32.そして聖女はいなくなった
王宮のエントランスホールには、多数の人々と騎士たち、そして羽交い絞めにされている一人の男がいた。
そんなこの場所に今、一人の女がやって来た。
「……――!アンナッ!!」
羽交い絞めにされている男――モスコン男爵は、顔を輝かせてその名を呼ぶ。絶体絶命とも言うべきこの状況に現れたのは、彼の妻だったのだ。
救いの神がやって来た!男爵は、そう思った。
「助けてくれ!私はあらぬ疑いを掛けられ、こんな目に遭っているんだ‼」
彼女がどこまで理解しているかは分からないが、夫が王室騎士団の騎士に羽交い絞めにされているこの状況――。これを見て、事の重大さが分からない貴族はいない。端的に言えば……
ここでどうにかして彼を助けなければ、男爵夫人であるアンナも大変な事になる。という事だ。
『……あいつは、ジュリアの事を疎ましく思っていたようだからな……。十中八九、私の言葉に同調するはず……!!』
モスコン男爵の、安い計算が働く。そして猿芝居が始まった。
「なあアンナ、私はあの娘……ジュリアに騙されて、養女にしてしまったんだよ‼純粋な娘と思って、その口車に乗ってしまったばかりに……!」
くうっと、彼は無念そうな顔をしてみせる。だが――…。
「…………。」
返事が無い。男爵は疑問に思いながら、妻の顔を見た。
「――…⁉」
彼は当惑する。この状況に相当焦り、どうにかして打開するため思案しているだろう、と思っていた妻の顔が――。
冷たい無表情で、何も言わずにただこちらを見据えている。
「ア、アンナ……??一体どうしたと言うんだ……。夫の私が、こんな目に遭っているんだぞ⁇」
するとアンナは眉間に深い皺を刻み、「フウ――…」と深く長い溜息を吐いた。
「あらそうですか。それは大変そうですわね。」
「ハ!?何を他人事のように‼このままでは、お前も同じように捕らえられる事になるんだぞ!?」
「だって他人事ですもの。わたくしにはもう、関係ありませんから。」
「どういう意味だ!?」
「わたくしはもう、モスコンでは無いという意味です。」
そこでようやく、男爵は妻が何を言いたいのかを理解した。
「…離縁するつもりか⁉そんな勝手な事……。許さん、許さんぞ!!」
「貴方に許して頂く必要はありません。わたくし“が”、決めた事ですわ。」
元夫が喚こうとも、アンナは毅然と答える。すると彼は更に大声を上げた。
「お前が決めただと⁉図に乗るなよ妻の分際で‼…いいか?全ては、モスコンの当主である私が決める事だ!お前に何か権限があると思ったら、大間違いだぞ!!」
元妻は、再び深い深い溜息を吐く。
「――…“モスコンの当主”……。所詮、男爵家ではありませんか。偉そうにして、みっともない……。」
「しょっ、所詮!?…みっともない、だと……!?!」
「……そういうところですわ。貴方のそういうところに、虫唾が走るのです。」
まるでゴミを見るような目で、アンナは元夫を見た。
「何かにつけ、わたくしの意見は全て無視をして……。あの女だって、何の相談も無しに勝手に連れて来て、養女にしたと事後報告でしたわね。それがどれだけ屈辱的だったか、貴方に理解出来まして⁇」
「お前は貴族の妻だろう!ならば、当主である私の決定に従うのは当然の事ではないか‼」
ここまで言えば、少しは何か思うところがあるのではないか……。そう期待する事など愚かだったと、彼女は思い知った。
アンナはわなわなと震え、感情を押し殺しながら口を開く。
「……あの女は結局、セイジョとかいうものではなかったそうですわね……。でしたらあれは、やっぱり愛人でしたのね‼若い愛人を、養女と偽って家に入れたのでしょう!!わたくし、分かっていますのよ!!」
「!?!」
最後には押し殺し切れず、彼女は声を張り上げてしまった。それを聞いた周囲の人々は、ざわつく……。
だが、一方の男爵と、少し離れた場所にいる件のジュリアは青ざめた。
「ジュリアが愛人⁉何を言っている!」
「そうよっ!!何であたしがこんなオジサンなんかの愛人になるわけ!?気色悪い‼冗談じゃないわ!!」
「気色が悪いだと⁉誰が庶民の小娘など相手にするものかっ‼」
「こっちだって、たかが男爵のオジサンなんて興味無いわよ!!」
二人は必死に否定する。だって、それだけは紛れもない真実なのだから……。そして、互いに本気で罵り合っていた。
しかし、ここまで暴かれた者たちの言う事を、一体誰が信用するというのだろう?
「……愛人ですって。なるほどね……」
「……親子ほども年が離れているのに……」
「汚らわしい。」
ひそひそと、特に婦人たちが不快感を露わにする。殿方も例外ではない。
「こんな場で、妻にここまで言わせるとは……」
「今までよっぽど蔑ろにしたらしい。」
「見限られて当然だな。」
この短い夫妻のやり取りに、全てが詰まっているのだろう。そして、決してこうはなるまいと彼らは思った。
「……ち、違う!全部間違っている……こんなのは嘘だ‼私は陰謀に嵌められたのだ!!」
未だ騎士らに羽交い絞めにされているにも拘らず、男爵は暴れ、喚く。それを、「静かにしろ」と屈強な騎士たちが更に押さえ付けた。
「アンナッ!とにかく、私は離縁などしないからな‼お前も道連れだ!嫌なら今すぐ私を助けろ!!」
「ご勝手になさったら。それに、さっきも言ったでしょう?貴方の決定など必要がないと。」
「強がりを!!私の決定が無ければお前など――」
そこへ、また新たな役者が姿を現した。
「一体何の騒ぎだ、騒々しい!」
その声と威圧感に、王宮のエントランスホールは空気がピリッと張り詰める。そしてそこにいたほぼ全員が、『彼』に向かってお辞儀をした。
「――国王陛下!」
エントランスホールの奥から、何人もの侍従を連れ、この王宮の主がお出ましである。すると、この集会の代表であるマリアローザがスッと出て来て、その前で挨拶をした。
「お騒がせして申し訳ございません。先日ご許可を頂いた、聖女の検証をしておりましたところでございます。」
「……ああ、そういえばそんな事を申していたな。」
国王は、すっとぼけて返事をする。それから、アンナの姿を見付けると、彼女に声を掛けた。
「おお、そなた。なかなか来ぬので、捜しに参ったぞ。」
「まあ!何と畏れ多い……大変恐縮にございます。」
アンナは畏まって、丁寧にお辞儀をした。
「よいよい、このような状況では、入るに入れなかったのだろうからな。会えて良かった。ではここで…」
「へ、陛下っ!!」
国王の話を遮り、モスコン男爵が口を挟んだ。
「貴方様のようなお方が、わたくしめの愚妻に何用でございましょうか…??」
ここは、王宮だ。国王がどこに出て来ようが、何も不思議な事ではない。しかし……。
今の話は、アンナがここに来る事は最初から決まっていて、国王はそれを待っていたと聞こえる。一介の男爵夫人を国王が待っていて……更には遅いからと迎えに来る??そんな事は、あり得ない!
「あなたっ‼陛下に向かって何て無礼な!!……大変申し訳ございません、陛下。わたくしが代わってお詫び申し上げます。」
アンナは恐縮し、さっきよりも深く頭を下げる。すると国王は、それを止めさせた。
「そなたが頭を下げる必要がどこにある。それは妻の役目ではないか。」
「……そうでございましたわ。寛大なお心遣い、大変感謝申し上げます。」
……どういう意味だ?モスコン男爵には、二人の会話の内容が全く理解出来ない。だから妻のアンナが、夫の無礼を謝ったのではないか……。
「へ……陛下……?それは、わたくしの妻でして……」
すると国王とアンナは、囚われのモスコン男爵をギロリと見た。そこで国王が横に手を出すと、侍従がうやうやしくその手の上に何かを載せる。
「いいや、違うな。男爵。本日付けで、そなたと彼女の離縁は成立した。私が、それを認めた。これがその証明書だ。」
はらりと目の前に突き付けられた文書を見た男爵は、目を丸くして青ざめた。一体どうなっているんだ、なぜこんな時にこんな事が起きたのかと、頭の中は大混乱である。
「なぜ勝手にそれが認められたのかと言いたそうだな。いいだろう。――先日、ご婦人が直訴にやって来た。この夫とは、もうやっていけないと。」
通常、王宮がそんな事に構うわけはない。家庭の愚痴は他所で発散してくれ――…と言いたいところだが、アンナの場合は事情が少々特殊であった。
“「夫は、わたくしに隠れて何かおかしな事を企んでいるようなのです!それがとても恐ろしくて……。」”
彼女の夫とは、現在巷を賑わせている聖女の義父だ。その二人は、王太子妃の座を狙い王宮に出入りしている。……それに良からぬ話があるとなれば、無視は出来ない。それも、その妻からの告発である。
“「どうぞ我が家の屋敷をお調べください!そうすれば、色々な事がお分かりになるはず……。それでわたくしの無関係が証明された暁には、どうか陛下の権限で離縁をお認めくださいませ――」”
「――…そういう訳で、本日先ほど、騎士団をそなたの邸宅へ捜索に入らせた。結果、ご婦人の言う通り、実に様々な証拠が発見されたぞ。しかもあっさりとな。よほど己の計画に自信があったようだ。」
サアァ、とモスコン男爵の頭から血の気が引いて行く。
今日この場で聖女の検証に立ち会っている間、自分は確実に屋敷にはいない。その隙を狙われた。邸宅に入られたら、お終いなのに……
「ご婦人の無関係も確認出来た。よって、彼女の主張を認め、モスコンの籍から抜く事を許可する!これ以上、文句はあるまいな?そして――」
へなへなと、男爵の体から力が抜けて行く。
「モスコン男爵には、新たに反逆行為の容疑が掛かっている!このまま牢へと連れて行け!!」
「はっ!!!」
国王の命により、騎士たちはそのままモスコン男爵を王宮の奥へと連行する。そしてもう一人、偽の聖女と証明されたジュリアも捕らえられた。
――こうして、波乱の聖女検証はお開きとなったのである。
ガラガラと例の検証に使用した台を押し、マリアローザの執事であるリノは王宮の中、控え室として用意されていた部屋へと戻って来た。
彼は、コンコンと台をノックする。
「もういいですよ~。」
すると台の側面が、パタンと開いた。そこから、一人の人が出て来る。
「腕役、お疲れ様でした!ジーナさん。」
マリアローザの侍女である。彼女は台の中に入り、固定した枷から先に見える『切り落とされた腕』の役をやっていたのだ。枷の間から大量の血のりを溢れさせたのも、そこにいたジーナの仕事だった。
そんな彼女は完全に外へ出ると、キッとリノを睨む。
「……滅多な事を口にするものではありません。どこで誰が聞いているか分からないのですよ。」
ここは屋敷ではなく、王宮なのだから――。警戒心の強いジーナに対し、リノはいつものようにヘラヘラと軽いかんじで返した。
「大丈夫ですってばー。人払いは完璧なんで!何せここは、王太子殿下が用意してくださったお部屋じゃないですか~。」
「そうであっても、油断は禁物です。マリアお嬢様の計画を台無しにしたら、容赦しませんからね……!」
「…ハイ、すいません……。」
今度はギロリと睨まれ、ようやくリノはしおらしくなった。
――…さて、此度の検証だが……。
発案者のマリアローザをはじめとして、執事のリノはもちろんの事、彼女の腕を治したエレナに、混乱した場を収めた王太子のシルヴィオ、最終局面で現れた国王までもが、みーんなグルであった。
他に計画を知っていたのは、国王に付いて来た侍従の中の数人くらいのもので、騎士たちには真実は伝えられていない。敵を欺くにはまず味方から、というやつである。彼らは王太子に従うよう言われて動いていたに過ぎない。
そして男爵の元妻アンナだが、彼女に検証の中身は教えていない。その必要はなかったからである。騎士団の家宅捜索に立ち会った後、王宮に離縁の証明書を取りに行けとだけ伝えられていた。
そうやって作り上げられた、壮大な茶番劇――…。
全ての役者が迫真の演技でもって、新たな『物語』を人々の意識に刷り込んだのである。
「……ねえ、モスコン男爵。やるなら、ここまで徹底するものですわよ……。」
すでに見えなくなったその背中に向かい、マリアローザは不敵な笑みで呟いた。
数日後。
王太子・シルヴィオから、国民へ向け声明が出された。
「先日行われた検証にて。私の婚約者であるエレナは奇跡を起こし、見事マリアローザ嬢の腕を治してみせた。しかし、その代償は大きなものだった。腕の状態は相当酷かったらしく、友人を救いたい一心で!エレナは全ての力を使い尽くしたようだ。その結果、彼女は今も床に伏している。聖なる力も、消えてしまった。残念ながら、このアルベロヴェッタ王国から聖女が失われた事を、皆に伝える。」
その発表に、少なからず聖女を信じていた国民たちは落胆した。
「だが案ずるな!厄災の話は、詐欺師たちのでっち上げと調べが付いている。それに、もしもそのようなものが襲い掛かろうと、我が王室が必ず皆を救うと約束しよう!!」
わああ、と国民たちは沸き上がる。「聖女」がいなくなったと知りぽっかりと空いた心の穴に、彼の力強い言葉が刺さったようだ。
この王太子がいるなら、アルベロヴェッタは安泰だ――。そう感じたらしい。
そうして、この聖女騒動もついに幕を閉じたのであった。
「――そういえば。すでに彼の処刑が行われたそうですけれど、ご存知?」
暖かな日差しの入る、応接室。そのソファでお茶に口を付けながら、マリアローザは尋ねた。目の前の席に座っているのは、元男爵夫人のアンナである。
「ええ、風の便りで。けれど……あらそう、という程度で、特に何の感情も湧いて来ないのですよ。……こんなわたくしを、非情と思われます?」
そう言う顔には、感情が見えない。
「いいえ?そうなるに至る年月があったのでしょう。こうなる道を歩んだのは、男爵です。ご婦人が気に病む必要はなくってよ。」
それを聞くと、アンナは安堵したような、泣きそうな表情になった。
あれからモスコン男爵は、王族を謀り国民を欺いた罪で極刑が下された。
共謀のジュリアは、平民という逆らえない身分だった事と若く幼かった事を考慮され、処刑だけは免れた。ただし、家族もろとも国外追放だ。……大々的に名前を売った後である。故郷へ戻ったところで、普通に暮らす事は無理だろう。ならば、国を離れて生き直した方がいい――。実の両親を伴わせた事には、そういう恩情が関係しているようだった。
「ところで、貴女はこの先どうなさるの?」
「実家へ戻るわけにも行きませんしね。残りの人生、どこかの田舎でのんびりと暮らすのもいいかと思って。元から決めていました。」
「田舎でのんびり……。何て素敵な響きでしょう。……先立つものは、ございまして⁇」
直前に離縁の成立したアンナだが、全くのお咎めなしとは行かなかった。聖女騒動に加担してはいなかったものの、その時は男爵家の一員だった事で、沙汰が下されたのである。その結果、貴族の身分は剥奪された。
「ええ。平民にはなりましたが、没収前の男爵家の財産から十分に頂いているんです。わたくし一人くらい、どうとでもなりますわ。」
吹っ切れた明るい顔で、彼女は微笑む。それからハッと思い出した。
「あぁ、そうでしたわ!本日は、こちらをお渡ししようと伺いましたのよ。」
アンナは、マリアローザの屋敷に持参して来た包みを、テーブルの上にドンと置く。
「……これは……⁇」
「少しばかりですが、今回の件の謝礼です。」
謝礼……??マリアローザは封を開ける。するとそこには、札束が入っていた。
「!頂けませんわ。元々、他に相談を受けていたついでだったのですから……。それに、大した事はしていませんもの。」
マリアローザは遠慮する。だって、やった事といえば、あの二人の嘘を暴いた事くらい。後は勝手に自滅して、最後いいところは国王が持って行った。これを自分の手柄と思うほど、自惚れてはいない。
しかし、アンナも譲らなかった。
「これは、わたくしのけじめです。このくらいなら今後の生活にも響きませんし、どうぞお受け取りください。」
「わたくし、お金なら有り余っていますのよ。これは貴女がお使いなさい!」
「いいえ、マリアローザ様。」
アンナは首を横に振った。
「今度の事で、わたくしは本当に救われたのです。その分の報酬を、貴女は受け取るべきですわ。そうだ、色々とご令嬢方の相談も受けているそうですわね。そこでも料金を頂いてはいかがかしら。貴女の裁量で。」
そう言いながら、彼女は立ち上がって帰り支度を始める。
「マリアローザ様。お金は、いくらあっても邪魔にはなりませんのよ。使い道なんて、いくらでもあるのですからね。――それでは、ごきげんよう。」
札束を置き、婦人は颯爽と立ち去って行った。その後ろ姿は、実に晴れやかだった。
これ以上拒んだり、追い掛けて行ってまで突き返そうとするのは、野暮である。
マリアローザは、残された札束を眺めた。
「……ふむ。謝礼、ねえ……」
その発想は、無かった。
これからそういうものを要求すれば、少々賑やか過ぎる小鳥たちも、いくらか大人しくなってくれるだろうか?
それは確かに、悪くないお話だ。
客も帰ったという事で、マリアローザはごろりとソファへ横になる。
せっかくだから、金の使い道も考えてみる事にしよう。そうだ、あの人に相談してみようか?
仮病によって療養中となっている、王太子の婚約者に――…。そろそろ、退屈で死にそうなのだと言っていた。
いずれにせよ、忙しい日々は終了だ。急ぐ用事は何もない。
とりあえずは寝て、それからゆっくりと始めればいい。
――彼女は一先ず、その目蓋を閉じた。




