17.知らぬがホトケ
マリアローザの屋敷に客がやって来る、少し前。
「……あの、これは一体何の騒ぎですか?これから何か起こるのですか⁇」
廊下を足早に進みながらアリーチェは不安げに尋ねた。その相手とは、ここへ来てからずっと世話係をしてくれている、この屋敷の侍女長・ジーナである。
今は、彼女の案内でどこかの部屋へと向かっている最中なのだ。
外出から帰って来たマリアローザは、休憩する間もなく慌ただしく屋敷中に指示を出していた。言葉だけならば、それは何の変哲もない指示に聞こえたのだが……その雰囲気が、いつもとは違い何やら物々しかった。
しかも、自分の事を「守る」ようにとジーナに命令するなんて……。ただ事ではない。
しかし。
「ご安心くださいませ、アリーチェ様。このジーナが、責任を持って安全な場所へとお連れいたします。全てマリアお嬢様が解決してくださいますから、何も案じる必要などございませんわ。」
急ぎながらも、にこりと笑ってジーナは答えた。詳細には一切触れず……。
そうしてアリーチェは、屋敷の端の方にある部屋へと匿われた。
――はず、だった。
「お願いですマリアローザ様。どうかここを開け、わたくしをこの中に入れてください!」
早くも修羅場と化しつつある客間の扉の向こうに、隔離しているはずの彼女がやって来た。その事に一番驚いたのは、何を隠そうマリアローザである。
「……ア、アリーチェ様!?……どうして……⁉」
思わず、閉じている扉の向こうへ向かって尋ねた。するとすぐさま答えが返って来る。
「窓から、実家の馬車が見えました。それでジーナを問い詰めたのです。」
「――…何てこと……!」
マリアローザは溜息を吐きながら、片方の手で顔を覆った。……ジーナなら、何があっても命令を遂行すると思っていたのに……
「彼女を叱らないでください!わたくしが、無理やり言わせたのですから……」
それからアリーチェは、決心したような声で続けた。
「…マリアローザ様には、とても感謝しております。ですが、これはわたくしの問題なのです。全てを貴女にお任せしてしまうのは卑怯だと思い、参りました。わたくしの本心は、わたくしの口から直接家族へ伝えますわ!」
「――…。」
あの震えていたアリーチェが、そんな事を言うようになっただなんて……。自らそこまでの覚悟を決めたなら、このまま追い返すべきではない。
多少計画は狂ってしまうが……扉を開け、彼女を中へと入れる事に決めた。
「――アリーチェ!」
「アリーチェ‼」
その姿が見えると、マルカート家の一同は一斉にアリーチェのもとへと駆け寄った。一見、家族の感動の再会のようにも見える。が――…
実態は全く違う。
「ようやく捕まえたぞ!さあ、来なさい。今からすぐに向かわなければ……男爵がお待ちだ!!」
会えた事が嬉しくて駆け寄ったのではなく、彼らはアリーチェを逃さないようにと囲んだだけの事である。恐ろしいチームワーク。さすがは『家族』。
そうしてあのセリフと共に、父親であるマルカート伯爵は彼女の腕を掴み、強引に連れて行こうとした。そこへすかさずリノが割って入る。
「はい、放してくださいねー。マリアローザ様は、連れて行っていいなんて一言も言っていませんから。」
「イッイダダ‼」
「あなたっ!?」
アリーチェを掴んだ手を捻り上げられ、伯爵は呻く。さっきとは立場が逆になってしまった。
……彼らが扉の前から引き剥がそうとして来た時は、痛かった……。その意趣返しが含まれているように感じるのは、気のせいだろうか。まあいい。
「無礼だぞ執事‼伯爵であるこの私に、こんな事をして許されると思っているのか⁉」
「私はただ、マリアローザ様のご意向に従っているだけですので。文句でしたら、主人へどうぞ?」
伯爵の手を捻り上げたまま、満点の笑顔で彼は返す。これもまた、なかなかの狂気である。そうしながら更に締め上げた。伯爵は音を上げる。
「わ…分かった!分かったから!とにかく放してくれ!!」
「――リノ。とりあえずいいわ。放して差し上げて。」
そう言われると、執事はすぐにパッと手を放した。代わりにアリーチェを保護し、彼女に付き添って来ていた侍女長と共にマリアローザの側へと連れて行く。
……これで一先ず、安全は確保出来たか。
では、本題へ戻ろう。
「――…お父様。マリアローザ様から伺っていると思いますが、わたくしはマルカート伯爵家とは縁を切る事を決めました。」
早速アリーチェが先手を取る。後手の返しは当然、高圧的だ。
「そんな事、誰が認めると言うんだ!?お前はマリアローザ嬢に騙されている!目を覚ませ‼」
「いいえお父様。目が覚めたからこそ、こうして申し上げているのですわ。」
あのアリーチェが、毅然と父親に返している。
「わたくしは、“マルカート”という家を見限りました。……せめて、せめて家名を重んじた嫁ぎ先を選んでくださったのなら、何も言わずに従ったのに……」
そうしてカッと目を見開いた。
「…………あのブラッチ男爵だけは、絶対にあってはなりません!!」
初めて聞く彼女のドスの利いた声に、一家は思わずたじろいだ。しかし、それも束の間の事。
「……何て恩知らずで恥知らずな子なの!?伯爵家の娘のくせに、嫁ぎ先に難癖を付けるだなんて!自分の我儘を正当化するんじゃないわよ!!」
継母が金切り声を上げた。早くも目まで血走らせている。
「令嬢なら令嬢らしく、家長の命令に従いなさいよ‼それとも前伯爵夫人は、そんな事も教えなかったのかしら⁉どれだけダメな女だったの!!」
実母を悪く言われたアリーチェは、顔を歪めて唇を強く噛んだ。……悔しい。握り締めた拳が、細かく震える……
すると、意外な人物が仲裁に入った。
「……まあまあ、伯爵も夫人も。そんなに大声で怒鳴り付けたら、アリーチェも委縮して頑なになってしまいますよ……。ここはもう少し、穏やかに話しましょう。ねっ?」
まさかの、妹へ乗り換えた元婚約者・カルロである。ここまでろくに口を開いてもいなかった彼が、両者の間を取り持とうと柔和な笑顔を下げてしゃしゃり出て来たのだ。
黙って成り行きを見守っていたマリアローザは、『アレは一体、どの面を下げて言っているのだろうか』と思った。
「アリーチェ……。君との婚約を急に破談にしてしまった事については、本当に悪かったと今でも思っている。だが、その腹いせをお父様に向けるのはどうなのだろう……。僕の知っている君は、そんな事をするような人ではなかったはずだよ?」
……北風と太陽の、『太陽』にでもなったつもりだろうか。優しい声で、彼は諭すように説得を試みている。それ以前の二人があまりにもきつかったものだから、それは大層温かく感じ……そうな温度差だ。
「…………腹いせなどではありませんわ……。」
小さな震える声で、アリーチェは返す。
「だけどね、客観的に見てごらん。君は意地を張っているようにしか思えない。」
「………………」
――何て残酷なのだ。
時に人は、こうして思い遣りのフリをした優しい言葉で他人を追い詰める。アリーチェにとっては、恐らくさっきの罵りの方が気を強く持てた事だろう。
これでは彼女が全て悪いと言っているようなものだ。こんな風に諭されたら、自分の言動全てを冷静に否定されたような気になって、絶望する。
「――…ハアッ。」
少し大袈裟に、マリアローザは溜息を吐いた。そしてカルロの方を見る。
「ねえ、カルロさん……とおっしゃったかしら?貴方――」
カルロはマリアローザの方を見た。カツカツと、彼女は彼に近付いて行く。
「どうして、“自分は部外者だ”と言うようなお顔をなさっているの?」
そう問われ、彼は戸惑った。
「え…っ、そんな事はありませんよ⁇元婚約者として、彼女を傷付けて申し訳ないと思っています。今そう言ったじゃありませんか!」
するとマリアローザはフッと笑った。
「そうではありませんわ。――貴方……、こうなってしまった原因が、全てご自分にあるという自覚はございまして?」
「は……はあっ!?」
彼は素っ頓狂な声を上げた。
「貴方が婚約相手を変えてさえいなければ、全ては丸く収まっていたと言っているの。」
「それは……」
確かにそうとも言えるかもしれないが、『全て』は言い過ぎではないか!
カルロは憤った。婚約破棄に至ったのは、自分だけの所為ではない。それを言うなら、自分に迫って来た異母妹・ラウラの方が罪深いではないか――と。
「貴方さえ誠実であれば、伯爵家は貴方とアリーチェ様の代で再興出来たでしょうし、その後も長きにわたって安泰であったはず。表向きには何事も無い、平和な家となっていたでしょうに……。貴方の所為で、これから全てが壊れますのよ。」
……「安泰であったはず」……?「これから壊れる」……??彼女の言っている事が分からない。一体、何の話をしているのだろう……
カルロは困惑しつつも、何かそこはかとない恐怖を感じた。すると――
「ちょ…ちょっと‼なに勝手な事言ってるのよ!!」
固まって声を出さない彼の代わりに、現婚約者であるラウラが口を出して来た。
「あんた、何で伯爵家が潰れるみたいな言い方してるわけ??これから私とカルロ様でサイ…コウ?っていうのをするんだから同じ事よ!」
“再興”の意味すら分かっていないとは、お笑い種である。
「フッ……。では貴女、一度でも伯爵家の帳簿をご覧になった事はありまして?」
「あ……あるけど?」
「嘘ですわね。あるのなら、恐ろしくて……。とてもではないけれど、そんな格好など出来ないでしょうから。」
マリアローザは、閉じた扇子でラウラを指した。「普段着」であろう彼女は、ふわふわとした服とキラキラとしたジュエリーで飾られている。アリーチェが最初にここへやって来た時とは、かけ離れた格好だ。
「何が恐ろしいのよ!!この格好の何がいけないの⁉」
「……ハア。あのね。わたくし、貴女よりも貴女のお家の財政状況に詳しい自信がありましてよ。人を侮るのも大概になさい‼」
「ヒッ…」
きつく叱られた経験も無いのか、この程度の叱責でべそを掻き、ラウラはカルロの後ろに隠れてしまった。
ほらやっぱり。彼女では到底、傾いた伯爵家の“再興”など不可能と見える。
それからマリアローザは、複雑そうな顔をしてアリーチェの方を振り返った。
「アリーチェ様。」
「は、はい!……?」
何かを感じたアリーチェは、姿勢を正す。
「……これから出て来る話は、貴女にとっては辛い内容になると思います。何も知らないでいられるのなら、その方が良いと思ったのですけれど……。こうなったからには、覚悟を決めて頂戴ね。」
……さっきから、マリアローザは一体何を隠しているのだろう……。そう思ったが、アリーチェの中には不思議と彼女を不信に思う気持ちは生まれなかった。
そして代わりに、大きく頷いた。
「よろしい。――では……何から始めましょうかね。あり過ぎて迷ってしまうわ……。」
マリアローザは、マルカート一家の一人一人をじろりと見回して行く。そうして継母――“現伯爵夫人”のところで、その目を止めた。
「夫人。貴女、先ほどアリーチェ様に対し、“伯爵家の娘のくせに”などとおっしゃっていましたわよね?」
「え……ええ、言ったけど……。それが何だと言うの⁇」
黒い笑みを浮かべたマリアローザは、持っていた扇子を再び開くと口元を隠した。
「同じ伯爵家の娘なのに、どうしてラウラ嬢のお口はあんなにも汚くていらっしゃるの?おまけに頭も軽い。母親は、令嬢らしい口の利き方すら教えなかったのかしら。……どれだけ駄目な女なのか、顔が見てみたいものですわねえ?」
「なッ……」
そのセリフは……‼
現伯爵夫人は真っ赤になって、怒りに震えた。しかしマリアローザは、そんな事には構わない。
今度はラウラに目を移し、怪訝な顔でジロジロとその顔を見回した。
「……それにしても。中身だけでなく、見た目もお姉様とはまっったく似ていらっしゃらないのね⁇」
「…その子は母親に似たからよ‼」
「けれど母親とも、瓜二つとまでは言えませんけれど。」
マリアローザは更に近付いて行って、間近でラウラの顔をよく見た。
「――…目の形も、鼻の形も……。口元も耳も、眉も!髪質もそうね。……不思議なほど、アリーチェ様と似たところがありませんわ。」
「母親が違うんだから当たり前じゃないの!」
ラウラの母・現伯爵夫人は大きな声を出す。何かを焦るように……。
「なるほど。――でも。アリーチェ様は、あんなに伯爵にそっくりですのにねえ。本当、不思議ですわ……。」
「なっ……何が言いたいのよ⁉」
「いいえ別に。」
含みのある言い方をしたマリアローザは、一度口を閉じてアリーチェたちのいる方へと戻って行った。そこから再度、マルカート一家の方へ振り向く。
「あらそうでしたわ、夫人。」
笑みを浮かべながら、わざとらしく彼女は言った。現伯爵夫人は怖い顔をしてこちらを見ている。
「聞きましたわよ。貴女、若い頃はずいぶんとお盛んだったそうですわね?」
「は!?」
一家が、にわかにざわついた。
「ご実家のお部屋に、しょっちゅう違う殿方をお連れになっていたとか……。羨ましい限りですわ。わたくしなんて、他の女性に持って行かれてしまって。その手練手管、是非ともご教授願えないかしら。」
サッと伯爵の顔色が変わる。
「なっ…どういう事だ⁉お前……私の他にも男がいたのか!?」
「ち、違うのよあなた!全部あの女の妄想よ!!」
伯爵の顔には怒りが浮かび、現夫人は狼狽えた。マリアローザは「ホホホ」と笑い声を立てる。
「まあっ!お二人とも。昔のお話ですわよ、昔の。若気の至り!夫人がおモテになっていたなんて、誇らしい事ではありませんか。今さら腹を立てるものではなくてよ、伯爵。何せ――…」!
「嘘よ嘘よ!騙されないで!」
「ラウラ嬢が生まれる前の出来事。ですもの……」
「黙って‼黙りなさいよおおッ!!」
現夫人が叫んだ。……そのただならぬ様子と、これまでの話を総合すれば――…
気付かないでいる方が難しかった。
マルカート伯爵と婚約者のカルロは、バッとラウラの方を見る。
「――…薄々、おかしいとは感じていたんだ……だが……妻に似ているからだと、呑み込んで…………」
呆然とした顔で、伯爵は呟くように絞り出す。それから指を差して声を荒らげた。
「…………ッラウラは、一体誰の子なんだ!?!」