8.然る伯爵令嬢の憂い
マリアローザがその名を呼ぶと、不審者――もとい、伯爵令嬢・アリーチェは気まずそうな顔をしてこちらを見た。そしてハッとすると、慌てて姿勢を正す。
「…ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません!改めまして、わたくしはマルカート伯爵家のアリーチェでございます。突然お邪魔してしまった事、深くお詫び申し上げます……。」
そう言って、彼女はひらりとお辞儀をしてみせる。慌てた割には綺麗な所作だ。きっと礼儀作法がその体に染み込んでいるからだろう。
――…言いたい事、聞きたい事は色々とあるが……
とりあえずマリアローザは、ついさっきまで自分がだらけていたソファへと案内した。
予定外の来客に戸惑う事も無く、侍女長のジーナは素早くもてなしの用意をする。その後この状況を作り出した執事のリノを別室へと連行したので、お説教を始めるつもりのようだ。
そうしてリビングはあっという間に静かになった。そこに残されたのは、対面のソファに座る家主のマリアローザと客人のアリーチェだけ。
「……あ、あの、マリアローザ様……。あまり面識もありませんのに、連絡もせず押し掛けて来てしまい……本当に申し訳ございません!重ねてお詫び申し上げます。」
座ってもなお、アリーチェは深々と頭を下げている。そう、まるで罪でも犯したかのように萎縮して……。彼女は確かにマナー違反をしたが、謝罪の仕方が少々過剰ではないだろうかとマリアローザは思った。
「そこまで気に病まれる必要はありませんわよ。屋敷に無断で侵入したわけでも無いのだし。そうだわ、喉が渇いていらっしゃるでしょう?冷めない内にどうぞ。」
お茶を勧めると、彼女は「頂きます」と言ってそれに口を付けるのだが、やっぱりどこかぎこちない。
二人きりのリビングには、重い沈黙が流れた。そして時折、かちゃりというわずかなカップの音だけが響く――。
『……マルカート伯爵家……。確か近年、急速に財政状況が悪化していたわね……』
観察していると、アリーチェは無言で頻繁にカップの上げ下げをしていた。そして身の置き所が無いのか、何だかそわそわとしてもいる。今すぐ帰りたい、とでも言うかのような素振りで……。
だが、急に訪れた事へ対する後ろめたさとはまた少し違うようだ。
どうもおかしい。
そもそも彼女は、なぜここへやって来たのだろう?まさか興味本位で屋敷の見物をしに来たわけではあるまいし。用があっての事と思いきや、何かを言い出せずにいる様子でもない。大体、礼儀正しく良識も持っているようなのに、怪しい格好で他人の屋敷の前をうろついたりとやっている事がちぐはぐなのだ。
「客間でなくて、申し訳ないわね。」
「えっ⁉」
マリアローザが口を開くと、突然の事に驚いたのかアリーチェはパッと顔を上げた。
「あの執事、まだ経験が浅くて。お客様をリビングなんかに通してしまうのですもの。お恥ずかしい限りですわ。けれど、今から部屋を移動して頂くというのも…ねえ?」
「わたくしの事でしたら、お気になさらないでください!……あんな姿をしていれば、誰も客だなんて思いませんから……。」
ようやく少しだけ、彼女の笑顔が見えた。……ただ、自嘲気味で皮肉な笑みと言った方が正しいが……。
マリアローザはじっと彼女を見詰め、尋ねた。
「――…ところでアリーチェ様。少しよろしくて?わたくしずっと気になっていたのだけれど、貴女、お付きの者は?……もしかして、門の外へ置いて来てしまったのかしら⁇」
アリーチェは首を振る。
「いいえ、誰もおりません。ここにはわたくし一人で参りました。」
その答えに、マリアローザは思わずカッと目を見開くと声をひっくり返らせた。
「…一人で!?どうしてそんな危険な真似を!貴族令嬢が一人で出歩くなんてあり得ないと、貴女だって十分ご存知のはずでしょう‼」
「も、申し訳ございません!」
アリーチェは慌てて、再びしおれた花のように頭を下げる。そんな彼女を前に、マリアローザはやれやれと溜息を吐いた。
「謝罪はもうよろしくてよ。」
……やはりおかしい。
彼女がお供も連れずに外出した事も、仮に勝手に抜け出して来たとしても、それが出来てしまった事自体『が』おかしいのだ。大事な跡取り娘なのに、屋敷の者の関心が無い事がおかしい。
こんな事、以前であれば決して考えられなかった事だろう……。
「――もう、一年半が経つかしら。前伯爵夫人がお亡くなりになって。」
マリアローザが呟くように言うと、アリーチェの表情が一瞬にして生き返った。
「…母をご存知なのですか⁉」
「もちろんですわ。何度か会話も交わしましたもの。一度だけですけれど、貴女とご挨拶した時の事だって覚えていましてよ。」
「それは…ありがとうございます……!」
ここへやって来て、初めてアリーチェが嬉しそうに微笑んだ。いたく感激した、という顔をしている。
「凛とした佇まいの、厳しさもあるけれど素敵な方でしたわね。とても知的でいらして。本当に、惜しい方を亡くしましたわ。まさかこんなに早くだなんて……。お悔やみ申し上げます。」
「あ……ありがとうございます……」
そう答えると、今度は彼女の目からぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。亡き母を思い出したのだろうか……。
――…そういえば。その後すぐに、マルカート伯爵家には後妻が入っている。ほぼ同い年の連れ子もいるそうだし、彼女が年甲斐もなく母を恋しんだとしても仕方のない事かもしれない。
「…………ふむ。」
しかしである。ここで一つ、疑問が湧いてしまった。……こんな時に聞くのは、少々無神経なのだが……。
マリアローザは少し迷ったものの、それを尋ねてみる事にした。
「ところで――…。気を悪くなさったらごめんなさいね。一つ不躾な質問をしてもよろしいかしら?」
「…何でしょう?」
「お母様は、闘病なさっていらしたの⁇わたくし存じ上げなくて……。その少し前までは、元気なお姿を拝見していたと記憶しているのだけれど……。」
するとアリーチェは暗い表情になってまたうつむき、首を振った。
「…………持病などがあったか、というご質問でしたら、いいえ。ただ……その少し前くらいから、体調があまり思わしくないようでした。お医者様は、歳のせいだとおっしゃっていたのですが……」
歳のせい??――…前夫人は確か、まだ40前後くらいだったはずなのだが……。
「でも、まだそんなお歳ではなかったでしょう?」
「ええ……。ですが、若くても突然死というのはある事なのだと。……もしかしたら、お医者様にも分からない病を患っていたのかもしれません。」
アリーチェはそう言って、悲し気に笑みを浮かべる。
……そうか。そういう事もあるのだろうなとマリアローザは納得した。さすがの自分にも、その方面の専門知識までは無い。
それにしても、だ。まだ悲しみは癒えていないようだが、今の彼女はそれを乗り越えつつある段階のように思う。……にも拘らず、ここへ来た時から感じるこの重い雰囲気。その原因は、そこには無いように感じるのだが――。
これまでアリーチェとは付き合いがあったわけでは無いが、遠目に見る彼女はこんな風に卑屈…というか、暗い令嬢ではなかったと記憶している。一連の礼儀に関しても、だ。どう考えても、何かがおかしい。
このまま考えていたって埒が明かない。いっそ直接聞いてしまおうとマリアローザは思った。
「――…ねえ、アリーチェ様。今日は、どうしてこちらへいらしたの?もしかして……何か、お話したい事でもあったのではなくて?」
「えっ……」
核心を突かれたアリーチェは、びくりとしてその目を見る。マリアローザは彼女の目を見返した。
「今この空間にいるのは、わたくしたち二人だけ。何も心配せず思いの丈を全て打ち明けたらよろしいわ。この隠居は、口が堅くてよ。」
アリーチェは目を見張った。今自分の目の前にいるのは、長年厳しい王妃教育を受けて来たと聞く、この国の国王でさえも一目置く令嬢……。その言葉は嘘では無いだろう。
彼女は膝に置いた両手で、そのスカートをぎゅうっと握った。
「…………実は……お恥ずかしい話なのですが……」
かなり迷っていたものの、意を決したように彼女は語り出した。
父親を含め、屋敷は今、一年半ほど前に来たばかりの継母娘を中心に回っている事……。昔からいる使用人たちは、継母に従わなかった者はみな解雇されてしまった事。新しい者は言わずもがな、残っている者たちはほぼその全てが彼女らの味方に付いてしまった事――。そしてついには、結婚間近であった婚約者までもが義妹に取られてしまい……
そうやって、マルカート伯爵家には最早アリーチェの居場所がどこにも無くなってしまったそうだ。
一度口を開けば、堰を切ったように溢れ出る言葉たち……。それを全て吐き切ると、彼女は終わりに肩で息をしていた。
「――なるほど。」
ようやく色々な事に合点が行った。「だから」彼女に付き添うような使用人がいなかったのだ。道理で、一人で屋敷を出て来る事が出来た訳だ。暗い顔で落ち着かない様子だった事にも、納得した。
「それはさぞお辛かった事でしょう。お気持ち、分かりますわ。」
月並みな慰めにも、アリーチェはぽろぽろと涙を流し「ありがとうございます、ありがとうございます」と何度も礼を言っている。マリアローザは隣へ行って、その背中をさすってやった。
「…こんな事、誰にもお話出来なくて……」
「ええ、そうね。」
「そんな時、先日の王宮でのマリアローザ様を思い出したのです……。」
「ああ……」
マリアローザは遠い目をした。……あの成人祝いパーティーで派手に繰り広げた婚約破棄劇を、彼女も見ていたのか……と。
「何か、特別な用があったわけではないのです……。ただ、ふとこちらに足が向いて……。こんな時マリアローザ様だったら、と思って……!」
……不憫な事だ。アリーチェの悪い噂は聞いた事が無い。彼女もきっと少し前の自分と同じように、将来のためと思って日々励んで来た事だろう。それをいとも簡単に横から奪われ、絶望した事は想像に難くない。
だが、一つだけ納得出来ない事が――…
「けれど、そうなると継娘がマルカートを継ぐという事?それはおかしいのではなくて⁇伯爵の実子は貴女でしょう?」
「それが……。どうやら義妹は、父の庶子だったようなのです。」
「まあ!長期にわたって不貞を働いていたという事⁉……何と下劣な…!」
自分の事が重なり、マリアローザの怒りが沸々と込み上げた。……さて、どうしてくれようか……‼
「……でも……。今日こうしてマリアローザ様に聞いて頂けて、胸のつかえが下りたような気がしますわ。突然押し掛けてしまったにも拘わらず、ありがとうございました。」
涙を拭いながら、アリーチェは微笑む。それを見たマリアローザは、逆立った心を静めた。
「もう、よろしいの?」
「はい。もう十分ですわ。……久し振りに母の話が出来て、とても嬉しかったです。」
正直、聞いている身としてはこれでは気が済まないのだが……。本人がそう言っている以上、こちらが何かを押し付けるわけにも行かない。それは余計なお世話というものだ。
「でしたら、馬車を用意いたしましょう。伯爵家まで送らせますわ。ご令嬢を一人で歩かせるなんて、もっての外ですからね。」
「まあ……!お気遣い、感謝いたします。」
こうして、突然やって来たお客様は帰って行った。初めの頃よりはずいぶん表情も明るくなって、これで良かったのだろうとマリアローザは思った。
……自分でも、どうしてあんな事をしてしまったのか分からない。ただ、自身の身の上とマリアローザを重ね合わせ、衝動的に彼女と会いたくなってしまったのだ。
そしてそれは間違っていなかったのだとアリーチェは今、思っている。これで明日からもまた、頑張れそうだ。
マリアローザが用意してくれた馬車に乗り、彼女は我が家へと帰って来た。出掛ける時とは違い、軽くなった心と共に――。
久々に安らかな気持ちで玄関へ入ると、そこにはしばらく見る事の無かった出迎えの侍女がいる事に気が付いた。相変わらずの冷たい表情で、たったの一人だけ。
「アリーチェお嬢様。旦那様がお呼びです。」
「……お父様が?」
ここ最近は見向きもしなかった父が、呼んでいる……?一体、何事だろう。
不思議に思いながらも、アリーチェは父の部屋を訪れた。中へ入ると、そこには不気味に笑う継母の姿もある。何か嫌な予感がした。
「喜べ、アリーチェ!お前に新たな結婚相手を見付けて来てやったぞ。相手は――」
「…………えっ……?」
嬉しそうに父が口にしたその名を聞いたアリーチェは、頭の中が真っ白になった。




