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本文2(完結)

 家に賞味期限切れが近いハムとチーズがあります。後無いのは酒だけですね。


10

 僕になんからの人生的課題があるとすれば、いつ職場復帰するのか、結婚するのかしないのか、転職するのかしないのか、などが挙げられます。おそらく期限は決められていないし、応える義務も無いだろうと思います。ただ資本主義社会では、生きている限りお金がかかるし、数百万の奨学金はまだ返済が終わっていません。

 その辺の建物から飛び降りれば、全てチャラにできます。けれど、二度とあの子と愛し合うこともできなくなります。それだけがこの世と僕を繋ぎ止めるのです。ある意味で、あの子は僕の心臓でした。


 あの子の傷の話をしましょう。

 僕らはその日も、ホテルのベッドで、裸で寝そべっていました。

「好きよ」

 と、あの子。あの子が愛情を伝えてくれるのは、きまって愛し合ったあとでした。呟くように言うのです。それ以外では、聞いたことはありませんでした。

「俺もだ。愛してるよ」

 僕は言って、あの子の唾液を十分飲み込んだあと、左腕のリストバンドをさすりました。優しく上からなぞったつもりだったのですが、すぐに腕を引っ込まされました。

「悪い、痛かったかい?」

「いいえ。でも嫌でしょ。リスカする女子なんて」

「嫌じゃないよ。ちっとも嫌じゃない。心配にはなるけどね」

 あの子は少し、独りごちました。

「やっぱり触らない方がいいのよ」

「どうして?」

「あなたって優しいから。一緒に傷ついてくれるでしょ」

「そりゃあそうさ。少しでも、共有したいんだ」

「会社はどう?」

「来年には復帰するよ。たぶん。でないと、クビになる」

 話を逸らされた感じはありましたが、不機嫌にしたいわけではなかったのでそう答えました。

「復帰することになったら、俺も社会の歯車に逆戻りか」

「ひとつだけお願いがあるの」

 あの子は珍しく、あの子の方からもたれかかって、体の全てを、文字通り僕と一つになるんじゃないかと思わせるほどくっついてきました。

「なんだい?」

「自殺するくらいなら、仕事辞めてね」

「うん。結果は同じだろうけどね。働けなくなったら自動的に死ぬ」

「意外となんとかなるって聞くわ。それと、私のことは忘れて」

「それじゃあお願いが二つになる。ダメだよ」

「あなたみたいな優しい人には、私はいちゃいけないの」

「どうして?」

「どこまでも甘えちゃうから」

「甘え尽くしたと思うまで、甘え尽くしてくれよ」

 あの子は、つつと目から雫を垂らし、それが僕の胸にも伝わってきました。

「君は毎日働いて偉いよ」

「ううん。何も考えずに過ごしているだけ。嫌なことがあったら、深酒して忘れることにしてるの」

「それぐらいがちょうどいいよ。真面目にやってたらぶっ壊れるさ。サラリーマンなんて見てみろよ。ほとんどもうぶっ壊れていやがる。中身のないことを、あたかも有意義かのように、自分自身にしかできない創造性の高い仕事をしているかのように振る舞っている。実際は時間とお金を、要は人生とお金を交換しているだけだというのにね。あんなのは社会人ごっこさ」

 言うだけ言って、僕はなんだか虚しくなりました。

「俺もな、アルコールと睡眠剤に頼っているクズだね。社会の歯車にすらなれない」

「あなたは素晴らしい存在だわ。ずっと、小説を書き続けて。新聞でも、ネットでも、雑誌でも、なんでもいいから」

「そんなこと、言われたことないよ。いきなりどうしたんだい?」

「あなたの両腕は他の誰とも違うわ。唯一無二の、あなたにしか作れないものがある。その創造する力が、あなたと他のあらゆる人間を別のものにするの。あなたに比べたら、他の男なんて石ころなのよ」

 僕はそんなことを言われて、生まれて初めて、この言葉を聞くために僕は生まれて、この言葉を聞くために僕の鼓膜はあるのだと、信じました。このときのために僕は文学を学び、僕の言語野は、はたらいていたのです。

「ああ、書き続けるよ。書けなくなったら死ぬ。創造なんて大したことやっている自信はないけれどね」

「私には真似できない」

「実際、アートとゴミを明確に区別することなんて、この世の者にはできやしないんだよ」

「もし区別できたら、アートでもゴミでもなく資本に成り下がっちゃうわ。ゴッホの数々の絵がそうなったように」

「君に出会えてよかった」

 僕は、あの子の左腕に手を伸ばしました。

「僕からも一つお願いだ。少しの間、こうさせてくれ」

「う、うん」

 あの子は戸惑いながらも、今度は抵抗しませんでした。リストバンドの上を触ると、数えきれないほど凸凹があることが分かります。あの子は何度、自分の魂を殺したのでしょう。

「心配しなくても大丈夫。最近切ってないから。ほとんどカサブタよ」

「痛いね」

 僕はなぜだか、涙が溢れてきました。あの子の頬にも。僕はその、塩辛い透明な血を、優しく舐めとりました。

「痛くなんてないわ」

「痛いよ。辛かったんだね」

 そのとき僕らは、どうしようもなく死に損ねた二人なのに、どうしようもなく生きているのでした。



11

 僕はただ、誰にも養われたくないのです。けれど、自分で自分を養う能力すらないのだとしたら。そして大した創造力もなく、美味なものを糞に変換するアダプタであるだけの自分に構ってくれる女性がいるのなら、できるだけ早く死ぬ。これが直線的に考えられる答えです。そのとき、僕に関わる全てのあの子は解放されるのです。

 僕はふいに言いました。

「旧約聖書でね、アブラハムは神の啓示を受け、安らぎの場所を求めて旅に出るんだ。最後、アブラハムはどうなると思う?」

「私、聖書って好きだわ。さあね、どこか、地上の天国みたいな場所を見つけるのかしら」

「今時の小説や漫画ならそうだろうね。だが、アブラハムは安寧の地を知ることなく、一生さまよい続けて死ぬんだ」

「なんだか、すっきりしないオチね」

「俺も最初はそう思ったさ。途中で話を考えるのが面倒になったのかとすら思った。けれど、今となってはアブラハムの物語から、ひとつの教訓を得たんだ」

「なんなの?」

「人間に安寧の地などない」


「なあ、俺らって付き合っているのかな?」

 あの子の薄暗い部屋で、僕は、いつかの姉さんのセリフを思い出しました。あのとき僕は、しっかり答えられなかったのです。あの子と付き合っているのかどうか、分からなくて。

 僕は、いわゆる体だけの関係というのができないタチです。別に他人や友人がセフレを作ろうが、知ったこっちゃないし、芸能人が不倫でニュースになろうが、本人たちで勝手にやってもらって結構です。

 ただ自身に限っては、体だけで割り切れないのです。どうも、大なり小なり情が入ってしまいます。それがお情けの情なのか、まともな愛情なのか、僕自身にすら分からないことは、ままあります。

 あの子は返事に困っているようでした。

「さあ。あんまり考えてなかった。どうしたの急に?」

「いや、なんとなく。以前聞かれたんだ。彼女はいるのかって。君は、俺の彼女?」

「うーん。みたいな感じ?」

「じゃあ違うね」

「ごめんなさい。怒らないで」

「謝ることじゃない」

「あなたのこと、好きよ」

 あの子が、好きと言ってくれるのは、交わった後だけだと言いましたね。少し語弊がありました。あの子は、肝心の問題を誤魔化すときも、頻繁に言いました。

「あなたのために言っているのよ」

「俺のために? どうしてだい? 俺のためなら、恋人になっておくれよ」

「いけないわ。私、あなたに合う女じゃないもの。それに、あなた彼女いるでしょう?」

「その彼女は君だ」

「だとして、他にもいるでしょう?」

「いや、君だけだよ」

「嘘つき……嘘つき……」

 あの子をどう思うか。僕はあの子を愛しているし、恨んだことは一度たりともありません。あまたの人間と同じように、あの子は善性と、ほんの少しの悪性を持っていたのです。その手の人間は、僕のような邪悪には飲み込まれてしまいます。


「精神的向上心のないのものは、馬鹿だ」

 ポツリと、こうはいの横を歩きながら言いました。秋の夜でした。

「Kのセリフですよね」

 そう言ってこうはいは缶ビールをぐびぐび飲みんだあと、でかいゲップをしました。

「『こころ』好きなんだ」

「いいですよね。ぶっちゃけ遺書より前のシーンは冗長だと思いますけど」

「そう? 前半も明治と大正の時代差を描く上で大事だよ」

「確かにそれは分かりますよ。でも、じゃあ平成の世でこころを連載して読まれるかって言われたら……」

「打ち切りかもね」

「でしょ? やっぱり冗長なんですよ」

「そんなこと言い出したら文豪作品の大概はそうさ。そうして現代の本屋を見てみろよ。ウケそうなテンプレートをちょっと捻っただけの作品が量産されているだろ。君のお望み通り」

「僕だってあの手の定型化には正直うんざりですよ。やっぱり芯は文豪から二〇世紀までの作品に限ります。日本史とリンクして、突発的な西洋化に対する魂のありか、大戦後の急激な資本主義化への葛藤とか、見てとれますもんね」

「学生運動とかあった頃の作品もさ、熱量が半端ないよ。六〇年代かな」

「あー、先輩、『二十歳の原点』読みました?」

「いや、読んでない。読んだら死にたくなりそうで、怖くて読めない」

「僕らちょうど二〇くらいじゃないですか、良いと思いますよ」

「そうか、じゃあ読んでみようかな」

「先輩は、ただでさえ『人間失格』と『こころ』の話よくするじゃないですか。今更何を怖がることがあるんです?」

「言われてみればな。ところで、こころの話に戻るけどさ、俺はもう、こころは中学時代から何周も読んでてね。精神的向上心の話が、終盤でブーメランになってKに帰ってくるじゃん?」

「あの展開エグいですよね」

 こうはいはビールを飲み干すと、通りがかった自販機横のゴミ箱に缶を捨てました。

「初めて読んだときはさ、Kが可哀想で、辛かったんだよね。けど、最近違うふうに見えてさ」

「というと?」

「なんていうか、Kは救われたのかなって。別に自殺とか死を肯定するわけじゃないけど、Kはずっと思い詰めてたわけだ。多分作中以前から自分自身にストイックだったし、お嬢さんとの出会いを経てその苦悩は加速しただろうよ。そういう諸々の悩みから、解放されたのかなって思うんだよね」

「あー、それは考えたことなかったです。良い見方ですね。確かに、言われてみればKが亡くなるシーンって、ある種の美しさを感じますよね」

「そうなんだよ。なにもかもが丸く収まったわけじゃないけど。結局先生も、同じ道を辿っていくわけじゃん。劇中では明言されてないとはいえ、先生は多分自殺しているよね」

「それは読者の共通認識だと思ってました」

 そんな話をしながら歩いていると、警察の男性が2人やってきて、止められました。

「ちょっと君たち、いいかな?」

 何があったのかと思ったら、僕らを見て、児童が深夜徘徊していると思われたようです。

「君たち、お酒飲んでいるよね。年齢確認できるものある?」

 と言われたので、僕たちは望まずして学生証を見せ、ことなきを得ました。にしても、僕がよほど幼く見えたようで、僕の顔を指差して

「え、先輩? 君の方が先輩? 高校生じゃなくて?」

 などと、笑いながら言われました。いくら仕事で調べたとはいえ、失礼すぎます。


 また歩き始めた僕たちは、もうシャッターの降り始めた居酒屋の横などを通りました。学生たちが解散したり、むしろ夜中から集まって呑みそうな集団もいました。仕事終わりのスーツの人もいます。京都は、なかなか街が眠らぬものだと思いました。

「ところで、何の話でしたっけ? 死は救済? 安っぽい言い方かもしれませんけど」

 とこうはい。

「救済の要素は少なからずあるよね。そう考えるとさ、カフカの変身もそうかなと思うんだ。主人公ザムザは虫になった上、しかも死によって完全に人間社会から隔離されるんだけどさ、確か、最期のシーンでは教会の鐘が鳴るんだよね」

「あれもなんか、神聖な感じがありますよね。序盤なんか、どうやって会社に連絡するかとか遅刻がどうとか考えてますからね。めっちゃ人間的だったはずなのに、最後は家族にすら見放されて終わる」

「あれが救いだったんかねえ」

 僕らは、不意に空を見上げました。秋の夜空は綺麗なものです。


**

 その日、こうはいはやたら苛立っていました。僕らは飽き足らず、その日も向かい合ってラーメンをすすっていたのです。一〇月一日。天下一品は『天一の日キャンペーン』で、ラーメン店で見たこともないほどの行列をなしていました。秋にしては冷える夜、一時間ほど待ってやっと席に着くことができたのです。

 こうはいの苛立ちの原因は、何か別のところにあるようでした。食事の行列に並ぶからといって、苛立つような男ではありません。

「なにかあったのかい?」

「分かります?」

「雰囲気でね」

「いやあね、聞いてくださいよ。俺のマンションでうるさいやつが二人いて、最近苛立ってるんです。去年はそんなでもなかったので、今年からの入居人なんですかね」

「二人って分かるの?」

「十中八九分かります。いやあね、明らかに一階上からの物音と、ちょっと遠くかららしい物音も聞こえるんですよ。ていうか階段の昇り降りが異常にうるさいやつがいる」

「それもうマンションがボロいんじゃないか」

「言っても築年数は先輩のところと同じくらいですよ」

 それから話を深堀りしたのですが、こうはいの積極性には驚くばかりでした。

「上の階のやつがね、まあこっちが何もしてないときですらズカズカうるさいんですよ。壁ドンっていうか床ドンもしてくるし。とりあえず話つけてやろうと思って、直接上の階、まあ三〇一なんですけど、三〇一の正面に行って、インターホン鳴らしたんですよ。そうしたら居留守かましやがるもんで、何度もドアぶっ叩いて、蹴り入れて、罵詈雑言吐いてその日は帰ったんです」

「過激ってレベルじゃないな」

「あと僕の部屋が階段に面しているんですけど、やたら階段をズカズカ昇り降りするやつがいて、ある夜そいつの足音が聞こえたので、部屋から飛び出してボールペン喉に突き出したんですよ。小太りの若い男でした。

『何号室や』

 つったら、五〇一っていうんで、じゃあ三〇一に住んでる壁ドン野郎とは別だなと分かったんです。

『これからは階段静かに降りろ』

 って言ったら、言うこと聞いてくれるようになりました。今なんか挨拶もしてくれるし、ちょっとした世間話もします」

「それ君にビビっているだけだろ」

「いや、五〇一のやつと話していたら、三〇一の話が出てきましてね。どうやらそいつ、上の階にも横の部屋にもうるさくしているらしくて、深夜に音楽なんか流しているらしいんですよ。まあ俺は深夜散歩したりお酒飲みまくって酔っ払ったりしているので、気付かなかったんでしょうね」

「ツッコミが追い付かない」

「ますます三〇一が確信犯めいてきたでしょ。俺もうムカついてずっと冷戦状態にありますよ。いらないチラシとか、三〇一のポストに入れていたんです。そうしたらどこで気付いたのか、最近やり返してくるようになったんです。顔が見えないからって、調子のってるんでしょうよ。三〇一のやつ」

「治安が悪過ぎる。部屋番号だよね、囚人番号じゃないよね」

 僕が言ったら、カウンター席のおじさんが「ブフォ」と噴き出しました。

「俺もう大学卒業して引っ越すとき、あいつのポストに牛乳とタマゴぶち込んでやりますよ」

「とりあえず五〇一の人は善玉だったんだね」

「五〇一は話せば分かります。仲良く出来ると思うんですよ、目指すところは同じ静寂なんだから」

 どう聞いても、部屋番号が囚人番号にしか聞こえなくなっていました。


12

 珍しく、あの子と僕はバーにいました。あの子は僕の原稿を読んでくれていました。

「この作品の『きみ』っていうのは、私とは違う子ね?」とあの子。

「どうだかね」

「聴かれたくないの?」

「いや。アマチュアの自作語りなんて、つまらないだろ」

「私はあなたの話好きよ」

「だったら話そうかな」

 僕は、作品を書いたバックグラウンドを、かいつまんで話しました。なんてことはない、学生時代の恋人の思い出です。けれど僕の恋愛観を形作るには、十分すぎる思い出なのです。

「そんな背景があったのね。まあ、何となく実話っぽいなとは思ったけど」

「君、三島由紀夫先生の作品は読むかい? 『仮面の告白』分かる?」

「読んだ。けれど、不思議な本だったわ。好きだけど。なんていうか、仮面の告白って結局どういうオチなの?」

「オチってのは特にないな。それが純文学さ。いまだに、仮面の告白をジャンル付けするのは難しいだろうよ。僕は気に入っていてね」

「どういった点で? って聞いてほしいでしょ」

「ああ。特にタイトルが好きなんだ」

 僕は少し間をおきました。本の話になると、つい熱が入るのです。しかしあの子が興味のない話を続けるのは嫌ですから、様子を伺いました。

「話して。あなた、高校や大学の先生とか向いていると思うわ。あなたが国語の先生なら、真面目に話聞いたのに」

「勉強は今からでも間に合うさ。で、タイトルの話だっけ。本作の最も優れているのは、タイトルなんだ。君、仮面の告白って聞いて、違和感ない?」

「えー、何だろう?」

「もうちょっと小さい視点で見てみようか。告白って言葉の意味分かるかな? 辞書的な意味でいいから」

「何かを打ち明けることかしら。愛にしろ、何にしろ」

「いいね。正解だ。確か、広辞苑でも似たような書き方をしていたと思う。そうなんだ、何か打ち明けることだ。じゃあ、仮面ってのは何のために使う?」

「あ、私ちょっとわかったかも。仮面は素顔を隠すためのものよね。だったら、え、凄い。告白って言葉と矛盾してる。もしかして、このタイトルって矛盾してる?」

「そこなんだ」

 あの子は、自分の考察が当たったのがよほど嬉しかったらしく、手を叩いて喜びました。

「もしかして、勉強って面白い? 文学って面白いのね」

「そりゃあもう、一生を費やせるほど面白いよ」

「なんで学校の授業はつまらなかったのかしら」

「そりゃ、先生が面白くなかったのさ。良い先生、悪い先生がいる」

「続きを教えて、良い先生」

「日本文学でも、歴史に残るレベルのタイトルの美しさだよ。俺の中でタイトルランキング一位だね。『こころ』も好きだし、『人間失格』も好きだし、昭和だと『マイナス・ゼロ』も恐れをなすほどよくできたタイトルだ。けれど仮面の告白の完成度ときたら、これほど日本語を操れる人間が存在したんだって、感動を覚えるよ。

 要は、告白する人は普通仮面なんか被らない。素顔で話す。逆に、仮面を被るものは正体を隠すから、真に告白なんてできない」

 あの子は、ふむふむと頷きました。

「このタイトルには、人間の多面性と告白の不可能性があると考えるんだ。一〇〇%の告白なんてのは、できっこないのさ。小説を書く時点で、そのメッセージは、書き手と読み手としてしか受信発信できない。そのとき、書く側は小説家の仮面を被るし、読む側も読者の仮面を被る。三島先生であってもなくても、そうなんだ」

「私も仮面の告白を読んで、『これってどこまで本当?』って思いながら読んだもの。それがなんかこう……モヤモヤしたわ。良くも悪くもね」

「そうなんだ。今の世でも、ノンフィクションだとかエッセイだとかがいくらでも出版されているよね。その手の作品を読むとき、どこまで本当か疑うし、もしくは丸ごと信じて読む。俺は、読者の自由だと考えているよ。信じたければ信じれば良いし、作りものとして楽しんだっていい。もちろん、明らかなフィクションの場合もあるけどね」

「言ってることはわかるけど、それじゃあ真実は?」

「そこなんだ。真実なんてのは、結局本人しか分からないのさ。別に、ちょっと考えたり疑ったりするくらいならいい。そこを血眼になって調べようとするのはナンセンスで、もっと雑にいうならダサいんだ。

 仮面の告白が出版されたとき、三島先生の友人や交際関係のあった人がインタビューを受けたらしい。いろんなメディアにね。それのなんたるナンセンスさよ。本当に三島先生が同性愛者か、友人との会話はどこまで本当なのか、それを本人や周囲の人に確かめることなんて、ナンセンスなんだ。筆者と読者は、告白し合うことはできないんだ。

 僕は少なからずその思考をリスペクトしていて、自分から、こういう体験を元にしてますなんて言ったことはないし、これからも言わない」

「じゃあ、『あの子』についても聞くなって?」

「聞くなとは言わないけれど、上品な質問ではないよね」

「だったら、私にこんな作品読ませないでよ。どうしてもあなたの恋愛遍歴が気になっちゃうじゃない。あなたが悪いわ」

「ぐうの音も出ない」



 三〇前後の友人を見ていて、最近よく考えることがあります。「結婚して子をもち、毎日あくせく働く人」「独り身で機材やコレクションを揃え、趣味を満喫している人」のどちらかがをよく見ます。僕にはどちらも眩しいし、どちらも憧れます。もしも人生が二週あるならば、結婚する人生としない人生を一周ずつ歩みたいと、真剣に考えています。

 実際は一度きりですから、それを考えると、夜一人きりで寝られないような寂しがりな僕は、結婚する道を選びたいところです。なんともエゴイズム甚だしい理由です。

 僕が最も恐ろしいことは、孤独を恐れ孤独に陥り、孤独を有意義に扱うことすらもできず、何者にもなれぬまま消えていくことです。しかも、それは日に日に現実感が増して、僕の心を急き立てるのでした。


13

 あの子にとって確かなこと、それは美術を愛しているということです。僕はしばしば、美術館へ誘われました。あの子は特にゴッホが好きでした。

 美術館ではたまに腕をひいたりするものの、マナーを守って静かに絵を眺めたものでした。

「私ね、絵は好きなのよ。けれど、美術館に行くとき、有名になった絵と無名のまま消える絵の誤差を想像して、切なくなるの」

 帰り道での話です。

 僕はゴッホの人生を思い、こくこくと頷きました。死後に評価されるなんて、これほど悲しいことはありません。もしゴッホが、あと一〇年や、二〇年でも生きていてくれたならと考えずにはいられないのです。同時に、彼の死や、生を圧縮したかのような駆け抜ける人生こそが、作品を昇華したのかもしれない、とも思うのです。

 絵画に限らず、今日ですら、実力がありながら名も知られず年老いて死んでいく作家が、この世にはたくさんいるのでしょう。

「『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の作者ディックも、作品を映画化した『ブレードランナー』が上映される直前になくなったんだ。映画のあと、名前は世に知れ渡ることになった。あと五年でも生きていてくれればって、思っちゃうよね」

「炎の画家って、よく言ったものだわ。ゴッホの絵も他の画家と一緒で、年齢を重ねるごとに何度も変わるけど、なんだかこう、この時期は病んでそうだなあって、分かるものよね」

「俺が分かるような有名な絵はだいたい病んでいる頃の絵だろうけどね」

「彼の人生そのものが芸術だったんだわ。作品は彼の一部をトリミングしただけ。それだけでも、あの熱量なのよ」

「無名のまま消える絵か。『最強のふたり』っていう映画があってね」

「私あの映画好きよ」

「気が合うね。あの映画で、白紙に力強い赤で横線を引いた絵画に、目が飛び出るほどの高額がつけられていてね。それを見た介護人のドリスが、『これが芸術? 鼻血噴いたあとだろ!』っていうシーンがあってさ。あのシーンですごい笑っちゃったんだ。けどあれこそ真理で、芸術ってある人から見たら宝物で、別の人から見たら落書きなんだろうよ」

「私の考えは少し違うわ。全部落書きよ。でもピカソの落書きは高いの」

「僕より皮肉な意見だな。残酷だけどそうだね、まったく同じ絵でも、有名画家と無名の画家では、値札は違うだろうよ」

「世界のコレクターの中に、本当の美しさってやつを分かってる人が、どれくらいいるんだろうって思うわ。ただ有名作品をコレクションするだけの自分に酔っている資産家を見ていると、吐き気がするのよ。そういうやつから、全部のコレクションを奪い去って、私の美術館を設けたいわ。それで安く公開するの」

「素敵な夢じゃないか」

「お金さえあればね」

「芸術と資本ねえ、皮肉な話だ」


 あの子は、やたらと僕の恋愛遍歴を聞きたがりました。僕らが初めて大人の関係になったとき、ベッドの上で質問攻めにあったのです。

「ねえ、初めてしたのはいつ?」「経験人数は何人?」「付き合った人は何人?」「付き合って一番短かったのは何ヶ月?」「一番長く付き合ったのは?」

 矢継ぎ早に質問されました。あの子の何が真意なのか、僕にはあまり分かりませんでした。というのも、僕の場合女性の過去はあまり知りたくないからです。経験人数だとか、以前の彼氏がどうだったという話を聞いても、なんとなく良い気分にはなりません。別に気を害するとまでは言わないものの、わざわざ聞こうとは思わないのです。

 そこを聞きたがるのですから、僕は何か勘ぐりました。実際には、あの子の真意は質問の通りだったので、ちぐはぐな会話が展開しました。

「どうしたんだいいきなり? もしかして童貞が好きだったのかい?」

「どういうこと? 聞いている通りよ。あなたの恋愛経験が知りたいの」

「ええ? 共感できないな。僕は君の遍歴を聞きたくなんてないよ。じゃあ正直に話したとして、怒らないでくれよ」

「どうして私が怒るの?」

「元カノの話をすると怒る人だっているのさ。俺だって、前の彼氏の方がかっこいいとか歌が上手いとか背が高いとか言われたら、多少凹むだろうよ」

「あら、あなたって意外と自己肯定感低いのね」

「それはお互い様」

 あの子はどうやら言い返せなかったようで、口をつぐみました。悪いことを言ってしまったと思って、あの子の頭を撫でました。

「別に悪口じゃないんだ。今はもう、君は俺だけのお姫様なんだよ。だから安心してね」

「分かった。で、初体験は何歳?」

「切り替えが早いな。ええと、あれはいつだっけ。二〇か、いや、誕生日が来ていなかったから、一九歳のときだね」

「ええ、意外。高校生で卒業してそうだもん」

「それ言われるけれど、高校生って難しくないか? 付き合って、学校帰りの駅でキスしたりとか、その程度はあったけど、それ以上はなかったな。それに進学校ってウブなやつ多いだろう。カップルが珍しかったし、その中でも卒業してるやつなんてもっと珍しかったよ」

「うわ、なんだか純粋な世界を見せつけられたわ」

「君は? いつまで処女だった? 別に聞きたくはないけど」

「じゃあなんで聞くの」

「俺だけ答えるのは不平等だろう」

 あの子の答えは、至極想定通りで、けれど僕からしたら早いなあと感じる歳でした。

「今の子は早いのかね」

「いや、私の周りだけでしょ。そのときの彼氏も、田舎の人だったし」

「ああ。別に悪く言うわけじゃないけれど、田舎の方が卒業早いよね。進学する人も少ないから勉強するわけでもなく、これといって遊びに行くような場所もないから、セックスしかすることがないみたいな」

「正直その通りだと思うわ。それで高校卒業したら子供つくって、成人式の頃には赤ちゃん連れてくる子もちらほら」

「皮肉抜きにめでたいことじゃないか。三〇過ぎて慌てて恋人探す人よりかは、よっぽど計画的と言えるね」

「本当そう思う?」

「いや、ごめん嘘ついた。家庭の状況によりけりかな。極端な話、女性が望んでもいないし金銭の余裕もないところで妊娠したら、赤ちゃんがかわいそうだよ。それで公園のトイレで出産するとか稀に聞くじゃん。心が痛むってレベルじゃない。逆に望んでの妊娠なら早かろうが遅かろうが、祝福するさ」

「だよね。私はまだ結婚は先かな。あと三年くらいは今のアルバイト続けるの。結婚までにお金貯めたいから」

「いいね。相手は?」

「それは、分からないけれど。じゃあ次の質問。今までの経験人数は?」

「ええ? また生々しいな。ちょっと数える時間くれよ」

「やっぱり多いんだ」

「いや、多くないよ。でもほら、一応二〇数年以生きてきたんだ、思い出すのに時間要るだろう。まあ、片手以上両手以内ってところだよ」

 実際嘘をついていないし、特に秘密を持つことについて、根拠のないこだわりがありました。秘密が人を美しく見せると思い込んでいたのです。この手の質問には、あの子相手でなくても、ぼかして答えるのが常でした。

「意外ね。一〇人以上いそう」

「これでも純情なんだよ。君は何人?」

「あなたが三人目」

「妥当というか、それっぽいね。もっと多くても驚かないけれど」

「でもあなたが一番優しくしてくれたわ」

「俺を喜ばせるのが上手だね」

「だって本当ですもの」

 あの子は僕に抱きついて、体をぴったりくっつけたまま。

「私ね、あなたがどういう育ちなのか、あなたがどんな人を愛してきたのか、全部知りたいの。好きな人のこれまでが、全部気になるの」

「へえ、気が向いたら教えるさ」

 僕はなぜ、あの子の聞くことに、全て答えてあげなかったのでしょう。たいそうな秘密も持ち合わせていないくせに、格好つけて言わなかったのです。今なら、あの子の言いたいことがなんとなくわかります。あの子のこれまでを、あの子しか体験してこなかったものの全てを、知りたいとすら思えるのです。共感するには、あまりにも遅い。

「あなたは気にならないの? 私のこと好きじゃないから」

「好きだよ。それに気にもなる。けどなあ、恋愛遍歴とかではないんだ。俺はね、なんていうかな、君が何で喜ぶか、何で怒るのか、何が悲しいのか、そっちの方が知りたいな」

「へえ。そういう人もいるのね。新しい発見だわ。でも、喜怒哀楽のポイントってことよね。説明するのが難しそう」

「確かにね。だから、これから君を観察したり、一緒の時間を過ごして探していくのさ。もちろん、当たり前に怒ることなら分かるよ。浮気されたら怒るとか」

「私は浮気されても怒らないわ」

「流石に寛容すぎるよ」

「だって、あなたがモテるのは分かるもの。それにあなたって優しくて、隙があるの。人がつけ込む隙よ。だから怒らない」

「大丈夫。君だけだよ」

「そう? 私以外にいるでしょ、好きな人」

「え?」

 僕は否定しようとしましたが、あの子に口づけされて、話は終わりました。あの子の舌が口の中に入り込んできて、ちくりと痛みが走ります。口の中に、血の塩っぽい味が広がりました。僕はてっきり、舌が丸ごと噛みちぎられるかと思いましたが、浅い傷で済みました。

 湿ったあの子の口には、僕の赤い血が垂れていました。

「秘事の味だわ」



 会社に復帰したころ、僕はふと懐かしくなって、こうはいに電話をかけました。今となっては、こうはいも社会人で会社勤めです。時の逃れとは恐ろしいもので、特に学生時代の後輩まで定職についているのを知ると、実感が湧いてくるものです。

 こうはいは新卒で就いた会社がもう十ヶ月ほど続いているらしく、順調にいってそうでした。富士山を薄っぺらいジャージとサンダルで登るような彼ですから、それなりの困難は乗り越えられるでしょう。残業もほとんどせず、上司に押し付けて帰っているらしいです。

「まあ、僕の残業やるのも上司の仕事ですから」

「それはルール上そうだろうけどさ、次の日の出勤が気まずかったりしないの?」

「いや、全くしませんね。普通の顔して勤務してます。嫌って言うなら僕をクビにすりゃいいんですよ」

 この図太さは、筋金入りです。僕にもこれくらいの度胸があれば、病まずに済んだのでしょう。今度関西に来たらまたラーメンでも食べないかと言われたので、約束を取り付けておきました。叶うかどうか、甚だ疑問ではありますが。

 こうはいなら、社会の荒波にも耐えていけるでしょう。彼は安泰です。電話の終わりぎわに、「先輩は繊細なので心配ですよ」と言われてしまいました。


14


**

詩『ノベルノベル』


とりあえず男子の名前隠して意味深さ出しとけ

終盤で一回だけ名前呼ばれとけ その際は太宰とか芥川とか文豪の苗字被せとけ

ヒロインの子を不治の病とか交通事故で余命決めておく 男子は頑なに看病し続けとけ

サブキャラで王道っぽい美女とかイケメンを出しておく

思いっきり絡ませて三角関係つくっとけ

女性主人公が入社した会社にイケメン上司配属しておけ

あるいは仕事がマンネリ化してきた頃合いで猫系男子の後輩を入社させておけ

終盤何かのイベントのために主人公を爆走させておく

でも今どき走る描写が長すぎても読者に指摘されるから途中でタクシーでも拾っとけ

天候操作だとかタイムリープだとかのSF要素混ぜておけ

一回ケンカ別れしそうになってから男子にバックハグさせとけ

バーのベランダで二人窓の外見上げながら「東京の夜空は」とかどうこう言わせておく

しばらく会えない時期は主人公の部屋散らかった描写して心の乱れを暗喩しておく

初セックスの翌日は映画館行く予定をキャンセルして一日中セックスさせておく

小説は百作あったら百通り 作品の数だけ表現がある

作家が百人いたら百通り 作家の数だけストーリーがある

似ているようでも何かが違う そんな小説を全部愛そう



**


「ときどきね、誰も俺を知らないような、遠くに行きたくなることがあるんだ」

 あの子と二人きり、僕は言いました。あの子の部屋で、ときおり僕はテキーラを飲むのでした。

「分かるわよ」

「そして実際に行く」

「どこに行ったの?」

「昔ね、やれ上司にいわれないことで朝から三〇分怒鳴られ続け、お昼休みも取れず一日に数回頭をしばかれ、あとなにかあったか分からないけれど、全て捨てたくなったんだ。

 それで翌日の仕事なんか何も考えずに、新幹線に乗って東京に行った。新宿のバーでね、ゲイの人と意気投合したんだ。中性的で美しい見た目の人だったよ。彼、というか女子っぽくもあったから彼女というべきか悩むけれど、ともかく、乾杯を交わして何杯も飲んだと思う。

 そうしたら彼はこれまでのお話をしてくれた。自分の中身がゲイであることに気づいて、確か元の名前が龍之介だったかな、カッコ良い名前だったんだ。けれど、戸籍上の名前を改名したらしい。その改名後の名前が、偶然俺と同じ名前だったんだ。

 彼はその日、改名後一〇年経ったと言っていた。それで俺はもう酔っ払っていたのかもしれないけれど。

『今日は新しい君の一〇歳誕生日だ、記念日だね。よし、テキーラのショットを一〇杯飲もう』

 と言って、その通りにしたんだ。一気に飲み干したよ。冷静に考えたら、普通は相手が飲み干すと思うんだけどね。そのあと俺らは、どっちから誘ったのかわからないけれど、二人きりになって寝たんだ。

 男性のお尻を掘ったのはその日が最初で最後さ。暗闇の中でお互いに同じ名前を呼び合っているとね、自我が崩壊しそうになったよ。体だけでなく、心も混ざり合っていたのかな」

「なんだか不思議な話ね」

「東京には二泊した。ともかく、会社にしたら俺は突然無断欠勤した上、二泊三日の東京旅行に行っていたクズなわけだ。そのあと出勤したら頭をシバかれたけれど、それで終わりだったよ。こんなクズでも辞めさせるのは無理らしい。結局地方銀行なんてどこも人手不足なのさ。あんなの、精神を殺してるやつの勝ちだ」

「あなたのいるような場所じゃないわ」


 僕にはとうとう、社会復帰のときがやって来ました。別に特別な決心だとか、きっかけがあったわけではありません。休職して丸一年が経ち、なんとはなしに戻ろうと思ったのです。

 ひとつ、正直に思うことがあります。僕は会社員に対してある種の憧れや尊敬を抱くようになりました。決まった時間に起き、決まった時間に会社に行き、それを三六五日、そして何年も続けることの、何たる果てしないことか。今の僕には、そうとうハードルの高い仕事なのです。そういった決まった仕事をする人たちのおかげで、日本や世界の電車が動くし、スマホが使えるし、飛行機に乗られるし、あまたの文明を利用することができるのです。とりわけ、日本はインフラの正確性において、とんでもなく優秀だと思うのです。

 僕はリハビリ出勤といって、だんだん慣らしていく出勤をすることになりました。詳しくいうと、最初の一週間は午前中だけ、次の一週間は五時間出勤、というふうに少しずつ出勤時間を増やし、フルタイムに慣れさせていく方法です。


 あの子にも、当然伝えました。狭いあの子の部屋で、あの子はつつと泣きました。

「君のおかげだよ、ありがとう」

 僕は言って、涙を拭いました。人の表情の、何たる多彩なことでしょう。あの子の表情は、喜びとも、悲しみとも、哀れみともとれるものでした。人の感情は、同時に複数はたらくことがままあるのだと、身をもって分かりました。

 あの子は社会復帰した僕の勇気に泣き、これからの僕を心配して泣いてくれたのです。しかし一つ見抜けなかったのは、あの子が僕を、完全な男に成ったと勘違いしてしまったことです。

「おめでとう。よく頑張ったのね。もう私は必要ないわね」

「これからも必要だよ」

「いいえ、一生フリーターと生活保護で生きていく私と、一緒にいちゃあダメだわ」

「悲しいこと言うなよ」

 あの子は立ち上がって、洗面台のそばへ早足に向かいました。狭い部屋ですから、すぐに辿り着きます。薄い壁が一枚あるだけです。

 僕もすぐそばへ行きました。この部屋で唯一の大きな鏡が、あの子と僕をうつし出します。その鏡には、大きな亀裂が縦に入っていました。いつぞやの深夜、あの子が酔っ払って、一升瓶を叩きつけたのです。「自分の顔が不細工で、見ていられなかった」とかなんとか。

 その鏡は、あの子と僕を別々に反射しました。あの子は突然に、左手首のバンドを外しました。何十本入っているか分からない傷が、茶色のカサブタになって表れ、あまりの痛々しさに僕は息を呑んだのです。

「ほらね。私の傷で言葉を失うくらいには、マトモな感性しているんだわ。あなたは私と違ってマトモなの。イカれちゃいないの」

「とっくにイカれたさ」

 あの子の耳には、もう言葉は入っていないようでした。あの子は小さいカプセルを用意して、その上で左手首をがりがり引っ掻き始めました。カサブタが落ちて、カプセルの中へ入っていきます。

「やめなって。何をしてる?」

「見たら分かるでしょ。あなたが忘れないように、私の一部を閉じ込めてるの。あなたへの最後のプレゼントよ」

「やめなよ、君がずっとそばにいてくれたらいいじゃないか」

「私ずっとあなたの芸術性に憧れてた。でも私じゃ作品は作れない。このカプセルが、私の人生最初で最後の作品だわ。大事にとっていてちょうだい」

 あの子はリスカ痕のカサブタをカプセルに詰めて、血のついた指先で僕に渡したのでした。かつてなく、心臓の鼓動が早まりました。あの子に脅威すら感じたのです。あの子こそが真の芸術家だったのではないかと、今では思います。あの子は血と肉を抉り出して、全霊で僕に明け渡したのでした。

 僕は短い人生で長編を十編以上、短編や詩は何十編書いたか分かりませんが、どれをもってしても、あの子のカサブタのカプセルには到底追いつけないと体感したのです。値のつかない至高の芸術とはこのこと。

「約束するよ。墓まで持っていく」

 あの子はこくこくと頷きました。もはや言語など、安っぽくて発することができなかったのです。僕がカプセルを握りしめたとき、僕らはこの世で最も心の通じ合った二人でした。僕らは今まで、さまざまな形で愛を伝え合ってきました。ときには愛しているよと言葉で囁き、体を通じてお互いを知ったつもりになり、同じ本を読んだり同じ映画を見て、気持ちが通い合っていたと思い込んできました。これこそが真実の愛だと信じてやまなかったのです。

 ですが本当の境地は今ここでした。一言も要らなかったのです。僕はあの子の渡してくれたカプセルに糸を通してネックレスにしました。以降、どこへ行くにも何をするにも、そのカプセルは僕と共にあります。これからもずっとです。

 あの子のカサブタの入ったカプセルを見るとき、僕の心音は平常に戻ります。同僚の笑い声が自身を笑っているかのように聞こえるとき、会社の上司に怒鳴られるとき、ふとした不安で動悸が早まるとき、そのカプセルを見ては、心を落ち着かせているのです。


 あの子がいなくなったとき、部屋の床にデカデカと文字が彫られてありました。「理想のために高貴な死を選びます」

 ライ麦畑でつかまえてとは、なんともあの子らしいものだなと思います。偽悪的な君にふさわしいし、君はやはりあの本が好きだったんだねと。ただ、あの子は未成熟か? 僕にはそれだけが疑問です。



※※

 姉さんとの最後の会話です。

「あんた、会社戻るんだって?」

「ええ、どれくらい続くか分かりませんけど」

 姉さんは病院のベランダで、タバコをふかしてました。

「来週からベランダでタバコ禁止だってさ。禁煙が広まってきてるからねえ。喫煙者の形見は狭いよ」

「別にベランダくらい良さそうですけどね。副流煙がどうとか言われるんでしょう」

「全くねえ、あたしら喫煙者がすすんで納税してるっていうのにねえ」

「喫煙者はだいたいみんなそれ言いますよ。だいたいニコチン依存なんですけどね」

「あんた、どっちの味方よ」

「いや、別に敵とか味方とかじゃないですよ」

 姉さんはタバコを口から離して、ふうと吹きました。

「前からね、あんたは社会復帰できると思ってたよ。あたしと違ってさ」

「どうですかね」

「できるできる。ずっとここに通ってる人間じゃないよ。ああ、なんだか差別的な言い方になるかもしれないけどね。デイケアがずっと必要な人もいるし、大事な場所だけれど、通わなくてもいいならそれで十分。なんていうか、分かる?」

「つくづく思いますよ。心を病んだ人は、他人に優しくなれるし、嫌でもメンタルヘルスに詳しくなる。でも、できるなら病まないに越したことはない。心も体も健康が一番」

「そういうこと。あんたやっぱり、小説書きなのね」

「言いましたっけその話?」

「いいや。でも、そんなオーラ出てる。それに、あたしバーのママやってたのよ。観察眼舐めちゃダメよ」



 これは姉さんに何度か直接聞かせたことですが、僕は離婚した人も含めて、結婚歴のある人は皆尊敬しています。姉さんはよく、自分がバツイチであることを卑下していました。半分は笑いを取るためであったかもしれません。けれど、姉さんは一度、「この人と人生を共にしよう」と思える人に出会え、その決心をしたのです。

 僕は一度として、結婚すらしていません。それに比べれば、結婚した人の決断力や行動力には恐れ入るのです。離婚に対して悪いイメージはありません。むしろ、馬が合わなかったりよほど嫌いだったりするのであれば、さっさと離婚すれば良いかと考えているのです。未婚のガキの主張ですが、SNSで配偶者の愚痴を垂れ流して何万字も書いているアカウントが多数見られますし、その努力で離婚調停の書類を準備できたのではないかとつくづく思います。

 姉さんは離婚しましたが、その後は第二の人生なのです。また恋人を作るなり、結婚するなり自由です。僕などは、人生一週目もまだ終わっていないのですから。



 こうはいが一度だけ、詩を見せてくれたことがあります。彼は基本見る、聞くが専門とよく言っていました。実際批評家気質で片っ端から名作小説名作映画、最近流行りのものまで齧り回っていました。こういった人が創作に手を出すとき、作りなれた人とは違う、良い意味で独特さが出るのです。僕はそれが好きです。

「先輩の真似して、作ってみたんですよ。なんかこう、見せるのって小恥ずかしいですね」


**

『イヤホン絡まる』


 なにもやる気が起こらない ああそうだ音楽聞こうそうしよう

 音楽はやる気のスイッチ 共感は友情スイッチ

 イヤホンどこだっけ のほほん 右ポッケ左ポッケ

 「あああった って めっちゃ絡まってるやんけなんでやねん

 なんでいつもイヤホン絡まるん しっかり結んだはずなのに」

 モヤッと気分が下がる イラっと体温上がる

 ポッケに入れたら歩いたり座ったりでイヤホン絡まる

 紀元前から証明されてる プラトンも言及してる


 絡まってること気づくのはいつだって 光差したその時にやっと

 終わってる曲線の宇宙 僕の両手ではほどけない

 ほどき続け日々を忘れ 明日の課題も思い出せない

 終わりはない もう知らない


 提案です ネットショッピングで新しいの頼もうそうしよう

 四年は使った 役目は果たした 誰でも分かる合理化の原理

 「よっしゃ今どきワイヤレスイヤホンあるわ これなら絡まへん

 ちょなんで充電維持時間五時間なん そんなん充電器忘れて外で使えへんなる未来見えるわもう」

 モヤッと気分下がる イラッと体温上がる

 安物イヤホンはすぐ壊れるっていうレビュー でも学生に一万円は高い

 有史以前に証明されてる ありし日のアリストテレス


 絡まってること気づくのはいつだって ミノタウロスの迷宮のよう

 終わってる曲線の宇宙 アリアドネの糸は現実にはない

 ほどき続け日々を忘れ 紙ゴミ捨てる日も分からない

 全部投げ出したいよ もう全部


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15


 会社復帰後、僕は電話のほとんどかかってこない、事務作業ばかりの部署へ回してもらいました。営業とは程遠いし、窓口に来て声を荒げる人と関わる必要もありません。ただ、出世からは最も遠い業務とも言われています。僕は自身にとても相応しい仕事に思えました。

 入社して数ヶ月は出世に憧れ、早く上位職になり早く結婚するのが夢でした。けれど僕には、土日を費やして試験勉強をしたり、移動中の電車の中ですら日経平均株価の推移を気にしたりする生活には、どうも馴染めませんでした。この手の仕事には、もちろん努力次第でどうにかなることも多々ありますが、元から持っている資質が必要なのです。もしくは資質がないなら、「努力する才能」のようなものが要ります。

 今の部署は僕と同じように、一度死んだ目をした人が何人かいます。一度でも闇の中に落ちたら、その者同士はなんとなく分かるのです。全くもって無駄な能力ですが。また、不安障害から四六時中イヤホンをして好きな音楽を聴きながら働いている人もいて、意外にもこの会社は懐が深いのだなと思いました。

「どんな人にでも、その人にできる仕事があるのよ」

 新しく上司になった人は、勤務初日にそう言ってくれました。この手の綺麗事はあまり好みませんが、上司の笑顔が本物で、彼女自身の目尻やら挙動やらから、若造に敵わない経験を持っているのがすぐに分かりました。僕はある種、救われたのです。

 ほんの数ヶ月の間ですが、救われたのです。しかしドロップアウトした者にとって、定時に起きて定時に会社に行くというハードルそのものが、もはや相当高いものになってしまっていました。おまけにひどいのは、あの子ともう会えない。

 僕は今日、理由も分からず上司に欠席の電話を入れました。上司はなにも聞き返しませんでした。僕にはそれが、僕という人間の出来損ないさを際立たせ、余計に辛かったのです。




何者かであるあなたへ送る章

 平成三一年の春でした。あの子が消えてしまったのは。そうして僕は、ひとりぼっちになりました。いえ、そもそも誰もが一人ぼっちであると、思い知ったのです。突然に、あの子は消えました。

 この世で二度とあの子に会えぬと知ったとき、あの子の言葉を思い出しました。これが最後のセックスだと思ってする人はいない、と。僕は毎回、人生最後の夜を過ごすように、あの子を抱くべきでした。愛する者を失ったとき、誰もがそう思うのでしょうね。

 元号はあの子の存在を置いて、令和になりました。僕にはこの時代が、空虚に灰色に見えて仕方ありません。時代が悪いのではなく、僕がただ追いつけていないのです。最近は、どう消えるかと言うことばかり考えています。以前から変わらぬことですがね。

 やはり服毒が良いかと考えています。村上春樹先生は劇中で「エンパイアステートビルの屋上から飛び降りればいい」とおっしゃっていますし、おおむねその通りでしょうが、万が一にも、中途半端に生き延びたらと考えると、それは死より怖いものです。真の不幸とは、死にたくても自殺もできぬことです。

 本稿は徹頭徹尾、若造の戯言です。最後につらつらと、もう少しばかり戯言を続けようと思います。

 まず第一に、僕が消えるのは特定の誰かのせいではありません。自死、老衰やそれ以外のあまたある理由で亡くなる人々と同じように、居場所の喪失ゆえに、消えるのです。

 旧約聖書にて、アブラハムは「安らぎの故郷を棄てよ」なる啓示を受け旅立ちます。彼は一生をかけて世界を彷徨い続けます。この物語でアブラハムの苦悩を思うとき、僕は一つの答えに至りました。人間に真の故郷などありはしないと。仮にそこが自身の居場所だと思えても、いっときのものであったり、かりそめの居場所なのです。僕にとっては、あの子こそが仮の居場所でした。その居場所はもうない。

 家庭をもつのも、あるいは子をもつのも、恋人をもち、仕事をもち、趣味をもち、友をもつのも。僕は彼らを見るとき、彼らも居場所を探す旅人なのかなと、考えます。願わくは、そこに彼らの安らぎがあらんことを。

 僕には親がおり、妹や弟がいます。彼らに一切の不足や不満はなく、むしろ尊敬のできる人間たちです。

 誰かが、何かが憎いわけではない。この世界では、僕はもう心の底から笑えないのです。

 第二に、僕を知るすべての者へ。しんみりするな、と言いたいです。人が死ぬと言うのは、人が生まれることと同じくらい、ごく自然であり、壮大であり、日々起こっていることです。

 物品は家族や親しいものに委ねます。コレクションになりそうなものや、ゲーム機などは、使わないのであれば売却が得策かと思います。それなりの値段になりそうなものもあります。

 貯金額をときどき確認するのですが、身内での葬式ぐらいならあげられるだろうと思います。その額を見て、僕は毎度、「消えるにはちょうどいいな」と考えるのです。

 第三に、僕がこの期に及んで最も恐れていることがあります。それは僕がいなくなるのが、コンテンツとして消費されることです。日常にままあることですが、やっと僕の名前と顔を覚えているかいないかくらいの者が、居酒屋で

「中学の友人が最近自殺してさあ」

 などと格好をつけられると、地獄からそいつの足を引っ張るだろうと思います。身近な者の死を語ると、簡単に「闇を背負った者」の仮面を被ることができます。この手の人間を見かけるとき、反吐を吐きそうになるのです。生前相談に乗る気などなさそうな者ほど、こういった振る舞いをするのでしょうね。

 悪質な巻き込み自殺があったとき、各種SNSで「死ぬなら一人で死ね」と書き込む者へ。巻き込み自殺は到底許されぬ行為ですし、僕ですら、巻き込まれたらたまったものではないと思います。毎日、ああやってほとんど理由なく自殺に巻き込まれた人を思い、悔やんでいます。けれども、一人で死ね論者には、僕が消えたあと、是非とも僕のことを絶賛していただきたいなと考えております。僕は彼らが言う通り、誰にも迷惑をかけることなく一人で消えるのですから、「一人で死んでえらい」と褒めるのが順当だと思います。

 けれども、あの手の人物の大半は、自死する者の背景を五秒と考えられない萎縮した脳しかない者ですから。

 僕の名など新聞で見た際には、

「若いからまだ未来があったのに、胸が痛みます」

 などと簡単にネットのゴミ溜めに吐きだし、毎日と同じように仕事をしたり趣味をしたりして、翌朝には忘れるのでしょう。そういった人間が偽善者面するための栄養分になることもまた、耐え難い苦痛です。

 同様に、死後のことなどいっさいどうでも良いではないかとも考えております。


 資本主義社会にて動物的生を享受するよりかは、人間的死を選ぶ。などと格好つけたいものですが、実際のところ、ただただ居場所の無いゆえに消えるのです。今となっては、物心ついて以来、至上の解放感すらあります。

 この日本や、アメリカや、イギリスや中国やインドやシンガポール、あるいはオーストラリア、二百近い国々で、ほとんどの人々が、明日を憂い、来月を心配し、一年後の事由に頭を抱え、将来への不安と戦っています。僕はもう、戦わなくていい。あらゆる不安から解放されるのです。これから僕が迎えるのは、ある種の救済なのです。

 同年代の友人と同じように、今月の家賃やクレカの支払いなど、もはやなんてことはないのです。

 芥川龍之介先生も三島由紀夫先生も、自身で死にました。他人に迷惑をかけることなく死にました。三島先生などは、最後の最後まで日本の今後を考えていたのです。僕に彼ほどの精神力や肉体はなく、彼の逞しさの十分の一も持ち合わせてなどいませんが、自分の命は自分で始末するという部分だけでも、模倣しようと考えるばかりです。


 最後の晩餐は、ラーメンにしようと思います。その後、あの子と行ったバーで、ウイスキーのショットを浴びるほど飲む予定です。メニューを片っ端から頼んで、メジャーなカクテルは今晩でほぼほぼ飲み尽くしたと言いたいものです。

 明日消えるとき、あの子の囁く声を聞くことができるのだろうか。


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