15.破滅へのご招待
明るい日差しを背にして、マリアローザは自宅応接室のソファに腰掛けている。その対面に座らせたのは、この屋敷で匿っているアリーチェだ。
「――さて。」
マリアローザがおもむろに口を開く。
改まって、一体何の話だろうか……。アリーチェは固唾を呑んで、続く言葉を待った。
「貴女には、もう一度きちんと確認をしておかなければと思いましたの。」
「確認……?何を、でしょうか⁇」
アリーチェは小首を傾げる。幼い頃からの教えに加え、ここ数日の厳しいレッスンが功を奏し、彼女のそんな所作もすっかり見違えたものになった。
「それはもちろん、アリーチェ様のこれからについてですわ。――以前わたくしが言った事、覚えていらっしゃいますわね?貴女をここで匿う時に告げた言葉です。」
……ここで匿って貰う時にマリアローザから言われた事――…。彼女は当然、覚えている。
「はい。伯爵家への未練を絶て、というお話ですわね。」
「ええ、そう。結構よ。それを、改めて確認させて頂戴。」
「……はい。」
少し硬い顔をして、アリーチェはごくりと唾を飲み込んだ。そんな話を今わざわざするという事は――…、近く何かがあるという事なのだろう。彼女はそれを感じ取った。
「よろしくて?この先は何があっても、前だけを見ている事。決して後ろを振り返っては駄目。もし後ろ髪を引かれたら――…、その髪、ハサミでひと思いに切ってしまいなさい。」
緊張していたアリーチェは、思わずぱちぱちと目を瞬かせる。
「ハ、ハサミで……」
「そうよ。バッサリとね。」
マリアローザは真剣な面持ちで、今のは洒落……というか、この場を和ませようという彼女なりの冗談?――…だったのだろうか⁇
アリーチェはとりあえず、愛想笑いをしておいた。
「――貴女はこれまで、お家のためによく耐えていらしたわ。だからもう、ご自身の事だけを考えて良いの。」
「自分の事だけ、ですか……?」
「ええ。これからどうすれば、アリーチェ様が幸せになれるか。という事をね。」
お茶で口を潤すマリアローザを見ながら、アリーチェは返事を躊躇った。自分の幸せだけを考えるなんて……。そんな身勝手な事をしてはいけないのではないか、と心配になった。
母にだって、幼い頃からそう言い聞かされて来たし……
「気に病む必要などありませんわ。これはアリーチェ様にだから、言える事。貴女はどうしても、自分以外の事を考えてしまう……。だからきっと、貴女の考える“幸せ”は、周りの人をも幸せにするはずです。自信をお持ちなさい。」
「は……はいっ!」
アリーチェは顔を高揚させ、明るく返事をした。……そんな風に自分の事を考えてくれた人は、今は亡き母だけだった……。そして目に薄く涙を滲ませる。
そんな彼女へにこりと微笑むと、マリアローザは一転、厳しい顔付きに変わった。
「――だからこその確認ですわ。時にこの世には、情けを掛けるべきではない相手もいる。どんな間柄であれ、良かれと思って手を差し伸べても、後々足を引っ張るような輩がね。それを見極めなさい。」
……自分とほぼ同じ歳なのに、自分の何倍も生きて来たかのような――…。そんな事を言う。なのにその言葉にはどこか重みがあって、素直に耳へと入って来るのだ。これが、王太子の婚約者だった人……
この人もまた、自分とは違う厳しい日々を歩んで来たのだろう。アリーチェには、そう感じられてならなかった。
そしてマリアローザは、問い質すかのような鋭い目で更に続ける。
「優しさとは、必ずしも正義ではないの。同情を引こうとする悪魔の囁きに、決して耳を貸してはいけない。よろしいわね?」
それはつまり……。この意志の弱さを心配している、という意味なのだろう。無理もないとアリーチェは納得する。これまで家族に逆らえず、流され続けた挙句、人生を終えようかとも考えたくらいなのだから。
仮に今の危機――ブラッチ男爵との結婚を無事に回避し、家から離れる事が出来たとしても、彼らが再び自分を言い包めようとしに来るかもしれない。今の努力を無駄にしないためにも、その時には毅然と対応せよ、とマリアローザは言っているのだ。
「……分かりました。そのご忠告、この胸に深く刻んでおきます。」
そう答えたアリーチェの顔は、ここへやって来た時とはまるで別人のようだった。あのビクビクと怯えた自尊心の低い令嬢は、もうどこにもいない――。
「良いお返事。それではわたくし、これから少し出掛けて来ますわ。」
「まあ、どちらへ?」
ソファから立ち上がると、マリアローザはいたずらっぽく微笑んだ。
「――ちょっとね。楽しいパーティーへの、お誘いに。」
“あれ”から、マルカート伯爵家は大変な事になっていた。
「――オイッ‼一体いつになったらアリーチェは見付かる!?!」
邸内に、今日も怒声が響き渡る。その声の主はマルカート伯爵、ではなく――
「い、い、居どころについては目星が付いておりますので!今しばらくの辛抱です、ブラッチ男爵…」
震える声でそう答えた伯爵を指差し、ブラッチ男爵が顔を真っ赤にして激怒している。
「アンタ、昨日もそう言っただろうが!だったら今すぐ‼ここへ!連れて、来いッ!!」
「ヒィッ……」
ダンッと尋常ではない音がした。巨漢が、殴るようにしてテーブルに拳を叩き付けたのだ。それが割れるのではないかと思うほど、力一杯に……。
その瞬間マルカート伯爵は小さく悲鳴を上げ、ビクッと身を竦めた。
「気色が悪い声を出すな!聞きたくもないわ、そんなもの‼――…悲鳴ってのは、若い娘に限る……!!あぁ、アリーチェ……早く私のところへおいで……!」
途中からニタニタと嫌な笑みを浮かべ、ブラッチ男爵は天を見上げて何かを思い描いている……。どんな想像なのかは、誰も知りたくも無い。
――こうしてここに、“伯爵”が“男爵”に対して萎縮し、ペコペコと頭を下げるという有り得ない光景が出来上がっていたのだった。
ところで。
伯爵のさっきの言葉は、嘘だ。
娘の居どころなど、彼は未だ全く掴めていない。何とか男爵を宥めようという、単なるその場しのぎである。
だがそんな姑息な手段も、そろそろ限界に近かった。
「伯爵!!とにかく早くしろ‼約束の日から、一体何日待たされてると思ってる⁉このままじゃ金は一切やらんからな…いや。賠償金を請求してやる!!!」
「ばっ……ばいしょうきん!?!」
ブラッチ男爵の発言に、マルカート伯爵は目を白黒させた。
……不味い。不味い不味い不味い!!
どうにかして早くアリーチェを見付け出し、連れ戻さなければ……。この男から援助が引き出せなくなってしまうどころか、新たな借金まで背負う事になる!
伯爵は青くなった頭を抱えた。
そうして今日もやっとの事で宥めすかし、何とかブラッチ男爵に帰って貰う事には成功したのだった。
『……それにしてもアリーチェの奴……一体どこへ行ったんだ⁉』
一難去ったマルカート伯爵は、喉元を過ぎた熱さを忘れると、途端にいなくなった娘に対する怒りが込み上げて来た。
家の方針で仕方なく結婚した、死んだ妻が産んだ娘……。自分に似ていても、可愛いなどと思った事は一度たりとも無かった。子供が嫌いなわけではない。再婚した妻が産んだ方の娘は、自分とはあまり似ていなくとも、何をしても可愛いと思うのだから――。
『クソ‼堅い女だったから、躾けも厳しくしているとばかり思っていたのに……。この一番大事な時に逃げ出すとは、伯爵家の娘として失格ではないか!!』
着の身着のままで屋敷から逃げ出し、数日。行く当ても金も無いのだから、そろそろ音を上げて帰って来る頃だろう。その時は懲らしめてやらなければ気が済まないが、これから嫁がせる手前、体に傷を付けるわけにはいかない。父親として、厳しい叱責で勘弁してやる…
「――旦那様、お客様がいらしているのですが……」
そんな時、彼の執事が報告にやって来た。
「客だと?誰だ⁇そんな予定など、無かったはずだが――…」
ブラッチ男爵は今帰ったばかりだし、約束も無く押し掛けるとは……借金取りだろうか。それとも、事業関係で何か問題でも起きたのか?……この面倒な時に!
伯爵はイライラと考えを巡らせる。
「それが、アリーチェお嬢様の事でお話があるとかで……。」
「!!」
マルカート伯爵は、まんまと餌に食い付いた。
「――ご連絡も差し上げずに押し掛けて、申し訳ありませんわ。」
伯爵家の応接室。そのソファには、邸内に案内されたマリアローザが悠然と座っている。
対面にはニコニコと愛想笑いするマルカート伯爵と、その隣には派手で少々破廉恥な装いをした後妻が座る。異母妹らしき者の姿は――ここには見当たらない。
「いえいえ、とんでもない!新聞を見て、情報提供にいらしたのでしょう?我が家一同、歓迎いたしますよ‼」
……慣れた手つきの揉み手……。相当年季が入っていそうだ。――見苦しい。
愛想笑いを返しながら、マリアローザはそう思った。
「いや、我々もとても心配しておりましてねえ。何せ大事な娘ですから!」
ヘラヘラと、心にも無い空虚な言葉。“大事な”とは、“金づるとして大事な”という意味だろうか?少なくとも、いなくなった娘を捜す一般的な父親の醸し出す空気とは、かけ離れている。
「…それで、アリーチェは今どこに⁇」
ソワソワとして、気になるのはその居場所の事だけらしい。「無事なのか?元気なのか?」――そんな事など、興味の欠片も無いのだろう。
『なるほどね。よく分かったわ。』
どうやら遠慮は要らないようだ。アリーチェには許可を得ているし、これで心置きなくやれる。
「ええ。今、わたくしの屋敷にいらっしゃいますわ。」
「なんと!保護してくださっているとは有難い!」
その答えに、夫妻はワアッと歓喜の声を上げた。だが……
「で……あの子はなぜ、今ここに来ていないのです??」
何かおかしいなという顔で、伯爵はマリアローザの周りをわざとらしく見回す。
一緒に来ているのは、彼女の執事だという若い男だけ……。普通、保護しているのなら、ここへ連れて来るのが道理ではないだろうか??――そんな声が聞こえて来るようだ。
するとマリアローザは、にっこりと笑った。
「それはもちろん、ご本人の意向だからですわ。わたくしがいつ、アリーチェ様をお返しすると言いました?」
「は!?」
喜びの色が、一瞬にして消え去る。二人は面白いように一変し、不快感を露わにした。
「…ちょっとマリアローザ嬢!それは一体、どういう事なの!?」
伯爵よりも先に、後妻の方がテーブルから身を乗り出して問い質して来る。格好と同じく、彼女は言動もはしたない。
「わたくしは初めから、“アリーチェ様の事でお話がある”としか言っておりませんけれど。そちらが勝手に勘違いをなさったのでしょう?」
「なっ…」
後妻は怒りで震え、悔しそうに唇を歪めた。しかし、すぐに反論をする。
「分かったわ‼あの子がいなくなったのは、貴女のせいね⁉これは誘拐じゃない!ただでは済まないわよ!!」
「あら、王宮にでも訴えるおつもり?わたくしは一向に構わなくてよ。今すぐにでも、どうぞ、ご自由に。」
マリアローザは、ここがまるで自分の屋敷かのように我が物顔でソファに座っている。その上、余裕の笑みまで浮かべているものだから、後妻はますます頭に血が上った。
「〰〰ッ誰か!!今すぐ王宮に人を…」
「やめないか!」
挑発に乗りかけた後妻を、伯爵が慌てて止める。
「あなた、どうして……」
「…王宮に色々探られでもしてみろ!面倒な事になるかもしれん……」
「‼……そうね…。」
こんな目の前でヒソヒソとやっていては、残念ながら丸聞こえである。だがここはエチケットとして、一つ聞こえない振りをしてやろう……。それが淑女の嗜みというもの。
マリアローザはそう思いながら、お茶を口へと運んだ。
「ではお尋ねしますがね、マリアローザ嬢!貴女は一体、ここへ何をしに来たんです?もしや、アリーチェと身代金でも交換せよと⁉」
今度は伯爵が問い質して来た。ガチャンと音を立て、彼女はティーカップを置く。
不愉快だ。もはや彼らには、マナーすらも不要だと言わんばかりに――。
「身代金?要りませんわね、そんな物。人聞きの悪い事をおっしゃらないで。わたくし、お金には一切困っておりませんのよ。」
「ならば何が目的で……」
マリアローザにさっきまでの笑顔は無く、射貫くような目で彼らを見据えている。そして一つ呼吸を置くと、口を開いた。
「アリーチェ様からの伝言ですわ。――“この伯爵家とは、絶縁します”。以上!」
そう告げると颯爽と立ち上がり、彼女は執事を連れてツカツカと出口へ向かった。
マルカート伯爵夫妻は目と口を丸くして、マリアローザの後ろ姿をただただ見詰めている……。しかしハッとすると、すぐさま使用人に命じた。
「――…とっ、取り押さえろ!!」
命令に従い、数人の男たちがマリアローザとその執事を囲む。それはもちろん、屋敷の警備などを担当する屈強な男たちだ。
どうやら、このまま大人しく帰してはくれないらしい。それはまあ、そうだろう。
「もう~!これどうするんですか??マリアローザ様ー!」
執事は困ったような声で泣き言を言う。しかし主人の方は、余裕の表情だ。
「リノ。貴方、武術は?」
「え?まあ、それなりに…。」
「素晴らしい!では、いざとなったらやっておしまい。」
「私一人で!?」
「まさか。」
そう言うと、彼女は掴み掛かろうとして来た男を一人、あっさりと床へ押さえ付けるではないか。他の男たちは、思わずたじろぐ……。
そして、そのままの姿勢で伯爵を睨み付けた。
「……何か文句がおありでしたら、我が屋敷へいらっしゃいな。皆様ご一緒にね。お待ちしておりますわ。」
「………………」
こんな屋敷の警備程度、マリアローザの敵ではない。
その後は取り押さえようとする者も無く、彼女は堂々と歩いて馬車まで向かったのだった。




