3.王太子妃に愛は要らない
大前提として、マリアローザにはロベルトに対する恋愛感情など無い。あるのはビジネスパートナーという意識だけである。
「マリアローザ様!貴女様は、本日から王太子殿下の婚約者となられました。将来の国母、という事です。国のため、いついかなる時も王を支え、正しい判断が出来るよう導いて差し上げる事も大切な務めなのですよ。良いですね?」
王室の教育係に最初に教えられた事はそれだった。真面目で素直だったマリアローザはその言葉に従い、どんなに厳しい王妃教育にも弱音を吐かずに励み続けた。
そんな中――…
婚約者である王太子・ロベルトは、歳を重ねるごとに帝王学よりも女遊びに励むようになって行った。
「――先生。今朝、ロベルト殿下が余所行きのお召し物で出掛けて行かれるお姿を拝見しました。本日殿下には、外出のご公務など無かったはずなのですが……」
「殿下の事はいいのです!マリアローザ様、貴女様さえしっかりとなさっていれば、このアルベロヴェッタの将来は安泰です。さあ、本日も励んで参りましょうね‼」
教育係はいつもこんな調子である。ただ、マリアローザ自身も確かにそうだと思っていたため、どうして自分ばかりが……などと思う事は無かった。
そして遊び惚けるロベルトをよそに、ますますの努力を重ねた。そんな彼女が、誰もが優秀だと認める婚約者になる事は、必然だったのだ。
一方、優秀な婚約者がいる事によって王太子のロベルトは甘やかされた。
王が例えどんな馬鹿でも、隣で有能な王妃が操ってくれれば問題は無い――。周りには、そういう算段があったようだ。それにより、彼の放蕩は見過ごされ続けたのだった。
そんな婚約者同士だが、親睦を深めるためという名目で、定期的に二人だけでのお茶の席が設けられていた。
「ロベルト殿下。最近、お勉強の方はいかがですか?」
お茶の入ったカップを手に、マリアローザはにこりと微笑みながら尋ねる。
「お前は私の家庭教師か?なぜそんな事を聞かれなければならない。」
フン、と居丈高にロベルトは返す。歩み寄ろうという姿勢が全く感じられない。マリアローザは笑顔の裏で、『今のは単なる世間話の入り口だろうが‼』と何度言い掛けてやめただろうか……。これが毎度の光景である。
こうして会話にならない時間を過ごすのが、二人に課せられた義務なのであった。
――やがてロベルトは、特定の令嬢と懇意にし始める。それが子爵令嬢のソフィアだ。マリアローザは元々、その交際自体に反対してはいなかった。
しかし。このソフィアが厄介だった。
末娘の彼女は、よほど蝶よ花よと育てられ好き勝手を許されて来たのか、れっきとした子爵令嬢でありながらもマナーが全くなっていなかったのだ。平気でドレスを翻して走ったり、人との距離感が異様に近かったり、大口を開けて笑ったり……。
良く言えば無邪気、悪く言えば無作法。何をするにも、貴族令嬢の振る舞いとしては危ういものだった。
だが逆に言うと、ロベルトにとってはそれが新鮮で庇護欲をそそられたのかもしれない。どんどん彼女にのめり込んで行ったのは、火を見るよりも明らかだった。
恐らくロベルトは、この先ソフィアを手放す事は無いだろう――…。そう感じる。
――と、いう事は……
『……わたくしが、彼女を立派な側室として、教育しなくては……!!』
マリアローザは使命感に燃えた。
そんなある日の事である。
件のソフィアは、また不用意に別の男性の側に寄って愛想を振りまいていた。
「ソフィア嬢!」
慌てながらも優雅に、マリアローザは彼女の手を引くと人目に付かない物陰まで連れて行った。
「――以前も言いましたわよね?あんな風に、殿方と近い距離にいてはいけませんと。しかもお一人で!」
ソフィアは小首を傾げてキョトンとしている。
「……もしかしてぇ、男の方と仲良くしているのが羨ましいんですかあ?だったらマリアローザ様も、そんな怖い顔しないで私の真似をすればいいのにー。」
「……………………。」
向こうがキョトンなら、こっちは唖然である。その呑気な笑顔に、マリアローザの口の端が盛大に引きつった。こんな表情を他人に見られなかった事だけが救いだ。
またある時は、特定の令嬢だけを集めた王妃主催のお茶会の席にて……。
ソフィアがカップを持つ手の小指を立て続け、マリアローザは何度もそれとなく注意をしたのだが全く気付いてくれない。そこで仕方なく、皆が見ていない隙を見計らって、畳んだ扇子で「ぱちん」とその手を軽く叩いた。
「…いったあ~い!」
痛いと言うほど叩いてはいない。なのにソフィアは大袈裟に声を上げた。
「マリアローザ様ったら、叩くなんてひどいですぅ……」
「……ソフィア嬢、小指!立てるのはマナーに反します。」
「なら、そう言えばいいじゃないですかあ。」
言ったわよ、という言葉が喉元まで上って来たが、今は王妃殿下の御前。それ以上この場でとやかく言う事はやめた。
『ハアァ……。一体、どうしたら成長してくれるのかしら……』
これが目下、マリアローザの悩みの種である。
いくら“側室”だとしても、あまりに奔放で礼儀知らずでは将来王室の恥になってしまう。そしてそれを教育するのは、未来の王妃の責任なのだ。
あれを全て計算でやっているのなら、見所はある。しかし頭の痛い事に、彼女は特大の天然モノ。反省だとか向上心だとかとは、無縁のようなのだ。
……打っても響かない太鼓……。それが、ソフィアという令嬢だった。
「まあ!ご覧になって。ロベルト殿下ですわ。」
「……あぁ、また例の子爵令嬢とご一緒ですのね。」
「本当に仲のよろしい事で……」
今日も人々が噂をしている。
彼らの関係は、もはや周知の事実だった。何せ二人は、人目をはばからずにイチャイチャとしているのだ。気付かない方がどうかしている。しかし、『恐らく側室にするつもりなのだろう』という事で、関係そのものについて否定する者はいなかった。
ただ、ここの国民は一夫一妻制である。そのため感情的な部分では、その行動に眉をひそめている者は少なくない。そんな視線にも気付かないほど、ロベルトの目は眩んでいたのだった。
「――それにしても、ロベルト殿下にも困ったものですわね。」
やれやれと思いながら見ていたマリアローザの側で、品の良い声がした。
「あらエレナ様。ごきげんよう。」
声の主は、公爵令嬢のエレナ。同じくかつて婚約者候補として選定された一人で、二人はその時に知り合って以来親しくしている間柄だ。
そのせいか気の緩んだマリアローザは、溜息を吐きつつ愚痴をこぼした。
「ええ、全くですわ。もう少し世間体というものを意識して頂きたいものです。もしも恋人がエレナ様であったなら、どれだけ良かった事か……」
「まあ、ご冗談を。」
くすくすと笑うエレナに、マリアローザはハッとした。……しまった。自分とした事が……
相手は、「公爵令嬢」だった。対する自分は、いくら王太子の婚約者とはいえ、今はまだ「侯爵令嬢」という身。失敗した。親しき中にも礼儀あり、なのに……。
「申し訳ございません。失言でしたわ。」
マリアローザはすぐに頭を下げる。
「嫌ですわ、軽口くらいで水臭い。わたくしたちの仲ではありませんか。」
「いいえ。礼儀はきちんと弁えなくては。」
「ふふ、マリア様らしいですわね。」
そんな会話をしている間にも、向こうの方ではロベルトとソフィアが相変わらず脳内をお花畑にしている様が見えている。その光景を前に、マリアローザたちは何とも言えない表情をした。
「そういえば……もうすぐですわね、貴女の成人祝い。」
「ええ、ようやくですわ。一つ年下のソフィア嬢が先にパーティーをした、という事が少々引っ掛かりますけれど。」
そう言って、マリアローザはそうなった元凶に目を向けた。
「そこで正式に婚約者だと発表するのですもの。殿下も、少しは自覚なさるのではないかしら。」
「……だと、良いですわね……。」
――が。
自覚どころか、ロベルトはその日に婚約破棄を叩き付けて来たのだ。ある程度予想は出来たものの、現実になるとこれにはさすがに呆れてしまう。
自分の成人祝いが遅らされたのは、たぶん彼がソフィアの成人を待っていたためだったのだろう。でなければ、この婚約破棄と同時に新たな婚約の宣言が出来なかったから――…。
もう、いい。
何だか全てが馬鹿馬鹿しく、全てがどうでも良くなった。
ああもう、何もかもが面倒臭い……
「……マリアローザ様ぁ、そろそろ意地を張るのはやめた方がいいですよ~?私の方が王妃様に相応しいって、殿下が言ってるじゃないですかあ。」
小鳥がさえずるような声。その時マリアローザの中で、最後の糸がプツンと切れた。
『これはもう、駄目ね。』
彼女はそれまで閉じていた目蓋を開くと、目を据わらせる。
……そんなにお望みとあらば、始めようではないか。本物の婚約破棄劇を、と――
「分かりました。」
「ようやくか!!」
マリアローザは屈したかのような返事をした。するとロベルトの顔は、勝ち誇ったように紅潮する。まずはそこへ冷や水を浴びせよう。
「つまり殿下にとって、“愛”というのはそれほどまでに大事なもの、という事ですわね?」
「もちろんだとも!貴様と愛の無い結婚をするくらいなら、死んだ方がましだ‼」
「あら……。殿下にわたくしへの愛が無い事は分かっておりますけれど、わたくしがいつ、殿下に対して愛は無いと申しましたかしら?」
「なに……⁉」
ロベルトは、彼女の言葉に狼狽えた。……だって、今までそんな素振りを見せた事など無かったではないか、と……
当然だ。だって、彼を愛してなどいないのだから。これは王太子へのミスリード。
ただ単に、愛は無いと『言った事が無い』だけだ。
「……ロベルト殿下。わたくしから見れば、これはとんでもない裏切り行為です。ソフィア嬢との事は、殿下が王太子であるから許しているだけでしたのに……。」
マリアローザは伏し目がちに「ふう」と息を吐き、愁いを帯びた表情をした。これも“演出”である。しかしそれを見た令嬢たちは、もれなく彼女に同情していた。
「お望み通り、婚約破棄には応じましょう。ですが、わたくしは傷付きました。ですからお二人それぞれに、慰謝料を請求したいと思います。」
「い、慰謝料?……いいだろう。」
そんなもので縁が切れるなら、安いものだ――。ロベルトはそう思った。
「では――…」
マリアローザは、誰にも気付かれないようにしてほくそ笑む。そして大きく息を吸った。
「――国家予算の半分。王室に対し、請求いたします!」
よく通る声。その言葉に、彼女の成人祝いのパーティー会場はどよめいた。