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悪女だったことは認めます。でも、あなたたちに謝るつもりはありません

作者: 白川 透
掲載日:2026/11/06

 楽団の音が、曲の途中で止んだ。弦が一本だけ間の抜けた余韻を引いて消え、大広間の真ん中で王太子セドリック殿下が私の名を呼んだ。


「ベアトリス。前へ」


 呼ばれる前から、こうなることは分かっていた。ひと月ほど前から、殿下の笑い方が変わった。以前より、ずっと丁寧になった。殿下が丁寧になるのは、誰かを片づけるときだ。


 人垣が割れ、私は壇の前に進んだ。壇の脇には宰相閣下が立っている。王家と公爵家の婚約を解くなら、あの方が見届けることになっている。


「本日をもって、私とベアトリスの婚約を解消する」


 殿下の声はよく通る。怒りも悲しみも混ぜず、ただ残念そうに響かせるのがお上手だ。その腕には、男爵令嬢のミアが手を添えていた。


 扇の陰で、いくつもの息が漏れた。驚いた息ではない。ようやく、という息だった。


「そして、この場で明らかにしておかねばならないことがある。ルーカス」


 側近のルーカスが進み出て、書面を広げた。宰相閣下の次男で、殿下の書類はすべてこの人の手を通る。


「まず、証人をご紹介いたします。醜聞により婚約を失われた伯爵令嬢、マルグリット様」


 広間の脇で、濃紺のドレスの令嬢が硬い顔のまま礼をした。


「それから、現在は王都の洗濯場で働く元侍女、ネル」


 その隣に、借り物らしい地味な服の女が立っていた。袖口から出た手が赤い。


 二年間、見ずに済ませてきた顔だった。


 ルーカスは二人を、競りにかける品の来歴でも読むように紹介した。どこで何をしている者か、何を失った者か。殿下の正しさを飾るためなら、洗濯場からでも人を連れてくる。


 私は扇を閉じた。


「罪状を読み上げます。一つ。春の園遊会において、男爵令嬢ミア様のドレスを裂かせた」

「認めます」


 ルーカスがわずかに顔を上げた。私は続けた。


「裂くよう命じたのはわたくしです。侍女は断れなかっただけですので、侍女を罪に数えないでください」


 広間の空気が、少しだけ傾いた。ルーカスは咳払いをして次の行へ目を落とした。


「二つ。半年にわたり、ミア様を茶会から締め出し、陰で嘲った」

「認めます。ただ、陰ではありません。本人の前で申しました」


 どこかで扇が床に落ちた。殿下の眉がほんのわずかに動いた。


「……三つ。二年前、マルグリット様について根拠のない噂を流し、婚約を破談に至らしめた」

「認めます。根拠はございませんでした。わたくしが作りました」


 理由ならある。けれど、理由を並べたところで、裂いたドレスは縫い合わさらない。


「四つ。侍女ネルを、茶器を割った咎により、紹介状なしに解雇した」

「認めます。割ったのはわたくしです。それを、彼女のせいにしました」


 ルーカスは読み上げの手を止めて殿下を窺い、殿下は小さく頷いて先を促した。


「五つ。先月、王宮の大階段において、ミア様を突き落とそうとした」

「それはしていません」


 ざわめきが広間の端から端へ走った。


「やっぱり。あの方のまわりでは人がいなくなるのよ。二年前に追い出された侍女のときだって――」

「あれは侍女のほうが殿下に色目を使ったのでしょう」


 私はそこで、考えかけたことを切り上げた。


「最も重い罪だけは認めないのだね」殿下は悲しげに首を振った。

「その時刻、わたくしは書庫に一人でおりました。見た者はおりません。それでも、していないことは、していないと申し上げます」


 それ以上は言わなかった。


 私は壇の前を離れた。人垣が、私の行く方へ順に割れていく。ネルの前で足を止めると、彼女の後ろにいた紳士たちまで一歩下がった。


 頭を下げようとして、声が出なかった。言葉が一度喉の奥に引っかかり、それから出た。


「ネル。茶器を割ったのはわたくしで、あなたではありません。それなのにあなたを追い出し、紹介状も書きませんでした。そのあとあなたがどうしていたのか、わたくしは知りません。知ろうともしませんでした。申し訳ありませんでした」


 すぐ後ろで、誰かが小さく息をのんだ。ネルは何も言わなかった。私が顔を上げても、彼女は私ではなく、私の後ろの床を見ていた。


 マルグリットの前へ移る。


「マルグリット様。二年前にわたくしが流した噂は、すべて偽りです。この場の皆様にも申し上げます。偽りです。申し訳ありませんでした」

「今さら」


 それだけだった。彼女は私から目を逸らさず、何も足さなかった。


 最後に壇の下へ戻り、殿下の腕に手を添えたままのミアの前に立った。


 ひと月半ほど前、茶会から締め出されたミアが、回廊の長椅子に一人で座っていたことがある。私は回廊の端からそれを見ていた。そこへ殿下が来て、隣に腰を下ろした。何を言ったのかは聞こえなかった。ミアは殿下の袖をつかんで、子どものように泣いた。殿下はその背を撫でながら、一度だけ回廊の端の私を見た。


 数日後、私は殿下に言った。二年前と同じことをなさるなら、今度は署名いたしません、と。殿下は微笑んだ。


「あのとき署名したのは、君が自分で選んだことだよ、ベアトリス」


 今夜のミアは、淡い水色のドレスを着ていた。園遊会で裂かせたのは、若草色だった。


「ミア様。園遊会であなたの若草色のドレスを裂かせたのは、わたくしです。四月の二度目の茶会から、あなたの名を招待状から消させました。あなたに、男爵家の娘が殿下のお隣で何をなさるおつもり、と申しました。二年前の侍女のようになりたいの、とも申しました。申し訳ありませんでした」


 殿下の袖に添えた指に、力が入るのが見えた。


 殿下が、寛大な声で言った。


「ミアは、私が守るべき人だ。彼女にした仕打ちは、私にしたのと同じことだよ。私に詫びなさい」

「王家に対する公の謝罪は、形式上の手続きです」ルーカスが書面を閉じて言い添えた。「殿下の御前で、膝を」

「ミアへの詫びでしたら、ミアに申し上げます」


 私はもう一度ミアのほうへ向き直ろうとした。その前に、殿下が一歩出て立った。


「私に、だ」


 殿下の肩越しに、ミアの髪飾りが小さく震えているのが見えた。私は顔を上げた。


「悪女だったことは認めます。でも、あなたたちに謝るつもりはありません」


*


 広間の誰も、息の音を立てなかった。


 殿下は怒らなかった。困ったように笑った。


「強情だね」


 それから、子どもに言い聞かせるように声を和らげた。


「ベアトリス。今ここで膝をつけば、評議会には私から寛大な処分を願い出よう。つかなければ、私にも庇いようがない。決めるのは君だ」


 四年聞いてきた声だった。断れば重くなり、受ければ殿下の慈悲になる。どちらを選んでも、殿下は正しい人のままでいられる。


「わたくしの謝罪は、わたくしが傷つけた人のものです。殿下に差し上げるものではございません」

「拒まれるなら」ルーカスが平らな声で言った。「不敬として記録いたします」

「どうぞ、記録なさって」


 ルーカスの口元が固くなった。書面と手続きで頭を下げさせられなかった相手は、おそらく初めてなのだろう。彼は手元の紙に何か書きつけた。几帳面な字で、私の不敬を一行。あの人の書く記録は、いつも書いた人に都合よく正確だ。


 殿下は片手でルーカスを制し、話を戻した。


「では、五つ目を認めないというのなら、証言を聞こう」殿下はミアの手を自分の腕から外し、そっと前へ促した。「決めるのは君だ、ミア。本当のことを言えばいい」


 ミアが一歩出た。その目が一度だけルーカスの胸元へ流れて、すぐに戻った。


「先月……大階段で」


 ミアはそこで止まった。殿下が穏やかに言葉を添える。


「午後の、まだ明るい時刻だったね」

「はい。午後で……後ろから、背中を押されました」

「振り返ったら?」

「振り返ったら、ベアトリス様が、いらっしゃいました」


 殿下が一つ尋ねるたびに、ミアは一つ答えた。答えは問いより少しだけ遅れて出てきた。声は細く、何度か途切れた。両手は胸の前で、指が白くなるほど握りしめられていた。


 私は反論しなかった。


 先月のあの日、私は書庫で、隣国の法令集の写しを一人で読んでいた。ミアが大階段で転んだと聞いたのは夕方になってからだ。正直に言えば、最初に浮かんだのは、怪我の具合を案じる気持ちではなかった。あの子はまた殿下に抱き起こされたのだろう、と思った。


 書庫の司書は昼過ぎには帰っていたし、私は誰にも行き先を告げていなかった。


 反証は何もない。私はミアの手を見ていた。


 二年前にも、こういう手を見た。


 証言を終えたミアの肩に、殿下が手を置いた。


「よく選んだね」


 優しい声だった。ミアの顔から、すっと血の気が引いた。殿下の手の下で、その肩が一度だけ跳ねた。


 広間の囁きが、私への非難へ傾いていく。殺人未遂だ、追放では済まない、と誰かが言った。


 殺人未遂が通れば、行き先は国境の流刑地になる。そこから元婚約者が何を言っても、誰も耳を貸さない。殿下が今夜ほしいのは婚約の解消ではなく、そちらのほうだった。


 殿下がルーカスに目配せをした。ルーカスが扉へ片手を上げると、重い扉が開き、衛兵が四人、靴音を揃えて入ってきた。磨いた床に、その音がよく響いた。人垣が、今度は私を避けるためではなく、衛兵を通すために割れた。マルグリットが一歩下がり、ネルはその場から動かなかった。


 壇の脇で、宰相閣下がわずかに顔を上げた。罪状の読み上げまでは黙って見ていた方だ。衛兵の靴音を聞いて初めて、書記のほうへ何か短く囁いた。


 衛兵が私の両脇に来る前に、私は殿下を見た。


「殿下は、弱い立場の者に選ばせるのがお上手ですね」


 殿下の微笑みが、ほんの一瞬止まった。


*


 衛兵が私の両脇に立った。腕を取られはしなかったが、いつでも取れる距離だった。


 殿下はすぐに笑みを戻した。


「混乱させるようなことを言わないでくれ、ベアトリス」それからミアに向き直る。「ミア、もう一度、皆の前で。君が決めたことだ」


 殿下の手が、またミアの肩へ伸びた。ミアは半歩だけ横へずれた。手は、さっきまで肩のあった場所で一度止まり、何事もなかったように殿下の背へ戻った。


 ミアは口を開いたが、何も出てこなかった。もう一度開いて、閉じた。広間の目が、さっきとは別の重さで彼女に集まっていく。衛兵たちは私の両脇で、命令の続きを待っていた。


「言わなくていい」


 私はそれだけ言った。


 ミアは殿下を見なかった。私のほうも見なかった。壇の脇の、宰相閣下を見た。


「あの……今ここで申し上げることは、記録に、残りますか」


 宰相閣下は表情を変えずに答えた。


「書記が記録しております」


 ミアの喉が小さく動いた。握りしめていた両手を、一度ほどいて、ドレスの脇で拭った。それからもう一度握った。


「階段は……私が、足を踏み外したんです。一人で。ベアトリス様は、いらっしゃいませんでした」


 ざわめきが、今度は向かう先を失って広間の中を回った。


「ルーカス様が、父の、証文を見せて……殿下が、ベアトリス様に押されたと言わなければ、すぐに返していただくことになると。言えば、私を隣に置いてくださると」


 ルーカスの右手が胸の内ポケットへ動いた。途中で止まったが、近くにいた何人かがその手を見た。その中の一人、白髪の侯爵夫人が、扇を下ろしてルーカスの胸元をしげしげと眺めた。ルーカスは手を下ろし、書面を持ち直した。紙の端が、わずかに波打っていた。


「ミア様は混乱しておられます」ルーカスが一歩出た。声は平らに戻っていた。「本日のご証言の扱いは、日を改めて――」

「でも」ミアが遮った。自分で遮ったことに、自分で驚いた顔をした。「もう、記録に、残っていますよね」


 宰相閣下は何も言わなかった。書記のペンだけが、紙の上で動き続けていた。ルーカスは口を閉じた。


 殿下は声を荒らげなかった。ミアの前へ歩み寄り、少し身をかがめて、穏やかに言った。


「借財のことは、私の厚意のつもりだったんだよ。怖がらせたなら謝ろう、ミア。君は怯えて、自分で偽りを選んでしまったんだね。私はそれを責めないよ」


 すらすらと、殿下は謝った。


「偽りを言わせたのは、殿下です。本当のことを言ったのは、ミアです」


 殿下が私を見た。いつもなら、ここで何か柔らかい言葉が続く。今夜は続かなかった。


 ミアは殿下と私のあいだに立ったまま、どちらにも寄らなかった。


 ミアが泣きだした。泣きながら、言葉を継いだ。


「殿下は、おっしゃいました。前にも一人、正しく選んだ娘がいたって。……さっき、よく選んだねって言われて、同じだって、思いました。ベアトリス様に言われた、二年前の侍女のこと、思い出して……」


 いくつもの視線が、ミアから私へ移ってきた。王太子の婚約者なら、その前の一人を知っているはずだ、と。


 知っている。私はその場にいた。


「二年前、殿下はある侍女に、自分一人が殿下を誘惑したと書いた書面へ署名させました。拒めば、お父上の騎士の位を取り上げると」


 息を継いだ。ここから先は、殿下ではなく私の話だった。


「わたくしはその脇に、本人が何人にも強いられず、自らの意思で署名したと、証人として名を書きました。脅されているのを、見ていながら」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。手袋の中で、指先が冷たくなっていた。


 殿下の傍らにいた若い侍従が、半歩、殿下から離れた。


「その書面は、ルーカス殿が保管しているはずです」


 ルーカスの顔から色が消えた。壇の脇で、宰相閣下が今夜初めて息子のほうへ顔を向けた。


 その侍女の名は言わなかった。伏せたところで、分かる者には分かるだろう。


「証拠もなく、私を貶めるつもりかい」殿下の声は、まだ穏やかだった。

「証拠はその書面です。わたくしの名も、そこにございます」


 殿下は少し黙り、それから言った。


「では君は、令嬢たちを私から守るために虐めたと言うのか。美しい話だね。嫉妬だろう」

「嫉妬もございました。守るためだと、自分に言い聞かせてもおりました」


 衣擦れの音がして、マルグリットが人垣から前へ出た。濃紺の裾が、私の三歩手前で止まる。


「では、私はあなたに守られたとでもおっしゃるの。婚約を失ったのに」

「いいえ。わたくしが守ったのは、わたくしの座です。そのために、あなたを傷つけました」


 マルグリットは何も言わなかった。しばらく私を見ていて、それから元の場所へ下がった。下がる途中で一度だけ、ネルの横で足を止めた。何か言ったのかどうかは、私の位置からは分からなかった。


 殿下が衛兵に向き直った。いつもの、穏やかで、少しだけ疲れたような声だった。


「ベアトリスを連れて行きなさい。夜会はこれで終わりだ」


 衛兵は動かなかった。四人とも、殿下ではなく壇の脇を見た。


 殿下の次の言葉が、一拍遅れた。殿下は広間へ顔を向け、いつもの微笑みを浮かべた。それを向けられた人が、つい頷いてしまう微笑みだった。誰も頷かなかった。


 宰相閣下が、壇の脇から一歩前へ出た。


「罪の認定と刑の執行は、評議会の権限にございます。本件は評議会へ移します。関係の方々は、それぞれ別室にお控えください」


 閣下は書記に短く何か指示し、それから同じ調子で続けた。


「ルーカス。下がりなさい」


 ルーカスは父親を見て、何か言いかけ、やめた。


「殿下も、お下がりください」

「宰相、私は――」

「殿下、ここは評議会ではございません」


 殿下はそれ以上言わなかった。衛兵の一人が進み出て、殿下のために扉を開けた。殿下は扉へ向かう途中で、癖のように右手を少し浮かせた。ミアの肩があった高さだった。そこには何もなく、手は下ろされた。


 残りの衛兵が、私の前で迷っていた。


「わたくしも参ります。認めた罪の審理は、わたくしも受けますから」


 私が先に歩き出すと、衛兵が慌てて両脇についた。


 大広間を出る扉の前で、振り返ったつもりはなかったのに、ミアと目が合った。泣き腫らした目だった。私たちはどちらも、何も言わなかった。


*


 謹慎を命じられた王宮の一室は、窓が一つきりで、そこから見えるのは中庭の噴水の縁だけだった。三日のあいだに、私は噴水の水が一日に二度止められることを覚えた。三日目の昼、父が来た。


「申し立てをしなさい」父は椅子にも座らずに言った。「令嬢たちを殿下から遠ざけるためだった、と。殿下があのような方だと知っていたのなら筋は通る。評議会も同情する。追放までは行かずに済む」

「守るためだったと申し上げれば、嘘になります」

「嘘でも――」

「刑は、評議会がお決めになることです」


 父はしばらく私を見下ろしていた。家の名と娘を天秤に載せたまま、まだどちらにも決めかねている顔だった。


「その頑固さは、誰に似たのだろうな」


 苦笑して、父は帰っていった。母に似たと言えば父は怒るだろうし、父に似たと言えばもっと怒るだろうから、黙っておいた。


 その夜、私は評議会の役人に書面を二通渡した。四つの罪を認める書面と、二年前の書面に証人として署名したことを認める書面だ。刑の軽重については何も書かなかった。


 代わりに、頼みごとをいくつか書き添えた。ネルの解雇の記録を訂正し、正しい紹介状を出すこと。二年前の件について、私が直接知っていることを証言すること。それから、その件で署名させられた人に謝罪したいので、連絡を受けてもよいかどうかだけを、評議会から本人に尋ねてほしいこと。所在を教えてほしいとは書かなかった。


 三週間後、評議会の決定が届いた。通知書を持ってきた年配の役人は、読み上げる前に眼鏡を拭いた。


「ルーカス殿の手元から、二年前の書面が押収されました。当事者の方の証言と、ミア様の証言、借用証書の確かめも済みまして、裏づけが取れております」


 殿下は王太子の位を退き、離宮で謹慎となった。ルーカスは側近の任を解かれ、以後の公職から外される。宰相閣下は子息の審理から外れ、証書は評議会が預かった。ミア自身の偽証については、まだ審理が続いている。


「それから、あなたのことですが」


 婚約の解消と、宮廷からの追放。北の修道院付属の施療院で、三年の奉仕。持参金は被害者への賠償に充てる。


「二年前の書面への加担と、証人の方々の被害の実情も含めての判断です」役人は眼鏡をかけ直した。

「承知いたしました」


 役人が帰ったあと、私は通知書をもう一度読んだ。最後のほうに一行、こうあった。


 二年前の件の当事者は、自ら評議会に証言を申し出た。本人の求めにより、審理は非公開とした。


 私はその一行を二度読んだ。謝罪の申し出への返答は、どこにも書かれていなかった。


*


 北へ発つ前日、私は評議会の役人に付き添われて、下町の洗濯場へ行った。役人は、公爵家の娘を下町へ連れていく手続きが前例にないと言って、出がけに書類を三枚書いた。私は待つあいだに、その書類の誤字を二つ見つけたが、黙っていた。


 石畳は濡れていて、灰汁と湯気の匂いがした。思わず裾を持ち上げかけ、それどころではないと思い直して手を離す。洗濯女たちがいっせいに手を止めてこちらを見て、すぐにまた手を動かした。奥の桶の前にいた一人だけが、少し遅れて手を動かし直した。


 賠償の金は、もう役人を通して届いているはずだった。今日は、訂正した解雇記録の写しと、新しい紹介状を持ってきている。


 ネルは顔を上げずに言った。


「お嬢様の来るところじゃありません」

「知っています」


 それで会話が途切れた。ネルの前に立ったまま、私は手袋を外そうとした。湿った空気で指先が革に張りついて、なかなか抜けない。ネルは桶の中の布を揉み続けていた。私が左の手袋と格闘しているあいだに、彼女は布を一枚絞り終えた。


 ようやく外した手袋を握ったまま、私は記録を直したこと、紹介状を持ってきたことを短く伝え、もう一度謝った。


 ネルは絞った布を桶の縁に掛けてから、口を開いた。


「お金は受け取ります。母の薬代になりますから」


 差し出した封筒を、彼女は濡れた手のまま受け取り、開けもせずに前掛けの物入れへしまった。


「紹介状は、使うかどうか私が決めます。でも、許しません」

「ええ」


 ネルはまた布を一枚取って、桶に沈めた。


「あの晩、割ったのがお嬢様だって、私、見てました。手が震えてたのも見てました。それでも割ったのはおまえだって言われて、あの部屋にいた誰も――」


 そこで言葉を切って、ネルは布を揉んだ。しばらく揉んでから、続けた。


「紹介状のない侍女を雇うお屋敷は、ありませんでした。どこにも」


 彼女は濡れた手を桶から上げ、一度だけ私の前に広げて見せた。指の関節がひび割れて、赤く腫れていた。それから何も言わずに、手を桶へ戻した。


 隣の桶の女が、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。洗濯場の誰も、口を挟まなかった。水音だけがしていた。


「もう、いいですか。今日の分がありますから」

「ええ」


 私はそれ以上、何も言わなかった。外した手袋を、帰りの馬車に乗るまで手に持っていた。はめ直すのを忘れていたことに気づいたのは、役人に指摘されてからだった。


 宿に戻ると、マルグリットの代理人から書面が届いていた。


 謝罪は不要。面会の意思もなし。ただし、元婚約者の家、ならびに別紙に記す各家に宛て、噂の撤回文をベアトリス本人の署名入りで送付されたい。それ以外は求めない。


 別紙には十一の家の名があった。私はその夜のうちに撤回文を書いた。


 一通目の末尾に、申し訳ないことをした、と一文足しかけて、ペンを止めた。紙を替えて、書き直した。噂の中身が偽りであったこと、流したのが私であったこと、マルグリット様には何の落ち度もないこと。それだけを書いた。


 同じ文面を十一回書き、十一回、その下に自分の名を書いた。書き終えた頃には、ペンを握っていた指が痛んだ。


 翌朝、王宮の通用門の前に小さな人影があった。


 簡素な灰色のドレスだった。髪飾りもつけていない。以前の私なら、その色を何と評しただろう。言葉はすぐに三つほど浮かんだ。浮かんだまま、しまっておいた。


「ミア様」

「あの……」ミアは言いかけて、言い直した。「評議会で、ぜんぶ話しました。階段のことも、父のことも。嘘をついたことも」

「そう」

「父の証文は、評議会が預かってくださって……でも、借りたものは借りたものなので、それは、父と私で」


 言いかけて、ミアは首を振った。言いに来たのはそのことではない、という顔だった。


「私の処分は、来月決まるそうです。それで、その……ベアトリス様に罪を着せたのは私なので。訂正したことは、私から、言っておかないとって」


 言い終えると、ミアは自分でもどうしていいか分からないような顔をした。ドレスの脇で、両手が握られかけて、ほどけた。


「そう」と私はもう一度言った。「聞きました」


 ミアは小さく礼をした。私が馬車に乗り込むまで、彼女は門の前から動かなかった。


*


 施療院の朝は、北の水の冷たさで始まる。


 三か月経っても、私は布を固く絞れなかった。包帯を巻けば、院長が後ろから黙ってほどいて巻き直す。湯を運べば半分こぼす。水が冷たい、と口の中で言ったつもりが、院長に聞こえていた。


「冷たくない水がほしいなら、南の修道院へ行きなさい。三年待てば行けます」

「待っているあいだに、ここの水にも慣れますわ」

「慣れる前に、こぼさず運べるようになってちょうだい」


 言い返す言葉を探しているうちに、院長は次の寝台へ行ってしまった。王宮では、言い返す言葉に困ったことなど一度もなかった。ここでは三日に一度は困る。


 夜の見回りのときに、院長はときどき私の手を取って裏返し、あかぎれの具合を見る。軟膏を塗れと言うだけで、塗ってはくれない。


 患者たちは、私が誰なのかを知っていた。北の田舎にまで、王都の夜会の話は届くらしい。最初の何週間かは、包帯を替えに行くと寝台の上で身を固くされた。今は、足を折った木樵の息子が、私の巻いた包帯を見て「院長さまのほうがうまい」と言う。私も同じ意見なので、そうね、と答える。


 その代わり、薬の在庫帳の誤りは、ここへ来た初日に見つけた。棚の箱を数えると、熱冷ましの煎じ薬が帳簿より三箱足りなかった。院長はそれについては何も言わず、翌日から在庫帳を私の机に置くようになった。


 評議会を通して手紙が届いたのは、雪が降りはじめた頃だった。院長が、届いていたわよ、とだけ言って私の机に置いていった。


 差出人の名は、ソフィとだけあった。


 封を切るまでに、少し時間がかかった。湯を運ぶときよりも手がおぼつかなくて、ペーパーナイフを一度取り落とした。


 便箋は一枚で、字は小さく、きちんとしていた。


 ――いまは町で、子どもたちに読み書きを教えています。


 ――謝罪の手紙は、一通だけ受け取ります。返事は書きません。お会いするつもりもありません。


 ――父には何も書かないでください。父は、私が何のために署名したのかを知りません。


 それで全部だった。


 私は便箋を二度読み、三度目は読まずに畳んだ。二年前、この人が署名するときに私が見ていたのは、書面の文字ではなく彼女の手だった。今度の手紙では、文字しか見られない。文字は、少しも震えていなかった。


 その夜、院長が寝静まってから、私は机に紙を広げた。


 一文目を書いて、線を引いた。新しい紙に書いて、また線を引いた。三枚目を前にしたところで、背後の扉が開いた。


「灯りがもったいないわ」


 院長は私の肩越しに書き損じの紙を見て、少し黙った。


「字だけはきれいね」


 それだけ言って、院長は扉を閉めた。


 私は四枚目の紙を取り、一行目に書いた。


 申し訳ありませんでした。


 そこから先は、線を引かずに書いた。灯りの油が半分ほどに減った頃、便箋のいちばん下に、自分の名を書いた。


 ベアトリス。

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