小さなほつれ
アーロスの記憶は朧気で、肝心な事はほとんど忘れていると言ってもいい。
けれども夜、眠りに落ちた時にアーロスは沈められた記憶が浮上しているのか、魘されながらもそれらを声に出していたのだ。寝言のようなものでもあるので、全てがわかりやすい言葉とは言えなかったが。
その中で、ドロシーという名前が出てきて、あぁ魘されているなぁ……と聞き流して自分も眠ろうとしていたディオスは思わず動きを止めたのである。
寝言と会話をするのは不毛であると思っているが、しかしだからといって起こして今の寝言は、なんてアーロスに言うわけにもいかない。
それは一度目、彼女の名が出た翌日それとなく聞いてみた時に意味がない事を理解したからだ。
恐らくアーロスは夢の中で、欠けた記憶を繰り返し見ている。
だが起きたらそれらは全てまた記憶の奥底に沈められて、思い出せなくなっているのだ。
なんだか寝言を言っていましたけど、どんな夢を見ていたんですか? なんて、内容に触れる事なく問いかけてみてもアーロスは、夢なんて見ないでぐっすりだったぞ、なんて言うものだから。
寝言の内容を教えてやれば、少しは違う反応が返ってきたかもしれない。
だがそれはやらない方がいいと、ディオスはそう判断した。
意図的に記憶を封じ込められている。それはクークラの言動からも察する事ができた。
そこにディオスがアーロスの寝言から把握できる、失われたであろう記憶に繋がる内容を話して聞かせたところで彼の記憶が正式に蘇るはずもなく、それどころか下手をすればアーロスの精神に過分な負担がかかるだけ。
封じ込められた記憶の内容をディオスは完全に理解しているわけではない。
だからこそ、思い出した時点で彼の精神が耐え切れず発狂する可能性があり得た。
最初から最後まで辛い記憶しか残されていなかったとしても。
逆に楽しくて優しい思い出だけが溢れていたとしても。
現状と過去を比べて幸せに浸れる事はない。
過去の記憶が素敵なものであればあるだけ、思い出した時点でアーロスの心が折れるかもしれないのだ。
アーロスの口から出てきた言葉の中で、人の名前と思われるものは三つあった。
レイチェル。メリュー。それからドロシー。
レイチェルは恐らく彼の妻で、メリューというのは娘だ。
現在この二人の生死はわからない。ただ、別の地区で暮らしていた、とアーロスが語っていたのでルボワール地区にいたとは考えにくい。
クークラを取り戻す、というような事も呟いていた。
クークラはアーロス一家とどのような関係があったのか。
無関係であれば取り戻す、という事は言わないはずだ。
クークラは大魔女マギサリュクレイアやその娘であるローザローゼシカとの関係を仄めかしてはいたけれど、アーロスたちに関しては特に何も言っていない。
ディオスが把握できる範囲では、魔女側とアーロスたち一家との繋がりはないように思える。
けれどもクークラがアーロスと無関係という事もないはずだ。
無関係であるのなら、アーロスだけを取り残している理由がわからない。
クークラの力をもってすればアーロス一人を始末する事など容易なのは確かなので。
クークラの背後にドロシーがいるというのなら。
クークラがこういった方法をとったのも理解できない事はない。
ドロシーというのがディオスの知るドロシーであるのであれば。
(しばらく見ないと思っていましたが……行動に移ったという事は何らかの目途が立ったという事。
もしかして他も……?)
もしそうなら、相当面倒な事になりそうだ。
考えただけで頭痛がしてくる。
そもそもの話、ディオスはここに来るまでにアーロスの代わりに球体人形をぶちのめしたりしていたのもあって、正直相当疲れていた。
アーロスのように救えなかった……なんて後悔したり、助けられない事に罪悪感を抱いたりはしていないが、塔を延々上ってきた事による肉体的な疲労と、魔法を連発してきた事による精神的な疲労はかなり蓄積されていると言ってもいい。
あとうっかり落ちかけたアーロスを掴んで引き戻した際にも、腕が痛い。
肩が外れなかったとはいえ、だから無事というわけではなかった。
こっそり治癒魔法を使いはしたけれど、そんなものは焼け石に水みたいなものだ。
それ以前から苦痛に苛まれているのだから。治癒魔法ではどうにもならない痛み。もう随分長い、あまりにも長すぎる付き合い。この苦痛から逃れたいと思った事は何度だってあるけれど。
だがしかし、できなかった。
どうしてしなかったのか、という事を今更突き詰めるつもりはない。
あとはただここでアーロスやユッカたちが無事に事を成すのを待つつもりであった。
(立っているのも辛いんですよね)
恐らくクークラの手駒はもういない。
ルボワール地区で暮らしていた人全てを捕らえて利用したとしても、何度も同じ魂を継ぎ接ぎとはいえ修復し続けアーロスへの嫌がらせに費やしていたのだ。
まだ余裕があるのなら球体人形を数に任せて使用すればいい話だが、そこまでできなくなったからこそ最後にああして一纏めにした。まだ余裕があるのなら、巨大人形が糸で封じられた時に分解して小型の人形に戻せば済む話なのだから。
それをしなかったのかできなかったのかは最早どうでもいい。
対処する間もなく、巨大人形の中に詰め込まれたルボワール地区の住人たちの魂は潰えた。
それだけはどうしようもない事実であるのだから。
本当なら、アーロスの後を追うなりユッカたちの方を追うなりするべきなのかもしれない。
けれどもディオスにはそこまでの元気も余力もなかったので、その場にどっかりと座り込んだ。
油断しているとまだ咳き込んで血を吐きそうになる。
だがしばらく休めば多少はおさまるはずだ。
大丈夫。いつもの事。
そう考えて、ゆっくりと息を吸う。
「ディオス! 大丈夫!?」
「っ!?」
危うく咽るところだった。
まさかユッカが戻ってくるとは思ってもいなかったのだ。
咄嗟に手を軽く振って血の跡を魔法で消し去る。
傍目には怪我もしていないように見えているはずだが、ユッカがいつから戻って来ていたのかによっては無駄な努力になりかねない。
「ユッカさん……何故、戻ってきたのですか」
「何故って言われると困るんだけど……まぁ、クークラ相手ならロゼだけで充分、だからかな」
ユッカはそんな風に言って肩を竦めた。
どうやらディオスが先程血を吐いたところは目撃されていなかったようで、ユッカは周囲を見回して「あれ? あのでっかい人形は?」なんて言っている。
もし見ていたのならそんな呑気な事は言わないだろう。
少なくともここ数日、ディオスはユッカと行動を共にしてきたのだ。善人か悪人かで言えばユッカは善人側だと言える。そんなユッカがディオスが怪我をしている、と思ったのならその時点で放置するはずがないのだ。
見知らぬ他人であった最初の時点で、彼女は助け、手を差し伸べたのだから。
仕方なしにディオスは立ち上がる。ユッカがこうしてやって来た以上座り込んだままというわけにはいかないだろうから。
ユッカとしては何故戻ってきた、という質問に対してとても気まずい思いをしていたけれど、それをあからさまに表には出さなかった。
ユッカとしては、嘘を吐くのは得意ではないのだ。本当は。
吐きやすい嘘とそうじゃない嘘があって、今回のは吐きにくい嘘に該当する。
ゲームであればその時々の立ち回りだとかで嘘を吐くのは得意な方ではあるのだが、それはゲームだからだとも言える。
ゲームはそれが終わってしまえば吐いた嘘はそこで終わる。
だからこそ、人狼だとかのゲームはそこそこ得意な方だった。
どちらかといえば人狼そのものよりも狂人だとかのポジションの方が得意だが、それはゲームであるからこそ。その試合が終わってしまえば、その嘘もそこで終了。その後の現実での何かに関わってくる程のものではないからだ。
けれども、今回の嘘はそういうわけにもいかない。
ユッカがこの世界で自分が異世界の人間である、という事実を知られてはならないために、身を守るために吐かなければならない嘘と同様に、ユッカだけが引き返してきたのは純粋に足を引っ張るかもしれないからだ。
クークラの実力がどれほどのものかをユッカは知らない。
自分の実力がどれほどのものであるか、と聞かれても上手く答える事はできないだろう。
勿論、戦えるとは言えない。
そういったものとは無縁の生活を送ってきたのだから。
格闘技などを習っていれば、ある程度の基準というか目安くらいは言えたかもしれない。けれどもそうでもないからこそ、ユッカは戦える相手との差をハッキリとどれくらいであるか、を理解できない。
実力差があるのはわかっているが、その差がどれ程のものであるのかまではわからないのだ。
ソルシエルロスを名乗っていてもユッカはどこまでも魔法が使えないただの人間だ。
そんなユッカと共にロゼがクークラに立ち向かうというのは、どう考えたってユッカが足手纏いになるのが目に見えている。
それならいっそロゼだけがクークラのところへ行った方がいいだろう。
ユッカがそう言ったわけではなかったが、ロゼの方からそう言いだしたからこそユッカとしても一緒に行くなんて言えずに引き返してきたのだ。
ディオスがまだ戦っているようなら足手纏いにならないようにこっそりと隠れているか、もしくはアーロスの後を追いかけるつもりでいた。
ディオスの手伝いはできなくても、アーロスの方はもしかしたら何か手伝える事があるかもしれないから。
ところがこうして引き返してみれば、既にディオスとあの巨大人形との戦いは終わっていた。
一見すれば無事に見えるが、しかし遠目で見ただけなので本当にそうとも言えない。
だからこそ声をかけた、ユッカからすればそれだけの話である。
「もしかして私が戻ってくるまでの間に相当な勢いで死闘繰り広げたりした? 動くの辛いならここで休んでる?」
「いえ、この状況で休むわけにもいかないでしょう」
ディオスとしては正直休みたい気持ちはある。
あるけれど、相棒である猫と別れて行動するソルシエルロスを放置するというのも大丈夫か……? という気がしてくるので、ユッカの言葉に素直に頷くはずもなかった。
確かに、魔女と猫が別行動する事はそこまでおかしなことではない。
けれどもそういうのはあくまでも短時間であり、またそれほど危険な状況ではない場合だとかの話である。
これからクークラと戦うというのに猫にだけ任せるとか正気か? という気持ちになるのも仕方のない事だった。
ソルシエルロスは好奇心旺盛な者が多く、時には無鉄砲と言われる行動を軽率にやらかす者だってそれなりにいるのだけれど。
(彼女のこれは常軌を逸脱しすぎているのでは……!?)
クークラの背後にドロシーがいるのであれば、生半可な実力でどうにかできるものではない。
半身とも呼べる猫――ロゼだけに任せるのは無謀すぎやしないだろうか。
ディオスが内心でそんな風に思っている事をユッカは知らない。
ユッカはソルシエルロスではないし、実際そこまで詳しくもないからだ。
ロゼから改めて詳しく教わりはしたものの、そもそも相棒である猫とはほとんど一緒に行動するものである、という当たり前を教えられなかったのだ。
ユッカの中では某ゲームの主人公と、そのポケットにいるネズミ――実際の正体は違うが――のアレみたいなものだと思っているので、別行動する時はするでしょ、くらいの認識だという事をディオスだって知る由もない。
そういう意味ではお互い様である。
……とても嫌なお互い様だった。




