スライムでしたが転生したら魔王でした
「大きくなったら、お父さんみたいになるんだ」
息子は無邪気にそう言った。この子にとってはまだ家族が世界の全てなのだろう。
私達スライムはお世辞にも恵まれた種族とは言えない。むしろ強弱で言えば最も弱く、あらゆる敵から逃げ回るしかない。ほぼ全ての生物----魔物・人間を問わず----に下に見られ、蔑まれ、侮られる。私たちはそんな生き物なのだ。
今日の息子の誕生日の為に用意した食事だってそうだ。数日前に妻と一緒に用意した冒険者の死体である。もちろん私たちでは冒険者を倒すことなど無理である。飢え死にだったのか、病死だったのか、他の魔物や人間に致命傷を負わされて力尽きたのか、なんにしても野垂れ死にしていた冒険者を見つけたのは幸いであった。おかげで御馳走を用意できた。今日まで川の水に晒して私達でも食べられるように柔らかくして用意しておいたのだ。おかげで幸運にも今年は息子に惨めな思いをさせなくて済んだ。
息子はまだ外の世界を知らない。だから私達スライムが逃げ回り、怯えながら餌を探し、それを隠れて食べる生き物だとは知らないのである。彼にとって私は頼りになる家長であり、誰よりも強い存在なのだろう。この冒険者も私が倒したと思っているに違いなかった。
だが私はそれで構わないと思っている。残酷な現実を知るのはもう少し先でもよい。今は只、無邪気にのんびりと楽しく成長してくれればよいのだ。
「ほらほら、そんなに急いで食べなくても逃げないんだから、ゆっくりと召し上がれ」
妻も息子の成長が嬉しいのか、この日ばかりは細々とした小言は言わない。普段の妻は息子には「早く食べろ」、「周りに注意しろ」などとうるさいこと言っているのだ。スライムとしては正しい教育なのだろう。しかし、私は息子にもう少しだけ幸せな時間を提供したいと考えていた。妻には「甘い」だの「将来困るのは子供」だのと中々に耳が痛くなる注意を受けるのだが、こればかりは仕方がない話だった。
そんな妻が今日は甘いのは息子の誕生日というだけではないだろう。なにせ人間の死体など我々は滅多に口にできないのだ。まして誰かの食べ残しや追剥にあって散々に痛めつけられている死体などではない、手付かずの死体である。私も初めて見るような上物だった。肉でさえ滅多に手に入らないのだ。息子の誕生日に普段と同じ苔か草を……と覚悟していたところに最上級の御馳走が手に入ったのだから機嫌も良くなるものだろう。
「お父さんは食べないの?」
息子は消化を止めて私に聞いてきた。美味しそうに食べる息子が嬉しかったのだ。それに普段は肉などという貴重な食べ物は他者の食べ残しが僅かに手に入る程度で息子に食べさせるだけでなくなってしまっていた。だから、つい自分自身は食べずに息子を見ている癖がついてしまっていた。
「ああ、そうだな。お父さんも食べようかな」
しかし今日は違う。丸々人間一体分である。今日だけでなくしばらく肉だけで過ごせるほどの量だ。しかし肉を食べるのはいつ以来だろうか? 息子が生まれてから口にした覚えがない。
「美味しいわね」
妻が息子にそう言った時だった。
----パァン
突然甲高い破裂音が辺りに響いた。
『お! あの死体、いい装備じゃん』
突然目の前に現れた木の棒をもった人間が嬉しそうにそう言った。
不覚であった。久しぶりの御馳走に心を奪われ、人間の接近に気が付かなかったのだ。いや、問題はそこじゃない----。
「ああ、坊や! なんということなの!」
妻が激しく動転していた。かく言う私もどうしていいのかわからなかった。さきほどの音は人間が一振りした杖で息子が爆ぜた音だったのだ。
『ウェーイ』
人間は息子の亡骸に対して何度も棒を振り、ふざける様にその残滓を左右へと散らす。
「止めてください! 止めてください」
妻が人間の足元に必死に縋り付く。
「逃げるんだ! 人間に私達の言葉は通じない!」
「これ以上、息子に酷いことをしないでください! せめて静かに眠らせてあげてください」
妻の耳に私の警告が入っているのか、入っていないのか。彼女は延々と棒を振り続ける人間に対して懇願した。
----パァン
再びの破裂音が私の体を震わせた。
『うわっ! 汚ねぇな!』
棒を振っていた人間が驚きと忌々しさが混じった叫び声をあげた。
『お前がいつまでも遊んでるからだよ。さっさと装備を回収して帰るぞ』
新たに数人の人間が私の前に姿を現した。さきほどの音は彼らの一人が妻を踏みつけた際に生じたのだ。
『ってか、てめぇがゴミ掃除してねぇから、踏んじまったじゃねぇか』
妻を殺した男は愚痴りながら、近くの石に靴の裏を擦って妻の一部を擦り付けていた。それはまるで汚物を拭い落すかのようだった。
『あ⁉ 文句を言いてぇのはこっちだよ。そっちの間抜けな行動のせいでズボンまで汚れたじゃねぇか』
棒を振っていた男は泥を払い落とすかの様にズボンの裾をヒラヒラと揺する。
ああ、そうだ。彼ら人間とはこんな連中なのだ。噂には聞いていたが、想像以上の下衆達であった。命を命と思っていないのである。彼らの瞳には私たちは経験値としか映らないのだろう。たとえ言葉が通じたとしても、彼らは妻の懇願を聞きながら薄ら笑いを浮かべて踏みつけたに違いなかった。
『あのスライムはどうするよ?』
茫然自失としている間に人間たちの関心は私に移っていた。
『汚れたついでだ。当然狩るでしょ』
人間の一人が私へと無防備に近づいてくる。私たちスライムにできることは逃げることだけだ。それは自明の理であり本能でもあった。しかし私は我慢できなかった。
「私たちが何をしたっていうんですか! なんでこんな目に遭わなくっちゃいけないんですか! ただ息子の誕生日を祝いたかった! それがそんなに悪いことだったのですか⁉」
通じないとわかっていても抗議の声をあげずにはいられなかった。
『よいしょ!』
私の叫びを無視して人間が杖を振り下ろした。それは非常にゆっくりと感じられたが私は少しも動くことができなかった。
----パァン
身が裂けるような衝撃を伴った破裂音であった。それを最後に私は暗くてわずかに明るい世界の中へと沈みこんだ。昏い世界は私の感覚を狂わせ、その時間は永遠に続くかと思われた。
感覚を取り戻した時、私は魔王であった。
私がどれほどの間、あの世界にいたのかはわからない。刹那だったのか劫波だったのか。一つ言えることはその間に魔王は勇者に倒されたということだった。私が魔王となっていたのがその証拠である。
魔王が倒されると新たな魔王が生まれる。魔王の一族から魔王がでることや、魔族の幹部が魔王となることもあるが、私の様に湧くこともある。そんな噂は聞いていた。流石に魔王のケースは噂----というよりは伝承----でしか知らなかったが、魔族の幹部が湧いたケースは度々聞いていたし、野良の魔物であれば湧いた瞬間を直接見たこともある。私の妻も湧いたスライムであった。それならば魔王が湧かない理由はない。
魔王として突然玉座に湧いた私を周囲は魔王として自然に受け入れた。勇者に倒されるその日まで私は魔王なのである。同時に魔王の本能にも目覚めた。魔王とは適度に人間を苦しめて勇者に倒されるのを待つだけの存在。本能がそう教えてくれた。
しかし私は本能に逆らった。私の記憶が本能に従うことを拒否したのである。
「魔王様、先週は街を一つ滅ぼし3500人ほどの人間を処分いたしました」
私は部下からの報告を玉座で聞いた。
「しかし……いつまで続けるのでしょか?」
そう付け加えた部下の顔には疲労の色がありありと見てとれた。
魔王の本能がそうであるように、他の魔族の本能も人間を虐殺するようにはできていないのである。彼は本能と命令の板挟みに苦しみながら不承不承、私の個人的な復讐に加担させられているのだ。その点は非常に同情している。しかし、だからと言って人間どもをのうのうと生かす気にもなれなかった。
「いつまでも……だ」
「しかし、あまりにも不毛でございます。配下の者たちも限界に達しつつあります」
たしかに不毛なのである。人間を虐殺してからわかったことがあった。彼らも我々と同じく湧くのである。それは子供であったり青年であったり老人であったりと様々だが、殺せば殺す程に人間が湧いたのだ。たとえば王を殺し、王族を根絶やしにしても新たな王が湧くのである。王国を滅ぼしても何事もなかったかのように新たな王がいて人間も魔族もそれを受け入れるのだ。城を攻めると殺せども殺せども新たな兵隊が次々と湧くのである。そしてそれを乗り越えて漸くにも城内の人間を皆殺しにしてもいつの間にか多数の人間が湧いており、何事もなかったかのように生活を営んでいた。
本能に逆らい心身をすり減らしながら全滅させた人間がなにごともなかったかのように復活するのだ。確かに限界を感じるだろう。
だからといって、私は人間を許すことはできない。
「ならば限界が来る前に勇者を見つければよかろう。見つければ余が自ら捕らえる」
「それが今度の勇者は戦闘をあまりしないのか発見に手間取りまして……。今回の街への襲撃も過去に勇者が滞在していたとの情報があったので行ったのですが……」
「すでに遥か彼方へと旅立った後で有用な情報は得られなかったと?」
「はい。どうも最近では人里に近づくことすらないようでして……」
部下が申し訳なさそうに恐縮している。しかし、これほど見つけにくい勇者は未だかっていなかった。ここはむしろ相手を褒めるべきなのだろう。
私はこれまでに勇者を何人も屠ってきた。魔王は本能的に城に引き籠る。原則的に城の一定個所から動かないのだ。しかし、私はその様な本能には縛られない。勇者がいると聞きつければ真っ先に駆け込み、町ごと滅ぼしてきた。しかし、勇者もやはり湧くのである。勇者を殺せば新たな勇者が当然のように現れる。純粋に湧いた勇者もいれば、昨日までただの村人だったのが突如勇者になることもある。あるいは親が名うての冒険者で英才教育を受けていた勇者の少年もいた。時には世界屈指の歴戦の老戦士が勇者になったこともある。私はそんな勇者たちを悉く打ち破ってきた。
そしてある時気が付いた。殺すから湧くのであると。だから試しに王女を攫ってみた。すると思惑通り、新たな王女は湧かなかった。次に王を攫った。しかし、この時は攫われた王が廃位され新たな王が選ばれた。試しにもう一度王を攫って、今度は魔族が化けて王に成りすましてみた。この場合は新たな王は選ばれず、王が湧くこともなかった。勇者にどこまで通用するルールかはわからない。しかし、もし勇者を生け捕り、新たな勇者の出現を阻めば、もはや私を止められる者はいなくなるだろう。なにせ魔王は勇者に倒される定めであり、それ以外の者に倒されるようにはなっていないのだ。
「それよりも田畑を荒らしたか?」
「え? ええ。魔王様の指示通りに塩も撒いておきましたが……」
「そうか。それでいい」
部下は首を傾げたが、私はというと思わず笑みがこぼれてしまった。
これは湧き続ける人間を苦しめるために思いついた方法である。集落を滅ぼさない程度に生産、特に農業生産力を奪う方法をとってみたのだ。これが思った以上に効果的だった。集落を完全に滅ぼすと新たな集落が同じ場所、あるいは別の場所に完全な形で湧いてしまう。しかし、滅ぼさない程度に破壊すると新たな集落が湧かずに壊れた集落が存続するのである。
食料を奪われた人間どもは傑作であった。ある男は飢えて苦しみ抜いて死んだ。ある一家は飢えに耐え切れず、自分らの子供を……乳幼児を煮込んで食べた。ある集落は飢えた集団になけなしの食料を根こそぎ奪われて絶望の中で滅んでいった。まこと人間とは野蛮で利己的で度し難い連中である。直接に手をかけて滅ぼすまでもなく少し背中を押してやれば自らの意志で地獄を作り出し、冥府魔道へと堕ちていくのだ。
そんな日々を過ごしていたある日のことだった。
「魔王様! 勇者です! 勇者が現れました!」
息を切らして一匹の魔物が走り込んできた。
「おお! ついに見つけたか! どこだ?」
転移するために居場所を聞こうとした私に信じられないような一言が返ってきた。
「既に魔王城に侵入しております!」
見れば魔物は臨戦態勢なのか手に剣を握っていた。警戒するのも仕方がない。なにせ私の魔王城に侵入した勇者は初めてだったからだ。
「なるほど、城のどこにおる」
「目の前だよ」
走り寄っていた魔物の姿はいつの間にか人間の、それも少年の姿へと変わっていた。変化の魔法であると理解した時には、勇者は一足飛びで私の目の前に来ており、手に持っていた剣を一閃、私に袈裟切りを挑んでいた。
完全な不意打ちであった。もっとも、それで私が絶命するとは思えなかった。ただし、無視できない手傷を負うことは間違いない攻撃であった。しかしその刃は私には届かなかった。勇者が剣を途中で止めていたのだ。
「今すぐに人間への虐殺と社会の破壊を止めるんだ」
この目の前の人間は何を勘違いしたのか私へ要求を出してきた。
「交渉のつもりか? そんなものは対等な関係でないと成り立たんぞ」
思い上がった人間の言動に思わず失笑が漏れてしまった。
「対等以上のつもりだ」
勇者は平然とした様子で続ける。
「お前も魔王なら本能的にわかっているんだろう? 魔王は勇者に倒される存在なんだと」
幾多の勇者を葬ってきた私への言い草に多少の苛立ちを感じた。
「確かに本能はそう訴えているな。たしかに魔王は勇者に倒される定めかもしれん」
私はこの無知蒙昧な人間の小僧に残酷な事実を突きつけてやることにした。勇者は魔王よりも強いと信じている子供がどのような表情になるのか。そんな加虐心からであった。
「しかし……だ。魔王はいずれ勇者に倒されるにしても、全ての勇者が魔王を倒せるわけではない。むしろ魔王に……いや、魔王の元にすらたどり着けずに死ぬ勇者が大部分なのだよ。現に余も----」
そこで私の言葉が遮られた。
「多くの勇者たちを自ら出向いてその手にかけてきたと言うんだろう?」
無礼にも人間が口を挟んだのだ。
「だけど僕は自らの力でここに着た。そしてあなたに剣を突きつけている」
そこで微笑みを浮かべた。人間風情が余裕があると言わんばかり態度であった。
いや、私も認識を改めるべきだ。私と対峙した勇者は一人の例外もなく、恐怖と敵愾心に支配されて行動を起こした。すなわち、恐怖に負けて逃げようとするか、恐怖に敵愾心が打ち勝ち、我武者羅に突っ込んでくるかのいずれかであったのだ。それでは、この人間はどうであろう? たしかに態度は気に入らない。しかし、そのいずれの感情も無い様であった。恐怖も敵愾心もなく、勇気をもって私へと挑んできたのである。彼は間違いなく勇者であり、しかも私が屠ってきた勇者たちとは別格の実力を持っているのは間違いなかった。もし私が倒されることがあるとしたら、眼前の人間以外にあり得ないと確信さえできた。この勇者は生け捕るには危険すぎる。何としても彼を倒し、次の勇者を捕らえるべきであると判断するには十二分な瞳の輝きであった。
「魔王様!」
ほどなくして私の部下たちが続々と集まってきた。多くの人間を経験値に変えてきた猛者たちである。しかしそれでもこの勇者を相手にするには力不足だろう。なにせ目の前の人間の実力は魔王である私でさえ危機感を覚えるほどだ。おそらく私との実力差は僅差である。しかし、だからこそ、この援軍が致命的な差となるのだ。
「くくく、お前は勝機を失ってしまったようだな」
勇者を嘲笑ってやった。その傲慢さゆえに彼は敗北するのだ。もしも奇襲の一撃を加えていたなら立場は逆であったことだろう。目の前の人間は勇者であることに胡坐をかき決定的機会を自ら放棄したのだ。なんという驕りであろうか。
「戦いはまだ始まってすらいないよ」
勇者はやせ我慢とは思えない余裕の笑みを浮かべていた。
「戦う前に確認したい」
笑みを消した勇者が私を真っ直ぐに見据えた。
「僕らが無理に戦う必要はないんだ」
「いまさら命乞いか?」
「そう捉えてくれて構わない。僕は死にたくない。誰だって死にたくないだろう。そんなことは常識だし、それを吐露することが見苦しいだなんて僕は思っていないから」
勇者は命乞いとは思えない堂々とした態度で続ける。
「それは魔族だろうと、人間だろうと変わらないはずだ。君たちが無意味に人間を殺すことや苦しめることを止めれば、僕があなたに立ち向かう理由はなくなるんだ」
「無意味? 人間を殺すことや苦しめることが無意味だと?」
「ああ、あなたはわかっているはずだ。いくら殺しても人間は自然発生する。それに罪のない人たちを苦しめても意味がないことも」
罪がないだって⁉ 罪のない人間などいるものか! 目の前の勇者のことを多少は認めただけに一層腹立たしかった。この年端のいかない少年は、その短い人生の中で、しかも勇者という恵まれた立場で人間の何を見てきたつもりなのだろうか? 全くもっておこがましい。人間が私の家族に何をしたのか知っているのか? あれこそが人間の本質なのである。人間が立ちなおれば、彼らは我々を経験値の一部として、一切の良心の呵責なく殺戮行動を開始するに決まっているのだ。人間が被害者であると言わんばかりの物言いに苛立ち以外の感情が排除された。だが、勇者の物言いはそれにとどまらなかった。
「僕は魔族も助けたいんだ。そこにはあなたも含まれている」
恐怖も敵愾心もない勇者の行動原理を勇気だと思っていたが、どうやら違ったようだった。この人間の瞳は同情とも憐れみともとれる感情を私に訴えていたのだ。
「おぬしらは手を出すな!」
自分でも不思議なほどに強く心を揺り動かされた。勢い、私は集まってきていた部下たちを制止した。
この目の前にいる人間のエゴの権化である勇者を自分の手で打ち倒し屈服させなければならないと思った。おそらくそう思った理由の半分は魔王の本能だろう。思考や行動を縛る呪いと言ってもいい。しかし、そのような衝動に走らせた真の原因は別の呪いだ。私を縛り続ける前世の記憶である。その記憶が目の前の人間を自らの手で滅ぼさねば後悔し続けると告げているのである。
「交渉は決裂の様だね」
目の前の人間は残念そうに呟いた。人間は人間の、魔族は魔族の立場でしか考えられないということなのだろう。勇者は大層な御託を述べながら人間を保護するために交渉を持ちかけるし、私は私で前世の記憶を梃に人間を痛めつけ魔族を守っているのだ。
だからこそ、前世の因果も含めて目の前の人間代表を倒さねばならないのである。
勇者との戦いは数時間に及んだ。剣を切り結ぶことは三桁では収まらなかっただろう。私が斬撃を受け止めれば、勇者は剣を切り返し二撃、三撃と新たに放つ。私が魔法を唱えれば、勇者は対魔法障壁を張りそれを防ぐ。延々とその様な戦いが繰り広げられた。
強襲は夜中であったにもかかわらず、空は既に白んでいた。
勇者との戦いを一言で言い表すなら“歓喜”であった。
魔王の本能がそう思わせるのか、勇者と攻撃を交わす度に心の奥にしまっていた何かが噴き出すような気持にさせられた。
一対一で挑んだのは正解だったのだ。この気持ちは誰にも譲りたくない。もし今勇者の剣に屈したとしても悔いはなかった。むしろそれを望んでさえいた。そんな不思議な感覚に襲われる戦いであった。
長い戦いは永遠に続くかと思われ、私も永遠に続くことを望んだ。勇者もきっとそう考えているに違いなかった。
しかし、そんな幸せな時間はいつまでも続かなかった。延々と撃ち続ける剣撃は永遠ではなかった。ついに決着の時が来てしまったのだ。
「ああ……やはり、あなたは強かった……」
私の渾身の一撃を受けた勇者が倒れた瞬間であった。
勇者は無邪気に、心底満足したような笑みを湛えていた。
この勇者は魔物との戦いも避けていたと聞いた。もし、まとも戦いながらここまでやってきて、成長した段階で挑まれていたなら私はひとたまりもなかったことだろう。私にはそれが惜しかった。人間への恨みはまだあるが、この勇者にはそれ以上の感情を抱いていた。もはや勝ち負けの問題ではなくなっていたのだ。倒れているのが私ではないことに残念でさえあった。
私は今にも死出の旅に出ようとしていた勇者を褒め称えたかった。短い時間に単純に伝えられる言葉を選んでいた私に勇者の呟きが届いた。
「お父さん……」
それが彼の最後の言葉だった。
「やはり勇者は危険ですな。次の勇者は何としても探し出してみせます」
「……いや、もういいのだ」
私は部下の意見を一蹴した。
「しかし……」
「命令だ。探す必要はない」
「……」
私と勇者の戦いを見ていた一同が不安と不満が織り交ざった表情を浮かべていた。勇者の危険性を目の当たりにしたからだ。それに人間への虐殺を嫌う魔族ではあるが、勇者に対してはそうではない。冒険者から身を隠す穏健な魔物でさえ勇者には襲い掛かる。おそらくは本能がそうさせるのだろう。
私はもっと早くに気が付いておくべきだった。私には本能とは別に前世の記憶に基づく行動をしていた。これは私だけの特別なものだと思い込んでいた。他の魔物や人間は本能に従って生活を営んでいるのだと決めつけていたのだ。
しかし、思えばそれだけでは説明ができない部分も多かった。例えば結婚し子供を作ること、その子供に接することなどはその代表だろう。結婚し子供を作らなくても人間も魔物も湧くのである。しかし多くの者はわざわざ子供を作る。妻もそうであったが、湧いた者であっても結婚し子供を作る。しかも家庭を知らないはずの妻は自らがそう育ったかのように、あるいは以前もそうしてきたかのように自然と子供を育てていた。本能の一言で片づけるにはあまりに複雑な行為であり、それを本能とするには同じく本能であるはずの私の子育て観とは乖離があるものだった。
むしろ私の様に明確な記憶はなくとも、記憶の彼方に消えた無意識下の知識や経験として、ほとんど全ての者は経験済みのことと考えれば合点がいくのである。生物の数が一定数なら、殺せば殺すほど人間が湧いた理由も説明できる。私は過去のどこかで家族や友だった者を苦しみ続けてきたのだ。
勇者が私の息子だったのかどうかはわからない。もしそうだとしても私と同じく以前の記憶を残していたかなどは今となっては知ることはできない。ただ、やはり勇者の様な人間にも我々と同じく家族がいたのである。私がやってきたことは、私と同じ境遇に陥る者、私達よりも苦しむ家族たちを作り続けてきたことに相違なかった。
「それでは魔王様、いかがなさいましょう?」
勇者捜索を断られた部下が私の指示を求めた。
「人間たちへの襲撃も終わりだ」
「魔王様?」
「もう沢山だ」
部下たちが訝しんでいる。それもそうだろう。なにせ部下の反対を押し切って人間への攻撃を命じていたのは私なのだ。豹変を不思議に思うなという方が無理だろう。
「しばらく一人にさせてくれ」
後悔に支配された私が命じる精一杯のことだった。
その夜、私は手紙をしたためた。
『全ての魔族、あらゆる魔物を統べる魔王として命じる。次のことを行え。
一、人間が到達不可能な場所を探しそこに移住すべし。我々が適応可能なら海底でも天空でも地中でも火口でも夢の世界でも毒の沼に囲われていても構わない。
二、人間との接触を禁じる。もし人間が攻撃を仕掛けてきたら極力逃げるべし。こちらからは接近、接触を厳に慎むように。
三、私に移住先を伝える必要はない。
四、私はそこに移住しないが王位は放棄しない。
五、私のことを探してはならない。
六、今後のことは、ここに書かれていることに反しない限度で合議にて決めよ。』
なにか抜けている部分がないか、もう一度確認する。
人間が来られない場所に住んで、我々の方も人間との接触を避ければ、たとえ人間の本能が我々を倒したい、殺したいと思っていてもできない。そのための一と二だ。
それでも、魔王を倒したいとの本能は最上位にあるために、もし私がそこに移り住めば人間たちはいつの日か必ず私の目の前に現れるはずだ。あるいは、私の居場所を部下たちが知っていたら、それを聞き出すためにやって来るかもしれない。それを避けるために部下たちは私の居場所を知らない方がよい。私は人間たちの近くに潜んでたまに人間の前に姿を表せば、無理をしてまで魔族や魔物を探しには行かないだろう。それは三と五で大丈夫だろう。
四は人間の王で実験した結果だ。もし、魔王が空位になったら人間の王と同じで新たな魔王が選ばれるかもしれない。そうなっては本末転倒だ。だから私は魔王を辞めるわけではないと念を押したのだ。
なにかあったら六で決めると……。きっとこれで問題ないはずだ。我々は人間に比べて遥かに頑健で環境への適応能力も高い。移住先はきっと見つかるはずだ。
未明に玉座を後にした私は外から城を見上げた。この城を外から見た憶えはなかった。城内で玉座に座っているか転移魔法で勇者を倒しに出かけ、そのまま魔法で帰るだけだったのだ。
思えば配下の者たちには無理難題ばかり押し付けていた。本能を無視した人間への屠殺を強要し、挙句にはやはり本能を無視したその真逆の行為を命じたのだ。だが、これが最後の命令だから許して欲しい。
妻よ息子よ、そして記憶の奥底に消えたかって家族だった者たち、いつかの人生で友だった者たち、その生まれ変わりたちよ、もう話す機会はないだろう。いや、会うことすらないことを願っている。
息子よ、私はお前の理想にはなれなかった。やはり私は逃げることしかできないのだ。
私がやったことは許されることではないだろう。だが、それでも許して欲しい。もう二度と人間と戦うことがないように願っている。これは贖罪ではない。だが、私はお前たちの為にもこの命が続く限り逃げ続ける。
さらばだ。