9.金の卵を産むガチョウを……
「マリアお嬢様。リノへの躾けはしっかりと施しておきましたので、どうぞご安心くださいませ。」
侍女長のジーナが、客の見送りが済んだところを見計らってマリアローザへと声を掛ける。
「あらそう、ご苦労様。ところでそのリノは?」
「本日の粗相の罰として、客間を隅々まで磨くようにと申し付けております。」
彼女の言う「客間」とは恐らく、ゲストルームの方の事だ。……それを一体、何室なのだろうか……。
今日中に終わるのかしらとマリアローザは思った。
しかし。ジーナは一切、「さっきの客は何をしに来たのか?」とは聞かなかった。やはり合格だ。ここで好奇心から詮索でもしようものなら、少なくとも降格させる事にはしていただろう。マリアローザの人を見る目は、未だ健在のようである。
……リノの件は、一先ず保留という事で……
「それはそうとジーナ。わたくし一応、独り立ちしましたのよ。なのに“お嬢様”と呼ぶのはどうなのかしら?」
実家の侯爵邸にいた時は当然「マリアお嬢様」と呼ばれていた。しかしこの屋敷で新生活を始めてからは、ほぼ全ての使用人が家主の彼女の事を「マリアローザ様」と呼んでいる。ただ一人、このジーナだけを別にして……。
主人に忠実ともあろう彼女が、一体なぜなのだろうか。侯爵家とも、特に縁など無かった人なのに。
あえて聞く必要が無かったので今日までそのままにしていたが、マリアローザは急に気になって尋ねてみた。
「お嬢様は確かに、このお屋敷の主でいらっしゃいます。ですがまだお若く、婚約を破棄なさったとはいえ未婚の身なのです。隠居などと老け込まれては、勿体のうございますわ。」
「つまり、少しは若者らしくして欲しいという事?」
ジーナは背筋を伸ばしてこくりと頷く。
全く……。結婚などしないから、『隠居』だと言っているのに。これでは彼女は一生、自分を「お嬢様」と呼び続けそうではないか。
……老婆になっても、「お嬢様」……。
マリアローザはふと、それはそれで面白そうだなと思ってしまった。
「ですが、お嫌なのでしたら、今この時より改めます。」
「よろしくてよ。貴女の好きに呼んで頂戴。」
いつも通りのキリッとした表情で、ジーナはお辞儀をする。顔や態度には出ていないのだが、彼女はどうやらその返事に喜んでいるようだ。ならば良かった。
「――それじゃ、今夜の食事は街へ出てしようかしら。たまには料理番にも楽をさせてあげなくてはね。」
「それは素晴らしいお考えですわ。すぐにお支度を始めます。」
「リノにも声を掛けて来て頂戴。」
「かしこまりました、マリアお嬢様。」
こうして食事を自由に決められる事も、この生活を始めて得たものの一つだ。さて、今日は何を食べようか?
マリアローザは頭の中で、早速いくつかの店を候補に挙げていた。
「――喜べ、アリーチェ!お前に新たな結婚相手を見付けて来てやったぞ。相手は、“ブラッチ男爵”だ!!」
マルカート伯爵家の屋敷で、アリーチェは嬉しそうな父親からそう告げられた。
……ここしばらく見向きもしてくれなかった父が、呼んでいる……。不思議に思いながらも、彼女は内心淡い期待を抱いてその部屋へとやって来ていた。
やっと、久々に、自分にも関心を持ってくれたのだ、と……。だが――…
「…………えっ……?」
その名を聞いたアリーチェは、頭の中が真っ白になった。それから青い顔になって狼狽えた。
「ま……待ってください、お父様……。ブラッチ男爵というのは、あのブラッチ男爵の事ですか……??」
「当たり前ではないか!他に誰がいると言うんだ??」
父は「フン!」と鼻を鳴らした。
……嘘だ……こんなのは嘘。アリーチェは頭の中でそう繰り返した。継父ならばともかく、実の父親がそんな事を決めるわけが無い!――彼女はそう思いたかった。
――“ブラッチ男爵”――
それは一代で巨万の富を築いた成金で、金にものを言わせて男爵位を買ったとして有名な人物だ。歳は30代半ば、その資産と同じくたっぷりと蓄えられた脂肪が印象的な、……正直醜い容姿をした男である。また、それだけでなく――
「お…お父様!お願いします、お考え直してください‼」
アリーチェはとっさにその前でひれ伏した。そして床に額を擦り付けるほどまでして頭を下げ、彼女は必死で父親に乞うた。両手が、腕から震えている……。
『……マリアローザ様、どうか、勇気をお貸しください……!』
彼女にとってこれは、一世一代の頼みだ。
父に反抗した事ですら、これまでにたったの一度も無かった。母が亡くなってすぐ、継母たちがやって来た時でさえも……。異母妹に婚約者を奪われた時だって、甘んじて受け入れた。だがしかし……。
「他の事ならば何でもいたします!ですから、その結婚だけは無かった事にしてください…!!」
……嫌だ。絶対に、ブラッチ男爵のところへだけは嫁ぎたくない……‼その一心だった。
すると口元を派手な扇子で隠した継母が、眉をひそめながら話に割り込んで来た。
「まあ!何て子なの?いくら男爵の見目が悪いからといって、そこまでして結婚を拒むだなんて……。伯爵家の娘が聞いて呆れるわね。」
「ち、違います!」
床に座り込んだままバッと頭を上げ、アリーチェは否定した。
伯爵令嬢として、政略結婚を拒むつもりなど無い。例え相手が醜い容姿をしていたとしても、そんな事は問題ではなかった。だが一つだけ、どうしても受け入れられない事がある。
「この結婚は、マルカート家のためにはなりません‼どうかお考え直しください!!」
「何を馬鹿な事を!男爵はな、傷物のお前でも持参金は要らないと言っているんだぞ⁉それどころか多額の支度金まで用意してくれるそうだし、これからも我が家への援助を惜しまないとさえ言っている!これほど素晴らしい相手は二度と現れんだろう!!」
「しかしお父様、あの方は――」
アリーチェは食い下がった。
「すでに、何人もの奥様と破婚されているではありませんか!」
――…そう。見目など関係ない。相手がまともな人格であれば、アリーチェだって父の言う通りにしていた。だが……
“ブラッチ男爵”という人物は、その人間性にこそ問題があった。
これまでに何度も妻を迎え入れては、全て早々に逃げられている。そしてその元妻たちは、誰もが固く口を閉ざし、詳細な理由を語りたがらなかった。……具体的な事は分からないが、相当酷い目に遭ったらしいという事を、彼女も風の噂で聞いている。だから当然、彼は悪名高い新興貴族として有名なのだ。
「悪評のある相手と縁戚になれば、必ずマルカート伯爵家の名に傷が付きます!ですから、どうか……!!」
アリーチェは再び額を擦り付けるようにして懇願した。
例え何があろうと、耐え続ける覚悟は出来ている。でもそれが結果的に実家のためにすらならないとしたら……どこにも救いなど無いではないか。そんな事は嫌だ。
次の瞬間、勢いよくこの部屋の扉が開かれた。
「お姉様聞いたわ!結婚が決まったんですってねえ、おめでとう!」
異母妹のラウラだ。どこから聞きつけて来たのか、およそ祝っているとは言い難い顔で嬉しそうに笑っている……。
彼女は床に這いつくばる姉の側まで来ると、わざとらしい声を出した。
「お相手って物凄いお金持ちなんでしょー?羨まし〜い!出来る事なら私が行きたいところだけどぉ、お姉様に譲ってあげる。だってほら、私にはカルロ様という婚約者がいるし??ふふっ…」
「まあ!ラウラったら、何て姉思いの良い子なのかしら……。貴女も、男爵のところへ行ったら今よりもっと贅沢が出来るのよ?良かったじゃない。服だって、そんなのじゃなくもっと上等な物が着られるでしょうねえ‼」
そう言って、母娘は笑った。
……何もかも、心にも無い事ばかり……。その時、ああそうかとアリーチェは理解した。
父は「新しい結婚相手を見付けて来てやった」と言っていたが、男爵を薦めたのは恐らく継母たちだ。彼女らが、前妻の娘を『売った』のだ。
厄介払いをしたかった人間が、自分たちを潤す財源となる事に気が付いて――…
「さあ、そんな所に座り込んでいる暇は無いぞ!男爵は明日にでも来て欲しいそうだ。急いで荷物をまとめなさい!」
――…明日!?
アリーチェはゾッとした。
「お父様、大丈夫よ。お姉様はあんまり物を持っていないから……」
ちらりとこちらを見ながら、ラウラはくすりと笑う。……物が無いのは、ほとんど彼女たちが売ってしまったからだ……
そして気付くと、いつの間にか彼女は父にそっと寄り添っている。
「そうなのか?まあいい。とにかく、明日の朝には出られるようにしておくんだ。いいな!」
父はアリーチェを指差して命令した。
「……………………ゃ……」
かすれた声でカタカタと震えながら、彼女はふらりと立ち上がった。
……もう、もう駄目だ…………!!
「…ぃや……嫌あっ!!」
「――あッ⁉」
アリーチェは叫ぶと、駆け出した。そしてそのまま外へと飛び出す……
今は何も、考えられない。ただ、このままあの屋敷にはいられない。それだけは分かる。捕まったらお終いだ。
その思いで、彼女は走り続けた。
――自分が今どこにいるのか、分からない。どこをどう通って来たのかも、覚えていない。とにかく“家族”の側から遠くへ逃げたかった。連れ戻されたら絶望しかない。
「…………ッハアッ、……ハアッ……」
息が苦しい……死にそうだ。それでも、止まれない。止まって人生が終わるくらいなら、走り続けて生涯を終わりにしたい――。
「…――あっ!」
不意に足がもつれ、ドッという音を立ててアリーチェは転んだ。
……痛い、苦しい…………
荒い息をしたまま、彼女はその場に倒れていた。
立ち上がらなければ……そして早く、また逃げなければ……!そう思うものの、なかなか体は言う事を聞いてくれない。
服も髪も乱れ、泥だらけ。酷い状態のまま、アリーチェは目だけで周囲を確認した。
……どうやらここは、王都街のようだ。いつの間にか夜の帳が下り、辺りには灯りが点いてほのかに明るい。
向こうには沢山の人が通っている姿が見えるが、誰一人としてこちらを気に掛ける様子は無いらしい。……いや。もしかしたら、誰も自分の存在に気付いていないのかもしれない……。
アリーチェは強い孤独感に襲われた。
「――…お母様……」
彼女はその時、急に幼い頃の事を思い出した。亡くなった母との思い出だ。
“「アリーチェ。私たちは、平民の人々よりもずっと良い暮らしをしているの。だからその分、理不尽な事にも耐えなければならないわ。貴族としての務めを果たさなければならない。それが私たちなの。出来るわよね?」”
倒れたまま、アリーチェはぽろぽろと涙をこぼした。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、お母様……。私、頑張れなかった……!」
誰か……。
…誰か、助けて…………
「…………――マリアローザ、さま……」
……お願い、誰か――…
そんな時だった。
アリーチェは倒れている自分の側に、突然人の気配を感じた。
「――アリーチェ様⁉本当に、貴女なの??」
その声に、彼女は目を見開いた。そしてその目を疑った。だってそこにいたのは――…
酷く驚いたような顔をしたマリアローザ、その人だったからだ。