19.付けは回って来るもので
王室の騎士たちに連行され、現マルカート伯爵夫人は退場して行った。
「素晴らしいタイミングだったわ、リノ。ご苦労様。」
マリアローザは、ひょっこりと戻って来た執事のリノを労う。
「いえいえ~。私なんて、騎士様方を待機部屋からこちらの扉前までご案内しただけなんで!」
とはいえ、彼らの到着が少しでも遅くなっていたりしたら、この計画は台無しになるところだったのだ。
今日はどう転ぶか分からず、もしかすると……万が一、億が一。マルカート家一同は、アリーチェを諦め手ぶらで帰路に就いていた可能性だってあった。(…まあ十中八九、無いとは思ったが…)
その場合、騎士に出番は無かった。マルカート家が思っていたよりも賢ければ、こちらも藪をつつくような真似をするつもりは無かったからだ。
だから、詳しい内容は伝えず「とにかく貸して欲しい」のだと友人である王太子妃に頼み込み、送って貰ったのがあの騎士たちだったのである。
――それらをここまで上手く誘導し、中の事態まで把握させるのは、そう簡単な事では無かったはず。
そこをやってのけてくれたのだから、功労賞と言っていいだろう。
「……マリアローザ様‼」
継母が去り、安堵したアリーチェが後ろから声を掛けて来る。彼女はマリアローザの顔の傷を見て、胸を痛めた。
「ああ……こんなお怪我をなさるなんて……。この結果をお求めでしたら、わたくしが傷を負っても構いませんでしたのに……!」
「わたくしは良いの。でも、貴女は駄目よ。大事な体ですからね。」
「それはマリアローザ様も同じで…」
「それに。家庭内の暴力に見えては、罪が軽くなってしまうかもしれませんもの。他人でなければならなかったのよ。お気になさらないで。」
しかし、そう言われてホッとするようなアリーチェでは無いだろう。申し訳ない思いで一杯という顔をしている。
彼女はすでに心が傷付いているのだ。体にまで傷を負う必要は無い。
そんな事よりも、だ。
「――さて。」
マリアローザは、逆の方へと視線を向けた。そこには、依然狐につままれたような顔で突っ立っているマルカート家の残りの面々がいる。
これで「一人」は片付いたわけだが――…
……まさか、これで終わりだなんて思ってはいけない。
「…………っ、どっどうしようお母様が……」
母を連れて行かれたラウラが、真っ青な顔をしている。そしてさっきよりもオロオロと狼狽えながら、父に助けを求めようとした。
「ねえお願い、何とかして!お父さ…」
彼女がその腕に手を伸ばした時――
「“父”だなどと呼ぶな汚らわしいッ‼」
そう叫んで、マルカート伯爵は激しくその手を振り払う。……それは、娘を見るような形相では無かった。
「……で、でもお母様は、私はお父様の子だって…」
「あんな罪人の世迷言、聞く耳を持つやつなどあるか‼あの女とは離縁だ!素性の知れんお前も伯爵家から籍を抜く、さっさと出て行けェー!!」
“父”の見た事も無い剣幕に、ラウラは声も出せず、ただその場にへたり込む。そして床に突っ伏して泣き出した。
……これもまた、アリーチェにとっては胸の痛い光景だ。あの姿に、恐らく自分を重ねているのだろう……。今にもその手を差し伸べそうになっている。
「アリーチェ様、駄目よ。」
心を鬼にしてマリアローザは釘を刺す。
「でも……」
その時ラウラが、『そうだ!』とばかりに顔を上げた。
「お姉様‼お願い、助けて!これまでの事なら謝るからあ……!」
目には一杯に涙を溜め、頬にはそれが流れた跡が幾筋も残っている。嘘泣きではない顔で、彼女は乞う。
アリーチェの心は大きく揺れた。
「ラ」
「同情を買おうとしても、駄目です。」
声を出し掛けたアリーチェの前にサッと立ち、マリアローザは冷徹な目でラウラを見下ろす。ラウラはその顔をキッと睨み上げた。
「……酷い!あんたなんかに聞いてない‼私はお姉様に…」
「そうやって、人の厚意に付け込もうとするのはおやめなさい。」
「…………」
感情を乗せない、理性的な声。怒っているのとは違う、厳しい目――。叱られた事の無かったラウラは、言葉を失った。
そんな彼女に、マリアローザは膝を折って目線を合わせる。
「――ねえラウラ嬢。貴女が生まれた事に、罪など一つもありませんわ。だからこそ、どう生きるかが重要だったのです。」
「…………?」
ラウラはその目を見たまま、怪訝な顔でわずかに首を傾げる。
「例え誰の子であったとしても、貴女は正しい道を行くべきだった。何も難しい話ではありません。……貴女は、お姉様との友好的な関係を築いてさえいれば、それだけで良かったのよ。」
「…………。」
友好的……。たったそれだけの事が、彼女には出来なかった。
「……だって……お母様のようにすればいいと思ったし、誰もそんな事教えてくれなかった……!」
「そうね。確かに、あの母親のもとで育てば仕方のない面もあったのかもしれない。お気の毒に。けれどね。貴女がマルカート家に入ったのは、つい最近の事でしょう。十分に分別の付くお歳だったはず。」
「だってお母様が…!!」
「お黙り。」
重たい声に、ラウラはぎくりとする。
「貴族令嬢として、貴女のすぐ側には完璧なお手本がいらしたのよ。母親ではなく、お姉様に倣うべきだった。それを馬鹿にした己の過ちを悔いなさい。」
「…………っ‼」
下を向き、床に突いた両手をギュッと握り締め、彼女はボトボトと大粒の涙をこぼす。悔しそうに歯を食いしばって。それがどの感情から来る悔しさなのかは、誰にも分からなかったが――。
「……もしも貴女が、アリーチェ様の親しい異母妹であったなら……。血の繋がりなどに構う事無く、お姉様は迷わず貴女の手を取っていたでしょうね。」
「!!」
“いもうと”は、目を見開いた。
――それは、あり得た世界。それを自分で潰した、現実……。
ラウラは再び床に突っ伏すと、今度は大声を上げて泣き出した。ようやく自分が何をして来たのかに気付き、その愚かさを痛感したようだった。今となってはもう、後の祭りだが――…。
見ているのが辛いのか、アリーチェは曇らせた顔を背ける。
そんなところへ、空気を読まない声が掛かった。
「――…おお、アリーチェ!」
何とも気持ちの悪い、媚びるような声……。父親だ。
彼、マルカート伯爵は、まるで生き別れた娘にでも再会したかのような顔をしている。
「私の娘は、お前ただ一人だけだ!……見れば見るほど、私や先祖にもよく似た特徴がある……これぞまさにマルカート家の血筋‼お前の母は決して裏切らない、誠実な女性だったのだから当然だな。」
何とも満足そうな笑みを浮かべるものだ。その足元では、つい半時ほど前まで溺愛していた“愛娘”が、泣きじゃくっているというのに……。
人の心が無いのだろうか?……まるで地獄絵図だ。
そして『誠実』などと、どの口が言えたのだろう。――そう思いながらも、マリアローザは黙ってその成り行きを見守っていた。
伯爵は、ラウラの事などすでにいないもののように振る舞いながら、ニコニコとこちらへ向かって歩を進める。
「我が家にはもう、異物はいない。恐れるものなどもう何も無いのだぞ。そうだ!ブラッチ男爵の事なら気にするな。私が何とかしよう。大事なお前を、あんな鬼畜のところへやったりはしないよ。安心しなさい!」
これまで自分には一度も見せた事が無い笑顔を向けて来る父親に、アリーチェは恐怖を感じた。彼女は二、三歩後ろへと下がる。
「どうした、アリーチェ?ほら、早くこの父のところへ来なさい。」
両腕を広げ、胡散臭い笑顔で伯爵は言う。アリーチェはマリアローザに助けを求めるようにして、思わずその服の袖を掴んだ。
「さあ、アリーチェ。我が家へ帰ろう。私とお前と婿のカルロ、親子三人で仲良くマルカート家を守って行こうではないか!」
貼り付けたような笑顔。アリーチェでなくとも、背筋が寒くなる。
そうしている間にも、父親がすぐ目の前まで迫って来た。
「……いっ、嫌です!帰りませんっ!!」
娘は決死の思いで拒絶した。その言葉に、伯爵は目を丸くする。
「……一体、どうしたと言うんだ⁇あの良い子のアリーチェが……」
「わたくしは、マルカート家と縁を切ると宣言しました!今更それを違える気などありません!!」
それを聞くと、笑顔だった彼の表情ががらりと変わった。
「何を言ってるんだ…“縁を切る”などと……。そんな事が出来るものか!我が家を出て、一体どこへ行くと言う⁇当てがあるなら言ってみなさい‼」
「それは……」
アリーチェは口籠る。……確かに、実家を出た後どうするかは、まだ何も決まっていない。しばらくはマリアローザの屋敷に厄介になれるだろうが、ずっと頼っているわけには行かない。
むしろ、一刻も早く出て行かなければ申し訳が立たない、と彼女は考えていた。
「……っわたくしは、住み込みでの下働きでも何でも!する覚悟でいます。例えわたくし一人だとしても、立派に生きて行くと決めました‼」
アリーチェは顔を上げると、はっきりとそう告げた。
そう、もう決めたのだ。あの家を出る。どんなに辛くても、自分で決めた道であれば、歩いて行ける――
「馬鹿な!令嬢のお前に何が出来ると思っている⁉」
「分かりません!でも一から教わって、何でも出来るようになりますわ‼」
「お前はマルカート家を継ぐんだ!!そのために生まれて来たのだぞ!…なのにそんな我儘を言うとは……天にいるお前の母が、それを許すとでも思うのか!?」
父のその言葉に、アリーチェはびくりとした。
貴族として誇り高かった母――。彼女は死の間際まで、令嬢としてどうあべきかを説いていた。「貴族の務めを果たせ」、と。
……それを、知りもしないはずなのに……。父は分かったような口を利いた。
「…………お父様は……。これまで理不尽に耐えて生きた事はありますか?」
彼女はわずかに声を震わせながら問う。
「?……何だ、突然……」
「お母様との結婚が不本意だった事は、よく分かりました。でも……お義母様とずっと通じていたのなら、耐えた事にはなりませんよね?お父様にとって、貴族の務めとは何ですか⁇跡継ぎさえ儲ければ、それで果たした事になるのですか!?」
“あの良い子のアリーチェ”が、父である伯爵に迫った。彼は思わずたじろぐ……。
しかし、すぐに険しい顔になって荒々しく娘の腕を掴んだ。
「――生意気な口を叩くのもいい加減にしなさい‼もしや、マリアローザ嬢にそんな事を吹き込まれたのか⁇お前は騙されていると言っただろう!さあ帰るぞ!!」
「……痛っ…」
腕を引っ張られたアリーチェは、顔を歪める。――そんな時だった。
「その手を離しなさい、マルカート伯爵!」
毅然とした声が、颯爽と現れた。
彼らの後方――…。今し方、後妻が多数の騎士たちに連れられて出て行った扉の方から、ツカツカと足早に近付いて来る靴音がする。
ああ、さっきの騎士だな?その残りがまだいたようだ。マルカート伯爵はそう思った。それが、開けっ放しになっていた出入り口からこの光景を目撃し、口を出して来た――。
「…騎士風情が偉そうに!私はこの子の父親だぞ‼言葉を改めろ…」
伯爵はアリーチェの腕を掴んだまま、勢いよく振り返る。しかし、ポカンとした。そこにいたのは、騎士ではなかったのだ。
スラリとした長身の――貴族然とした風格のある、精悍な若い男である。着ている物だってさりげなく上等で、見るからに下級貴族ではない。
「…だっ、誰だ!?……」
彼は動揺した。本気で分からない。どこの令息だ⁇高位貴族……少なくとも、伯爵家以上の出にしか見えない若人の顔に、見覚えが無いのである。伯爵ともあろう自分に、そんな事はあり得ない!
後ろにもう一人、同じような若い男を連れたその人物は、マルカート伯爵の前までやって来ると足を止めた。それから伯爵の手を払い除け、保護するようにアリーチェを引き寄せる。
「失礼。挨拶が遅れたようだ。私は、バレリオ・デ・セルモンティ。隣国テラキアーロで、侯爵位にある者だ。」
「こっ侯爵……⁉」
マルカート伯爵は動転して声をひっくり返す。
――隣国・テラキアーロ王国の侯爵……。ここアルベロヴェッタ王国の人間では無い。道理で知らないわけだ、と伯爵は妙に納得した。
しかし、だ。
なぜ隣国の侯爵がここにいて、何の脈絡も無く赤の他人の揉め事に首を突っ込んで来たのだろう?
テラキアーロでは、そうしろという教えでもあるのだろうか??
「まあ!セルモンティ侯爵様。わざわざ出ていらっしゃらなくても……」
マリアローザが、申し訳なさそうに声を掛ける。何だ、彼女の客だったのか、と伯爵は思う。そういえば、ここはマリアローザの屋敷だった。
「そうは言っても、黙っていられなくなってしまいましてね。――いくら父親であろうと、私の妻となる女性にこんな仕打ちをされては……‼」
そう言って、セルモンティ侯爵はマルカート伯爵をギロリと睨み付ける。伯爵は縮み上がったのだが――…
「ン⁉ちょっと待て……。“妻”とは、一体どういう意味だ!?!」
聞き捨てならない言葉が、彼の耳に入った。
侯爵はその問いに、眉間に皺を寄せて答える。
「そのままの意味だが?今の話で、貴殿は何も理解出来なかったのか⁇」
「―――……」
いや、理解出来たからこそ、耳を疑ったのだ。
「……な……なななな、ど…???」
言葉にならない。問い質したい事は、山ほどあるのに……
するとマリアローザが、くすりと笑った。
「本当は、後でゆっくりとお話するつもりだったのだけれど……仕方ありませんわね。」
そして、父親と同じく戸惑った顔をしているアリーチェに向かって言葉を掛けた。
「アリーチェ様。伯爵家を継ぐべくして育てられた貴女に、生きる道は一つしかありません。――それは、貴族家の奥様として生きる道。ですから、わたくしが貴女に旦那様を見付けて差し上げたの。」
「えっ……?」
アリーチェは目を丸くする。寝耳に水だ。そんな話、初めて聞く……。
「これは提案では無いわ。命令です。隣国へ嫁ぎなさい。お分かりよね?政略結婚よ。貴女に拒否権はありません。」
マリアローザは目を据わらせている。彼女は本気だ。
……すぐそこでは、この事態が呑み込めていない父が青ざめている。
「お返事は?」
もたもたしていると、催促が来た。すると戸惑いはしたものの、アリーチェの答えに迷いは無かった。
「――かしこまりました。ご命令に従います、マリアローザ様。」
もとより、結婚相手を勝手に決められる事は覚悟して生きて来た。いくら父に疎まれていようと、自分は伯爵令嬢だったのだから。
政略結婚とあらば、受け入れるのみ――…
「…………勝手に……話を進めるなァ――!!」
アリーチェがセルモンティ侯爵の手を取ろうとした時、待ったが掛かった。それは当然のごとく、父親のマルカート伯爵である。
彼は後妻との言い合いの時のように真っ赤になって、激怒している。まあ、大方予想は付いていた。この伯爵が、指をくわえて黙って見ているわけが無い。
「アリーチェはマルカートの人間だぞ⁉他人がなぜ勝手に政略結婚などと言っている‼おかしいだろうが!!」
激怒している割には正常な思考だ。
……だからこそ、思い知らせてやらなければ……。
「――…そういえば伯爵。」
マリアローザは彼の方を向いた。
「貴方は先ほど、伯爵家とは縁を切ると言ったアリーチェ様に、“そんな事を誰が認めるのか”と言いましたわよね?」
「それがどうした!?」
「……お一方だけ、いらっしゃるではありませんの。それを認められる方が……」
そう言うと、彼女はその胸元から、一枚の紙を取り出した。
「さ、ご覧になって。」
にっこりとしながら、マリアローザはそれを差し出す。マルカート伯爵と『婿』のカルロは、訝し気な顔をしながらその紙を覗き込んだ。
「―――……!?!」
絶句した二人は、息を呑んで目を見開く。
“アリーチェ・バレー・マルカートを、マルカート伯爵家より除籍する事を認める”
……なんだ、これは……
アリーチェの署名と共に、国王の承認印まで入っている……。
――本物ではないか…………!!
「お分かり頂けて?残念ですけれど、アリーチェ様はすでに伯爵家の人間ではございませんの。父親と言えど、国王陛下の決定には逆らえませんわよねえ。お呼びで無いのは、伯爵の方ですわよ。」
その場に、マリアローザの高笑いが響き渡った。こんな場を用意しておきながら、彼女が何も手を打っていないはずがない。全ては周到に準備されていたのである。無策でここへ乗り込んで来るような彼らとは、わけが違うのだ。
「そんな‼このままではマルカート家は消滅してしまう!そうなったらどうするのだ⁉」
伯爵は最後の抵抗を試みる。
「さあ?そうなっても構わないからこそ、陛下も承認なさったのでは。それに、消滅だなんて大袈裟な。マルカート家にも血縁くらい、いくらでもいらっしゃるでしょうに。養子を迎えれば問題無いはず。もしくは、また新しく奥様でも探していらしたら?……もっとも。借金まみれで未来の無いお家に、子を差し出す家があるのかどうかは存じませんけれど……」
その瞬間、マルカート伯爵はガクッと膝から崩れ落ちた。
「……悪女だ……」
力無く、ぼそりとそう呟いて――。




