変わり者の魔女
大陸の中央へ広がる森の奥深くに、小さな寂れた小屋があった。
立ち並ぶ木々に光を遮られて昼でも暗く、常に冷たい湿った空気が流れている。
地面を支配しているのは新緑の苔。木の近くには毒々しいキノコも生えている。
そんな快適とも言えない土地に住処を構えているのは――ひとりの女性だった。
柔らかな漆黒の髪を後ろで束ね、深紅のローブに身を包んだ彼女は、この鬱々とした森にいても表情は明るかった。
緑色の丸い瞳を輝かせ、目前の大釜を見据え続ける。
彼女の日課は、小屋の中央にある大釜で、じっくりコトコトと薬草を煮ることだった。
えぐみのある臭いが湯気とともに鼻へ入ってきたが、まったく顔色を変えずに柄杓で中を混ぜ続ける。と、
『やあ薬草狂いのセレネー、こんにちは』
足元にちょこんと座った白いハツカネズミに話しかけられ、セレネーは手をとめずに顔だけ向けた。
「あらひどいわね、研究熱心と言ってよ」
『うんにゃ。フツーあんたみたいな若い娘が、こんな色気もないところで、一日中薬草と向き合ってるなんておかしいよ。オイラには狂ってるとしか見えないね』
「言ってくれるじゃない。単にアタシの文句を言いに来ただけなら、さっさと帰ってよ。研究の邪魔だわ」
『心が狭いなあ。せっかくこの間のお礼を言いに来たのに……』
「お礼?」
『オイラの好きな娘を舞踏会へ行けるようにしてくれて、本当にありがとう。豪華なドレスにかぼちゃの馬車、ガラスの靴……ああ、きれいだったなあ。オイラも馬にしてくれて、あの娘の力になれるようにしてくれたしさ。感謝してるよ』
言われて「ああ、そういえば」とセレネーは思い出す。
先月このネズミが『オイラの好きな子に力を貸してくれ』と頼み込んできた。
叶わぬ恋だと分かっていても、少女に幸せになって欲しいと。
その純粋な想いに心を打たれ、力を貸したのだ。
優しい心根の美しい少女だったが、身なりはボロボロ。灰かぶり、と呼ばれていたが……魔法で舞踏会に行った後、王子に見初められて結婚したらしい。
『お礼にオイラの宝物を渡したいんだけど――』
「いらないわよ。もう報酬は貰ったから」
『え? 誰から?』
「あの娘からよ。あの娘や王子の幸せそうな笑顔が見られたから、それで十分」
そう言ってセレネーはウィンクした。
こんな所に金銀財宝があっても邪魔になるし、お金がなくてもやりたい事は十分できている。そもそも元から金品には興味がない。
自分にとっての報酬は――助けた者が幸せになる事。
他人の幸せそうな顔を見るのが好きなのだ。
魔女仲間の間でも「そんなことしても、得しないじゃない」と呆れられ、アクの強い魔女たちの中でも一番の変わり者だ、というのがもっぱらの評判だった。
セレネーは小さく笑ってから、「でも」とネズミに尋ねた。
「あの娘、結婚しちゃったんでしょ? アンタはそれでよかったの?」
『オイラはあの娘が幸せになってくれれば、それでいいんだよ。見返りなんか欲しくないし』
強がりかな? と思ってセレネーがネズミに視線を戻すと、彼は清々しい顔で胸を張り、目を閉じて上を仰いでいた。
このネズミが特別という訳ではない。
人間以外の動物は、みんな似たような考えを持っている。
損得ではなくて、自分が気に入るか、気に入らないか。要は本能にとても忠実なのだ。
「そう。アンタも幸せならよかったわ」
『へへへへ……』
互いに笑い合ってから、ふとネズミが『そういえば』とつぶやく。
『さっきここへ来る途中、変なカエルがこっちへ向かってたよ』
「変なカエル?」
『二本足で歩きながら、メソメソ泣いてたんだ。カエルなのに変だろ?』
そりゃあ確かに変なカエルだ……ん、カエル?
もしかして、と思いセレネーは鍋をかき回していた手をとめる。
『ひょっとして知り合い?』
「多分ね。二本足のカエルなんて、そうそういるもんじゃないから。でも、まだカエルのままだなんて……」
セレネーが考え込もうとした瞬間、玄関の魔法の扉がゆっくり開いた。
この小屋に訪れるのは大半が動物や虫。
用事があるものが前に立てば、自動で開くように魔法をかけてある。
いつもなら「ごめんください」なり挨拶なりが最初に聞こえてくるのだが……。
彼の第一声は号泣だった。
「セ、セレネーさーん……ヒック……助けて下さいー……ゲコッ」
ペタペタと足音を立てながら部屋へ現れたのは、ヒキガエルほどの大きさはある、でもお腹はスリムな緑のカエルだった。
しきりに涙を拭っているが間に合わず、体が涙に塗れて物悲しげな深緑になっている。
ふう、と息をついてから、セレネーは立ち上がってカエルを見下ろした。
「一体どうしたのよ王子? 女子供じゃあるまいし、そんなに泣いても、なんの解決にもならないでしょ? いい加減泣きやんで、話を聞かせなさいよ」
甘やかさないセレネーのひと言で、カエルは必死に涙を拭い、こみ上げる嗚咽をこらえる。
いつの間にかセレネーの肩に登ったネズミは、カエルを物珍しそうに覗き見てから小声で訪ねてきた。
『え、コイツが王子様? こんなに泣き虫で、王子様っていうオーラもないのに? オイラの知ってるカエルの王様は、もっと堂々としていて威厳があったよ』
「言っとくけど、彼、一応人間の王子だから。悪い魔女に魔法をかけられて、カエルになっちゃたのよ」
『ふーん。魔法のせいで姿だけじゃなくて、王子様オーラもなくなっちゃったんだ。可哀想に』
「……アンタ、何気にひどいわね」
なにを言っているのか分からないのを良いことに、ネズミは好き勝手に話す。
それを見やってから、セレネーはカエルが泣き止むのを待つ。
数分後。
嗚咽がようやく消えて、カエルは泣きすぎて真っ赤になった目でセレネーを仰いだ。
「お見苦しいところを見せてしまって申し訳ありません」
「気にしてないわ。……何があったの?」
「実は、その……カエルの呪いが解けないのです。せっかくセレネーさんに解呪の魔法をかけてもらって、それを発動させる条件も満たしたはずなのに……」
言い終わらない内に、カエルはうなだれた。
かけられた呪いを解くためには、解呪の魔法が不可欠だ。
ただ、魔法をかければいいという訳ではなく、それを発動させる鍵が必要なのだ。
呪いの力が強ければ強いほど、解呪の条件は厳しさを増す。
呪いを解くためには、それを上回ることをやり遂げて、魔法を上塗りしなくてはいけない。
以前、生まれて間もない姫に『十五歳で死ぬ』という呪いがかけられた時、セレネーが解呪の魔法を施したのだが――。
その姫は百年の眠りと王子のキスでようやく目覚めるという条件だった。
姫はまだ幼く、ひたひたと近づいてくる苦難を知らない。
死に関わることはそれだけ大きな代償が必要となる。
が、ただ姿を変えるだけの魔法は、あの姫の呪いに比べれば、まだ易しくて単純だ。あくまで比べればの話だが。
セレネーは苦笑しながら首をかしげた。
「解呪に必要なのは、王子へ心からの愛を捧げる乙女のキス。カエルにキスできる娘を見つけるのは難しいとは思ってたけど……でも王子、話からするとキスしてもらえたって事よね?」
「はい……とても可憐で優しい姫で、何度も逢瀬を重ねて、楽しくお喋りして――ようやく将来を誓い合う仲になって口づけを交わしたのですが……結果は見ての通りです」
こんな時に嘘をついても、なんの意味もないはず。そもそも、嘘をつけるようなヤツじゃない。
口元に手を当てて、セレネーは考え込む。
色々と考えて出た結論は――。
「悪いけどそのお姫様、王子の事を愛していなかったんじゃない?」
ポカン、とカエルの口が開きっぱなしになる。
そして弾けたように首を激しく振った。
「そんなハズはありません! 姫は私が何者であっても好きだと言ってくれました。もし王子ではなく、ただの村人だったとしても構わないと……」
「言うは易し、ね。じゃあキスしたけど王子が元に戻れないって分かった時、お姫様はどうしたの?」
「……嘘つき! と言って、私を掴んで木に投げつけました。当然ですよね、結果として私が嘘をついてしまったようなものですから」
話を聞いて、セレネーはネズミと見合わせる。
どちらの口端もヒクヒクと引きつっていた。
『うわー、ネズミのオイラでさえ分かることなのに……世間知らずな王子だな』
セレネーも同意見なので「そうね」と小声で相槌を打ってから、息を吸い込んだ。
「ひとつ聞くけど、王子は愛した人の姿が戻らないからって、突き飛ばしたり叩き潰したりするの?」
「まさか! なぜ元に戻らないのだろうと悲しむとは思いますが、他の方法を一緒に考えると……あ」
ようやく鈍いカエルも気づいたようだ。
セレネーは渋い顔をしてうなずく。
「つまりそういう事。本当に王子を愛していたなら、少なくとも木に投げつけるなんてマネはしないわよ。薄っぺらい口先だけの愛じゃあ、王子の呪いと釣り合いが取れないわ」
「そうだったのですね……分かりました。また最初からやり直します」
そう言ってカエルは肩を落とし、セレネーたちに背を向けて立ち去ろうとした。
哀愁が漂う小さな背中を見て、セレネーは顔をしかめた。
(これだけ世間知らずで鈍い王子に、ひとりで呪いを解いてくれる乙女を探すなんてできるかしら? また同じことの繰り返しになるような……でも、お節介でついていきたいけれど、今は大釜から目が離せないし――)
あれこれ思案していると、耳元でネズミが『どうしたの?』と尋ねてくる。
瞳だけを動かし、セレネーは横目でネズミを見つめた。
「王子、ちょっと待って! アタシも一緒に行くわ。今準備するから」
言うなりバタバタと部屋の隅にあったホウキと、木の小枝のような魔法の杖を手に取ると、杖の先を肩のネズミに向けた。
「アンタ、ちょっと手伝ってもらうわよ」
『へ?』
目を丸くしたネズミに構うことなく、セレネーは魔力を杖に送った。
ボフッと煙に包まれ、驚いたネズミが床へ降りる。
――煙が消えると、そこには短い銀髪の見目良い少年が咳き込んでいた。
少年は愛嬌のある丸い目で、うらめしそうにセレネーを見上げた。
「急になにするんだよ。オイラはこれでも繊細なんだから……あれ? ネズミ語が話せない!」
オロオロする様がネズミそのもので、セレネーは思わず吹き出す。
「ごめんなさいね、意外とアンタ男前じゃない」
「当たり前だろ。ネズミ界じゃあ、ネズミの貴公子なんて言われてんだから」
「ふーん。貴公子なら、女性の頼みを断るなんてことはしないわね?」
「それは当然だけど……」
「じゃあアタシ今から家を空けるから、そこの大釜の中を混ぜててよ。お留守番よろしく!」
じゃあ、と手を挙げると、セレネーはネズミの返事を待たずに踵を返し、呆然となっていたカエルを手に乗せる。
「アタシが一緒に行くんだから、さっさと呪いなんて解けるわよ。だから元気出しなさい」
「セレネーさん……ありがとうございます」
深々と頭を下げたカエルから、温かい雫がひとつ落ちた。