第10話「旅団長室にて」
【第10話 旅団長室にて】
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下士長のハンナは、新任少尉の訓練風景をじっと見ていた。
「遅い! 敵より遅い行動に意味などないぞ! 歩度を上げろ!」
クロムベルツ参謀少尉は砂時計を片手に、行軍演習中の小隊に怒鳴っている。
「敵より先に戦場に着け! 有利な場所に陣取れば、後はほっといても勝てるんだ! そのためにも行軍速度を上げろ!」
クロムベルツ参謀の訓練は、とにかく速さを重視している。偏執狂じみてさえいた。
「撤退のときにも速さが必要だ! 敵より遅ければ追撃を受けるぞ!」
それからクロムベルツはこちらに歩いてくる。
「みんな良い兵士だ。訓練にも身が入っている」
いい笑顔でそう言う。
(軍人にしてはよく笑う人だなあ……)
ハンナのような下層出身者にとって、軍の将校は雲の上の存在だ。それは彼女が下士長になった今でも変わらない。
前任の参謀たちはみんな怖い顔をしており、態度も横柄だった。些細な失敗でも殴られることがザラだった。
しかしクロムベルツ参謀は誰も殴らない。言葉は厳しいし怒鳴るとメチャクチャに怖いが、殴られた者はまだ一人もいなかった。
それに普段は言葉遣いがとても穏やかだ。
「どうした? 体調が悪いか?」
ぼんやりしていたハンナに、クロムベルツ参謀が心配そうに声をかけてくる。本気で心配しているのがよくわかった。
「い、いえ、何でもないですよ参謀殿! ちょっと考え事をしていました」
しまった、と思う。上官との会話中に他のことを考えていたなど、殴られるのが当たり前だ。
しかしやはりクロムベルツ参謀は気にした様子もなく、むしろ大きくうなずいた。
「ハイデン下士長は真面目だからな。アルツァー閣下が総兵力の三分の一を預けておられるのも当然だ」
(ぼんやりしてると褒められる……)
これはこれで逆に困る。
ハンナの心中に気づいていないのか、クロムベルツ参謀はまじめな顔でさらに言う。
「しかしあまり無理をしないでくれよ。平時は六割か七割ぐらいの力で仕事を回すのが理想だ。余力を残しておかないと疲労が溜まり、仕事が次第に雑になる。有事にも無理がきかなくなる」
これも驚いた。目の前の参謀少尉は、全力で仕事をしなくてもいいと言っているのだ。
(びっくりです!?)
ハンナはまじまじとクロムベルツ参謀を見つめる。
こんな場所で楽しげに働いているだけあって、この人はかなり変わっているようだ。
するとクロムベルツ参謀は不意に表情を緩めた。
「そんなに難しい顔をするな。貴官の働きぶりはよくわかっている。ここは俺が見ておくから、食堂にでも行って一服してこい」
「えええええ!?」
声が出てしまった。
クロムベルツ参謀は声を潜め、冗談っぽく笑う。
「これは俺の経験だが、戦場では真面目なヤツから死んでいく。だが俺は貴官に死んでほしくない。俺のために不真面目になれ、ハイデン下士長」
(今、胸がキュンってなった! キュンってなった!)
生まれてこのかた、ハンナは異性に優しくされたことがない。恵まれた体格のせいで珍獣や怪物のような扱いをされてきた。
そのせいでハンナは急速にクロムベルツ参謀に好感を抱く。
しかしやっぱりクロムベルツ参謀は何も気づいていないようで、気楽そうに手をひらひら振った。
「ほら行け行け。これも下士長の役得だ。しっかり怠けて、これからも良い仕事をしてくれ」
「は、はいぃっ!」
思わずビシリと敬礼してしまうハンナだった。
その場を後にしたハンナだったが、食堂に行く前に旅団長室に立ち寄る。
「ずいぶん楽しそうに会話していたな」
大量の書類に埋もれていたアルツァー大佐がクスクス笑うので、ハンナは顔が熱くなるのを感じながら敬礼した。
「クロムベルツ参謀殿は気さくな方ですので」
「私もそう思う。どうだ、彼の人望は?」
「とても良好です。男性というだけで怖がる者もいますが、少尉殿は優しくて教え上手なので人気があります。清潔感もありますし」
それにとても紳士的でカッコイイですからと、ハンナは言葉には出さずにつぶやく。
するとアルツァー大佐は分厚い書類に目を通しながら軽くうなずいた。
「なるほどな。ところでハンナは彼のしゃべり方には気づいたか?」
「しゃべり方ですか……?」
ハンナは「うーん」と唸った後、ポンと手を叩く。正確には「ポン」と叩けず、「バシン!」という力強い音になった。
「あ、そうだ! 何となく下町っぽいですね!」
「そうだ。士官学校出にしては珍しいな」
大佐はそう言い、何かの書類にサインする。
「平民将校なら普通、言葉遣いは最も気をつけるところだ。訛りがあれば徹底的に矯正する。貴族将校と共に軍務を行う以上、平民特有の訛りは出世の妨げにしかならない」
「あー、そうですね。貴族の方って言葉遣いが全然違いますから、すぐわかります」
「だろう? 私もお前たちが『貴族訛り』と呼ぶ、伝統的な言葉遣いをしている。暗闇で会話していても、相手が貴族かどうかはすぐわかる。クロムベルツは言葉遣いは貴族風だが、発音には平民の訛りが残っているな」
そう苦笑した後で、大佐はペンを置いて表情を険しくする。
「軍務態度を見る限り、彼はかなり有能そうだ。前任者たちよりもよほど知的だし論理的だ。発音を改めるぐらい造作もないだろう。だが彼は『粗野な下町訛り』を使い続けている。あれでは貴族将校に疎まれるのも無理はない」
「言われてみれば変ですね」
ハンナには理由がわからない。
一方、大佐は椅子に深くもたれかけると、腕組みをした。
「クロムベルツ参謀は地方都市の下町生まれで、国外に出たことは一度もない。両親も生粋のシュワイデル人だ。だが彼の母語はシュワイデル語ではない。平民訛りだけでなく、助詞の使い方には異邦人特有の癖がある」
シュワイデル人なのに、母語がシュワイデル語ではない。
ハンナには意味がわからなかった。そんなことがありえるのだろうか?
大佐はクロムベルツ参謀の関連書類をトントンと指で叩く。
「何かがおかしい。つじつまが合わないんだ。彼には何か秘密がある」
「秘密ですか?」
「彼が異邦人なら、あの言葉遣いは理解できる。だがそうなると今度は彼の経歴と一致しない。彼の経歴は私の実家を使って洗い出した。彼の身の上話は全て事実だ」
大佐の実家といえば、もちろんメディレン宗家だ。シュワイデル貴族最高峰の『五王家』のひとつである。お抱えの密偵がいるだろうから、平民将校の素性を調べるぐらいは簡単だろう。……と、ハンナは思う。
大佐は苦笑する。
「だいぶ手間をかけて調べさせたが、結局彼が有能な正直者だという事実以外、何もわからなかった。リトレイユ公とも本当に無関係のようだ。逆に不気味だな」
「そうでしょうか?」
「私は臆病者でな」
大佐は立ち上がると、窓の外を眺める。
「とはいえ、今のところクロムベルツ参謀の働きぶりは文句のつけようがない。このまま頑張ってもらおう」
練兵場ではクロムベルツ参謀が制帽を振り回し、何か叫んでいた。
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