映画館と車椅子
最近話題の映画館と車椅子の件について、今考えていることをまとめてみる。
この件に関して、車椅子側の感謝の気持ちが足りてない・表現されてないという意見をよく見かける。さらに、この意見に対して障がい者が意識せずに生活できるようになってこそ支援であるという意見が出たり、人に感謝するのは当たり前であるという反論が出たりするなど、様々な意見で溢れておりどんな意見にも一部納得出来るというのが私の素直な感想である。
この感謝するかどうか論に対する私の考えは、感謝に対する考え方は人それぞれであり、それは障がい者も同じというものだ。私達は普段生活する中で様々な人と接し、人を手助けした際相手に感謝されない事もあるがそんな時に感謝しろと相手に伝えるのは現実味のない対応であるように感じる。その時の心情を発信するのがSNSといえばそれまでだが、感謝の有無を障がい者批判まで発展させる意見には全く賛成出来ない。また、人の助けを多く必要とする分嫌な性格の障がい者が嫌な性格の健常者より生きづらいという問題を把握しておくべきだと考える。
また、この件と共に話題になっている言葉が「合理的配慮」である。合理的配慮とは、障がい者の活動が制限されている状態でそれを改善して欲しいと意思表示された際に事業者と障がい者の両方が建設的対話の中で妥協点を探す事であり、令和六年四月一日から事業者の合理的配慮の提供が義務になるらしい。この観点から見ると映画館側の対応は建設的対話をしていない可能性があり、この一方的な対応が映画館側に感じるモヤモヤの原因なのではないか。
ただ、合理的配慮は負担が過重ではない時・本来の業務に付随する場合に行うものであり、今回の様に従業員が車椅子と人を運ぶ事は安全面・事業として行なっていない事から合理的配慮ではないと明記されている点は重要である。車椅子側の「今までは…」という意見が通らない事は私の感覚と非常に合っており、車椅子側の発言に感じていたモヤモヤが間違っていないことに少し安心した。
この件に関する様々な意見の中で自分にはない視点であると感じ合理的配慮が必要なのではないかと考えたのは、映画館の車椅子席は常に入り口付近の低い位置にあり首が疲れるという意見である。私自身も低い位置で映画を見た際の不快感は体験した事があり、それを改善して欲しいと思う気持ちにとても共感出来た。しかし、実際にこの問題を解決しようとすると中々に難しく私の頭では首を守るクッションを用意する事くらいしか想像出来なかった。低い位置での首の疲れという分かりやすい問題でも映画館側と障がい者側で妥協点を見つける事が簡単でない所に合理的配慮の難しさを感じる。
合理的配慮について考えてみると、点字ブロックやスロープなどのユニバーサルデザインがとても優れたものであると気がついた。他人の助けが要らない、あるいは簡単に手助け出来るというシステムは合理的配慮の難しさに加えて嫌な性格の障がい者が嫌な性格の健常者以上に生きづらいという問題も解決出来る。
ユニバーサルデザイン、最高。