王都裏町、剣のよろず屋 ――銅貨三枚の用心棒――
六十八になっても、腹は減る。
朝から何も食べていない日はなおさらで、鍋の中で煮える豆を見ていると、人間というものは情けなくなる。
「おやじさん。鍋を見たって早くは煮えないよ」
煮売り屋の女将が、木杓子を握ったまま言った。
「見ておらん」
「さっきから豆が浮くたび、目で追ってるじゃないか」
「豆にも都合があろう。沈んだきりでは気の毒だ」
女将のマルタは鼻で笑い、椀に豆と塩漬け肉の煮込みを盛った。割れ目の入った黒パンも添える。
ガンツは懐から銅貨を四枚出した。
「五枚だよ」
「昨日までは四枚だった」
「今朝、肉が値上がりした」
「なら肉をひと切れ戻してくれ」
マルタは老人を見た。
擦り切れた灰色の上着。片方だけ紐の違う靴。腰には、場違いなほど手入れの行き届いた細身の剣。
そしてまた、顔を見た。
「次に払っとくれ」
「そういう商売はいかん。店が潰れる」
「誰のせいだと思ってるんだい」
椀が置かれた。
ありがたいことに、肉は戻されていなかった。
*
王都では、十五になると神殿で天賦を授かる。
火を起こす者。傷を癒やす者。遠くを見る者。
剣にまつわる天賦が出れば、それだけで食い扶持に困らないと言われていた。
もっとも、刃を光らせるだけでは玉葱も切れないし、よく切れる剣を持った男が、必ず戦から帰ってくるわけでもない。
ガンツの天賦は〈灯芯〉だった。
指先に、ごく小さな火をともす。
若い頃はずいぶん落胆したものだが、いまでは重宝している。夜中に便所へ行くときなど、剣が光るよりよほどよい。
「おじいさん」
豆を三口ほど食べたところで、声がした。
店先に、薄汚れた少女が立っていた。十六、七だろう。痩せた肩に男物の外套を掛け、胸の前に細長い布包みを抱えている。
「剣を買ってくれるところを、ご存じですか」
「質屋なら橋の向こうだ」
「三軒、回りました」
「では四軒目へ」
「どこも買ってくれませんでした」
少女が布を少し開いた。
銀色の鍔に、片翼の鳥の紋章があった。
ガンツは匙を止めた。
「騎士団の貸与剣か」
「父のです。戦死したので、遺品として下げ渡されました。証文もあります」
「名は」
「ニナです」
「父親の」
「エド・ヴァルト。北境守備隊の伍長でした」
聞き覚えはなかった。
北境では、聞き覚えのない者が大勢死んだ。
「なぜ売る」
「お金が要るので」
「それはそうだ」
ニナは口を引き結んだ。
マルタが、何も言わずに小さな椀をもう一つ置いた。少女はそれを見たが、手を伸ばさなかった。
「弟が、薬屋にいます。冬咳で。銀貨二枚あれば、あと五日、置いてもらえます」
「母親は」
「去年」
ガンツは煮込みをひと匙食べた。
肉が軟らかい。もう少し塩が薄いとよいのだが、借りのある身では言えない。
「この剣なら銀貨八枚にはなる。天賦を通す銀鉄が使われている」
「橋の手前の剣屋さんは、銅貨二十枚だと」
「ほう」
「買うんじゃなくて、処分料を払えと言われました。軍から盗んだ品を持っていると、捕まるからって」
ガンツは椀を置いた。
「その剣屋、赤い扉だったか」
少女がうなずいた。
ダルグ武具店。
表通りに二軒、裏町に一軒。近頃、ずいぶん商売を広げている店だった。
「証文を見せたか」
「見せました」
「返してもらったか」
ニナの指が、布包みに食い込んだ。
「……調べるから、預かるって」
ガンツは残りの豆を食べた。
汁をパンで拭い、椀の底まできれいにしてから、ようやく立った。
「マルタ。銅貨を一枚、貸してくれ」
「いま一枚、貸したばかりだよ」
「今度のは現金で頼む」
*
ダルグ武具店の裏口には、剣が五振り並べられていた。
どれも軍の紋章を削られている。
ガンツは、それをちらりと見てから店へ入った。
ニナは半歩後ろについてきた。
「おや」
店主のダルグは、小さな眼鏡の奥で目を細めた。
「衛兵を連れてくるものと思っていたが、祖父さんかね」
「用心棒だ」
ガンツが言った。
「この娘の証文を返してやってくれ」
「何のことかな」
「剣の下げ渡し証文だよ」
「預かってなどいないね」
ダルグは卓上の帳簿を閉じた。
「それより、その剣は盗品の疑いがある。こちらには武具商組合を通じて調べる義務があってね。置いていきたまえ」
ニナの息が浅くなった。
老人は背中越しに、それを聞いた。
「娘さん」
「はい」
「おまえさん、いま幾ら持っとる」
「……銅貨、二枚です」
「出しなさい」
ニナは老人を見た。
それから剣を左腕に抱え直し、腰の小袋を探った。
ガンツは受け取った二枚に、マルタから借りた一枚を足した。
三枚を、掌の上に並べる。
「これで受けた」
「何をですか」
「用心棒の仕事だ。いまから片がつくまで、おまえさんと、その剣を守る」
「でも、それ、一枚……」
「細かいことを言うな。商売の縁起が悪い」
ダルグが吹き出した。
「銅貨三枚の用心棒か」
奥の戸が開いた。
出てきた男は三十前後。革鎧の胸に、金糸で小さな獅子が縫われていた。
右手には、抜き身の剣。
「爺さん。話は聞いた」
男が剣先を床へ向けた。
「俺の天賦は〈三連閃〉だ。名前ぐらい知ってるだろう」
「知らん」
「一度振れば、三つの斬撃が飛ぶ」
「店の中ではやめておけ。棚が傷む」
男の顔から笑みが消えた。
ガンツは剣を見た。
よい剣だった。重さの釣り合いも、刃の厚みもよい。柄の革だけが、まだ新しかった。
「いつから雇われとる」
「おまえに関係ねえ」
「そうか」
老人は、腰の剣に手を掛けなかった。
その代わり、ニナの肩を軽く押した。
「戸口まで下がっとれ」
男の右肩が沈んだ。
剣身に、青白い線が三本走る。
ニナが何か叫ぼうとしたときには、ガンツはもう男のそばにいた。
老人の左手が、剣を握る拳に添えられる。
右の掌が、顎を押し上げた。
それだけだった。
男は自分から椅子に座るような格好で、後ろへ落ちた。椅子がなかったので、そのまま床へ尻を打った。
光る剣だけが、不自然な角度で宙に残っていた。
ガンツの左手が、その手首をつかんでいる。
「離せッ!」
「光を消せ」
男が唸った。
ガンツがほんの少し腰を落とすと、唸り声は悲鳴になった。
「消してからだ。危ない」
三本の光が消えた。
老人は剣を取り上げ、卓上に置いた。
ニナには、何が起きたのか分からなかった。
店主にも分からなかったらしい。半分開いた口のまま、動かなかった。
「さて」
ガンツが言った。
「証文は、どこだ」
*
ダルグは賢かった。
少なくとも、引き出しを開ける程度には賢かった。
証文はすぐに出てきた。
ただし、十枚ほどあった。
遺族に下げ渡された剣の証文。古い軍刀の売買証文。それぞれに、売り手が受け取った額を記した紙が添えられている。
ガンツは、そのうち一枚を拾った。
銀貨十二枚。
裏に目を落とすと、小さな字で「実渡し、銅貨十五」とあった。
「細かく記すものだな」
「帳簿には必要でね」
ダルグのこめかみを汗が流れた。
「こちらにも、いろいろと付き合いがある。老人には分からんかもしれんが」
「分かるよ」
ガンツは紙を戻した。
「誰に幾ら渡すか。忘れると怒られるからな」
店の外で、靴音が止まった。
四人の衛兵が入ってきた。先頭の男だけ、帽子に銀の縁取りがある。
「騒ぎを起こしたのは、どいつだ」
ダルグの顔に血が戻った。
「隊長! 助かりました。この老人が押し入って、金を寄越せと」
ガンツはニナを見た。
娘は青くなっていた。
次いで、戸口の向こうを見た。
マルタがいた。前掛け姿のまま、腕を組んでいる。
「呼んでくれたのか」
「あんたの足じゃ、逃げ遅れると思ってね」
「こいつらは、あまりよくないぞ」
「分かってるよ。だから、もう一人呼んだ」
衛兵隊長が振り返った。
通りの向こうから、杖を突いた男が歩いてきていた。
右脚の膝から下がない。
代わりに、黒い鉄の義足が石畳を鳴らしている。
胸には、王国軍の勲章が一つ。
「兵務局のハベルです」
男は静かに名乗った。
「軍の下げ渡し証文が、こちらに何枚もあるそうですね」
衛兵隊長の背中が伸びた。
ガンツは、マルタに目を向けた。
「よく来てもらえたな」
「毎晩うちで煮込みを食ってるんだ。あんたと違って、ちゃんと払ってね」
ハベルが店に入った。
卓上の紙を一枚、二枚と確かめる。
ある名前を見つけたところで、指が止まった。
「……この男の奥さんには、私が証文を届けた」
誰も何も言わなかった。
「剣は手放したくないと、泣いていたよ」
ハベルは紙を丁寧に重ねた。
「ダルグさん。詳しいお話は、局で伺います。隊長、あなたもご同行を。先月の苦情処理について、確認したいことがあります」
*
店を出ると、昼をずいぶん回っていた。
ガンツは腰を伸ばした。
「立ちっぱなしは、いかんな」
「あの」
ニナが言った。
「どうして、あの人の剣を止められたんですか」
「振る前だったからだ」
「でも、すごく速くて」
「剣は速かったな。あれが動きだしてからでは、わしなど真っ二つだ」
少女は眉を寄せた。
ガンツは、自分の右肩を指で叩いた。
「あの男は、斬る前にここを下げた。そちらは、ゆっくりだった」
ニナは考え込んだ。
ガンツは歩きだした。
店の角を曲がったところで、背後から声がした。
「待てよ」
革鎧の用心棒だった。
右手首をさすりながら、路地に立っている。
ニナが剣を抱え直した。
ガンツは振り返った。
「まだやるか」
男は唇を噛んだ。
やがて、懐から革袋を出した。
「店に入る前に、娘から取り上げた」
地面へ投げようとして、やめた。
歩み寄り、ニナへ差し出す。
「中は、減ってねえ」
ニナは袋を受け取った。
ガンツは何も言わなかった。
「……あんなことをしてたとは、知らなかった」
男が言った。
老人は男の顔を見た。
「薄々は、知っとったろう」
男は目を伏せた。
路地に、鍛冶屋の槌音が響いた。
「次は知ってから雇われろ」
ガンツはそれだけ言い、今度こそ歩きだした。
*
ハベルの手配で、剣は軍の買い戻し窓口へ預けられることになった。
査定は銀貨十枚。
ただしニナは、証書に名前を書く寸前で手を止めた。
「……やっぱり」
震える声だった。
「戻してもらうことは、できますか。いつか、お金を貯めたら」
担当の役人が困った顔をした。
買い上げた剣は、補修をして兵に渡す。決まった一本を残してはおけない。
説明を聞いて、ニナはうなずいた。
「そうですよね」
ガンツは隣で鼻の頭を掻いた。
しばらく掻いていた。
それから、腰の剣を外した。
「こちらを先に見てくれ」
役人が鞘を払い、目を丸くした。
無銘の古剣だった。
飾りはない。しかし刃の奥に、ごく薄い虹色の筋が通っている。
「古い竜鋼……! これほどのものなら、金貨でも――」
「売らん。質だ」
ガンツは急いで言った。
「兵務局では、古参兵に貸し付けをしておろう。これを担保に、銀貨を三枚」
ニナが老人を見た。
「駄目です」
「まだ何も言っとらん」
「分かります」
「分かるなら、話が早い。貸すだけだ」
「返せるか、分かりません」
「返せるようになってもらう」
ガンツは役人から受け取った三枚を、少女の手に押しつけた。
「薬代に二枚。残りで、おまえさんも飯を食え」
「でも……」
「代わりに仕事がある」
老人は、妙に厳しい顔をした。
「うちの屋根が漏る。洗濯物が乾かん。勘定を書くと、自分でも読めん。手伝いが要るんだ」
ニナは、握らされた銀貨を見つめた。
「それで、銀貨三枚分に……」
「働きぶり次第だな」
ガンツは顔を背けた。
「字は書けるか」
「書けます」
「計算は」
「できます」
「豆は煮られるか」
少女は、初めて少し笑った。
「それは、練習します」
*
ガンツの家は、川沿いの古い長屋の端にあった。
戸口には小さな板が下がっている。
――剣のよろず相談。
その下に、
――研ぎ、稽古、用心棒。代金応談。
文字はひどく曲がっていた。
「看板も書き直します」
ニナが言った。
「まだ読める」
「『稽古』が『借金』に見えます」
「それはいかん」
戸を開けると、雨漏りを受ける鍋が三つ並んでいた。
ガンツはそれらを避け、壁際の木剣を取った。
腰へ差そうとして、収まりが悪く、結局手に持った。
ニナがその姿を見ていた。
「すまんな。大げさな質草になった」
「必ず、お返しします」
「急ぐな。あの剣は冬になると腰に冷える」
少女は笑わなかった。
ガンツも、今度は茶化さなかった。
外で、夕餉を呼ぶ鐘が鳴った。
ニナは戸口に父の剣を立て掛け、床の鍋を一つ持ち上げた。雨水を捨て、井戸で洗ってくると言う。
「弟のところへ行かんでよいのか」
「行きます。その前に、これだけ」
老人はうなずいた。
娘が出ていくと、懐から銅貨を三枚取り出した。
本日の稼ぎである。
マルタへの借りが二枚。
残りは一枚。
それを卓に並べているところへ、戸口から声がした。
「おじいさん」
ニナが鍋を抱えて立っていた。
「私にも、剣を教えてもらえますか」
ガンツは娘の手を見た。
爪の間に汚れが入り、節々にあかぎれがある。父の剣を、質屋から質屋へ運んだ手だった。
「何のために」
「今日みたいなときに」
ニナは少し考えた。
「何もできないまま、立っているのが嫌です」
「剣を覚えても、できんことは多いぞ」
「はい」
ガンツは卓の銅貨を一枚ずつ重ねた。
「明日の朝、弟の顔を見てから来なさい」
少女の顔が明るくなった。
「ありがとうございます。お師匠様」
「まだ早い」
娘は頭を下げ、今度こそ井戸へ走っていった。
ガンツは木剣を膝に置いた。
明日は、庭の石を拾わねばならない。
あの細い腕に合う木剣も、一本削る必要がある。
しばらく使っていなかった鉋を探そうとして立ち上がると、膝が小さく鳴った。
「……やれやれ」
声とは裏腹に、老人はそのまま道具箱を引き寄せた。
川向こうから、夕餉の煙が流れてきた。




