本文1
「投げられた石にとって、上っていくことが良いことでもなければ、落ちていくことが悪い事でもない」ーマルクスアウレリウス
序
今しがた、自分の立っているバケツを蹴りました。体重で体が落ち、縄が首を締め付け始めます。早くも、意識が朦朧としてきました。まずは苦しみ。鼻や口からなんとも分からない液体が出ていくのが分かります。あまりにも不快。けれども、意識が遠のいていくに従って、その不快感すらもなくなっていきました。あの子の、囁くような笑い声が聞こえてきます。今にも、僕のすぐそばにいるかのように。ああ、あの子が微笑んでくれているのが分かる。
1
永遠など。僕は永遠についてときどき考えます。誰しもが一度は考えるようにです。永遠などない。それが僕の結論です。少なくとも僕の感性では時が進行しているように感じられるし、ある種のニヒルさからくるのかもしれません。
実際はどうしようもなく感情的で惚れやすい人間であるのにもかかわらずです。
もちろん信じたい永遠性もあります。特に恋愛においてです。すべての感情が圧縮され過去現在未来を問わず僕たちが愛し合えたと思うとき、内心、これが永遠だと確信せざるをえません。
あの子と共にいるときは、しばしばそうでした。
「永遠を信じるかい」
僕が言うと、白い肌を毛布に包んだままのあの子は、寝返りを打ちました。
「あなたって哲学者ね」
「どうしてそう思う?」
「良い年こいてそんなことを考えている人は、哲学者か暇人しかいないわ」
「じゃあ俺はどうしようもない暇人だね」
あの子は微笑みました。
「良かった、私に構ってくれる暇があって」
「どんなに忙しくたって、構うさ」
「いいえ、いつかあなたはいなくなるわ」
あの子は言うと、僕に擦り寄ってきて、座りかけた僕の目を覗き込みました。
正直に言うと、その目が怖かったのです。ただ僕の瞳や表情を見るだけでなく、その内面までも見ているようで。僕すらも知らない、本当の僕があの子にだけ見えていると言う気がしたのです。それ以上に、あの子の瞳は美しかったので、目は逸らしませんでした。
俯瞰的になったのか、ふと『こうはい』のことを思い出しました。
「昔ね、大学のこうはいがさ、どんな人間でもそいつの人生を小説にしたら面白いって言っていたんだ。そう思うかい?」
「人によるんじゃないかしら」
「最も正解と言えるだろうね」
「きっと私の人生が本になったら、それを読む人は退屈ね」
「そんなことない。僕だったらずっと読み耽るさ」
そう言って、僕はあの子を抱き寄せたのでした。
2
現実が辛いならば、僕は簡単に逃げます。睡眠剤を何錠も口に含んで、ウイスキーで流し込めば良いのです。そうすれば意識が飛ぶし、飛ばなくてもハイになれます。稀にそんなことをやっては、お医者に怒られています。
ある日の朝、何気ない、誰にでも訪れる絶望の朝です。太陽を見るとき、もしくは日の光が部屋に差し込むとき、僕は自覚するのでした。新たな一日が始まり、今日もまた僕は生きていて、毎秒歳をとり、すぐには死なぬだろうということです。
また人間を始めなきゃいけないのか、などと考えていると、あの子から電話がかかってきました。たいへん珍しいことです。あの子は連絡を取るときいつも控えめで、デートにしろ電話にしろ、あらかじめメールを打つのでした。さらにひどいのは、あの子はいつも僕に他の恋人がいるような前提で話をするのでした。なんでも
「あなたは魅力的だし、実際に浮気されても心の準備ができていれば楽。それに、私に一途になってくれる人なんていないわ」
なんて悲しいのでしょう。
けれど、今日は突然の電話。よほど大事だろうと思いました。
僕は布団に寝転がったまま、電話をとりました。
「もしもし」
「……」
電話の奥で、あの子が泣いているのが分かりました。
「ごめんね朝から電話かけて」
「ううん、それより泣いているだろう」
「うん。涙が止まらなくて。ごめん。困るよね。どうしてもあなたと話したくなって」
「いいや。困らないよ。むしろこういうときのために俺がいるんだろう」
「今日さ、お仕事休んでもいいかな?」
「いいよ。今まで一回も休んだことないんだろう。一回くらい分かってくれるさ」
実際のところ、僕にはなんの権限もありはしないのですが、本当に休んで欲しい気分でした。僕も以前、毎朝泣きながら通勤していました。その時点で、脳みそは限界を訴えているのですから。
あの子はたどたどしい口調で言いました。
「ありがとう。連絡してみるわ」
電話が切れました。その日そのとき、あの子には僕が必要でしたし、僕にはあの子が必要だったのです。
あの子は次の日には仕事に行けたようです。夜になって、電話がかかってきました。僕が電話に出ると、その声はつきものがとれたよう。
「一日泣いて寝たら、すっきりしちゃった。なんだったんだろうね」
「そういうものさ。けれど、もっと溜め込んでいたらやばかったろうよ」
「あなたは溜め込んだの?」
「どうだかね。それより会いたいね」
「明日の仕事終わりに連絡したら、来てくれる?」
「ああ、行くとも」
A
学生時代の思い出です。
こうはいは、良く僕をご飯に誘いました。週に七日以上ラーメンを食べる男でした。例え僕に断れられ一人であろうとも、ラーメン屋に行くのです。
「俺の血液はラーメンのスープでできているんですよ」
それが彼の口癖でした。
彼は細く、背の高い、どこにでもいる大学生の容姿をしていました。その趣味と知識の幅は計り知れず、結局一緒にいた三年、それを端から端まで知ることはできませんでした。宇宙の端が発見されていないように、僕は彼の宇宙に点在する星々を観測することしかできなかったのです。
ある日ラーメンを食べた帰り、こうはいは言いました。
「先輩も自分のことモデルにして小説を書いたらいいんじゃないですか」
「ええ? 君とラーメン屋に行った帰りのことを書けって?」
「あ、良いですね。意外と画になるかもしれませんよ」
「んなわけあるか」
「先輩は自分が思っているより計り知れない人間ですよ。俺ら年下の間じゃあ、サイコパスって噂もあるし」
「それを本人に伝えるのもなかなかサイコパスだね」
「太宰治も『人間失格』が一番面白いし、三島由紀夫の傑作は何かって言ったら『仮面の告白』でしょ。大概の人間、人生を小説にしたらきっと面白いと思いますよ。ていうかつまらなかったら、そいつ一体どんな退屈な人生送ってきたんだって話でしょ」
「そんなもんかねえ」
星が綺麗な夜でした。こうはいの言葉を頭の中で繰り返して、僕の人生も果たして面白いものかと考えました。よくよく考えても、パッとせず、仮に書いたとしても、自身のことゆえに恥ずかしさの方が勝りそうだななどと思ったのでした。
3
思い出したので記しますが、あの子の家に言ったとき、ガラスの破片が部屋に散らかっていたことがありました。あの子はベッドにも行かず、赤い顔で床に寝ていました。強盗に入られたか、レイプの被害にでもあったのかと、真剣に心配したのです。
僕があの子の胸に手を当てて、心臓が動くのを確認していると、手をがっしり掴まれました。あの子は血走った真っ赤な目で見つめてきました。
「あなたね。ああ、びっくりした」
「こっちのセリフだよ。何かあったの? ケガは?」
「残念ながら怪我はないみたい」
「良かった」
「良くないわ。私、今日も生きてる」
そのあと一言二言交わして、ガラスの破片や部屋がとっ散らかっているのは、全部あの子自身のしわざだと分かりました。それでも僕は疑ってしまいました。とにかく心配だったのです。
「本当に? 暴漢に入られたんだったら、今からでも通報するよ」
「本当に全部私がやったの。私のこと襲う物好きなんていないでしょう」
「ここにひとりいる」
どうしてこう、あの子は死にたがりなんだろうと、つくづく思います。僕も人のことは言えませんが。
洗面台に立つと、自分の顔が真っ二つに写って驚きました。部屋に唯一と言ってもいい、大きな鏡が縦に割れていたのです。
「鏡も君がやったの? もったいないなあ」
「一升瓶叩きつけてやったわ」
「どうしてだい?」
「そこに写る顔が不細工でたまらなかったの」
言い切る頃には、あの子は床に寝たまま、泣いていました。義務教育でなぜ自己肯定感を育てないのか、僕には甚だ疑問です。
「俺には綺麗に見えるけどな」
僕は駆けつけて、あの子の涙を親指で拭いました。
「恋って盲目なのね」
「今日も君は綺麗だよ」
「うそ」
「世界で一番かわいい」
「うそよ。もういい」
「いやだね、君の自信がつくまで毎日言う」
あの子は静かに笑って、泣き疲れたのかまた眠りにつきました。そういえば、涙と血の成分はほぼ同じらしいです。
ある夜、なんだかとても変な夢を見ました。語彙の不足を感じさせますが、ともかく変な夢としか言いようがないのです。
あの子と一緒にいるとき、ふと思い出して話しました。そこはとあるホテルでした。
「変な夢を見てさ。下らないだろうけど、話していいかい?」
「あなたのことならなんでも聞きたい」
「僕はね、白と黒だけの世界に立っていて、見渡す限り廃墟だった。右手にはコインを握りしめていた。ともかく資本だった。見たことあるものも、写真でしか見たことないものもあった。日本円だけじゃなくて、セント玉もあったし、くしゃくしゃのドル札もあったかもしれない。全然知らない国のコインだったかも。
最初、『こんなもの役に立たないな』と思って空に向かって全部放り投げた。そしたらコインやドル札は青空の中でどんどん小さくなって、落ちてこなかった。それから、説明が難しいんだけどさ、どんどん場所が変わって、防音室とか、小学校時代の音楽室とか、誰か美術家の家とか。そこで僕は、あらゆる芸術に手を出そうとした。
ギターを弾いたり、油絵を想像のままに書き殴ったり、ときには音楽を流してダンスしたり、机に突っ伏して小説を書いたりした。現実ではやったことのないものも色々やったよ。『なんて素晴らしい!』って思ったし、ずっと思い込もうとした。それでどのくらい長いこと取り組んだのか分からないけれど、どこかで飽きてしまったんだ。
他に芸術が思い浮かばないやと思うと、僕は最初いた廃墟に戻っていた。そうして、いつからあったのか、ゲームセンターにあるようなUFOキャッチャーがポツンとあった。今考えればシュールだよね。僕はどうしてもそのUFOキャッチャーをやりたくなったんだ。もちろんコインが要る。
そのとき、最初に投げたコインが空から落ちてきた。僕はそのコインを喜んで拾った。キャッチャーに投げ込んで、ひたすらにアームを動かしたんだ。いろんな芸術をやり尽くしたのに、キャッチャーには飽きない気がした。そうして延々とアームを動かしているうち、夢から覚めたんだ。
なんだか不思議な夢だったよ」
その後に、僕ばかり話してすまないと付け加えました。
あの子はしばらくの間、黙って僕の言葉を咀嚼していました。ふーむだとか、なるほどね、だとか、ひとりごちていました。幾らかの質問。
「あなた、あらゆる芸術に手を出したのね」
「知っている限りはね」
「けれども、しっくり来なかったと」
「うん」
「ええと、最後は何をしたのだっけ?」
「UFOキャッチャー」
「分かったわ」
また、あの子は少し考えました。しばらく僕の方を見ます。あの、全てを見通したような目です。
「私って学がないから、批評なんて似合わないのだけれど」
「いいよ、聞かせて。それに謙遜は無意味だ」
「その夢って、なんだか素敵なストーリーね。皮肉的でもある。
おそらく、コインは資本主義っていうの? お金全体の象徴だわ。あなたは最初、その資本を放り投げる。
『こんなもの俺にはいらないぜ』ってね。それで芸術へ突き進む。芸術って、ある意味資本とは真逆の存在でしょ? 資本では計り知れない何かを書いたり、描いたり、歌ったりして。後から価値がついてくるものだわ。ゴッホみたいに、死後評価されることだって多々あるでしょ」
「確かに。『値札が付くものは芸術ではない』という極論すら聞くからね」
「その後、芸術の中に、あなたにだけ分かるものを見出そうと一生懸命頑張ったのね。これこそが本当に美しい、本当に価値あるものだという何かを追い求めた。
けれど最後にはコインを手にする。UFOキャッチャーで遊び続けてしまったってことは、結局は資本主義に依存しちゃったってことじゃないかしら」
「想像の十倍くらいしっかりした感想が聞けたよ」
これほど、自身の夢に的確な批評をされたことは、かつてありませんでした。全てを聞いて、僕は自身にがっかりしました。ため息すらついたでしょう。
何を思ったのか、あの子は体を縮ませました。
「怒らないで。悪口じゃないのよ」
「怒らないよ。呆れているんだ。自分にね。俺ってつまらない人間なんだね」
「あなたは素敵よ」
「いや、そんな夢を見ているようじゃダメさ。唯一無二に憧れているのに、実際は有象無象と同じじゃないか。俺は普段から、人間ごっこをしている奴らを軽蔑しているのに、軽蔑している彼らと一緒だ」
僕はどうしようもなくなって、ホテルの洗面台に頭を打ち付けました。二度か三度打ち付けました。額の血が、洗面台の端について、悲しいことにその血は人間らしい赤でした。
「この汚い赤も、大衆の血の色と同じさ」
「手当てしましょ」
あの子は近寄ってきて、僕の額に親指をあてました。身長差があるので、あの子はかなり腕を伸ばしていました。指についた血を、丁寧に舐めるあの子。僕から目を逸らさずに。
「あなたと私だけの血だわ」
4
思い出。あれは二千年初期の事件でした。中学生の少女が自殺をしたニュースです。その子の遺書の一部が公開されました。ひどくプライバシーを侵害する報道だなと思いながらも、その遺書は僕の頭から離れないのです。
「あたしはいじめられているわけでも、家族が嫌いなわけでもありません。すごく幸せです。今日以上に幸せな日はないと思います。これから先、今日より不幸になるのが怖くて、だから死のうと思います」
当時の僕には衝撃的でした。自殺は、生きているのが辛くて、どうしようもなくて、深く絶望した人がすることだと想像していたのです。もちろんそういった人もいるでしょう。
幸せをかみしめて亡くなる人もいるのだなと、驚いたのです。
この考えは、あの子によく似ているなと思います。あの子はしばしばこういった話をするものですから、その度にこの事件が思い出されるのでした。
5
「今にでも私、死にたいの」
あの子の部屋に二人でいるとき、しばしばあの子はそう言いました。
「それじゃあ君と愛し合えなくなる」
「生きてたって、分からないわ」
「今日が君と俺の最後になるってこと? まさか」
「最後のセックスをするとき、これが最後だなあって思いながらする方が稀だわ」
僕は今までの恋愛を振り返り、それは一理あるなと思いました。「現実は残酷だね」
「しかも、優しいあなたが残酷なのが耐えられないの」
「どういう意味?」
「あなたがモテるのが耐えられないのよ」
「分からないな。俺に惚れる物好きなんて珍しいよ」
「自覚ないのね。人たらしなのね。やっぱり」
あの子はベッドの上で、寝返りを打ちました。
「ねえ、腕枕して」
横に寝そべっていた僕は、言われる通り腕を伸ばしました。あの子は寄り添ってきて、僕の腕に頭を乗せ、何度か移動させました。ちょうどいい、あの子の頭と僕の腕がしっくりくる位置を探しているのでしょう。あの子は程よくおさまったのか、瞼を閉じました。
「以前、私に聞いていたわよね。永遠を信じるかって。信じないわ」
「『愛とは、腕枕をしながら自身の腕や体はこの人のためにあるのだと信じて疑わず、その痺れを忘れることである』」
「誰の言葉?」
「キルケゴール……とか言いたいけれど、今僕が思いついただけだ」
「素敵な言葉ね」
「たいていの文面は愛を頭につければそれなりになるもんさ」
「じゃあ愛について語るのはナンセンス?」
僕はあの子の目を見つめ返して、唇を味わって、あの子の唾液を味わいました。
「そうだよ。信じられるのは君の唾液の味だけだ」
B
こうはいは、そこにある限り酒を飲みました。居酒屋では閉店まで時間のある限り。こうはい自身の家では冷蔵庫の中身がなくなるまでです。ある日僕はこうはいの家に呼ばれ、映画を見ていました。「ビューティフルマインド」です。
小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、古きも新しきも名作と呼ばれるものは名作であり、可能な限り触れて生きたいものです。それはこうはいも同じでした。その意味では、こうはいは誰よりありがたい友人でした。僕なんかよりも、世界の名作に詳しいのですから。
こうはいは暗い部屋を行ったり来たりしながら、DVDを用意したり、ウイスキーを用意したりしてくれました。こうはいはある意味コウモリのような男でした。一日中カーテンを閉め切っており、休みの日なら夕方や夜八時頃からのそのそと動き出し、日が昇る頃まで酒を飲んで過ごすのです。こんな生活リズムで、よくもまあ大学の単位が取れたものだと感心します。
僕も後輩も、洋酒はほとんどロックで飲みます。
「DVD借りてきたんですよ。『ビューティフルマインド』って知ってます?」
「いや、初耳だね」
「あ、知らないんですか。結構有名ですよ。ええと、学者のヒューマンドラマみたいな映画なんですよ。なんとか理論の人。ゲーム理論だったっけ。あんまり俺も詳しいわけじゃ無いんですけど」
「ゲーム理論ならジョン・ナッシュじゃないか?」
「そうそう。さすがですね。先輩は作品そのものを知らなくても、知ってる知識から結びつける力ありますよね」
「褒めたって何も出やしないさ。やっぱりジョン・ナッシュなんだね。俺ゲーム理論好きでさ。ポーカーとかで使われるだろう。他にもボードゲームとか。実際はもっと多岐にわたって汎用性のある理論らいしいけど」
「いや、本当に知らないです。ただただ名作っていう噂だけでDVD買ってきました。今度ゲーム理論教えてくださいよ。説明を聞いたところで、多分俺には分からないででしょうけど」
「行動力すごいな」
「まあ、駄作だったら飛ぶまでスピリタス飲みましょう」
こうはいは映画を再生する準備が終わると、こうはいのグラスにも僕のグラスにもウイスキーを並々に注いで、再生を始めました。配給会社のロゴなどが流れていきます。
「今更ですけど、ウイスキー、ロックで良かったですっけ?」
「ああ、いいよ。だいたいロックかストレートで飲むかな。割って薄くなるのがあんまり好きじゃない」
「分かります。炭酸割りとか水割りとか馬鹿げてますよね。あんな飲み方するやつはアルコール馬鹿にしてるんですよ。一生ペプシ飲んどけって思いますもん」
「ひどい言い草だ」
ビューティフルマインドは、それはもう素晴らしく、また本作で描かれるジョン・ナッシュを語るにも、ナッシュの提唱した「ゲーム理論」を語るにも、分厚い本一冊以上のページ数を要するでしょう。ただ、最後まで見たとき、僕はつつと涙を流していました。
こうはいはというと、始まって三〇分で寝てしまいました。ウイスキーを一気に飲み干して、二杯目も同様に飲み干した上、すぐさま横になったのですから、怪しいなとは思っていました。起こすか悩みましたが、放っておくことにしました。いびきをかいているわけでもないので、迷惑でもありません。
元々、こうはいは酒を麦茶のように飲むし、肘をついたり横になると、すぐ寝てしまうのです。そのくせ、深夜には突然覚醒し活発になるのでした。
「あ、すみません寝てしまってました。え! もう終わり!」
「君が寝ているうちに終わったよ」
「あ、すみません、家まで呼んでおいて。映画の内容はどうでした?」
「それはもう面白かったよ。ただのお涙頂戴ヒューマンドラマかと思っていたけど、脚本もしっかりしているし、後半にかけて重大な伏線もあるから、喋りすぎるとネタバレになる」
「あ、そうなんですか。じゃあまた改めて観ます。先輩が言うなら間違いない。ところでお酒おかわり要ります?」
こうはいは挙動が大きいのです。慌てて立ちあがろうとすると、机の角で膝をうち、コップが倒れました。
「あ、やばいやばい」
そう言って、コップを元に戻して机を拭くと、氷を持ってきてコップに入れ始めました。しかし、寝起きだからかアルコールのせいか、もしくは両方か、手がブルブル震えていて氷を次々と机の下に落としていきます。しかもなぜか、こうはい自身は気付いていないのです。ブルブル震える手で、次々と氷を床に落としていきます。
「ちょ、ちょっと氷落ちてるよ」
「え! まじですか! 本当だ。やべえ、酔っ払ってますよ俺。この氷は俺が使います」
と言いながら、氷を拾ってコップに入れいていく。しかし、そのコップは僕が使っていたものでした。
「それ俺が使ってたコップだよ」
「え! ああもうどうしよう」
僕はその日初めての大笑いをしました。
「散歩でもします?」
こうはいの一声で、僕らは深夜0時に外へ歩き出しました。ウイスキーの七〇〇ml瓶をほとんど一人で空けたこうはいは「酔っ払ったときは外を散歩するに、かががが……かが……限ります」などと言っていました。
フラつくこうはいを、ときどき肩を支えるなどしながら一緒に歩きました。こうはいは一人でも、深夜に徘徊をするのが癖でした。なんでも、一人の夜に家にいると、どうしようもない気持ちになるらしいのです。
僕は職質など無縁の存在でしたが、こうはいとつるんでから、やたらと夜の一時や二時に呼び出されることが増え、そうして夜中に歩いていると、幾度か職質にも合いました。学生証さえ見せれば、なんとかなりましたが、警察の人に詰められるのは気分が良くないものです。
散歩の成果なのか、こうはいは大学周辺のラーメン屋はもちろん、居酒屋やクラブも把握していて、通りがかるたびに紹介してくれるのでした。
「ここのラーメン屋はこってり好きなら行っておいた方がいいですよ」「ここの飲み屋はね、テラス席もあるんですよ。夏の夜はすげえ賑わっているんですけどね。今は秋で寒くなってきたし、さすがに人が少ないですね」
庭付きの居酒屋で、おじいさんが三人ほど、テーブルを囲んで飲んでいました。僕らが人生で経験していくような様々なことを、乗り越えてきた人たちなのでしょう。
四年生の秋、就活を終えた僕は、残すところ卒業論文を書くのみで、アルバイトや恋人とのデート、読書や飲酒などして過ごしていました。中学生のときは高校生、高校生のときは大学進学や就職をゴールだと思い込み生きていきます。大学生活も残り半年、こうはいと自由な散歩をするのもあとわずかだと思うと、名残惜しくなってきました。
これが社会人なら、明日の仕事のことを考えると、深夜にふらふら酒を飲んで散歩などできないでしょう。
「唯ぼんやりとした不安である」
「芥川龍之介ですか?」
「そうそう。唯ぼんやりとした不安が原因で自殺したんだよね」
「そう言われてますけど、どうなんですかね。確かに、自著にはそう書いてありますけどね」
「バックグラウンドを考えたら、俺らが同一視するのもおこがましいくらいだろうよ。家庭もあったし、義理のお兄さんも亡くなって、そのお兄さんの家族の工面もあったって言われてるし。ただの学生が同情できるレベルの不安じゃあなかったろうね。芥川先生の文章を読んでいたら、西洋化の進む日本そのものへの葛藤とかも感じるよ。どう言語化しても、僕の言葉じゃ陳腐になるけど」
「今じゃあ動物的生と動物的死を受け入れた者ばかりですからね」
「話分かるね、君」
「急に思い出したんですか?」
「なんとなくね。中学生の教科書で初めて、芥川先生が『唯ぼんやりとした不安』によって自殺って文を見たときはびっくりしたよ。それだけの理由で自殺? ってね。けど、今ならなんとなく分かるんだ。
けれど、不安ってさ、確かにぼんやりしてるよなあって。これだけが不安、これさえあれば万事解決、なんて状況の方がレアだろう? 大なり小なりのあまたの不安が俺の頭の上から降ってくるし、こうはいにも、他の人間にもきっとそうなんだ。
中学は三年で終わるし、高校も三年で終わる。俺は今年で大学卒業して、春から銀行員。でもその後は? いつ転職する? いつまでその会社にいる? 結婚はするのか? 何もかも自分で決めなきゃいけない。するかしないか、タイミングも含めてさ」
「それは僕も思います。そろそろ俺も就活ですね。最近大学入学したばっかだと思ってたんですけどね」
6
今日は心療内科で診断書をもらって、会社に提出する用の封筒を作っていました。
僕は形式上会社員ですが、実質無職です。仕事をしていく中で鬱の症状を発し、休職を勧められて今に至ります。休職した場合、定期的にお医者から正式な診断書をもらい、会社に提出しなくてはならないのです。日本中で起こっている、よくある話です。
二三歳にして、一度死にました。
僕自身、鬱だなんて思ったことはありません。けれど、朝日を見て涙が出たり、出社できず飯の味が分からず、職務や会社のデスクを想像すると全身が震え、布団とトイレを往復するのがやっとの人間のことを、社会では鬱患者と呼ぶらしいです。
僕が会社を休職するとき、地元ではそれなりに噂になりました。友人だとか昔付き合っていた人とか、狭いネットワークですから、個人の話など簡単に広まります。高校時代生徒会長をしていた僕は、学校の先生やPTAの方とも多少関わりがありました。
友人の親御さんに、「生徒会長やっても仕事できんことがあるんやねえ」と言われた思い出があります。確かに、生徒会長をやれて銀行員が一〇ヶ月続かないとは不思議だな、なんでだろうと考えていました。
今では、逆の気持ちです。生徒会長なんて、先生に好かれる良い子、いわゆる良い子がやる活動です。この手の良い子は、学校でも家でも良い子であるため、反抗や怒りを知りません。僕は長いこと、立場が上の人に反対の意見を言ったり、仕事をサボるという発想がありませんでした。
銀行へ行って、二つ上の先輩を見てびっくりしました。先輩は無理難題を押し付けられると渡された書類を床に叩きつけて八つ当たりし、営業周りと称して外でタバコを吸って時間潰ししていました。その先輩は今も会社で毎日出勤していて、来年には昇格します。そういう人が、潰れずにやっていける世界なのだろうと。
僕の思いは一つです。できるだけ早く、穏やかに消えることです。
7
僕は映画や本が好きな他、自分でもときどき小説を書きました。小説とも言えぬ小説です。中学時代からの風習でした。時折それは、自身の頭の整理であり、ある種の日記であり、感情の吐き出しであり、大いなる有意義な暇つぶしでもあるのです。
ときどき、あの子にも読んでもらっていました。
**
『最もまともなふたり』
僕らだけだ
まただ まただ
仕事中突然出てくる涙 駆け込むトイレ
顔を洗って持ち場に戻らなきゃ 腫れ物扱いは一番嫌だ
「社会人なら働いているのが普通」「普通にしていろ」
広告やCM 何よりすれ違うみんなの目がそう言っている
五〇分早く出勤して掃除 休憩は一〇分 それが普通らしい
最初は持って行った弁当箱 食べずに持って帰るようになった
今では百円パンを食べる時間もない
毎日言われる「学校じゃないんだぞ」
そんなの分かる あの頃は一時間一〇分休めた
今では九時間働いて一〇分休み
友達家族との写真 これが自分かと思う
同じ笑顔できるだろうか
そのくせくだらない事で笑ってしまうようになった
「日本人の舌は繊細」と料理番組 その後のCMで流れるジャンクフード
台風避難指示の後に言われる「熱でも休めないあなたに」
これが噴き出さずにいられるか
「銀行辞めるの? もったいない」
なにが分かる
君も払っているのか精神安定税、給与天引きされる三万円のことだよ
「日本では鬱や不安症などが増えています。なぜ?」
僕がガキの頃から言われてる
でも答えは出てないのだろう 少なくとも大した改善はされていない
心療内科は満席で 六〇分も九〇分も待たされる
面談終わり すれ違いに入ってくる少年 俺より若い
すべての言葉を失うよ 彼にどんな言葉をかけられる?
自分すら救えないのに
小学生のとき 友達の積み木を倒して怒られた
「壊すのは簡単だけど作るのは難しいんだよ」
その通りだった
一八年二〇年の人生 一年で簡単に壊れる
学んだことなぜ活かされない
一部上場企業だから安心 うわべだけの言葉
事務員にすら課されるノルマ 達成できず友人に頭下げる
自分で二〇〇万の口座作ってなんとかする上司
良い商品でもないのに片端からかける電話「お話だけでも」
面接で教えておいてくれ 魂を売る仕事だと
「どこの会社行っても一緒だから続けなさい」
「転職で給与上がることまずないよ」
引き止める言葉
だったら会社が何を保証してくれる
睡眠剤に使ったお金
勃たなくなった性器
お互いの両親にまで挨拶した彼女
年収三〇〇万と天秤にかけてみようか
「私らだけだよ」
暗い部屋で抱き寄せてくれる君
まさぐる君 けれど僕はこたえられない
君の腕をおさえると 君は言う
「そっか。薬の影響?」
「ごめんよ」
「いいよ、一人でやるから」
離れたかと思うと
しゅっしゅっ
闇の中で何かを切る音が聞こえる
しゅっしゅっ
近づいて後ろから抱きつくと それが見える
カミソリと白い腕と垂れる血と
「あなたは見ない方がいい、優しいから」
「いいや、ひとりにしないよ」
僕はひざまずいて 君の傷ぐちにキスをする
すべての痛みを吸い込みたい すべての苦悩を
「私ドキドキしてる 変態かな」
「僕らはすごくマトモさ」
僕らだけだった 狂った世界の真ん中で 僕らだけが正常だった
了
**
「あなたって、歌詞を作るセンスあるんじゃない?」
あの子はソファに座って、そう言いました。
「その発想はなかったな」
「まさに歌詞だわ。誰か作曲できる友達に頼んだら、曲ができるわよ」
「やってみるかな。前向きになれれば」
「ところでこの詩に出てくる女の子、私がモデル?」
「そうとも言えるね」
あの子は、左手にいつもバンドをしていました。最初はなんとも思いませんでしたが、体を重ねるときすら外さないそれを見て、確信しました。それは傷を隠すためのバンドです。あの子が、あの子自身でつける傷です。
「あなたと仲良くなってから、私弱くなったみたい。最近ね、リスカしてないんだ」
「良いことだね」
「なんだか、死んじゃったらあなたと会えなくなるって考えたら、できなくて」
「嬉しいよ」
僕はあの子の横に座って、後ろから手を回しました。
「なんだかね、錆びた刃物使った方が、死ねる気がするの」
「ええ? 病気とかになりそうで怖いよ」
「それがいいのよ。不清潔で危険そうでしょ」
「それで楽に死ねたらまだマシだけどね。中途半端に病気になって生き延びたら嫌だろう」
「それは、そうね」
あの子はひとりごちて、僕から少し離れました。
「どうしたんだい。このまま、リスカ癖が治れば良いじゃないか」
「嫌よ。私、幸せなうちに死にたいもの」
「これから不幸になる予定がおありで?」
「今死んだら、あなたが悲しんでくれるでしょ。悲しんでくれる人がいるうちに死にたい」
「よしてくれよ。別に、今だけの関係ってわけじゃない」
「今だけよ。そのうち、私のことなんて忘れるわ。あなたモテるし。人たらしだし。そうしたら、きっと私が消えたって、なんとも思ってくれないんだわ」
「俺が疑わしいから? それとも永遠を信じてないから?」
「後者よ。永遠なんてない」
僕は少し考えて、あの子の宇宙を想像しました。確かに、分からなくもないなと思ってしまったのです。僕が今死んだら、あの子は泣いてくれるのだろうかと。
僕らの愛が終わった後に僕が死んだって、あの子は泣いてくれないのだろうかと。確かに、自身が死んで泣いてくれる人が誰ひとりいないとすれば、それは暗黒に勝るとも劣らない恐怖に思えたのです。
「なるほどね。俺も、今死ねば泣いてくれるかい?」
「あなたは生きて」
あの子は僕に擦り寄って、頭を胸に押し当ててきました。「私が死んだとき、ぐちゃぐちゃに泣いて欲しいから」
C
大学四年生の、夏休み明けのことです。
「誰も愛してないし誰からも愛されてない状態って虚無だと思わないか? 生きている意味が分からなくなる」
「それは先輩が恋愛体質なだけですよ」
こうはいとラーメンを啜っているときの会話です。こうはいはラーメン好きなだけあって、京都各地のラーメン店を知っていました。その日は、京都市は伏見区深草、「深草製麺」で食べていました。毎回、さまざまな場所を紹介してくれるのです。しかも、一緒に過ごした三年間、こうはいに連れられて行ったところで、味の悪いお店はありませんでした。
「いろんなラーメン評論家がいますけど、やっぱりラーメン最強は一条寺だと思います。他は三条だとかなんとか言われていますけど、深草はかなり充実してると思います。個人的には、深草は二番手に入ると思いますよ」
「君が言うならそうなんだろうな」
こうはいが水を注ぐなどして体を動かすたび、コロコロと何かが転がる音がしました。こうはいの方を見ると、ジャージのポケットから石が転がっています。それも、二個三個と、次々出てきます。
思いがけぬ現象に、僕は吹き出してしまいました。
「君、なんか分からないけれど、石がポケットから落ちてるよ」
「え、石? そんなわけないじゃないですか」
こうはいは自身の椅子の下を見ました。そのとき口からラーメンが垂れたので、こうはいは慌ててティッシュで掬いました。
「上からも下からも落ちているね」
「ヤバいっす先輩。ていうかこの石何?」
「俺が聞きたいよ」
こうはいは石ころを拾いました。真っ黒で、角のあまりない石です。
「あ、分かりました。これ富士山の石だ」
「ええ?」
笑い半分で答えました。突然の富士山。
「いやあね、夏休みの間、富士山に登ったんですよ。昨日京都に帰ってきて。俺富士山の山頂で寝転がったんで、そのときにポッケに転がり込んできたんでしょうね。なので、これ富士山の石です。あ、要ります? お土産にしては地味かもしれませんが」
「ブフォ」
席を開けてラーメンを食べていた誰かが、吹き出しました。無理もありません。
僕も笑いすぎて、しばらく返事ができませんでした。
「いや、遠慮しておくよ」
「あ、要らないです? ちなみに帰ってお風呂は入りましたからね。洗濯したあとでも、石ころが残ってたってだけで。安心してください」
「別にそんなこと疑っちゃいないよ」
「それにしても、富士山の山頂はめちゃくちゃ寒かったですよ。夏だからって舐めてました。僕上下ジャージで行きましたからね。僕以外みんな着込んでて、最後らへん僕寒さで震えてましたもん。ちなみに靴はこれで行きました」
こうはいが差し出した足は、サンダルでした。
「ええ? 俺素人だけどさ、登山って、普通登山用の靴履くんじゃないの?」
「その方がおすすめです。俺なんかガイドの人にサンダル見られて、『死にたいんですか?』って聞かれましたもん」
8
僕の昔の話です。高校を出た僕は、第一志望の大学に進学しました。そこで四年間、まともに単位をとり、時折部活に励み、小説を公募に出して幾度か落ちました。少なくとも、大学生をやる適応力はあったようです。友人のうち幾らかは単位が足りず、五年生になっていきました。
大学の単位は取れても、就職活動で内定をもらえても、仕事ができるかどうかは別問題みたいです。
銀行での日々は、とにかく忙しかったという記憶です。昼休みはだんだんなくなっていき、ロッカー室の奥で素早くおにぎりを貪るのがやっとでした。上司にやたらと罵詈雑言を言われた記憶がありますが、詳しくはもう思い出せません。毎日毎日、ここは学校ではないだとか、あなたは間違っているんだから黙っててとか。それ以上の言葉もあったような気がしますが、思い出してはならないような気がします。
その後の、塞ぎ込み、ベッドとトイレを往復する日々の中で、頭の隅の隅へ封印されているような気がします。頭でも打ったら、あるいは死ぬ直前に走馬灯として蘇るかもしれません。
あるとき僕は、出勤の途中で無意識にバイクのハンドルを切って、通勤路とは全く違う方向に行っていました。通勤中、バスに突っ込もうだとか、思いっきりハンドルを切って電車に轢かれようだとかは毎日考えていました。けれども、行くあてもなく通勤路を逸れるのは初めてでした。
「戻らなきゃ、戻らなきゃ」
と念じました。声にも出ていたと思います。けれどもアクセルを捻る腕は、いうことを聞きました。
「戻ってくれ、遅刻する、遅刻する」
自身の頬が濡れているのが分かりました。そうして僕は、なぜなのか、どこを通ったのか、ある川辺について、やっとバイクを停めました。そこで座り込んで泣きながら、会社に遅刻の電話をしたのです。
欠勤する日は、必ず電話を入れました。社会人としての常識です。決められた日に出勤することすらできない僕に、常識を語る資格などあるのか、甚だ疑問ですが。
こうして行けない日は、週に一度から、二度三度と増えていき、とうとう二週間連続で欠勤しました。そのときには、出勤どころか家から出ることも、布団から動くこともできない状態でした。朝日がのぼるたび、泣いていた気がします。
人事の方から電話がかかってきて、本社に呼び出されました。支店へ行けないくせに、少し奮い立てば、本社には行けたのです。僕はボコボコに殴られる覚悟を決めていましたが、そこで休職を提案されました。
銀行での日々は思い出したくもないので、これきりにしておきます。
あの子とは既に知り合いでしたし、他人でしたし恋人でした。あの子が誕生したとき僕が誕生し、あの子が消滅するとき僕は消滅するのです。僕はあの子だけの男です。
心の章 デイケアの日々
会社を休職することになった週、僕は心療内科に行きました。その頃にはもう、病院の診察券もありました。なにしろ、睡眠剤や精神安定剤は不可欠でしたから。お医者に休職になったことを伝えると、デイケアを提案されました。
「せっかくの機会ですから、デイケアに通ってみてはどうですか?」
デイケアサービスなるものは、このときに初めて聞きました。なんでも、僕のように仕事に行けなくなって休職中の人や、転職活動中の人が、日中に通うリハビリサービスらしいです。
「はあ」
と言ったような返事しかできませんでした。なにしろ、外へ出て休職手続きをし、くたびれていました。お医者の前に出るのも、タイヤを何個も背中に背負わされているほど体が重かったのです。
「このまま休職期間を過ごしても、引きこもりが強まって外へ出られなくなるパターンの方が多いんですよ。引きこもりの人にとっては、外へ出るという行為そのものが、どんどんハードルが高くなっていきますからね。詳しい話は担当のスタッフが話しますが、当面の目的は二つ。
『夜に寝て、朝に起きる生活リズムを保つ』
『まずは週五で外へ出る』」
「分かりました」
お医者には大変感謝しています。将来のことなんて全く考えられない。けれど、なんでもいいから明日外へ出るという単純な目標があるのは助かりました。それに、二四時間家にいるのも気まずいものです。
デイケアサービスでは、平日の九時から一六時頃まで過ごしていました。体調が悪かったり気分が悪ければ欠席しても可です。僕が一番心配したのは、当事者でありながら、僕みたいな鬱屈な症状の人がたくさんいたら、そんなところ通って益々暗くならないかと考えたことです。今では相当な偏見だと考えています。
僕はそこへ通ってみて、よくも悪くも拍子抜けしました。全くもって、普通の人ばかりだったからです。僕らは広い部屋に開け放たれ、本を読む人、ヘッドホンで何やら聞いている人、ときにはイベント的に、お悩み相談会的なものもありました。
そこで数ヶ月か何年か過ごし、社会復帰が決まった人は去っていくらしいです。初めて来た日は、それは珍しがられました。二〇代でそのデイケアに通っている人は僕ともう一人くらいでした。
僕は朝に軽く自己紹介をし、空いている椅子に座って本を読んでいました。デイケアに通っている間、多くは本を読んでいた気がします。
「あんた、若いね。名前は?」
初めて話しかけてくれたのは、三〇前後くらいに見える女性でした。僕は彼女のことを姉さんと呼ぶことになります。
僕が名前を答えると、姉さんの方もすぐに名前を教えてくれました。
「へえー、良い名前だね。何歳? あ、こういうの聞いたらダメ? 嫌だったら言わなくていいから。あたしこういうのすぐ聞いちゃうから、嫌だったら答えるんじゃないよ」
「嫌じゃないですよ。二三です」
「若いねー。こんな若い子が鬱になってデイケア来るんでしょ? 世も末だねー」
姉さんは彼女がいるのかどうかとか、なんの仕事をやっていたのか、色々聞いてくれました。
「銀行お休み中なんだ」
「はい。なんだか、申し訳ないです。早く戻らないと」
「あんたがなんで鬱になったか分かったわ。あのね、そんなの急がなくていいから。正式な手続き踏んで休職してるんでしょ?」
「それはまあ、はい」
「だったら、期限ギリギリまで休みな。それくらいでちょうどいいんだよ。あんたはきっと、十分頑張って、頑張りすぎたのよ」
僕は、返事ができませんでした。返事をすると、せきが切れそうだったからです。その夜、布団の中で姉さんの言葉を噛み締めて、僕は泣きました。
※※
姉さんは、よくベランダでタバコを吸っていました。多分、ヘビースモーカーというやつです。デイケアに来ても、姉さんはいたりいなかったりでした。おそらく、元気のない日は休んでいたのでしょう。鬱の方を観察して思うことがあるのですが、鬱の方は何も、三六五日ずっと寝込んで落ち込んでいるわけではないのです。健常者(という言い方には甚だ疑問がありますが)がそうであるように、鬱患者にも気分の上がり下がりあり、それをグラフに書いたとすると、鬱の人の方がより下に下がるのです。
中でも、姉さんは躁鬱の傾向が強い人でした。躁のときは、テンションがやたら高いときです。誰かがなだめるまで喋り続けることも多々ありました。おそらく、僕と初めて会った日も、どちらかといえば躁の状態に寄っていたのでしょう。
鬱のときは、もう出かけてこないか、来たとしても、奥にあるソファーで寝たきりの日もありました。
ともかく、その日姉さんは、ベランダでタバコを吸っていました。後からわかったことですが、姉さんはデイケアへ来たとき、昼ごはんの前、後、帰る前の四度は必ずタバコを吸いました。おそらく、喫煙は姉さんにとって、日常の何かを切り替えるスイッチだったのです。
姉さんの後ろ姿を見ながら、僕はふと話しかけようと考えました。それで、ベランダに出ました。普段ベランダに出るのは、タバコを吸う人か、ベランダに植えてある植物を観にくる人くらいです。
姉さんに近付くと、あちらから話してくれました。
「あら、あんたタバコ吸うの?」
「いや。吸わないです」
「じゃあ花の水やり?」
「いや。姉さんと話したくて」
「ふふ、こんなおばさんと?」
「おばさんだなんて。僕よりちょっと上かなって思ってます」
「あらお上手」
実際、姉さんは見た目も服装も、おばさんというには若く見えました。毎回違う服を着てくるし、たまに同じ服でも、上下の組み合わせを変えたり、前回と違う上着を羽織るなどして、コーディネートを楽しんでいるようでした。おしゃれ好きなのは事実でしょう。
「なんだか久しぶりね」
「そうですね。二週間くらい来てませんでしよね?」
「あたしねー、躁鬱でさ。躁鬱って分かる?」
「なんとなく。ハイとローが激しい感じの症状ですよね」
「そうそう。躁のときは話せるんだけどさ。鬱のときは部屋からも出られなくて。ここ最近、寝込んでた」
「僕とお話してくれたときは、テンション高そうでしたもんね」
「そうそう。でもね、上がり幅が大きいと、落ち込む時の下がり方も大きいのよ。ここの先生にも注意されてるんだけどさあ、コントロールできたら苦労しないわよね。あんたは躁鬱症状ある?」
「いや、たぶん鬱とか神経症って言われてます。テンションは大体コントロールできます」
「なら良かった。躁鬱しんどいからね。まあ、あたしが病院来ないからって、心配する人もいないでしょ」
「俺は寂しかったですよ」
「あら。あんた、そういうこと言うタイプね。もしかしていっつも言ってるの?」
「なんの話です?」
「女の子に言うときは気をつけなー。あたしはいいけど、それ他の子だったら勘違いするよ」
「へえ?」
姉さんは、僕の気の抜けた返事に呆れたのか、ふふと笑うと、タバコの煙を吐き出しました。
「で、何か話してたっけ?」
「この前は俺が自分のこと話したじゃないですか? 俺も姉さんのこと知りたいなって」
「嬉しいこと言ってくれるね。あたし、いくつに見える?」
「三〇前後ですか?」
「本気?」
「え、もしかして失礼なこと言いましたか。女性の年齢当てるのって難しいです」
「あんたが思っているより十くらい上」
「そうは見えないです」
「よく言われる」
二人で声を揃えて、笑い合いました。
「何笑ってんのさ」
「すみません」
「うそうそ。あたしって子供いないからさ。いつまで経っても子供みたいな脳みそなのさ。だから見た目も老けないのかも」
「そうなんですか。確かに、お子さんいるのか分からない雰囲気ですよね。いるって言われても疑わないですけど」
「あんた二三でしょ。あたしの友達にも、早い子はそのくらいの子供いるからさ。そういう子見てると尊敬するよ。じゃあ次。結婚してそうに見える?」
「えー?」
姉さん、ずかずか聞くと思ったら、質問の仕方も直球でした。何か悪い答え方をしたら、角が立ちそうだななどと考えていました。
僕は姉さんの指を見ました。もちろんまずは薬指です。指輪があります。蛇が自分の尻尾に噛み付いているようなデザインです。結婚指輪にしては、派手に見えます。右手の中指と、左手の人差し指にも指輪があります。簡単すぎる問題だな、と思いました。それとも、僕を騙すために指輪をしているのでしょうか。
タバコを吸い終わった姉さんは灰皿に擦り付けて火を消すと、二本目に火をつけて吸い始めました。
「女性を待たせるつもり?」
「姉さんは結婚してます」
「どうしてそう思う?」
「薬指に指輪しているので」
「え?」
どうやら姉さんは、本気で指輪を忘れていたみたいです。
「あら、指輪してたんだあたし」
「忘れていたんですね」
「そりゃしてたらバレるよね。半分あたりで、半分はずれ。バツイチなんだ」
「そうなんですね」
「バツイチ子なし、フラフラした人生ですよ」
「良いじゃないですか。俺は結婚すらしていないですよ」
「あんたはきっとモテるから大丈夫。それより、刺される心配しな」




