モデルの条件
黒羽は、しばらく放心していたが、はっとして携帯に手を伸ばした。水無月流宇子からは、いつでも電話してくれて構わないと言われていた。あいにく留守電だった。留守番電話にメッセージを吹き込む。
「咲神です。有村劉生の画集見ました。流宇子さんが入れ込むのが分かります。僕もすごく惹きつけられました。有村劉生に会ってみたいです。だから…だから僕なんかでよかったら、モデルやってみたいです」
留守電を終え、ほっとした半面、これでいいのかという疑念も頭をよぎった。
興奮して、ノリでモデルを引き受けると言ってしまったんじゃないか?今までモデルの経験なんてないし。いろんな考えが頭の中を交錯する。
画集は、自室の本棚のお気に入りを置くスペースにに置くことにした。ベッドに勢いよく倒れこむ。白い壁が妙に白々しい。
有村劉生は、どんな風に自分を描くのだろう。確かに流宇子が言うように見てみたかった。
数分して、流宇子から電話があった。
「もしもし、黒羽君?モデルの件ありがとう。明日空いてる?早く劉生に黒羽君を会わせたいの。S駅の改札口に10時に待ち合わせでどうかしら?ごめんね、急だった?」
矢継ぎ早に言われ、黒羽は戸惑う。S駅の改札口に10時。心の中で復唱する。
「いえ、僕も有村さんに早く会ってみたいです」
黒羽としては珍しくきっぱりと言い切った。
「あ、そうそう。モデルのバイト代なんだけどね、時給5000円でどうかな?」
「っそんなに貰えるんですか」
黒羽は叫んだ。今のバイトの日給並みだ。
「時給の相場が3000円くらいかな。劉生は売れっ子だから。なんならもっと出そうか?」
「いえ十分です。あの、どんな格好してったらいいですか?」
名のある画家に描いてもらうのだ。どういう服装をしていったらいいか皆目見当がつかなかった。
「普段着でいいわよ。黒羽君自分に似合うもの分かってるみたいだし」
くすりと、流宇子が笑うのが聞こえた。流宇子の笑い声に、頬が熱くなる。
「じゃあ、明日S駅で」
「はい。失礼します」
待ち合わせなんて、少しデートみたいでわくわくした。流宇子さんはどんな服を着てくるのかとかくだらないことを想像して、日長過ごした。
翌朝、黒羽は緊張していた。30分も前に、待ち合わせのS駅に着いてしまった。時計をいらいらと何度も眺め、時間が経つのを待つ。
「もしもし、流宇子さん?」
「ごっめん。黒羽君、寝坊してしまいました」
10時きっかりにその電話はかかってきた。
「劉生、時間にはうるさいから、黒羽君、先行ってて。あたしも後から追いかけるから。携帯に地図送っとくから。それに分かりやすい場所だから。わかんなかったら、また電話して」
どの電車に乗り、どの駅で降りたらいいかを一方的に言うと、電話は切れた。黒羽は、心もとない気分で電車に揺られていた。それにしても流宇子さん、モデルと画家の初対面という大事に寝坊とは。案外そそっかしい人なのかもしれないなと、黒羽は思った。画家という人種には、未だお目にかかったことがないし、今まで接点もない。なんとなく気難しそうな印象がある。ゴッホとか耳切ったり、自殺しちゃったり。流宇子さんも時間にうるさいと言っていたし。まあ、時間にうるさい人間なんて五万といるが。
服装は色々悩んだ末、黒のボートネックカットソーに、ジーンズという定番のスタイルにした。足元はゴツめのワークブーツ。
有村劉生がどんな男か、この目で見定めてやる。降りる駅はもうすぐそこだった。