1-2
昼休みになり、へこんだ壁を摩る健二のもとへ、ヤスクラが駆け寄ってきた。
「いやぁ、さっきのはびっくりしたな。絵に描いたような真面目ちゃんにもあんな一面があるなんて」
「あぁ、そうだな」
健二は気のない返事をし、夢中で壁を観察している。
「どうしたんだよ。壁なんかジッと見て」
健二は無視して壁を触っている。
「ん?もしかしてさっき瓶が粉砕されたのが気になっているのか?あれは多分元々ヒビでも入ってたんだろ」
「ヒビねぇ・・・」
「だってそうじゃなきゃ説明がつかないだろ。あれって強化ガラスで出来てるんだぞ?列車のフロントガラスにも使用されている」
音速を超える速度で走行する列車は、並の強化ガラスでは小石がぶつかっただけでも運転手の命に関わる。そのため、列車に使用されるガラスは、現在の科学技術で作ることのできる物の中で一番強度の高いものである。
「知ってるよ」
「正直硬ければいいというわけでもないと思うがな。あんなもんが顔面に当たろうものならこっちの骨が先にくだけちゃうよ。おそらく、多感で注意力散漫な俺らに使わせることによって、強度を世間に知らしめ、宣伝に利用しようとしてるんだろうな」
ヤスクラは持論を展開している。正直冗談なのか本気なのか口調からは判断することはできない。
「ただの陰謀論だろ」
健二は吐き捨てるように返した。
ヤスクラと今まで関わって分かったことは、彼は冗談を言うセンスが壊滅的に低いということだ。
ヤスクラを追い払った後、教室から出て外へと向かった。人通りの少ない体育館裏まで行き、懐からどさくさに紛れて盗み出した瓶を取り出す。健二はとりあえず瓶を地面に寝かせ、辺りをキョロキョロと見回した。
彼の頭と同じくらいのサイズの石を見つけると、持ち上げて瓶の上に勢いをつけて落とした。すると、ガシャンと耳を貫くような轟音が響いた。
石は砕け、地面に散らばった。石の破片の間から見えたのは、傷一つない瓶であった。
彼の額から冷や汗が垂れた。ヤスクラの言う通り、あの瓶には元々ヒビがはいっていたのだろうか。
この強化ガラスは、強い衝撃を加えても人間の力ではヒビ一つとして入ることはない。しかし、製造段階で既にヒビや傷が入っていた場合は話が変わる。このガラスの性質上、ピンポイントで傷ついた箇所に衝撃を与えると、そこから一気にヒビが広がり、粉砕するのだ。
そう考えると、確かにあの瓶が不良品であったことを仮定すれば、彼女が壊すことができたということは別に不思議なことではないのかもしれない。
「だけど、もし、もしもだ。あれが傷一つない綺麗な瓶だったとしたら」
ぽつりと呟くが、すぐにこの考えは振り払った。しかし、いくらあり得ないと否定し、自分を納得させようとしても、心のどこかで得心いかないものがある。彼女が自身の力だけで、ヒビ一つない瓶を粉砕してみせたのではないかと、そう考えてしまうのだ。
だが、そうなると彼女は人間に化けた魑魅魍魎の類という結論になる。
しかし何か別の、自分が知らない未知の何かがあるのではないか。そんな予感がした。もちろん根拠は何一つとしてない。
ふぅとため息を吐き、健二は地面に座り込んだ。その拍子にポケットから何かが落ちる感覚がした。ボトりと重たい音がし、地面をみると、スマートフォンがカバーを開いた状態で落ちていた。運悪く液晶画面の方が下を向いている。
急いで拾い上げ、画面に傷がないことを確認した。金をケチって保護フィルムを貼っていなかったため、ヒヤリとしたが、幸い画面にはヒビが入ってはいなかった。
しかし、磁気でくっつく仕組みのカバーには砂鉄が付着していた。鬱陶しそうに彼は払おうとするが、なかなか離れない。そうこうしている内に、昼休みの時間は残り僅かになり、仕方なく教室に駆け足で帰って行った。
同時刻、人気のないプールの更衣室。矢本は誰かと通話をしていた。
「あぁ、ようやく見つけたよ」
いつものやる気のない態度はそこにはなかった。キリっとした眼差しで電話相手と情報交換をしている。
「話には聞いていたがまさか実在するとはな」「ん?多分周りの奴らにはバレていないんじゃないか?」「大丈夫だって、たまに不良品が混ざってるっていうのは有名な話だ。誰も疑わないだろ」「だな、奴らに見つかる前にどうにかしよう」「いや、もしかしたら奴だけじゃないかもしれん、一人疑わしい奴がいてな・・・」
5限、6限と授業が終わり、健二はようやく退屈な授業から解放された。ため息と共に両腕を伸ばす。
帰りの会では相変わらずやる気のない様子で、矢本がごにょごにょと何かを話していた。仕事だから形式上やっているだけで、生徒たちに自分の言葉を伝えようという気概がまったく感じられない。
ふと斎藤の方を見ると、何事もなかったかのように席に鎮座していた。昼食時に見せた獣のような気配はもう見受けられず、いつもの冷静沈着な雰囲気に戻っていた。
訝し気な目で彼女を見つめていると、それに気が付いたのか、ちらりと健二の方を冷徹な目で見てきた。
焦って誤魔化すように持っていたスマートフォンへ視線を落とした。怒りをあらわにしていた彼女の顔が頭を過ったからだ。
「怒らせたらやばいな」
虫の息のような誰にも聞こえない声量で呟いた。
あれから彼女に関わろうとする人間はいなかった。彼女の事を揶揄っていた生徒たちも、普通を装っているが、必死に視界に彼女を入れないようにしているのがよく分かる。
帰りの会が終わり、矢本が机の上に置いていたタブレットを脇に抱えた。
すると唐突に、
「斎藤、後で職員室に来い」
と今度はハッキリとした口調で呼びかけた。例の件に関してこってりと絞られるのだろう。元々の原因は揶揄った男子生徒たちなのだが、下手すれば怪我人がでてたかもしれないと考えると妥当なのかもしれない。
だとしても、男子生徒たちがお咎めなしなのはどこか理不尽さを感じる。彼らの方を見ると、邪悪にほくそ笑んでいた。
斉藤はというと、何も返事はせず矢本の方へと顔を向けていた。不満気に顔を歪めるかと思ったが、意外にも冷静さを崩すことはなかった。
斉藤が教室からでていくと、健二は荷物を持って真っ直ぐに校門へと向かっていった。
校門前には一足早く雫が待っていた。健二が来たことに気がつくと、彼女は笑顔で手を大きく振った。それに呼応するように健二も手を振りながら駆け寄っていった。
「お疲れ〜」
「うぃ、お疲れ〜」
健二の挨拶に対し、雫は気の抜けたような返事をした。それから健二は帰路を進もうとする。
しかし、雫は不意に歩こうとする彼の手をぎゅっと握った。
「へ?きゅ、急にどうした」
突然のことだったため、動揺を隠せなかった。校門で人通りが激しいこともあり、恥ずかしさから手を離そうとする。
しかし、彼女は歯を噛み締め、何かを押さえ込んでいるようだった。
「ごめんね。今日だけは、このままでいさせてくれないかな」
震えるような声で彼女は言った。
「う、うん」
健二はそれだけ言って手を握り返した。明らかに彼女は何か重荷を抱えている様子だ。それが何かを聞きたいところであったが、彼女が打ち明けようと思えるまで待つことにした。
雫は俯いていたため、健二は確認することはできなかったが、彼女はこの時、唇の血色を失い、尋常じゃないほどの脂汗をかいていた。瞼は震え、呼吸も浅い。彼女はそれを悟られまいと、精神が落ち着くまで顔を見せないようにしていた。
こんなことを知る由もない健二は、朝とは打って変わり、彼女の手を引いて歩き出すのであった。
しばらくお互いに無言で歩き続けていると、雫は少し落ち着きを取り戻したようで、俯いていた顔をあげて健二の方を見つめた。それに気が付いた健二は彼女の表情を伺った。
「どうだ?落ち着いたか?」
「うん、ごめんね。ちょっと色々あって、心配させちゃった」
「いいさ、誰にだってそういう時はある。俺だって何故だか分からないけど強い不安感を感じる時がよくあるんだ」
「へぇ、健二にも不安を感じる事があるんだね。ちょっと意外かも」
「筋トレに励んでるのもそれが理由なんだ」
「え?マジで?」
「うん、なんだか自分や周りになにか悪いことが起きるような、そんな不安感。考えすぎだって一生懸命自分に言い聞かせてはいるんだけどね」
「ふぅん・・・ただの筋肉バカなのかと思ってたわ」
「失礼だな。俺はただの脳筋なわけじゃないからな」
「えへへ」
雫は朗らかな笑みを向けた。いままでに見たことのない彼女の表情ではあったが、一先ず彼女に笑える程の余裕ができたことに健二は安心したのであった。
ここで健二はあることに気が付く。
「あの紫色のキーホルダーはどうした?今は鞄の中で大事に保管してるのか?」
彼は何気なく問いかけた。しかし、雫は手をこまねいて明らかな動揺を見せた。
「ん、あ、あれね。うん、鞄の中だよ」
おかしな反応を示す彼女に対し、健二は目を細めた。
「だったら、このあと役所に一緒に行って届けるか」
「いやいやいや、大丈夫。一人で行くから」
雫は必死で断った。健二は彼女に対する不信感が少し強くなる。
「どうして?」
「えっとね。やっぱり健二の手を煩わせるのも良くないなぁと思ってさ」
「別に俺は全く気にしないよ」
「と、とにかく、私だけで大丈夫だから!」
「お、おう」
雫が役所へ一人で行くことに異様なほど拘る。これ以上問い詰めても何も答えてくれそうもなかった。
二人は十字路に差し掛かった。役所へ行くにはここから右に曲がらなければならないが、健二の家は左方向だ。二人とも向かう先の方角が異なるため、雫とはここで別れることになる。気がかりなことはあるが、今の健二にできることは何もなかった。
「また明日な」
健二は最大限朗らかに微笑んで手を振った。
「うん・・・また明日」
雫は彼にニコリと笑って応えた。その笑顔から発せられている彼女の複雑な感情は健二には読み取ることができなかった。
だから
「様子がおかしかったから、明日ゆっくり話でも聞こうかな」
という呑気に独り言を言い、彼女から目を離してしまうのであった。
雫と別れてからしばらく色々物思いに耽りながら帰路を渡っていた。さっきまで快晴だったのに、今では雲が空を覆いつくし、日が落ちていないのに薄暗くなっていた。
「あ、ちょっといいですか?」
後ろから女性の声が聞こえてきた。振り向くと、自分と同じ制服を着た少女が目に入った。狸を彷彿とさせる程の垂れ目で右目の目尻にホクロがあった。見覚えがない顔である。
「えっと、どうしました・・・?」
同じ学校の生徒だとしても、名前も知らない少女に話しかけられることに不安を抱いた。
「いきなりごめんなさい。私、雫ちゃんの友達なのですが」
「雫の?」
「はい。失礼ですが、いつも雫と一緒にいる方ですよね。あの子に渡さなければならないものがありまして」
雫の友達と言う少女は鞄から巾着袋を出した。縞模様で下部に『シズク』という文字が刺繍されている。
「これは?」
「多分、雫ちゃんが落としたものだと思うんです。いつも机の横に引っ掛けてあったので」
彼女の話を聞き、雫がたまにカバンからこの巾着袋を出して使っていたのを思い出した。最近見る機会がないためすっかり忘れてしまっていた。
「わざわざありがとうございます。あいつの家に届けにいきますね。良ければ名前を教えていただければ・・・」
言いかけたところで少女は被せるように声を発した。
「いえ、雫ちゃんの家さえ教えていただければ私が届けにいきます」
答えに困り、しばし黙り込んだ。ここでやたらに雫の住所を教えていいものなのかと疑問に思ったからだ。
確かに自分と同じ学校に通っていることは確かではあるし、雫の落とし物を届けるという理由もある。健二の記憶が正しければこれが彼女の所持品であることは間違いない。
だが、この少女の事を健二は全く知らない。せっかくの好意ではあるが、自分の手で届けに行くのが無難であると考えた。
「いや、俺が届けに行くので大丈夫です。手間をかけさせる訳にもいかないですし」
そう言って健二は少女が持っている巾着袋に手を伸ばした。しかし、少女は彼の手を避けるように、それを持っていた手を引っ込める。予想外の反応に彼は「え・・・」と声を漏らす。
「私が届けにいきますよ?拾ったのは私なんですから」
少女は柔らかい笑みを浮かべて応えた。愛想よく振舞っているが、巾着袋を持った手は力強く握られている。
「いや、良いですって。あいつにもよろしくと伝えておきますから」
「良いって言ってますよね?とっとと住所を教えてくれませんか」
どんどんと話が通じなくなっていく少女に、健二の中で警戒が強くなった。同時に彼は自分の選択は正しかったと確信した。
「お前、雫の友達じゃないな」
彼は少女を睨みつける。互いに沈黙し、静かな時間が流れた。
そして、少女はおもむろに口を開いた。
「お兄さん、何を警戒してるんですか。私はただこれを届けようとしてるだけなのに」
「お前が雫のなんなのかは知らないが、家は教えられない」
健二は断固とした態度をとった。
少女は彼の返答が気に入らなかったようで、眉間に皺が寄っていた。彼女の歯ぎしりの音が離れていても分かった。
「つべこべ言わずに教えてくれませんかねぇ」
人との関わりが薄い健二にも分かった。今、目の前にいる女は絶対に関わってはいけない人間であると。
このままそそくさと逃げ、雫にこの事を報告して警戒を促そうとも考えた。しかし、あの女がもっている物は間違いなく雫の所有物である。まずは取り返す事が優先だ。
だが、人目もあるため、手荒な真似もできない。かと言ってまともな話し合いができるとも思えない。
「ねぇねぇ、私に何かやましい気持ちがあるとでも考えてますか。嫌だなぁ。何も無いですよ」
健二は尚も黙り続けていた。機を伺っているのだ。
彼は唐突にポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。彼の行動が理解できなかったのか、女は呆然としている。ズルズルと音を鳴らし、かみ終わるとティッシュを丸めた。
すると、丸めたティッシュをいきなり女の顔面に投げ込む。
「うわっ」
さっきまで健二が鼻をかんでいたティッシュ、それが眼前に飛んでくるのだ。少女は必要以上に体を傾けて避けた。よって、注意が健二からティッシュの方に逸れる。
この一瞬の隙に、健二は少女の懐へと潜り込んだ。少女がそれに気づいた刹那、健二は巾着袋を奪い取り、一目散に逃げ去った。
「キエエエェェェェェ!!」
後ろから言葉にもならない金切り声が聞こえてきたが気にせずこの場を去った。
向かう場所が相手に知られないよう、出鱈目な場所で道をクネクネと曲がりながら、遠回りをして雫の家へと向かった。
「何だったんだよ、あの野郎は」
少女が追いかけていないことを確認すると、緊張の糸が解けてどっと疲れが出た。ここは雫の家から徒歩10分ほどの距離にある場所だ。
雫はまだ家にいない。しかし、いち早くさっきの出来事を話す必要があったため、彼女の家で帰りを待つことにした。
家に辿り着き、呼び鈴を鳴らした。それからカメラの方へ顔を向ける。
「はーい、あ、健二くんね。ちょっと待っててね」
呼び鈴のすぐ上にあるスピーカーから女性の声がした。恐らく雫の母親だろう。
しばらくすると、機械音と共にドアがスライドして開き、声の主が姿を現した。雫の年齢的にそれなりの歳のはずだが、学生と言われても全く違和感を感じないほど若々しい。
「どうしたの?雫はまだ帰ってきていないけれど」
彼女は首を傾げて問いかけた。
「雫にちょっと用事がございまして」
「あらそう、今日は一緒に帰ってきてないのね」
「はい、ちょっと色々あって」
「もしかして喧嘩?あの子もおてんばだから」
「あはは。そんな感じです」
雫本人ではなく、雫の親に事情を話すのは余計な心配をかけ、あらぬ誤解を招く危険もある。ここは適当に誤魔化すことにした。
「雫もすぐに帰ってくるだろうから待ってなさいな。それともこのあと忙しい?」
「予定は特にはありませんが」
「だったら上がっていきなさい。仲直りしてやらないとあの子も今夜寝られなくなっちゃうしね」
健二は促されるままに家へあがり、2階の雫の部屋へ案内された。
「お茶持ってくるからくつろいでてね」
そう言い残し、母親は部屋を出て行った。とりあえず、例の少女から奪い取った巾着袋は雫の勉強机の上に置いた。
雫の部屋へ勝手に入ってしまったが、本当にいいのだろうかと困惑した。部屋は片付いているが、内装は女性らしさはあまりない。勉強机の他には、木目の箪笥と本棚くらいしか見受けられなかった。本棚の書籍も科学的なものと超常現象や都市伝説を題材にしたものなど、女の子にしてはかなり奇抜な本が並べられている。1番目に引かれたのは、磁石人間という題名の本であった。背表紙からして胡散臭さしか感じないのに手に取ってみたいという欲求がでた。
久しぶりに彼女の部屋に入ったが、科学やオカルト的趣味は昔と全く変わっていないようだ。
しかし、憎からず思っている女の子の部屋にいるというのはどうも落ち着かない。ベッドが目につけば、ここで彼女が無防備に寝息を立てている様子、机の方を見れば、真剣な眼差しで教科書に向き合い、時節集中が途切れ体を伸ばしているのではないか、そんな妄想が膨らんでいった。
鼻を利かせれば、彼女の甘い香りがしてくるような気がしてくる。
「気持ち悪すぎるだろ・・・俺って・・・」
罪悪感に苛まれ、ため息をついた。自分に対して呆れてしまい、ぼーっと適当に一点を見つめる。すると、ふと机の下に重ねられたコピー用紙が目に入った。
部屋は片付けられているのに、あれだけ収納されていないことに違和感を感じる。遠目で見ると、用紙には羅列された文字と写真が印刷されている。
人のものを勝手に読むという行為はしたくないのに、どうしてもそれから目を離すことができなかった。いけないことだと頭では分かっているのに、自然と体が動き、紙へと手が伸びていく。紙に触れるか触れないかの所でハッとし、上体を勢いよく起こした。すると、頭上の机にガンッと頭をぶつけた。
「いってぇ・・・」
痛みで頭を抑えていると、ぶつけた衝撃で彼の足元にドスン何かが落ちてきた。見てみると、先ほど机に置いた巾着袋であり、落ちた衝撃で中身が飛び出していた。それを見て健二は言葉を失う。
「これは、あいつが朝見せつけてきたキーホルダー・・・」
雫はこれを届けるために役所へ行ったんじゃないのだろうか。なのに何故これがここにあるんだ。さっきのやばい女がこれを持ってたことといい、納得できない点が多い。雫がキーホルダーを役所に持っていくためにカバンから外し、この袋に入れ、学校に忘れてきてしまったのだろうか。様々な憶測が頭の中を走る。
「いや、それはおかしい」
自分が来るということが想定されていないにも関わらず、部屋がこんなに片付けられている。普段から片付けを徹底しているような彼女であれば、自分のものならまだしも、人のものを学校に忘れていくなどと考えづらい。しかも仮に忘れていたとすれば、これは机の脇にかけず、中にしまっていたのではないだろうか、もしくはロッカーの中にあっただろう。だとすれば、あの少女が持っているのはおかしい。
様子からして、雫とあの少女の仲がいいとは考えられない。しかもあんな人目の多い中で金切り声を平気であげるような異常者だ。あの異常性はクラスの連中にも隠せてはいないはずだ。
そんな奴が雫の机やロッカーを漁っていればどうだろう。周りの人間は不信感を示し、止めに入るに違いない。しかし、これはただの憶測に過ぎない。
しばし考え込んでいると、先ほどから気になってしょうがなかったコピー用紙が目についた。今度は迷わず手に取る。根拠は無いが、これを見ることによって何かわかるかもしれないと思ったからだ。
「こ、これは」
脳に電流を流されたような衝撃だった。
雫は人影のない路地裏に座り込んでいた。日も入らず数日前に降った雨も乾かずジメジメとしている。彼女から見て左側はビルが壁のように立ちはだかり、通り抜けることはできない。右側は表通りに繋がっているが、まるで迷路のようになっており数回ほど曲がらないと出ることはできない。
彼女がここにいるのには理由があった。逃れることのできない運命。理不尽で超常的な何か。これらが彼女に襲いかかろうとしているのを感じ取っていたからだ。
昨日から謎の悪寒がしている。風邪でも引いたんじゃないかと思ったが、今日学校で過ごしているうちに、悪寒の正体は自分から発せられている危険信号であったということが分かった。
最初に事が起こったのは、教室に向かうために階段を登っていた時だった。彼女は階段の途中で足を踏み外し、ずっこけた。
すると、頭上を勢いよく何かが通り過ぎ、踊り場にドスンと落ちる音がした。踊り場の方を見てみると、学校指定のカバンが落ちていた。
この時、踊り場から彼女との距離は階段の段数でいうと15段ほどだった。もしもずっこけて前屈みになっていなければ、顔面に衝突し、落下していたかもしれない。
前方を見ると、男子生徒が青ざめた顔でこちらを見ていた。話を聞くところによると、友達とふざけてカバンを振り回し、手からすっぽ抜けたんだそう。一歩間違っていれば大事になっていたかもしれない。男子生徒は何度も謝罪し、何もなかったからと、雫は快く許した。しかし、恐怖で心臓は強く鼓動を打っていた。
次は2限の調理実習中の出来事であった。他の班の人が調理器具を洗っている間、彼女は箪笥から皿を取ろうとしていた。その時、皿の上に親指ほどの虫が乗っかっていることに気が付いた。「ひっ」と声が漏れ、後退りする。すると、先ほどまで彼女がいた位置に、フライパンが落ちてきた。恐らく箪笥の上に置かれていたものだろう。当たっていたら怪我していたかもしれない。ほっとして後ろを向くと、背筋が凍るような感覚に襲われる。
そこには、フライパンの落ちた音に驚き、こちらを向いている生徒がいた。蛇口の下にある戸棚に収納しようとしていたのか、しゃがんだ状態で、手には包丁が握られていた。そして刃先は雫の方を向いている。
フライパンの落ちた場所の床は少しへこんでおり、位置をよく見ると、丁度雫の足があった場所だ。
もしも、後退りしていなかったら、フライパンが足に落ちていたら、痛みに悶絶した彼女が後ろに倒れ込んだら、想像しただけで戦慄が走った。
他にも、移動教室で廊下を歩いていた時のことだ。頬がむず痒くなり、痒い場所をペチンと叩いた。立ち止まって手を見ると、虫が潰れ、彼女から吸った血液が滲んでいた。はぁとため息をつくと、眼前をブーンと何かが通り過ぎた。開いていた窓から入ってきたらしく、彼女の目の前を通り過ぎた後は教室の扉に張り付いている。
目を凝らしてみると、張り付いていたのは巨大な雀蜂であった。図鑑に載っているものより明らかに大きい。
ギョロリとした大きな目がこちらを狙っているような気がした。恐ろしくなり、反対側の壁に体を擦り付けながら足早に立ち去る。
何かが偶然を装い、着実にこちらの息の根を止めようとしている。それが疑惑から確信に変わった時、足は震え、息苦しくなった。まるで風船に息を吐き、それを吸い、また吐くという動作を繰り返しているようだった。今日拾ったキーホルダーも、気味が悪くなって巾着袋に入れてゴミ箱に捨てた。
その後も何度も同じような出来事が発生し、彼女は精神的に追い詰められていく。気持ちが擦り切れそうな時、頭に浮かんだのは健二と年上の親友の顔だった。
命が尽きるとしても最後に会いたい。せめて健二には別れを言いたい。
「でも、あの子にはもう会えないんだろうな・・・」
年上の親友はここから距離の離れた大学へ通っている。列車で向かうにしても、駅に向かうまで自分が生きられるとは思えなかった。
最後に健二へ別れを告げることもできた。あとはもうここでその時が来ることを待つことにする。ジタバタしても仕方がない。
しかし、ここで彼女が予想だにしないことが起こった。
「な・・・んで・・・」
彼女の前に息を切らせ、今にも倒れてしまいそうなほど顔を歪ませた健二の姿があった。
「やっぱりな。お前は一人になりたいと思ったらいつもここに来てた」
健二は彼女の傍に並ぶようにドサリと座った。
「でも、私は役所に行くって」
「あぁ、最初は俺も疑ってなかったよ。でもな、色々イレギュラーなことがあって見ちまったんだ。部屋にあったあれを」
「あれって?」
「机の下にある。写真や文字が印刷されたコピー用紙をな」
「え?それとこれと何か関係ある?」
「なぁ、朝からちょっとお前様子がおかしかったよな」
「うん」
「あの時はなんでか分からなかったけど、あの写真を見た瞬間合点がいったよ」
「どういうこと・・・?」
「あれは、この世界とはまた違う世界。異世界の写真だ」
「は・・・?」雫は突拍子もないことを言い始める健二に言葉を詰まらせた。「異世界って・・・そんな話を信じろと言うの?」
「疑うのは仕方ないが、これは紛れもない事実なんだ」
「確かに私もオカルトに興味あったりするけど、面白半分で真に受けたことはないよ」
「だけど雫も感じていたはずだ。自分に超常的な脅威が近づいていたのを」
「なんでそれを・・・」
雫は自分が何かに命を狙われているのではないかと言う事をまだ誰にも相談していない。したとしても誰も信じないと考えていた。だが、健二は現在彼女が今抱えている問題を言い当てた。これは偶然とはとても思えない。
「奴らは意志を持っている。これは断言できる」
「奴らって異世界の住人かなにか?」
「いや、おそらく世界をつくった神と呼ばれるような上位存在だと思う。あくまで予想だがな」
「でも何で私が狙われなきゃならないの・・・」
雫は健二の荒唐無稽な話を少しずつだが信用し始めた。全てでないにしても、彼は自分の知らない未知の何かを知っている、そう思わされる。
「雫が異世界の情報を見てしまったからだ」
「あ・・・」
「こっちとあっちの世界では、お互いに存在を絶対に知られてはいけないという絶対的ルールでもあるんだろうな。だから上位存在によって二つの世界は完全に分断されているんだ」
「だから異世界の存在を誰も知らないってことか」
「でも、たまにあるんだろうな。どんなに情報源を潰そうとしても誤って漏れ出てしまうことが」
健二の話を聞き、合点がいった。
「それが、あの写真っていう」
雫は例の写真を思い出した。写っていたものは建物や自然などの風景だった。しかし、建物はかなり古風。なのに写真の画質は良く、細部まではっきり写っている。古臭いのに新しさを感じるという気味の悪さを感じた。
そして極めつけは、
「写ってる生き物だよ。何あのどデカい虫。ハエや蜂が窓ガラスの大きさだった。だけど合成にしてはあまりにも自然すぎる。たまに写り込んでた灰色の紐のようなものもなんか気持ち悪かったし」
「あれがあちらの世界での常識なんだよ。科学技術もこの世界よりも遅れているみたいだ」
「印刷したものは、昨日ネットを漁ってた時に偶然見つけたサイトのスクショでね。写真に写っているものもあれだけど、写真の下に羅列された見たこともない文字列。強い興味を惹かれたよ。同時にこれを見られる機会はもう二度と無いのではないかと思った。だからその場でスクショを撮って印刷したんだ。で、案の定すぐにブラウザが強制的に消された。しかも、サイトは閲覧履歴からは消えていたし、頑張ってまた探したけど見つからなくなっちゃった」
「異世界の情報が漏れてしまった場合、奴らは血眼になって消しにくるだろうな」
「だからだったんだ。昨日からゾワっとする感覚があったの」
「消すにしても偶然を装わなければならないんだろう。異世界もだが自分たちの存在も悟られてはならないから」
「でもさ、なんで健二そこまで知ってるの?本やらネットにこんなこと書かれている訳ないしさ」
「それは・・・」これを躊躇いがあったが、意を決して告白することにした。「俺が例の写真に写っていた異世界から転生してきたからだ」
「え、は?マジ?嘘でしょ・・・」
雫はあまりの衝撃に言葉が思うように出てこなかった。
「写真を見た瞬間思い出したよ。俺は転生する前、ここでいう異世界で平穏に暮らしていた。ここに比べれば科学も進歩してなかったけど、みんな温かかった。虫たちとも楽しく遊んだよ」
「この世界とは全然雰囲気が違うんだね」
「だからなんだろうな。異世界での記憶が無くても、ここの人たちとの価値観が合わなかったのは」
「苦労してたもんね」
「正直、雫がいなかったら正直まともでいられたかどうか怪しい」
「フフッ、感謝してね」
雫はニコリと笑った。先ほどまでの不安に押しつぶされそうな表情はそこにはない。
「俺は転生する前の世界では平凡な人間だったんだ。だけど、偶然にも異世界の情報を目にしてしまった」
「どうなった?」
「全身火だるまにされたよ」
「うわ・・・」
雫は顔をしかめた。自分の末路を想像して身震いする。しかし、ここで彼女は不思議な点に気がついた。
「ということは?健二は異世界の情報を知った結果消されてたのに、その異世界に転生したってこと?」
「そういう事になる。訳がわからないよな」
「何か狙いがあったとか?」
「リスクしかないだろ。恐らくだが、こういう事態は奴らにとっても想定外だったんじゃないかな」
「異世界の存在を知る人間がここに二人ってことね」
「奴らにとって存在するだけで都合の悪い二人がな」
「ということは・・・」
「俺ももう時期消されるだろうな。俺と雫で仲良くお陀仏さ」
二人は諦念の念を抱いていた。雲は先ほど分厚くなり、更に薄暗くなっていた。まるで彼らの運命を物語っているようだった。
「あーあ、もっとやりたいこと色々あったんだけどな。ま、健二と一緒だったら少し安心かな」
「だな。俺も一人で逝かずに済むのは救いだ」
二人は緊張がほぐれ、互いに笑い合った。
「結局、超常的何かって何なんだろうね」
「さっきも言ったけど世界を想像した神のようなものだと思ってる。それとも別の何かか」
しばらくして、雫はブルっと体を震わせると、何か悟ったような様子で空を仰いだ。自身の死の気配を感じ取ったようである。
「時間が来たみたい。やっぱりちょっと不安だから手を握ってくれるかな?」
「もちろんだ」
どんな方法を用いて奴らは殺しにくるのかは分からない。だが、雫を殺しに来るならば、異世界の存在を知っている自分のことも一緒に始末しにくるだろうと健二は考えていた。偶然を装ってまわりくどい殺し方を選ぶほどだ。余程、自分たちの存在を知られたくないのだろう。
二人を別々の機会に殺すような、わざわざリスクの上がる真似はしないはずだ。それに恐らく、異世界の存在を知る人間は一秒でも早く消したいだろう。
「あ・・・」
雫が何かを見つけ声を漏らした。健二も彼女が向いている方を見ると、そこには唸り声をあげた巨大な熊が仁王立ちで立っていた。熊は二人に対し、鋭い目を向け、牙を剥き出しにして荒い呼吸をしている。腹を空かせているのだろうか。
「どうやらあいつに食われるっていうのが奴らの考えたシナリオなんだろうな」
「せめてもう少し楽な死に方させてほしいな」
余裕ぶってはいるものの、雫は今頃になってまた体を震わせた。心中を覚悟していたが、予想以上に苦しみが伴いそうである。自分たちを殺しにくる存在には慈悲の心というものは無さそうだ。
「なんで俺らがこんな理不尽な運命に翻弄されなきゃならないんだ」
健二は怒りの籠った言葉を吐いた。殺すにしてももっと楽な方法はいくらでもあるはずだ。しかし、奴らはどうすれば効率的かつ自分たちのことを知られないように遂行できるか、ということしか考えていないように感じられた。
足元を見ると、金属製のパイプが転がっていた。健二は拾い上げ、獣へと向ける。この時、ようやく自分が何かに駆られるように自身の体を過剰なまでに鍛えた理由がわかった気がした。
「いつか起こる理不尽に対抗できるようにしておけと、前世の自分が語りかけてたのかもな」
「こんな時にどうしたの?」
「いや、ただの独り言さ」
なぜ諦めてしまってたのだろう。たとえ運命だったとしても、抗うことは許されるはずだ。
「うおおおおおお」
手に持った鉄パイプを獣に向かって振りかざした。狙いはこめかみだ。渾身の力を込めて叩き込む。
だが、熊は素早く反応し、自身に向かってくる鉄パイプをいとも簡単に掴んでしまった。
「くそっ」
熊はそれを掴んだまま離さない。健二も全身を使って熊の手から引き剥がそうとするが、びくともしない。「ぐおお」と熊は雄叫びをあげると、鉄パイプごと健二を持ち上げた。宙に浮かんだ健二は、初めての経験に冷や汗が顔を伝う。
「離せバケモンが」
持ち上げられても尚、健二は体を力強くよじって鉄パイプを熊の手から取り返そうとした。
あたりにはもう武器になりそうなものはない。これを失えば勝機はほぼないだろう。
熊は不快そうな顔をし、手に持っているそれを振り回した。まるでビニール風船のように健二は振り回され、目を回した。尚も手を離さないため、一瞬で腕の関節はいかれた。普段聞きなれないような音が関節からきこえてきても、彼は握る手を緩めなかった。地面に何度も叩きつけられ、彼の血液が飛び散る。
しかし、気持ちは諦めなくても筋肉の方は限界がある。力が入らなくなり、手がすっぽ抜けた。彼は投げ出され、雫の足元に飛ばされた。
「もう良いよ。もう・・・」
雫は彼の姿がいたたまれなくなった。熊はフンと唸り、手に持っている鉄パイプを両手で掴み、横に引っ張った。すると、パイプはゴムのようにゆっくり伸びていき、ある程度伸びたらそれを捩じ切った。
「肉ダルマがよ・・・」
痛みで意識が薄れそうになりながらも、嫌味をぶつけて強がった。
熊は二つに分裂した鉄パイプを地面に投げ捨てた。カランカランと音を立てて二人の元に転がっていった。健二にはもはやそれを握る力は残っていない。
彼は気力を振り絞って立ち上がり、雫を背の後ろに隠すように立ち塞がった。
二人は熊から目を離さずに、すぐ近くの壁際までにじり寄った。健二は雫を獣の目から覆い隠すように守り、雫を背中で壁に押し付けた。もう少し彼女を優しく扱いたかったが、腕の骨はバキバキに折れ、頭からは顔面を塗りつぶす程に出血しており、気を使う余裕がなかった。
「もう諦めよう。痛いのは我慢するからさ」
雫の声は健二の耳には届いていない。無我夢中で彼女を壁へと寄せ、守るように立ち塞がった。熊もにじり寄ってきている。
健二は虚目になり、力尽きてドサっと膝から崩れ落ちた。
「健二!」
うつ伏せになってピクリとも動かなくなった彼を見て、雫は思わず叫んだ。
熊は倒れた健二を見下ろした。何の反応もない事を確認すると、足を持ち上げ、彼の頭に向かっておもいっきり落とした。
その瞬間、健二はうつ伏せの状態から首を横に曲げた。すると、先ほどまで腕に隠れていた鉄パイプが姿を現す。横向きになっている鉄パイプに、噛みついた状態で横を向いたため、それは地面に対して垂直に突き立てられた。熊が捩じ切ったため、先は鋭く尖っている。
熊は反応することができず、突き立てられた鉄パイプを思い切り踏み抜いてしまった。
足に突き刺さり、あまりの痛みに「ぐがが」と唸り声をあげた。咄嗟に足を持ち上げ、鉄パイプから足を引き抜いた。だが、その判断は誤りだった。健二は狼狽えている隙に、鉄パイプに噛みついたまま寝返りをうつ。器用に首の力だけでもう片方の足にも鉄パイプを突き刺した。
突き刺した後は、素早く引き抜き、歯でパイプを噛んだまま素早く立ち上がった。頭と歯茎からボタボタと血が滴り落ちる。
予想外の猛攻に、熊は小動物のような悲鳴をあげ、両足を引きずりながら後ずさった。
獣の両足は潰すことができたものの、こちらも両腕が使い物にならない。だが、両足が自由に動く分、スピードではこっちに分がある。
両足の痛みに熊が悶えているうちに、健二は口に咥えている鉄パイプを尖った先が正面になるように動かした。その状態で、彼は獣に向かって走る。
ある程度勢いをつけたら跳躍し、熊の顔面に向けて飛び込む。熊は足の痛みで咄嗟に避けることができなかった。
鉄パイプは熊の右眼球に突き刺さり、そのまま力を込めると奥にある脳まで貫いた。確かな手応えを感じた健二は、鉄パイプを口から離し後ろに飛び退く。
熊はフラフラとし、潰れていない方の目でこちらを睨むが、さっきまでの凄みは見る影もなかった。鉄パイプが眼球に刺さった状態でこちらに注意を向けることができるだけでも大したものである。
しばらく、ふぅふぅと荒い息をついていたかと思うと、力尽きて地面に崩れ落ちた。
「はぁはぁ・・・勝った・・・勝ったよ・・・」
健二はホッとして力が抜けたのか、仰向けに倒れた。空は相変わらず分厚い雲に隠れ、今にも雨が降ってきそうだ。
雫が彼の元へと駆け寄り、彼の頭の前に座り込んだ。
「全く無茶して」
彼女は健二の顔を覗き込み、ほっと胸を撫で下ろした。健二も視野のほとんどを覆うほど顔を近づけてきた彼女に驚いたが、生きている彼女をみて一安心した。
「俺はお前を守るよ。だから、二人でこの世界を生き残っていこうな」
「なにそれ、プロポーズのつもり?」
健二が雫の軽口に対し、フフフと笑った。すると、ぽたりと頬に水のようなものが落ち、滴っていく感覚がした。雨でも降ってきたのかと思った。しかし、雫の顔を見てギョッとした。
彼女の鼻、口、目という顔のあらゆる穴から血が溢れていたのである。
「お、お前、どうしたんだそれ・・・」
「え?なに、これ・・・」
雫も何が起こったのかが理解できていない様子だ。彼女の視界はみるみるうちに赤く染まっていく。彼女は自分の体に不調が起こっていることを自覚すると、ドサリと横に倒れ込んだ。
健二は気力を振り絞り、体を起こした。
「おい!どうしたんだよ!雫!」
彼女は健二の声かけには答えず、白目を向いて血をダラダラと垂れ流していた。原因がわからずあたふたしていると、雫の背中からも血が滲み出ているのに気がついた。
「なんだこれ・・・」
丁度、左胸辺りであった。服の上からでしか見ていないが、そこまで激しい怪我のようには感じられない。
ふと、先ほどまで彼女がいた壁の方を見る。すると、小さく何か光るものが見えた。立ち上がり、その正体を確かめようとした。
近づいてよく見ると、光っていたものの正体は尖った部分が突き出た釘であった。雫の胸の高さにあり、赤黒い液体が付着している。それが彼女の血液であることに気がついた瞬間、雫は激しく咳き込み始めた。健二は力の入らない腕をブラブラと振り、急いで駆け寄る。
「大丈夫か!しっかりしろって!」
彼の声かけも虚しく。雫の顔はみるみるうちに青白くなっていった。彼女の周りには小さな血溜まりができていく。どうすれば彼女を助けられる、何か良い方法はないのか、頭の中を思考がグルグルと回るが答えは全く見つからなかった。
周りには人影一つない。
(救急車を呼ぶか?いや、間に合いそうにない。通りまで行って誰かに助けを求める?今の自分の体力的に不可能だ)
健二がキョロキョロと周りを見渡すと、建物の中に通じているダクトが目に入った。彼はその下へと走る。もはやこの運動だけでも意識が遠のきそうだ。
「誰かー!助けてくれー!」
ダクトに向かって力の限り呼びかけた。しかし、何も返答がない。
追い討ちをかけるように、ダクトから黒い煙がでて健二の体を覆った。
「ごほっ、ごほっ」
彼は激しく咳き込む。もう何も打つ手が無かった。ここにあるのは満身創痍の男と今まさに命が尽きようとしている少女、そして熊の死体だけだ。
雫がまた苦しそうに咳き込むのが聞こえ、彼女の元へと行く。顔を見るともう目には精気が全く感じられなかった。彼女は横目で健二の方を見ると、か細い声で
「ごめん・・・ね・・・」
という言葉を残し、呼吸が止まった。
(あぁ、人が死ぬ瞬間ってこんな感じになるんだ・・・)
現実味がなかった。自分を唯一受け入れてくれ、生きる糧だった彼女はもう二度と口を聞くことはない。
ぼーっとする頭で彼女が死んだ原因について考えた。恐らく、壁から突き出た釘が胸に刺さり、臓器か血管を傷つけたのが原因だろう。しかし、なぜそんなことになったのか。
健二は雫を守るため、無我夢中で壁に寄せた。というよりも押し付けていた。
「そっか。雫を殺したのは俺なのか」
彼はぽつりと呟いた。
ゴボッという得体の知れない音がなった。音の鳴った方を見ると、熊の死体の口から、細長く透明な蛇のようなものがゆっくりと出てきていた。
「なんだあれ」
この世のものではない何かを目の前にしているが、もはやどうでも良かった。
健二も体から血が流れ、自身の体が冷たくなっていくのを感じていた。少し遅れたが、自分も雫の元へ行けそうで少し安心した。
「あっちへ行ったらあいつに土下座でもして謝らないとな」
健二は雫の亡骸の足元に倒れた。不思議と清々しい気持ちである。あの世というものが本当に存在するかは定かではない。しかしもしあったら、
(こんなくそったれな世界から解放され、雫と一緒に楽しく暮らせるのかな。死なせたことは申し訳ないけれど)
意識が切れる直前、彼の頭の上を何かが這いずる音が聞こえてきた。
ガタガタと体が揺らされ、目は開かないが健二の意識が覚醒し始めた。今の状況を彼は考察する。
(今はどんな状況なんだ。もしかして俺の魂があの世に運ばれているのか?)
顔の感覚が戻り、ゆっくりと目を開けた。
「要救助者、意識が戻りました」
目に飛び込んできたのは、彼の顔を覗き込むヘルメットを被った白衣の男性だった。周りを見回すと、重々しい機械類が目に入る。隣のモニターにはバイタルと心電図が写っていた。
ここはあの世ではなかった。健二にとってもはや生きる価値が存在しない現世だ。彼が横たわっているのは救急車のベッドの上である。
緊張が走った隊員達の会話が聞こえてくる。
「どうだ。搬送先は見つかったか?もうあまり時間がないぞ」
「見つかりました!すぐ近くの病院です」
「良かった。ギリギリ助かりそうだな」
一気に絶望感が襲った。このままでは助かってしまう。最愛の女性を殺したという罪悪感を持ったまま一人で。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
精一杯の抵抗を試みようとしたが、体力が尽きているせいか体はピクリとも動かない。救急車に揺らされる中、健二はドロドロとした感情に脳を支配される。