと誰もが思ったが、今のところ誰もなにもわかってはいない。

標と古里は五人目が現れることを警戒しながら、何日も前から手がかりを探していたのだ。


やがてまた古里が呟いた。

「……いた!」

標もその方角を見た。東南、このビル街の周辺ではない。遙か先。

中心部からずっと離れた住宅街、そのさらに向こうの、半分ほどが農地の辺り。地上数十メートルの空中で小さな白い光が浮遊している。

もう夕暮れだ。陽は落ちて空は青黒さを増している。その中で、小さな光は上下左右前後に、奇妙に揺らぐように動いていた。風に浮いたり流されたりしているのではなく、規則性もない。

「そのようだな」

標は掌で作った双眼鏡で覗き、つと顔をあげた。

「あそこは、俺たちの学校の上じゃねえのか」

彼らの通う不二学園。他にめぼしい学校もないことから県内有数の進学校とされている。標と古里はそこの二年生だ。

「方角はそうだ。距離も合っている。あの付近には私たちの学校の他に目立つ建物はない」

「だよな。……で、アイツは何者で、あそこで何してるんだ?」

「私が知っていると思うのか?」

薄暗い上空五十メートルほどを浮遊する一個の光。遠く離れた標と古里から見えていても、殆どの人間はその光に気づいてはいない。

そもそも見ることができないのだ。本当はそんな光は存在しないのだから。

古里と標にも実は見えているわけではない。彼らはただ、自分たちの学校の上空で不規則に飛び回る何かがあると感じているだけだ。

その「何かがある感じ」を浮遊する光としてイメージしているのである。




その日の深夜。

上弦の月が西に傾き、星の光が冷たい。

不二学園本校舎の屋上。昇降口の陰に標表太郎がいた。吹く風は強く、ヒューヒューと空気が鳴いている。地表にはいくつか外灯もあるがここにはない。黒い学生服を着て佇む彼は闇に溶けているようだ。

ずっと標は斜め上空を見あげていた。夕暮れに見た浮遊する光が、さっきから彼の頭上で泳いでいるのだ。この校舎の屋上よりさらに十メートルほど高い。距離は南に五十メートルほど。

光は何の目的もなくただ動き回っているように見えた。左右に走り、上下に揺れ、不意に速度をあげ、ときに停滞する。

見つめ続けて数十分がすぎたころ、光は一瞬止まり、次いでスウーッと流れる動きで標に近づいてきた。


次第にその形が見えてきた。細長くて括れがあり、その脇から枝分かれした二本の細い線がある。腕のように。

やがてくっきりしてきた。光は人間の形をしているのだ。

長い髪があって細長い手足がある。顔立ちも見えてきた。美しい少女だ。クルクル宙を回っている。

近づいても彼女の身体は光度を増さない。本当は光っていないからだ。

「ずっと見てたんだ」

いつから標に気づいていたのだろう、彼の頭上三メートルほどの所から話しかけてきた。顔はあどけない。

「少し前からな」

昇降口の陰から出て行くと、下降して目の高さで揺れ始めた。

標は詰襟の黒い制服。空を飛ぶ少女が着ているのはパジャマだろうか。ゆったりしたワンピースで薄い花柄模様。裾は拡がって材質はとても柔らかそうだ。

辺りはコンクリートと金属で殺風景だ。空には無数の星と半月。

彼女が空を飛ぶという異常な行為をしているのでなければ、ここで向かい合うことにはなんだか背徳がありそうだ。


星と月、遠くの外灯。それしかない場所で見る少女の笑みは、あどけなくて明るい。だが何か奇妙なものを含んでいる。それとも何かが欠け落ちているのか。

「なにをしているんだ?」

問う標の表情はいつものように険悪だ。

少女はもっと微笑む。それが答えなのだろう。

「なぜ空を飛ぶ?」

続けて問うと、微笑みに言葉を添えてきた。

「空を飛ぶって楽しいのよ」

「……そうかい」

少女の身体は薄く光りながら色は無い。細い身体を再び宙に浮かせた。

「いつから、飛んでいるんだ?」

少女は、今度は見えない箒に腰掛けるポーズとなった。

「わりと最近。二ヶ月くらい前からかな」

声は明瞭だ。淀みがなくてまっすぐ心に入って来る。良い鈴の音のように心地よい。

「あなたも飛びましょう」

「俺は飛べないんだ。人間は空を飛べないからな」

少女は頭を振った。

「きっと憧れが足りないのよ。それがあれば飛べるよ、飛びたいって本当に願うことができたら。ほら、わたしのように」

そしてまた少女は自在に舞い始めた。円を描き、∞の記号を描き、自分の身体を水車のように回転させた。

それから揺蕩い、不意に素早く動く。水たまりの中のメダカの動きに似ていただろうか

その動きはしなやかでありながら、細い肢体には病んでいる気配もあった。


ひとしきり宙で舞い踊ったあと、再び標の斜め上空に来た。

「おまえは何処にいる?」

「え? あなたの目の前でしょ」

「本体のことだ。おまえは心だけここに来ている。身体は別の場所にある」

少女はフフフと笑った。「そう思ってるんだ」

「その姿も本当の姿ではないな。顔も」

「どうかな? これが本当のあたしかも」

少女はヒュンと下降した。重力で得られる以上の速度だ。床に激突する寸前で速度を落とし、両足を屋上の床につけた。空中で自在であることを心から楽しんでいる動きと笑顔だ。

「ねえ、飛びましょう」


「だから、俺は飛べないって。身体には重さがあるんだよ」

「心だけになれば誰だって空を飛べるよ。そうしたら行きたいところ、何処へでもいけるよ」

「そんなふうに芳山も誘ったのか」

標の声は陰鬱だ。芳山千帆は標とは幼なじみだ。親しくはなかったが彼の目に入る空間にずっと彼女はいた。

その芳山は数日前に高いビルの屋上から身を投げて死んだ。この少女が一緒に空を飛ぼうと誘ったからに違いない。


少女の顔が引き締まり、すぐにもう一度微笑んだ。

「うん、誘った。でもあの人たちは飛べなかった」

標の脳裏に真っ逆さまに墜落する芳山千帆の姿が浮かんだ。その次の瞬間、彼女は未来を含む何もかもを失ったのだ。

「酷いことをしたな」

「そうかな?」

険しい表情の標から遠ざかって、彼女の身体がまた数十センチ浮いた。風は強いのに身体も衣服も揺れていない。

それから少女は、何万光年か離れた星を背にして素っ気ない視線を向けた。

「あなたは飛びたくないんだ」

そして彼女は飛び去った。

標から離れて空中を真っ直ぐ遠くに向かい、小さな光となって、やがてそれも消えた。




しばらくして標が振り返ると、昇降口の横に紺の制服を着た女子生徒が立っていた。彼と同じ二年生の古里あかり。強い風に豊富な髪とスカートの裾を靡かせている。非常に整ったきれいな顔であることは夜目にも判った。いつにも増して不機嫌そうであることも。

「把握できたか?」

その古里の問いに、標は首を横に振った。

「イマイチだ」

そうか。肯いて古里は少女が飛び去った方角に目をやった。

「きみにはどんな姿に見えた?」

「痩せた女の子だ。やたら微笑んでいた。空を飛ぶこと以外に興味はないようすだった」

「会話もしたようだな」

「ああ」

「誘われたか?」

「一緒に空を飛ぼうと。断るとあっさり飛び去った」

「うむ。では、あれが鬼だ。空を飛ぼうと四人の女の子を誘って殺した」

「そうなるかな。女の子たちにあの子は見えちゃいなかっただろ。見えない誰かに言われたくらいでビルから飛び降りるか?」

「標、きみには判らないだろうが、女の子の中にはいろんな物から逃れて自由に空を飛びたいと痛切に願う者がいるのだよ」

この三週間、ビルの屋上から身投げした四人の女子生徒がいる。彼女たちは誰も死を望んだのではない。さっきの少女、古里が鬼と呼ぶモノに唆されて空を飛びたいと願い、その結果、地面に激突して死んだのだ。


標はコキコキと首を鳴らした。

「男の子だってそうさ」

「あの鬼、きみはなんと名付ける?」

「空を飛びたいと願っているのなら飛ぶ鬼、飛鬼かな?」

「私は違う。あれは憧れ、叶わなかった願いだ。その願いが集まって今の人間に叶わない夢を見させている。……憧鬼と名付けたい」

「いいだろう。それで把握するよ」


死んだ人間は多くの思いを残している。それらは小さすぎて形も色もない。重さもなく、あまりに希薄なので認識されることもない。無限の数ほどの種類があるが、生きている人間が同様の思いを強く持ったとき、似た思いがその人の心に集まってくる。

そして密度が増せば気配が濃くなって、あたかも何かが存在しているかのように錯覚させる。さらに気配が濃くなると、人はそこから何かを訴えかけられているようにすら思ってしまう。

標はこの屋上で空を飛ぶ少女を見てはいない。会話もしていない。

夜の空中には空を飛びたいという思いだけがあった。その思いを彼は少女の形で認識し、訴えかけてくるものを彼女の声として聞いていたのだ。

そのイメージを固定化し、古里と共有するために「憧鬼」と名づけたのである。


「把握したのなら砕ける。急いだほうがいい。明日にも五人目が誘われ身投げするかもしれない」

「あの鬼を生んだのが誰かもわからねえんだぜ」

「それは判っている。きみも知っている者だ」

へ? と標は首を傾げる「いや、わかんねえな」

「きみはさっき痩せた女の子に見えたと言った。私にもそう見えたが、あの魂には馴染みがある。小学校から一緒だった。ずっと親しく触れてきた。この学園にいる生徒の魂だ」

「おまえに親しい友だちって、いたっけ?」

「昔はな。あれは顔も体つきも別人だが、きみとも毎日会っている。玲奈だ。過去の人間の願望が彼女の心をコピーして生まれたものに違いない」

「玲奈……。誰だよそれは?」

古里の視線はいつも厳しい。いまは遠くの星から来た光で鋭い。

「深水玲奈だ。私のクラスの子だ。一年のときはきみと同級だった」


標は少し間の抜けた表情となり、少しして肯いた。

「……ああ、深水か、深水玲奈。そうか、あの子がさっきの鬼を産んだのか」

深水玲奈は目立たない子だ。少し丸顔、表情は乏しい。友だちは少なく、きっと心の内を誰かに明かしたこともないだろう。標とは口をきかない仲ではないが親しくもない。彼女が心の中でどんな夢を育んでいたのかなど知る由もない。

「そうだ」

肯いて、古里はしばらく目を閉じた。

「邪気はない。まして玲奈に罪はない。あの子はただ、友だちと一緒に空を飛びたいと願っただけだ」

深水玲奈にはなんの自覚もないだろう。空を飛びたいとずっと憧れ続け、そうしているうちに過去の人間がこの世界に残した同じ思いを引き寄せてしまったのだ。

それらが凝集して擬似的な存在となり、彼女の魂をコピーして人格のようなものすら持って彷徨っている。偶々出会った者のうち何人かが、その思いに惹かれて空を飛びたいと願い死んでしまったのだ。


「わかったよ。あす深水玲奈に会う。アイツの中に鬼が棲んでいるんなら斬るぜ」

「空を飛ぶ相手だ。私のほうがいい」

「おまえのやり方じゃ自分の心が削られる」

「きみだってそうだろう」

「いや、俺は鈍感だからよ」

過去の妄執を今にばらまくモノのことを標と古里は鬼と呼んでいる。

そんなものに実体はない。だから物理的な手段ではなにもできない。過去の人間の思いに干渉できるのは今の人間の心だけだ。それも標や古里のような特殊な力を得た者だけ。




「夢? 見てるよ。空を飛んでる夢」

あっけらかんと深水玲奈は答えた。

みんなが下校する時刻。場所は正門を出て数百メートル東。二車線の道路沿い。アスファルトに凹凸がある田舎道。周囲には不二学園の生徒がちらほら。他にも人がいる。日射しは穏やかだが薄着では肌寒い。何かを突き抜けてしまったような明るさがある。

そんな場所で標と古里の二人に呼び止められた深水玲奈は、近頃どんな夢を見てる? という唐突な問いにそう答えたのだ。笑みさえ添えて。

「そうか」と標は視線を落とした。


玲奈は標のように個性的でも古里のように美しくもない。身体もなんだか不格好に膨らんでいる。しかし地味な顔は正面から陽光を受けて輝き、身体や衣服の作る陰影は鮮やかだった。

「それで……」

標に並んだ古里も俯き、しばらくして顔をあげた。

「どうなんだ?」

その問いは玲奈ではなく標表太郎に向けられている。

「間違いない。ここにいる」

「できるのか?」

「やるさ」

不可解なやりとりを前にして、深水玲奈は首を傾げた。

「え? え? どうしたの? 何言ってんの二人とも」

「悪いな深水。その夢、忘れてくれ」

標の雰囲気が変わった。動きを止めてジッと何かを見つめ始めたのだ。それは目の前の深水玲奈ではなく、彼女の周辺にある物でもない。彼の心の中にある何かのようだ。


このとき標がおこなっていたのは、身体はその場に佇立してピクとも動かさないまま、心を分離して別の動きをさせることだった。

彼の心は身体と同じ形をしている。目鼻も表情もあって詰め襟の学生服を着ている。ただ色はない。それは透明で薄く光っているように本人には見えている。昨夜、校舎の屋上で出会った空飛ぶ少女と同じだ。

彼の心は身体から枝分かれしてもうひとりの彼となる。標はそれを「シルベ」と呼んでいる。いや、本体はシルベのほうか。シルベは振り返って直立したままの自分の身体を見ることもできる。

シルベは彼の心なのだから誰の目にも見えない。本人にだって本当は見えてはいない。彼はそこに己の形状をイメージしているだけだ。


シルベは玲奈の正面で少し身を落とし、右腕を素早く左から右へ振った。その手には薄く光る刀がある。この刀もまた彼の心がイメージした物だ。

身体は少しも動いていない。玲奈の正面で突っ立ったまま呼吸も止めている。心だけを動かして、やはり心で作った刃で彼女の胴を薙いだのだ。

無論、心の刃で肉体を傷つけることはできない。その刃ができるのは玲奈の心に打撃を与えることだ。


深水玲奈が見ていたのは、標表太郎が自分の前で一秒か二秒固着した姿だった。表情はいつもの彼ではない。目は己の内面か、それともずっと遠くを見ているようだった。

どうしたんだろ? 少し薄気味悪く思うのと同時に奇妙な風が自分の中を吹き抜けたような気がした。熱くも冷たくもない風。

そしてそのとき、ずっと大切にしてきた何かが抜け落ちてしまったような思いに捕らわれた。

(……え?)

同時に、たったいま失った物とよく似た別の何かが自分のすぐ間近で生まれたような気もした。

反射的に左を見た。透明な大気と陽光と道路と、その向こうの木立の他には何もない。

けれども自分のすぐ横の空間に、何かが不意に出現した感覚は確かにある。その気配はアッと言うまに遠ざかった。方角も何故かわかった。道路に沿って南方へ。もの凄い速さで逃げていく。

そして標が、これも凄まじい速度で駆け去って行った。




玲奈から生まれて彼女から遠ざかっていくのは、標が昨夜会った空飛ぶ少女。細い身体に長い髪。全身が白く光って透明。古里が鬼と呼び、憧鬼と名づけたモノである。

ひとどおりの少ない道路を学校とは逆方向に駆けていく。

これは、空を飛ぶことに憧れながら叶えられることなく死んでいった過去の人間の思いだ。この世界に薄く拡がっていた。それが友だちと一緒に空を飛びたいと夢見た深水玲奈の心に集まって密度を増し、彼女の魂をコピーして人格のようなものを得たものだ。

そんなことが人に解るはずがない。誰にも見えない。感じられない。声を聞くことも身体に触れることもない。計測することも不可能だ。だから存在を認識できない。もともと存在などしていないのだから。

異常なほどの感受性を持つ者だけが、何かの気配、それも濃密な気配が自分たちの脇を駆けていることを知るだけだ。


「くそ! しくった!」

憧鬼を追いながら標表太郎は焦りの色を浮かべていた。

抜刀術のような仕草でシルベは深水玲奈の心を撃った。彼女の中に潜む憧鬼を一撃で砕くつもりだったのに、どこかに気後れがあったのだろう、心の刃は憧鬼を砕かず、彼女の中から追い出すだけにとどまったのだ。

不二学園の生徒が下校する路。通行人もいるし車の往来もある。そこを全力で疾駆する標の姿はあまり見られたものではなかった。彼は何もない空間に向かって激しい気迫を込めて全力疾走している。

居合わせた生徒たちは驚いた目で彼を見つめ、笑い出す者すらいた。彼らには先を走る半透明の鬼の姿は見えていないのだから。

少女の姿をした憧鬼は路上を滑るように走り、やがて足を宙に浮かせていった。グライダーが離陸するときのような姿だ。

このまま宙に飛んでしまえば肉体を持つ標に追いつくことは不可能だ。心だけのシルベも肉体から離れられる距離は短く、時間も僅かでしかない。


憧鬼の足が人の頭ほどの高さになったとき、その正面に別の女子生徒が立っていた。一般の生徒に憧鬼の存在は認識出来ない。けれどもその女子生徒、古里あかりは憧鬼を見据えている。

彼女はシルベが深水玲奈に心の刃を振るうより早く、こうなることを予期して先回りしていたのだ。豊富な髪、整った顔。表情はとても厳しく冷たく、さらに容赦がない。両手を胸の前で合わせた。


古里あかりが鬼を砕くときの姿は、墓石の前の遺族に似ている。足を揃えて直立し、合掌する。

瞼は閉じない、視線は指先の向こうに置いて動かさない。静かに息をする。

体と心をひとつに重ね、完全に重ね終え、そして心が体の存在を忘れたとき、つまり彼女が自分を心だけの存在と認識出来たとき、心は身体を離れて別の動きをする。古里ではない、もうひとりのフルサトが生まれるのだ。

その殆どの部分を身体である古里と重ねながら、フルサトは左腕を前方に伸ばし、右腕を後頭部に引いた。その姿勢で彼女の左腕は長弓を持ち、右腕は矢を番えている。シルベの持つ刃と同じく、彼女の心が生み出した心の弓矢である。


狙いを宙に浮いた憧鬼に定め、まさに放とうとした寸前、

「やめろ、俺がやる!」

駆けながら標が跳躍した。

彼の身体は二メートルほど跳ね上がった。その頂点で心を肉体から分離させて、半透明のシルベはさらに二メートル上空に昇った。

そこで刃を振るう。

何処かへ飛び去ろうとする憧鬼の胴を薙ぎ、瞬時に身体である標に戻った。


標の身体はまだ空中にあって落下していた。思い切り跳ね上がった頂点で一瞬だけ気を失ったようなものだ。地面に激突する寸前で心を戻し、両手両足を使って辛うじて着地した。

心は身体に、身体は大地に、無事戻ってきたことを確認して大きく息を荒げた。


そしてフルサトは番えた矢の先で憧鬼が砕け散り、いくつもの透明な破片となって深秋の空に消えていくのを見た。

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