嘘をつく女
「私、のっぺらぼうに顔を描いてあげたことがあるの」
しかも二度もね。そう言って美々子が笑う。
「もう何百回聞いたかしれないな」
うんざりした僕はリビングからすげなく答えてやった。返事はない。
彼女はベランダに出て、キャンプ用の折りたたみ椅子に座り、夜空を見上げている。どのテレビ局も一様に寒波がどうの、積雪がどうのと騒ぎ立てているこの、真冬の晩に、だ。羊毛のセーターの上にダッフルコートを着て、大判のマフラーを巻いて、寝室から厚手の毛布を引っ張りだして、そこまでして美々子はうっとりと星を眺める。せめてガラス戸を閉めてくれればいいものを。室内にいるこちらまでなにか羽織る羽目になるのには、毎回心底うんざりしている。
金曜日の晴れの夜は、いつもこうなのだ。
半年ほど前、はじめて美々子のコレを知ったときは、素敵な趣味じゃないかと思った。あのころはまだ夜風が心地よかったし、なんなら横に並んで空を見上げてやる余裕さえあった。のっぺらぼうがどうのという話だって、時節柄、ただの怪談話だと思って聞き流していた。
だが冬になったいまも、この儀式は平然と続けられている。
たとえ凍てつくように寒い夜でも、晴れてさえいればベランダへ出て、空を見上げて、奇々怪々な話を繰り返す。正直、異常としか思えない。このごろはただただ、早く終われ、早く終われと願いながら、彼女の背中をリビングのソファから眺めている。
「それじゃあ、なんの話がいい?」
美々子が話すと、暗い空がもうもうと白くけぶる。
「そうだ、河童のお皿の話にしましょ」
「馬鹿言うなよ……」
「うーん、それなら、」
「口裂け女の話か? もうお腹いっぱいだ」
言うと、美々子は返事のかわりにうっそりと笑った。僕にはわかる。着膨れた彼女の背中が、僕に向かって笑いかけてくるのだ。身じろぎひとつせず、ひそやかに、あやしげに。
僕は美々子のこういう、ときおり醸し出すもったりと重苦しい雰囲気が苦手で、いつまで経っても慣れることができない。顔がとびきり可愛いから一緒にいるだけで、これで彼女が不細工だったら、けっして親しい仲にはなっていないだろう。
金曜日の晴れの夜、美々子はおかしくなる。
「他になにか、楽しい話をしてくれよ」
「楽しい話って?」
「とにかく化け物が出てこない話さ」
なにそれ、とまたうっそり笑った彼女が、続けてずずずと濁った音を鳴らした。
色素の薄い彼女の手に重そうに抱えられた濃紺色のマグカップには、コーヒーもカフェオレも紅茶も、レモネードも入ってはいない。そこに並々注がれているのは、赤黒く匂い立つ、熱々のホットワインだ。彼女は酔うということを知らない女で、いつだって素面でいる。素面でもって、のっぺらぼうがどうの、口裂け女がどうのと平気でのたまってみせるのだから、余計に質が悪い。
僕の気を惹きたいなら、もう少しマシな、可愛げのある嘘にしてくれよ。そう訴えるたびに、美々子はやっぱりうっそりと笑いながら、嘘じゃないわと見え透いた嘘をつく。そうして、何度だって趣味の悪い嘘を繰り返す。
ずず、ずずず。ワインをすする音が、まるでなにかを引きずる衣擦れの音のように聞こえて気味が悪い。
「化け物なんてひどい言い様ね」
「なんとでも」
「ふふ、のっぺらぼうさんはね、お礼に光る石をくれたのよ。朝でも夜でも光る石。いまでも実家に置いてあるわ」
これも聞いたことのある嘘だ。
「どうせ蛍光塗料かなにかが塗ってあるってオチだろ」
「のっぺらぼうに会ったってところは否定しないのね」
わざとらしく弾んだ声を出す彼女に嫌気が差して、はあ、と思わずため息が漏れた。
「馬鹿馬鹿しい」
熱いコーヒーが欲しくなって、勝手知ったるキッチンへ向かう。カップの底に冷たく残っている分はシンクへ捨てて、ポットから新しく注ぎ直す。区切られたスペースになっているおかげで、キッチンはまだ外気に侵されきっていなかった。むしろ夕飯の温かい名残がそこここに残っている感じがする。美々子が作るご飯は家庭的で、良心的で、味つけにも親しみを感じる。僕たちの相性はいいと思う。くだらない習慣、不気味な嘘さえなければ、僕たちはもっと先へ進めるはずなのに。
カラカラカラ、トン。ガラス戸の閉まる音がして、心なしかテレビの音が大きくなった気がする。美々子がベランダから帰ってきたようだ。今週もやっと終わった。美々子はまた来週の金曜日まで、きっと嘘をつかない。もし来週の金曜日が雨降りの日だったら、再来週の金曜日まで、美々子は可愛いだけの女の子でいてくれる。
「ねえ、なにしてるの?」
頬を真っ赤に染めた美々子が、僕を追いかけてキッチンへやってきた。
「コーヒー。無くなったから」
コートやマフラーはすでに脱いでしまったようだ。ぎゅうぎゅうに編まれたオフホワイトのセーターに両腕を伸ばす。
「美々子」
大人しく僕の腕の中におさまって、どうしたの、なんて笑ってみせる顔に、もう重々しさはない。年相応に可憐で、華やかだ。
やっぱり美々子は取り憑かれているにちがいない。彼女曰く友人、世間的に言えば化け物の類に。意味もなくベランダに出て、じっと夜空を眺め続けてしまうのは、きっとそのせいなのだ。
「もう、やめないか」
「なにを?」
「星を見るのを、だよ」
「どうして?」
「それか病院へ行こう」
「……あなたは? ついてきてくれる?」
とんでもない。気のおかしくなったガールフレンドをもつ男だと思われるのは御免だ。勘弁してほしい。
「ふふ。あなたってほんと素直よね」
美々子の長いまつげが揺れる。そうさ、その顔で笑っていればいいんだよ、君は。
「素直に気味悪がるあなたが最高に可愛くて、やめてあげられないわ」
「は?」
あらいけない、と美々子は自分の口に手を当てる。
「……なにを言ってる?」
「みんなから趣味が悪いって散々言われてるんだけどね」
「みんな? マンドリンサークルの連中か?」
「ちがうわ」
ベランダから出てきた美々子は、もう嘘をつかない。
「あなたが言う、化け物の類よ」
うっそりと笑う美々子の唇は、赤ワインに染まって、こっくり赤い。
(了)