1-1
彼はまた同じ夢を見た。夢の中で彼はどこか平和ボケした世界で、平凡な暮らしをしている。会ったこともないはずの人たちと食卓を囲み、楽しく談笑する。顔も知らないはずの友達とくだらない遊びをし、一緒に笑い合う。夢の中での日常の内容は、毎回異なっている。なのに夢とは思えないほどリアリティーがあった。
毎度毎度違う出来事を夢の中で体験するが、夢の最終場面はいつも一緒であった。しばらく平凡な日常を過ごしていた後は、突如として自分がある目的地に自転車を使い、全速力で向かう場面になる。
この時、彼は興奮した様子で一生懸命ペダルを漕いでいる。カゴには肩がけバックが入れられており、中には筆記用具とノートが入っていた。ノートには彼を興奮させる何かがメモとして書かれているのだが、起床すると毎回その内容は忘れてしまう。
しばらく走ると、前方に燃料タンクを重そうに運ぶ女性が、こちらへ向かって歩いているのが見えた。重そうによろよろとしていたが、とあることで頭がいっぱいになっていた彼は、気に留めず横を通り過ぎようとする。
だが、主婦はよろけ、振り子のように振りかぶった拍子にタンクを、彼の眼前に投げ出してしまう。
自転車のハンドルを曲げて避けようにも、突然のことで反応することができなかった。彼と燃料タンクは衝突し、彼は衝撃で自転車から投げ出され、タンクと一緒に地面をゴロゴロと転がることになった。服は破れ、体中を擦りむいた。
タンクが転がった際に偶然にも蓋が開いてしまい、中の液体はどっぷりと彼の全身を覆いつくした。同時に、慣性を働かせた自転車が、車体を引きずりながら突っ込んできた。
彼に触れるくらいまで来た瞬間、アスファルトと自転車の金属部分が接触し、火花が散った。火花は燃料に引火し、彼は全身火だるま状態になった。
あまりの熱さにのたうち回る。どれだけ体を地面に擦り付けても火が消える様子はなかった。
「ぐ、ぐが・・・」
苦しいのに声は出せない。その場から逃げ出そうと立ち上がるが、すぐに力尽きて地面に倒れ込んでしまう。最後に見えたのは、肩がけバックから飛び出したノートが、炭へと姿を変えていく様子であった。
ージリリリ・・・
目覚まし時計のベルの音が部屋の中で反響している。ショボショボとした目をこじ開けるが、スッキリと目覚めることはできず、朝から憂鬱な気分だった。起床と同時に、誰かに自分を上から見下ろされているような奇妙な感覚に襲われる。なんだか気味が悪い。
着替えて運動靴を履き、外に出た。背中には重りの入ったリュックを背負っている。
まだ外は薄暗く、この時間に出歩いていたのは自分だけだった。
一先ずいつもの公園までジョギングをする。公園に着くと、いつものルーティーンで、筋力トレーニングを含む自己鍛錬に励んだ。自己鍛錬の内容としては、片手懸垂をタイヤを背中に背負って行う、タイヤを肩と足に掛け足の力を使って無理やり引き伸ばす等だ。その過剰にも思える程の負荷により、体からは熱が発生し、体から蒸気が出ていることが遠目からでも視認できる。
これから起こる何かに対して備えているような真剣さだ。
約3時間にも及ぶ壮絶な鍛錬の後は、タンパク質を豊富に含んだスポーツドリンクをガブ飲みし、家までまたランニングをする。
家につくと、彼は玄関に置いてあるスプレーを体にかけた。すると、彼の服と体に付着していた汗は、スプレーから出る消臭ガスと一緒に空気の中へと消えていき、ベタついていた肌はサラサラになった。それからトボトボとした足取りでリビングに進む。
リビングにつくと、母が丁度朝食の準備を終え、料理を乗せた皿をテーブルに並べていた。父はというと、お気に入りのニュース番組を見ている。アナウンサーをはじめ番組の出演者たちが最近発生した事件を、下卑た笑いをあげながら面白おかしく紹介していた。
いま取り上げられている話題は、最近ちまたを騒がせている連続殺人事件だ。概要としては、某有名水族館にて先週末から殺害によるものと思われる遺体が、連日発見されているというものだ。現時点で2名の死亡が確認されており、どちらの遺体もかなり異質な状態で発見された。
まず1人目の被害者は中年の女性。彼女はペンギンの水槽の底で、重りと一緒に縛られた状態で沈んでいた。従業員たちの確認により、被害者は本館の飼育員であることがわかった。
その翌日に2人目の遺体が発見された。被害者は若い男性。遺体はバラバラにされ、それを入れたバケツが5つ、一か所に並べられていた。バケツは飼育用の餌を入れるのに使用していたものである。遺体の損傷が激しく、身元確認に時間がかかったが、DNA検査によって本館の飼育員であることが判明している。これらの事件はどちらも早朝に、飼育員によって発見されていた。
しかし、このような凄惨な事件が起きて、尚且つ犯人も捕まっていないにも関わらず、水族館は何事もなかったかのように営業している。こんな惨事が発生していたとしても、客足は止まらないようだ。
しかし、このことは番組上で触れられることはなかった。さもそれが当たり前のように。
番組の異様な雰囲気に毎度気分が悪くなる。
食事の席につくが食欲が湧かず、所在ない様子で窓の外をぼーっと眺めていると、
「健二、早く食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
と母から叱責を受けた。
「わかったよ。そんでお父さん、テレビ音大きすぎ、もう少し下げてくんない?」
健二は、不愉快そうな顔でテレビを指差した。
「あぁ、そうか・・・いいよ」
健二の不遜な態度に対し、父は快く彼の要求に応じた。どこか事情を察しているような様子だ。リモコンで音量を下げた後、小さな溜息をつく。
少し良心が痛んだが、素直に謝ることはできなかった。
テレビから目を逸らしながら食事をするが、どうしても画面がチラついてしまう。その度に食欲はなくなり、画面を凝視しながら食べ物を口に運ぶ父と母の神経を疑った。
時間がかかりながらも健二は食事を終え、身支度を始めた。
顔を洗い、制服に着替える。季節はもう冬で外は寒い。室内だとしても暖房をつけないと白い息がでるほどだ。セーターにブレザーを重ね着して寒さを和らげる。
「いってきまーす」
両親にしばしの別れを告げ、一階建ての平屋から外へ出た。玄関から少し歩き、隣の家を覗いた。すると、玄関ドア前にお隣さんが佇んでいるのが見えた。今日も今日とて、愛らしい見た目をしている。
「おはよう、今日も元気そうだね」
そう言って手を振ると、愛想よく振り返してくれた。毎日通学時にはこのお隣さんに挨拶をするのが日課となっている。
お隣さんは周りをキョロキョロ見た後、パクパクと口を動かして何かを伝えようとしてるが、口の動きだけでは何を言わんとしているのかは全くわからない。表情の柔らかさからして挨拶の言葉を述べているのだろう。
「あの子ももう少しで5歳になるのか、男の子にしては大人しいよな・・・」
挨拶を終えた後、ふと呟いた。
それから通学路をしばらく歩いていると、家の暖房器具によって温まっていた体はみるみるうちに体温を奪われていく。もう少し重ね着をして外に出ればよかったと後悔をした。今さら上着を取りに帰れば確実に遅刻してしまう。
「くそ、これくらい着てれば平気だと思ったのにな」
手を擦りながらぼやいた。
登校中にすでにブルーな気持ちになっていると、唐突に後ろからタタタッと何者かが走ってくる音がした。
「健二!おっはよー」
声が聞こえたかと思うと、ドンと頭に衝撃が走る。何事かと思ったが、すぐに平手で頭を叩かれたという事に気がついた。
声がした方を振り向くと、そこには中学生と間違えるほどの童顔と、それに不釣り合いなウルフヘアーが特徴の少女がいた。
「いってーな、何すんだよ雫」
雫と呼ばれた少女は、健二の前まで走ると、くるりと身を翻した。
「ぼさっと歩いてるのが悪いんでしょ。隙だらけだよ」
彼女はニマニマと憎たらしいほど可愛い笑顔を見せつけてくる。頭を叩かれた時は少しムッとするが、この笑顔は卑怯だ。何をされても許してしまいそうである。
「ほらっ、さっさと行かないと遅刻するよ」
そう言うと、雫は健二の手を引っ張る。健二はやれやれと思いながらも、促されるままに駆けていった。不思議と悪い気はしない。
「また今日も筋トレしてたの?」
雫は問いかけた。
「え?あぁ」
「なんかまた腕まわりが太くなったように感じるよ。体に鞭を打ちすぎじゃない?」
「まぁ、健康のためだよ・・・」
「健康のためにやる運動量を遥かに超えてるような気がするんだけど、いつか体壊しそうで心配だわ」
「加減はしてるさ」
「どうだか」
さっきまで周りにはスーツで身を引き締めた会社員やランドセルを背負った子供たちが多かったが、しばらく進んでいくと、二人と同じ制服を着た少年少女がちらほら見られるようになった。
雫はまだ健二の手を握ったままで、その手をブンブン振りながら歩いている。
「あ、そうだ。見てこれ」
雫は鞄を持ち上げ、ファスナーについたキーホルダーを指し示した。
「えっと、これがどうした?」
「反応薄くない?いいでしょこれ〜」
「お、おう・・・」
キーホルダーは菱形の紫がかった石のように見えた。サイズは親指くらいで、何かが描かれているわけでもなく、何の変哲もないように見える。
「ほら、角とかとってもキュートでしょ」
「うーん、どうなんだろうか」
健二は困ったように唸った。
「これの良さが分からないかな〜、ほらほらちゃんと見て」
「ちょっと俺には理解できないな、何がいいんだこれ」
「女の子の心にはグッとくる一品なんだけな、多分・・・」
健二はジーっとキーホルダーを見つめた。するとあることに気が付く。
「これ製造業者の名前とか書いてないじゃないか。どこでこんなの手に入れたんだ?」
すると、雫はサッと目をそらし、手をモジモジとさせる。健二は彼女の様子を見て何かを察した。
「お前、これどこかで拾ってきたんだろ」
「うっ・・・」
雫はしまったとばかりに言葉を詰まらせた。
「おいおい、いつも言ってるだろうが、落ちてるものをやたらに持ち帰るなって」
「だ、だって、すっごく綺麗だったし、汚れとかついてなかったし、さっき偶然見つけて興奮してつい」
「はぁ・・・」とため息をついた「多分だけど、これは手作りだぞ。今頃持ち主は血眼になって探してるだろうな」
「・・・・」
「もしかしたら、子供が親のために一生懸命になって作ったものかもね」
「・・・・」
「あーあ、持ち主の悲しんでいる顔が目に浮かぶよ」
「ううぅ・・・」
雫は言葉にもならない唸り声を上げた。彼女は俯いてプルプルと体を震わせていた。
流石に揶揄いすぎたかと健二は気まずそうに頬を掻いた。
「あ、いや、ごめん冗談。冗談だよ。な?」
しかし、雫は納得していない様子だ。
「でもさ、よく考えてみればそういう事も考えられるんだよね。可能性はゼロじゃないんだよね」
「ま、まぁ、ありえるかもしれないけど、たとえそうだったとしても後で役所に届けに行けばいいだろ?」
「うん・・・」
「あとで、一緒に届けに行こう。うん、そうしよう」
健二は強引に話をまとめ、雫を無理やり納得させようと試みた。それが功を奏したのか、彼女は「それもそっか」と空を仰いだ。健二はほっと胸を撫で下ろした。
「しかしまぁ、こういうのが良いって女の趣味っていう物はよく分らないな」
「もう、そういう事言って。こういうのがきちんと理解できないと、いつまでも彼女ができないぞ」
「うるせぇ、これからモテモテになる予定なんじゃい」
「さーて、それは何十年後になるのやら」
「ふうん、じゃあそういうお前はどうなんだよ」
「ん?私?今月三回くらい告白されてるけど?」
「え・・・」
あまりの衝撃的な事実に健二の顔は強張り、しばし黙り込んでしまった。
「流石に、冗談・・・だよな・・?」
「嘘じゃないよ。実は私って結構モテるんだよね」
「そ、そうなのか・・・」
健二は平気な振りをしようと努めるが、ソワソワし始め、電柱やブロック塀など全く関係ないものを視界に捉え始めた。他人から見てもわかるほど明らかに動揺している。
確かに、この愛らしい相貌が心に刺さる人間は少なくないだろう。複数の異性に好意を向けられていたとしても何ら不思議でもないのかもしれない。
「だからさ・・・」
雫は彼の方を上目遣いで見つめる。
「いつか私の心を射止める人が現れても不思議じゃないかもね」
「あはは、かもなぁ」
健二の目線は右往左往し、冷や汗で額が濡れている。誤魔化すために頬を掻くが、余計に焦りが伝わりやすい。
雫は彼のそんな姿を確認すると、フフッと微笑んだ。
「まぁ、冗談なんだけどね、さっき行ったことは全部嘘」
「え」
「ごめんねぇ、ちょっと見栄を張ってみちゃった」
「あ、冗談か、そうかそうかアハハ・・・」
一気に不安による緊張状態から解放され、体の力が抜けた。しかし、そんなことにまるで気がついていないかのように心臓はドクドクと強い鼓動を打ち続けていた。
「ちなみに今月三回も告白されたっていうのは私の友達の事ね」
「ん・・・?あぁ、いつも話してる年上の女の人だっけ?」
「そそ、私と同じ髪型のね、すごく美人でまさに理想のお姉さんって感じでめちゃくちゃカッコいいんよ」
「髪型はその人を真似た感じ?」
「うん!自分もかっこいいおねぇさんになれるかなって」
「ふぅん、なるほどね」
健二は雫の顔と、ウルフヘアーを交互に見た。すると、雫は目を細めて彼を見つめる。
「何が言いたいのかな」
「い、いや、えっと、なんか斬新な組み合わせだなぁと」
「私の顔とこの髪型が?」
「うーん、そうだなぁ、まぁそういうことになるかなぁ」
「へぇ」
「あはは・・・」
「要は似合ってないって事じゃない!」
「ひょえ」
雫の鋭いツッコミについ情けない声が漏れる。
ややあって、おしぼり工場が目印の十字路に差し掛かった。すると、もう周りは制服を身につけた少年少女だけになっている。ここの横断歩道を過ぎればもうすぐ健二と雫の通う高校へ辿り着く。
ふと自分の左手を見ると、雫がまだ握りしめていた。気恥ずかしさを感じ、手を離すように言おうとしたが、すぐにやめた。彼女の手が緊張のせいか分からないが異常なほど汗ばんでいることに気がついたからだ。
「おい、雫、どうしたんだ。何かあったか?」
「え、あ、ごめん」
雫は急に我に帰り、バッと手を離した。
「大丈夫か?なんか様子がいつもと違うぞ」
「ううん、大丈夫大丈夫」
不安にさせたくないのか、雫は必死でかぶりを振った。しかし、そんなことをすれば健二の中での心配は更に大きくなる。
何か言って安心させようかとも思ったが、こういう時に気の利いた言葉というものが彼には思いつかなかった。
「まぁあれだ、悩みがあるんだったらいつでも言ってな」
せいぜいこれくらいしか言えない。
「うん、ありがとう」
そういうと、雫はいつもの明るい表情に戻った。どう見ても空元気ではあるのだが、健二はこれについて追及することはしなかった。
なんとなく気まずい空気になり、学校へ着くまで口数はお互いに少なくなった。
学校の校門をくぐり、校舎に入った。雫は1階の教室へ、健二は2階の教室へと向かう。
彼らが通う学校は「聖林学校」という高等学校であり、教室の場所は、1年生が1階、2年生が3階、3年生が2階となっている。学校の形は上から見てL字のようになっており、短い棒の方に、音楽室や工作室などの特別教室が集まっている。
雫と別れてからというものの、足取りはかなり重たい。さっきまで彼女が隣にいるということにどれだけ安心感を抱いていたものか。
とぼとぼとした歩みで『2-A』と書かれた教室へと進んだ。教室の扉の前に来ると、扉上部にあるセンサーが作動した。耳を澄ましてギリギリ聞こえる機械音が鳴ると、眼球に悪影響のないレーザーを照射し、彼の顔をスキャンする。
データとの照合が完了すると、
「おはようございます。羽崎健二さん」
という、感情のない機械音声がスピーカーから流れ、ドアが自動で開いた。
健二が教室に入ってきても彼のことを気に留める生徒は一人もいなかった。彼は扉から見て二番目の1番後ろの席へと座る。なんとなくぼーっとしていると、目の前の席で雑談している男子生徒の話し声が聞こえてきた。
「なぁなぁ、今朝のニュース見たか?」
「あぁ、マニマニとかいうグループが解散したってやつ?俺はアイドルには詳しくないからよくわからん」
「ちげぇよ、水族館の連続殺人事件のことだよ」
「あ、そっちね。あれがなんだよ」
「いや、すっげー面白い事件じゃねって」
「どうせまた怨恨かなんかだろ?別に珍しいことでもない」
「だってバラバラにされてアシカの餌入れるバケツに突っ込まれてたんだろ。意味わかんなくない?目的はなんだって」
「確かにわかんないな」
「でしょ?ちなみにお前は何だと思う?」
問われた方の男子は手を顎に当てて少し考え込んだ。
「もしかして、自分の好きだった相手を食わせて、それを自分の血と肉に変えたアシカを愛でようとでもしたんじゃないか?」
「叶わぬ恋を別の方法で叶えようとしたってことか。けどさ、それだと一人目が殺された意味なくないか?」
「まぁ、確かにな」
二人の会話を聞いていると、思い出したくない今朝のニュースを想起してしまった。健二はカバンからイヤホンを取り出し、先生が来るまで音楽を聴くことにした。
自分の空間だけ周りとは違う空間のようだった。それはクラスメイトが悪いわけでも健二が悪いというわけでもない。ただ彼がこの空気に馴染むことができないというだけである。
彼の今聞いている曲はクラシックだ。大昔に亡くなった偉人が書いた曲らしいが詳しくは知らない。作曲した人間にはあまり興味はないし、クラシックが特別好きだからというわけでもないからだ。彼がそれを聴いている理由は、ただの消去法だ。昨今流行りの曲は、歌詞の内容が健二には受け入れ難いものがあった。
その後も続々と生徒たちが入ってきて、健二の周りの席もどんどん埋まっていった。だが、誰一人も彼に挨拶をすることはない。
ただ一人を除いて。
「よぉ、今日もなんだかご機嫌斜めじゃないか」
誰かが健二に話しかけてきた。声のする方を見ると、顔をぐいっと近づけて、彼のことをジッと見つめる男子生徒がいる。
「ヤスクラ、顔近すぎ、もうちょい離れてくれ」
健二は怪訝な顔でヤスクラと呼んだ男子生徒の顔を手で押し返した。
「むー、釣れないなぁ。そんな冷たくしなくてもいいじゃんか」
健二に頬を潰されながらも、彼は揶揄うような笑みを浮かべ、茶色い瞳で健二の顔を見つめた。
見ていると吸い込まれてしまいそうなその目は、油断すると自分の深淵を覗かれそうな気がしてくる。
「なんでお前はいつも俺に突っかかってくるんだよ」
「うーん、なんとなく?だって健二は他のやつとは何か別のものを感じるんだよね」
「なんか特別なものでも感じるのか?」
半ば投げやりに健二が問う。するとヤスクラは
「いや、お前からは特別な何かは全く感じない」
ときっぱり答えた。
「はぁ、だったら俺は他の人間となんも違わないだろ」
「違うんだなぁ、どう表現したらいいかわからないんだけど。健二は周りとは違う人間だ、でもそれは俺が知らないだけで、実は健二と同じような奴は当たり前のように存在しているような。そういう感覚」
ヤスクラの発言に、健二は眉根を寄せた。まるで意味がわからなかったからだ。ヤスクラの方を見ると、揶揄いの笑みはそこにはなく、あるのは真剣な眼差しのみである。
こんな整合性の取れてない話を真面目にしているのかと思うと、少々不気味に感じる。
「 自分が言ってることがおかしいと気が付かないのか?」
「気づくも何も、俺はおかしいと思ってないからな」
「そうかよ」
これ以上話をしてもしょうがない。この手の話は何度もしている。そしていつも平行線のまま終わるのだ。
ヤスクラは健二の顔を興味深そうにジッと見つめている。彼は話しかけてくるたび、このように健二のことをよく観察するように生温かい視線を向けてくる。健二は彼に何か意地悪をされたということはなく、今まで彼に危害を加えられたこともない。
しかし、彼と会話をすると、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。家の窓から外を見ると、誰ともわからない相手が自分を見ているような不気味な感覚、こっちは相手のことを知らないのに相手は自分のことを知り尽くしているような。
気持ち悪さよりも恐怖の感情が強いかもしれない。
「ま、これ以上いるとお前の顰蹙を買いそうだな。席に戻るわ。と言うかもう手遅れか」
ヤスクラは口角を上げ、健二に背を向けると、自身の席に進んだ。席に着くまでの間、ヤスクラは他の生徒の間を機械的にすり抜けていった。そんな彼を、他生徒たちは一切興味を示す様子はない。
どう考えても彼の方が異質な人間だと言いたくなる。
しばらくすると、スーッと扉が開く音が聞こえた。顔を向けるとそこには、バスケットボールくらいの大きさのタブレット端末を抱えた中年男性が入ってくるところだった。彼はこの教室の担任であるのだが、無精髭を生やし、白髪交じりの髪はボサボサだ。不潔感はそこまでないものの、身だしなみに全く気を使っていないのはよくわかる。
「ほらほら、お前らとっとと席に座れー」
教卓の前に立ち、彼がそう声掛けをすると、雑談で盛り上がっていた男女のグループは、渋々席に着く。それ以外も怠そうな態度を隠さず腰を下ろしていく。中には挑発するように欠伸をするような奴もいた。彼らを目を細めて見ていた担任は、深いため息を吐く。
席に座っても生徒たちは騒がしくしていた。彼らの態度からは、言われた通りに座ってやったが文句でもあるのかという主張を感じる。
担任は彼らを見回した後、教卓を足で蹴飛ばした。ガンッという大きな音に生徒たちは驚き、シーンと静まりかえる。皆の視線は担任の方へと集まった。
それからすぐ、一人の女子生徒が口を開く。
「矢本弘樹先生。そんなにカッカしないでよー。白髪が増えるよー」
教室内に嘲笑の笑いが起こった。フルネームで呼ぶのも嫌味だろう。
しかし、矢本は意に介す様子はなく
「名前を呼んでいくから返事をしろよー」
と抑揚のない声で淡々と続け、タブレット端末の画面に目を落とした。
「安西、井川、伊地知・・・」
彼は順番に生徒の名前を呼んでいき、生徒はそれに返事をしていく。誰も彼も気のない返事だった。3人目の生徒に至っては、返事をしたのかも怪しく感じる。
「羽崎」
健二の名前が呼ばれた。それに対し、健二ははっきりとした発音で「はい」と返事をする。正直毎朝これに返事をするのも億劫に感じていたが、せめて自分くらいはまともに返事をせねばという使命感があった。
それからも順番に名前は呼ばれていくが、あるところで矢本は口を閉ざした。彼は呆れたような目で、とある生徒を見つめ、指先で教卓をトントン叩き、イラつきを露骨に出す。
「おいヤスクラ、またデータ弄っただろ。苗字はカタカナだし名前の部分が空白になってるじゃねぇか。これを直すのめんどくせぇんだよ」
彼の叱責に対し、ヤスクラはほくそ笑んだ。
「よくもまぁ毎回修正しようと思いますよね。面倒じゃありません?」
ヤスクラが指摘すると、矢本は頭を抱える。何に対しても興味なさそうな反応をする彼を、ここまで感情的にするのはヤスクラくらいではないだろうか。教室に来た際に教卓を蹴ったのも、大声で注意をするのが面倒だったからだろう。
「お前な・・・毎度毎度どうやって改ざんしてるんだよ」
「秘密です」
「秘密って、こんなことをして何の意味があるんだ」
「それは先生も一緒でしょ?たかだか出席簿のデータ。いちいち直す必要なんてないんだから」
「そういう問題じゃないだろ!勝手に人の物を弄るなと言ってるんだ」
「修正しなけりゃ俺は何もしませんよ。先生は機械音痴だから毎回直すのに苦労しているのを俺は知ってるからね。はい、この話おしまい」
ヤスクラは間髪入れずに言った。はやく次に行けという意思表示だろう。教師に対してとって良い態度ではない。だが実際問題、これくらいの改ざんなら大した問題はない。ヤスクラのデータは学校のコンピューターの中に厳重なセキュリティーで保存されているからだ。出席簿のデータなんて表面上のものでしかない。ヤスクラのやっていることはパソコンのデータから印刷された用紙に落書きをしているようなものだ。
ヤスクラという名前もこの地域ではかなりレアなため、苗字さえ分かれば出席をとる時や授業にあまり支障をきたさない。
ヤスクラと教師との異様なやり取りに、他生徒たちは何かしらの反応を示すかと思いきや、誰一人として注目していなかった。
健二は毎度それを不思議に感じる。教師のことを散々嘲笑うにも関わらず、ヤスクラが教師を揶揄っても誰も同調しないからだ。彼に仲の良い人間がいないのもあるだろうが、彼が教師に突っかかるたびに、同じ空間に教師と彼しかいないのではないかと錯覚するほど、周りは興味を示さないのは疑問に感じる。
その後は淡々と矢本は名前を読み上げていき、出席簿の一番下まで呼び終わると、ボサボサの頭を掻いて生徒たちに一瞥もせずに教室を出ていった。ここまで無愛想だと、生徒たちから馬鹿にされるのも仕方ないのではないかと思えてしまう。
矢本が教室を出てから、しばらくすると、別の教員が入ってきて授業が始まる。授業内容をモニターに映し出し、これを元に教員は授業を行った。生徒たちはモニターに書かれている文字を一生懸命ノートにメモをとった。1時間の授業が終わると、次の授業まで小休憩時間に入るが、健二はその間も音楽を聴きながらぼーっとした。そんなことを4限まで繰り返すと、あっという間に給食の時間となった。
当番の生徒が机の上に順繰りに食器を並べ、その上にキューブ状のものと球状の食べ物をいくつか乗せていった。別の当番は白い飲み物が入った瓶を並べている。
キューブ状のものは緑色で、ほのかに原っぱのような匂いがする。球状のものは赤色で、熱した油の匂いが食欲を刺激した。
白い飲み物が入った瓶は円形で、飲み口は底に比べて若干小さくなっている。
「はいかんぱーい」
「いえーい」
男子生徒二人がふざけて瓶をぶつけ合う。力任せにやった為、ガシャンという音が教室中の人間に聞こえた。近くの人間は体を一瞬ビクつかせた。男子生徒たちの持っている瓶を見てみると、割れることもなく、中の液体は一滴も出てこなかった。
「ちょっとやめなよ」
真面目そうな見た目の女子生徒が注意をする。
「うるせぇよ。別に誰にも迷惑かけてねぇだろうが」
先ほどふざけていた男子生徒の一人が反論した。
「そのうるさい音が迷惑だって言ってるの。周りの人がびっくりするでしょう」
「ん?じゃあ周りの奴らに聞いてみるか?この中でさっきの音に驚いた人手をあげてー」
周りの人は誰も反応を示さない。周囲の人間を見てみると、興味が無さそうに爪を弄ったり、他の生徒と談笑を楽しんでいる。各々自分だけの世界を生きているようだ。
それは担任である矢本も同様で、彼は窓から体を乗り出してシャボン玉を飛ばして遊んでいた。彼が担任になったばかりの頃はこの行動が理解できなかったが、今では見慣れた光景である。
「ほら、いねぇじゃねぇかよ。はい残念でした〜」
「あんたは小学生?幼稚なこと言ってんじゃないよ」
「は?幼稚はてめぇだろ、ほら」
男子生徒は彼女の体を舐め回すように見ると、低身長を揶揄うように膝立ちになり、胸の前でストンと垂直に手を下ろす動作を繰り返した。そして仲間と目を合わせてニヤニヤとしている。
「あんな幼児体型でよく人のことを言えるよな」
「いつもカリカリしてるから大事なところに栄養がいかないんじゃないんですか〜」
女子生徒の身体的特徴を突き、二人で笑い合う。いつもの流れならば、どんなに馬鹿にされたとしても、この真面目を絵に描いたような女子生徒は呆れた様子で引き下がる。だから、男子生徒たちは抵抗されないとみて言いたい放題言うのだ。
だが、今回だけは違った。
ーガッシャーン
先ほどの瓶をぶつける音とは比べ物にならないような轟音が響いた。あまりの出来事に生徒たちはその音がした方を一斉に見る。
先ほど騒いでいた男子生徒たちの傍にある壁、丁度彼らの間の位置に白い液体が乱雑に広がり、床には粉々になった瓶の破片が散乱していた。彼らの顔はさっきとは打って変わって真っ青になっている。
先ほどまで罵倒されていた女子生徒の方を見ると、腕を振り切った後で前屈みになっており、顔は見えないのに逆立つ髪の毛から相当怒っているのが分かる。
「誰が貧乳だゴラ」
彼女はどすの効いた声を発した。どうやら今回は彼女の地雷を踏み抜いてしまったようだ。
クラス一同、何が起きたのかが理解できなかった。
「嘘だろ・・・あれって人間の力で割ることできるのかよ・・・」
少しの沈黙の後、誰かがおもむろに口を開いた。それに続くように、矢本が落ち着いた様子で
「おい、斉藤。後で片付けておけよ」
怒りで肩を振るわせる女子生徒に言うと、またシャボン玉での遊びを再開した。すると、斉藤は慌てて髪を整え、恥ずかしそうに椅子にへたり込んだ。
健二もかなり驚いた様子で、何度も目を擦った。