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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

温もりのあとに

作者: T.T.

仕事で疲れ果て、家に帰っても待っているのは、暗く冷えた部屋と沈黙だけ。

私は、帰り道の途中で足を止め、公園のベンチに腰を下ろすことが多くなった。

街灯の頼りない光が、吐く息の白さを照らし出す。

人通りはまばらで、乾いた風の音と、疲れた自分の吐息だけが耳に残る。

手袋を買いそびれた指先が、凍るようにじんじんと痛んでいた。


「寒いでしょう?」

年齢は三十前後だろうか。上質なウールのコート、首元に白いマフラー。

ふいに隣に腰掛けた女性が、小さな使い捨てカイロを差し出した。

その佇まいには、どこか現実離れした静けさがある。

差し出された小さなカイロは、手のひらにのせた途端、じんわりと芯まで熱が染み込んでくるようだった。

指先のかじかみが一瞬だけほどけ、ほっと息が漏れる。


「……ありがとうございます」

かろうじてお礼を言うと、彼女はふっと作り物めいた笑みを浮かべ、私の手をそっと包んだ。

陶器のように滑らかな指先。温かいというより、熱を吸い取られていくような不思議な感覚があった。



数日後、また同じベンチに彼女は現れた。

「今日も冷えるわね」

「ええ、もう指先が痛いくらいです」

私が笑いながら手をこすって見せると、彼女は私の手元をちらりと見て、ふっと微笑んだ。


「あなたの手……指が長くて、形がきれいね」

「え?」

「大事にしてるのね」

「そんなことないですよ。ただの手です」

軽く笑って流すと、彼女もそれ以上は何も言わず、ベンチの背にもたれて夜空を見上げた。


それからは、顔を合わせれば自然に話すようになった。

天気のこと、近くにできたパン屋の話、道端で見かけた犬のこと――。

会話はとりとめもないけれど、不思議と心がほどけていく。


「今日は早く帰らなくていいの?」

「ええ、家に帰っても一人なので」

「……私も似たようなものよ」

そう言って、彼女は視線を夜空に向けた。街灯の光が淡く反射し、その横顔が少し寂しげに見えた。


ふと、彼女が言った。

「寒い日は、温かいハーブティーが一番。香りで気持ちも落ち着くの」

「いいですね。最近は全然飲んでないです」

「じゃあ、いつか飲ませてあげる」

軽く交わされたその約束が、この時の私にはただの世間話にしか思えなかった。


ある雪の夜、帰り道で彼女と出くわした。

白い息が舞うたびに、粉雪が肩に積もる。

「……もう、手が真っ赤よ」

「寒さで血の気がなくなってきたみたいです」

彼女は少し考えるように間を置き、ふっと微笑んだ。


「このままじゃ風邪をひくわ。うち、すぐ近くなの。温かいハーブティーを淹れてあげる」

その言葉は、凍りついた身体にじんわり染み込むようで、断る理由は思いつかなかった。



彼女の家は、少し古い造りの二階建てだった。

玄関の扉が開いた瞬間、外気との温度差に頬が緩む。

ふわりと漂うのは、甘いポプリの香りと、ほんのり焦げた木の匂い。

中はやわらかな灯りに満ち、奥のリビングからは暖炉の火が揺らめく光が漏れていた。

その温かさと香りに包まれると、外の寒さが一気に遠くなったように感じられた。


テーブルには、あの日の約束通り、湯気の立つハーブティーと、丁寧に焼かれた焼き菓子が並んでいた。

その香りだけで、強張っていた心がゆるんでいく。


「さあ、飲んで」

彼女が微笑む。

唇をカップに触れさせた瞬間、温かな液体が喉を滑り落ち、体中に甘い熱が広がった。

……次の瞬間、視界が揺れ、音が遠ざかっていく。

暖炉の火も、彼女の顔も溶けるように霞んで――暗転した。



目を覚ましたとき、そこはまるで別の世界だった。

白いタイルの床、ひやりと刺すような冷気。

吐く息が白く、薬品と埃の匂いが漂う。

両腕は革のベルトで木の椅子に固定され、体は動かない。


正面に立つ彼女は無表情だった。

公園での柔らかな面影はどこにもなく、職人のような冷徹な目で私の右手に触れる。

傍らの金属トレイには、鈍い銀色のメスや鋸が整然と並んでいる。


冷たい刃が手首に触れ、皮膚を割く。

肉を裂く湿った音が、冷たい部屋にいやに響く。

悲鳴を上げようとしても、薬のせいで喉が凍りついたように声が出ない。


やがて、彼女は切り離された私の右手を両手で抱きしめ、頬をそっと擦り寄せる。

まるで長年探していた宝物をようやく手に入れたかのように、指先を愛おしげになぞる。

次に、光の下で関節の曲がり具合や爪の形を丹念に確かめ、白い布で血を拭き取る。

その所作は異様なほど優しく、だが一切の感情がこもっていない。


壁一面のガラスケースの一つを開けると、そこには老人の節くれだった手、子供の小さな手、しなやかなピアニストのような手――様々な「手」が並んでいた。

空いた台座に、私の手が置かれる。

指の角度を直し、爪を磨き、透明なカバーがかけられる。


「……うん」

満足げに一度頷くと、彼女は私を一瞥すらせず、部屋を出て行った。


扉が閉まる音が、重く冷たく響く。


彼女の足音はもう遠く、暖炉のある温かな部屋へと戻っていったのだろう。

ここには、その温もりの欠片すら届かない。


呼吸は浅く、肩から先の感覚はもうない。

代わりに、脈打つような空虚さが右半身を支配していた。

鼓動のたびに、失われたはずの右手の幻の痛みが指先にまで走る。


壁際に並ぶケースの列が、じっとこちらを見下ろしている。

老人の手、子供の手、女の手、男の手――。

どれも磨かれ、整えられ、作品として並べられている。

その中に混ざる、自分の手。

他の手と同じように冷たく、美しく、無言で。


視線を逸らそうとしても、首は重くて動かない。

空気は乾ききり、肌から水分を奪っていく。

唇が割れ、呼吸のたびに胸の奥が焼けるように痛む。


どれほど時間が経ったのかわからない。

時計の音も、足音も、生活の気配もない。

あるのは冷気と、ケース越しの自分の手だけ。


やがて、まぶたが勝手に閉じ始める。

視界の端で、ガラスの中の手がゆっくりと動いた気がした。

それが現実なのか幻覚なのか確かめる前に、意識は闇に沈んでいった。

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