10.逃す者あれば、拾う者あり
今夜は外で食事をしようと、マリアローザは馬車に乗って繫華街までやって来ていた。
さすが王都。単なる街並みなのに、宵闇に浮かぶ灯りが何とも幻想的ではないか。窓からそんな風景を眺めていた、その時である。
「――…⁉」
一瞬ちらりと見えた景色の中に、何か違和感があった。彼女は慌てて御者台に声を掛ける。
「リノ!停めて頂戴‼」
マリアローザは執事に命じると、停車してすぐに馬車を降りた。そして急いで向かうのは、さっき見えたあの場所……
『……倒れていたのは、女性……遠目にだけれど、近くに連れの姿は見えなかった。放っておいたら大変だわ!』
それにもう一つ。周囲の人々に比べ、着ている服は若干良い生地を使っているようだった。少なくともただの庶民ではなさそうだ。どういう状況なのか分からないが、このままにしておけば物盗りなどにも襲われる可能性がある。
何にせよ、とにかくまずはその安全を確保しなくては、とマリアローザは現場へ急行した。
……段々とその姿が近くなる。倒れたままで、彼女は起き上がらない。そしてやはり、付近に連れの者はいないようだ。
するとまた、一つの事に気が付いた。
『あの服は……、――まさか⁉』
マリアローザは一層脚を早く動かし、飛び込むようにして倒れた女性の側まで行くと、しゃがんでその顔を覗き込んだ。
「――アリーチェ様⁉本当に、貴女なの??」
まさかとは思ったが……。声を掛ける前に確信していた。これは昼間に突然屋敷を訪ねて来た、「あの」アリーチェではないか!
……伯爵家へ送り届けたはずの彼女が、なぜ今こんな所に……⁇
「…………マリアローザさま…?」
うつ伏せに倒れていたアリーチェが、頭を起こしてこちらを見た。彼女は目を見開いて、『どうしてここにいるの?』という表情をしているが、それはこっちの台詞である。『どうして貴女が』――…
それはそうと。
アリーチェはそのまま少し上半身も起こしたが、髪も服も汚れてボロボロだ。身体がわずかにカタカタと震えてもいる。……暴行を受けたようではないのが幸いだが、なんて酷い有り様なのだろう。
「――…………。」
マリアローザは彼女や周囲にパ、パ、パと目をやって状況を確認し、素早く考えを巡らせる。そんなところへ、自分の後を追って来たジーナがようやく追い付いた。
「…っマリアお嬢様、お一人で行かれては危険です!せめてリノを…」
「わたくしの事なら心配しないで。王都で出くわす暴漢程度、制圧する訓練は受けていましてよ。それよりも……」
息を切らせる侍女に、彼女は真顔で指示を出す。
「今すぐこちらへ馬車を向かわせるよう、リノに命じて来て頂戴。今宵の外食は中止よ。このまま屋敷へ戻ります!」
「かしこまりました、お嬢様!」
着いたばかりのジーナは、とんぼ返りで駆け出した。それを見送りながら、マリアローザは「フウ」と息を吐く。……今夜の仕事を休みにすると言い出したのは、自分だったのだが……。料理番たちには、特別手当を出すとしよう。
それから柔らかい表情を浮かべると、にこりとアリーチェに微笑んだ。
「――…アリーチェ様。お食事はまだお済みでない?わたくし、これから屋敷へ帰って夕食にするところなのだけれど、よろしければご一緒しませんこと?」
「…え、と……いいのですか……?」
「もちろん。わたくしいつも独りだから、たまにはお話し相手が欲しいと思っていましたのよ。」
マリアローザは戸惑っている彼女に手を貸すと、慌てさせずに急いで立ち上がらせた。そして気付かれないよう改めて辺りを確認する。
……一先ず近くに、「追手」はいないようだ。
「歩けるかしら?向こうからうちの馬車が来ますわ。移動しながら待ちましょう。」
足を引きずり気味で歩くアリーチェの体を支えながら、マリアローザたちはその場を後にした。……そう、念のため、一刻も早くこの場所からは離れた方がいい。
――恐らくは、だが――…
アリーチェは、家から逃げ出して来たのだろう。
何が引き金になったのかは分からないが、昼間聞いた話から察するにそうとしか思えない。
そしてこんな状態なのは、命からがらに近いほど彼女が追い詰められていたという事なのではないだろうか。だとすれば、今回ばかりは家の者が捜し回っていてもおかしくはない――。マリアローザはそう推測した。
周りを警戒しながら迎えの馬車に乗ると、彼女たちは速やかにマリアローザ邸へと向かった。
「――さあ着きましたわ。それじゃ、まずはその格好を何とかしましょう。ジーナ!」
無事に屋敷へ帰って来てすぐ、マリアローザは後ろにいた侍女を呼ぶ。サッと進み出た彼女は、それだけで自分が何をすべきかを悟り、アリーチェを連れてどこかへと向かった。
さて次は、執事への指示だ。
「リノ!…ぃ」
「はいは~い!厨房へ行って参りまーす!」
マリアローザが次の言葉を出そうと口を開きかけた時、彼はすでに走り出していた。「急いで二人分の食事を用意するよう、料理番に伝えて来て頂戴」。そう告げずとも、何を命じられるのか分かっていたようだ。ジーナと同じく。
……言わなくても行動出来る事には感心だが、今のは何となく出鼻をくじかれたようで悔しい気もする……。
それはさておき。
その後、ちょうど同じようなタイミングで両者の支度が整った。
「あ……あの、この服……」
おずおずとしながら、アリーチェがダイニングへやって来た。その身には、マリアローザの服を纏っている。
「あら。お似合いよ。サイズも合っていたようで良かったですわ。」
それだけでなく、すっかり見違えた。全身ボロボロになっていたところを湯浴みから始め、頭の先から足の先まで綺麗にしての登場である。この短い時間で、ジーナが最大限に仕上げてくれたようだ。
「こんなに良い物をお借りしてしまって……」
「大した物ではないから、気にしないで頂戴。何ならそのまま差し上げますわ。気に入らなかったら捨てても構わないし。」
「捨てるだなんて‼」
恐縮していたアリーチェが大きな声を出し、マリアローザは驚いて目をぱちぱちとした。それからふっと笑う。
「まあいいわ。座って頂戴。」
長テーブルには、すでに食事の準備が出来ている。案内されるがまま、アリーチェは席に着いた。
「アリーチェ様、お酒は?」
「嗜む程度でしたら……。」
「それは結構ね。ジーナ、あれを出して来て。」
こんな時こそ良い酒に限る。それを持って来させると、二人で乾杯をして食事を始めた。
……これは急遽作らせたものなのだが……テーブルに並んでいるのは、時間を掛けて用意したように立派な品々だ。味ももちろん申し分ない。それなりのもので構わないから、と伝えようと思っていたのだが、期待以上の出来である。口にしたマリアローザは満足して、これは特別手当を弾んでやらねばと思った。
「どうぞ、遠慮なく召し上がって?」
彼女は向かいに座る客人にも勧める。
こんなに良い匂いがしているというのに、アリーチェの食は進んでいない。……とはいえ、食欲が湧かない気持ちも理解出来る。少し前まで“あんな状態”だったのだ。バクバクと食べられるくらいならば、端から心配など要らないだろう。
それでも無理に笑顔を作り、「はい」と答えて少しだけ口へ運んでくれた。
マリアローザは食事の手を止め、じっと彼女を見据える。
「――…ねえアリーチェ様。率直に申し上げても、よろしくて?」
その言葉にびくりとして、アリーチェは全身を強張らせた。
「貴女、お家を飛び出して来たのよね。何となくは察しているけれど、わたくしのところで匿う以上、何があったのかを詳しく説明して頂けないかしら。」
匿うなんて、頼んでもいないのに余計なお世話だ――。そう言われてもおかしくはない事は承知している。これはただの、お節介の押し付け。
だがしかし、無意識にしろ何にしろ、はじめに助けを求めて来たのは彼女の方なのだ。その縁さえ無ければ、ここまで関わろうとする事も無かっただろう。
こっちだって、余所様の事情に土足で踏み込むような趣味はない。せっかくのんびり生きようと思っていたのに、真逆の面倒事になど首を突っ込みたくは無いのだから……
そんな事を考えていると、アリーチェの顔が青ざめ…いや、見る見る内に土気色になって行くではないか。そして、ガタガタと震え出した。
驚いたマリアローザは立ち上がり、すぐさま彼女の席へと向かう。
「アリーチェ様!?どうしたの⁉ジーナ、ちょっと来――」
「…………が……」
「え??」
抱きかかえるようにして介抱していると、アリーチェは震えながら力なく言葉を絞り出した。
「……お父様が……新しく、結婚相手を決めて来ました……」
「結婚相手……。」
幼い頃に勝手に婚約を決め、その破棄も勝手に許し、また勝手に結婚相手を用意するとは……。実に貴族らしい父親である。特におかしな話でもない。――だから、それだけで『彼女』がここまで怯えるというのは腑に落ちない。
そう思っていると、アリーチェが訴えるように必死な表情でこちらを見た。
「その方とは、“ブラッチ男爵”なのです!明日の朝、嫁いで行くようにと……‼」
「!!」
――“ブラッチ男爵”――
その名だけで、一瞬にして多くの事を察するには十分だった。
本来ならば粛々と従っていたであろう彼女がなぜ家を飛び出したのかも、ここまで怯えている事も、父親の思惑さえも――…。
「ふむ……」
深刻な顔をして、マリアローザはじっくりと考えを巡らせた。
何かが、何かが引っ掛かる……。
このご時世、政略結婚は基本だが、それにしたって明日の朝とはあまりにも急過ぎる。相手が相手だし、なりふり構っていない結婚である事は確かだ。……だとしても、あんな相手を選ぶとは……。
それだけではない。マルカート伯爵家には、他にも釈然としない事が――…
『……これは……もしかすると、思っていた以上の事態かもしれない。黙って傍観しているわけには行かないようね……。』
彼女は口を開いた。
「アリーチェ様、一つ伺います。貴女、これからどうしたいのかしら?」
「……どう、とは……?」
アリーチェは心許ない顔をして首を傾げる。
「一晩ここで心を整理して、明日の朝、伯爵家へ戻るつもりはあるのかしら?」
そうだ、そういう選択肢だってあるのだ。全てを呑み込んで、受け入れるという生き方が――。その矜持を例え他人が不快に思っても、否定されるいわれは無い。本人の意思は尊重されるべきである。
さて、彼女はどうなのか?マリアローザは「それ」を、確かめたかったのだ。
――しかし。その質問に、アリーチェは再び顔を強張らせる。そして思い切り首を振った。
「イヤ……嫌です‼いくらお父様の決定でも、あれにだけは従えません……!!」
「そう、分かった。けれど伯爵は、それを決して許しはしないでしょうね。何としてでも、貴女を男爵のもとへ輿入れさせようとするはず。」
それを聞くと、彼女はワッと泣き出した。
……家ではすでに、やめてくれと父に懇願している。他の事なら何でもするとまで言った。だがその結果は、全く取り合っては貰えなかった。それはつまり、決定を覆すつもりは一切無いという事……。
マリアローザの言っている事は、恐らく正しい。
「わ……わたし、どうしたらいいのか……………。後はもう、この命を絶つしか――…!」
絶望だ。このまま生きていても、その先に待っているのは地獄だけ。
ならばいっそ……
「家をお棄てなさい。」
「…………えっ??」
アリーチェはポカンとして、思わず顔を上げる。今、とんでもない言葉が聞こえたような……
「伯爵の決定に逆らうつもりがあって、命を絶つ覚悟までしているのなら、容易い事でしょう?」
「……。」
これまで考えた事も無い内容に、頭が追い付かない……。アリーチェはぼんやりとしながら、マリアローザを見上げていた。
「伯爵家への未練を絶ちなさい。例えこの先家族がどうなろうとも、冷酷におなりなさい。」
……伯爵家への未練を、絶つ……。家を、棄てる??
そんな事、母の教えを破る行為だ。出来ない。それに、その先で待っているのは結局同じ――…
「――そうしたら、わたくしが貴女に力を貸して差し上げる。」
そう言って手を差し伸べたマリアローザは天使のようで、しかし、浮かべたその笑みは悪魔のようである。
……いや、黒い女神のようにアリーチェの目には見えていた。
それを見詰め、彼女は戸惑った。この手を取るべきか、否か――…。
……亡き母の教え……
“「理不尽な事にも耐え、貴族としての務めを果たさなければ――」”
――このまま伯爵家に戻っても、それが果たされる事になるのだろうか?男爵のところへ嫁ぐのは、耐えるべき理不尽か――?
「――…はい。」
その瞬間、彼女は差し出された手を取っていた。答えを返したアリーチェの目は、据わっている。
「マリアローザ様。どうかわたくしに、そのお力をお貸しください。」