再就職
目を覚ました時、時刻は夜の11時を回っていた。
気だるい体を起こして、部屋を見回す。空になった大量のチューハイの缶と、乱雑に脱ぎ捨てられたスーツが床に散乱していて、非常に見苦しい景色だった。
どうしてこんな事になっているのか思い出そうとしてみるけれど、ガンガンと脈打つような頭痛が思考を邪魔して、うまく思い出せない。たしか、喫茶店に入って、で何かを頼んだら同僚からメールが来て、それで――
「――それで……それで――? あダメだ頭いたい……」
考えれば考えるほど頭痛がひどくなってくるので、思い出すのは一旦中止。腕を枕にして、仰向けに寝転んだ。コケが生えて緑っぽくなった天井が視界いっぱいに広がって、ちょっと悲しくなった。
お世辞も気分が良いとはとても言えない体調ではあるけれど、日当たりが悪くて湿っぽい床に寝転んで、窓の外から聞こえてくるセミの鳴き声に耳を澄ましていると、どことなく風流を感じた。私が俳人だったら、今頃気の利いた俳句の一句でも詠んでいたのかな。
心臓と頭を平行にしたのが良かったのか、しばらく寝転んでいると、ちょっとずつ頭痛が和らいできた。
最低限のまとまった思考ができるようになってきたので、天井のコケを眺めながら私は記憶を再生する。
――えーっと、確か同僚からメールが来たんだっけ。で、私は会社に走って……ん、あれ、なんで会社行ったんだっけ? メールの件名は……えと……
「――あ」
――そうだ。
「…………はぁぁぁぁ」
思い出した――思い出しちゃった。
忘れたい記憶、だけどもう遅い。私はもう、思い出している。巨大な喪失感に、胸を抉られる。
――会社、潰れちゃったんだっけ……
「……はは」
思わず口をついて出たその乾いた笑いは、誰に向けてのものだったか。
ふざけた理由で私から職を奪ったクズの社長か。そんな社長の会社で、昇進だけを目標に身を粉にして働き続けた私自身か。あるいはその両方か。
胸が苦しい。営業が大成功して昇進も見えてきたことを、先月、地元のお母さんに伝えたことを思い出して、余計に心が重くなってくる。それに続き、転職に失敗して怪しいところから返せない額のお金を借りた結果、ネパールだかブータンだかで熱帯魚を養殖することになった従兄妹のことを思い出して、形容し難い焦燥感が心を押し潰す。
なんの資格も持っていない二〇歳の高卒女性が転職できるところなんて絶対にまともではないし、どう考えてもお先真っ暗だ。できることなら、今すぐ首を吊って死にたい。
――そんなとき、床に転がっている私用の携帯に、ピロンとメールが届いた。
正直、今は他人と連絡なんてとても取りたい気分ではなかったけれど、同時に少しでも気を紛らわせたい思いもあったので、悩みながらも緩慢な動きで携帯を取る。
確認してみると、どうやらメールの通知だったようで、メールボックスに一件の新着メールが届いていた。差出人は、例の頭が悪い同僚。
件名を確認し――思わず、息を呑む。そこにはこう書かれていた。
『迷える子羊ちゃんへ♡基本給35万のお仕事ご紹介☆』
――瞬間、自分でもわかるほど露骨に肩が跳ね上がった。普通に生きてたら中々そんなことにはならないけど、私はかなり前から道を踏み外してるのでこれは別におかしくない。
というのも、
「基本給……2倍……!?」
――そう。
基本給が、薄給だった前職の2倍以上。年収に直すと420万くらいで、更にこれに臨時収入なども追加される。
高校生の頃、地元の母親に言われた言葉を思い出す。曰く、「いいかい緋秋、仕事は基本給で選ぶのよ」――!
金欠で悩み続けてきたこれまでを考えると、願ってもない高給料だ。昨日までブラック企業勤めでヒィヒィ言ってた私が、どんな業務内容でもいいからここで働きたいと――そう、本気で思えるほどには、基本給35万は魅力的に見えた。
期待に胸を膨らませながら、メールを開く。そこには、「詳細は明日の10時、この喫茶店で♡」という短いメッセージに、ある喫茶店の住所と写真が添付されていた。
奇しくもそこは、私が解雇通知を受け取った時にいた、あの喫茶店だった。
○
「あ、きたきたー! こっち、こっち」
翌日、約束の時間に喫茶店へ赴くと、私に気づいた同僚が店の奥から人当たりのいい笑顔で手を振ってきた。公衆の面前だというのに平気な顔してこういうことできるのは彼女の性分か、それとも単に知能の低さゆえか。
「今行くから静かにして」
「淡白だね〜。生理?」
「今からお前を殺すための500万を借りてくる」
「うひゃ〜!」
IQが20違うと会話が成立しないとはよく言うけど、なるほど確かにその通りらしい。もっとも、私と彼女とでは20どころか60くらいIQが離れている気がするけど。
「そんなことより何飲む〜? わたしはね、ココア! なぜなら苦くないから!」
「アイスコーヒー」
「おとなだぁ〜! すいませ〜ん!」
「ここ卓上ベルだよ」
そう言って私が差し出した卓上ベルを、あっ、と同僚が照れたように笑いながら指で押す。ピンポンと間の抜けた音が響き、しばらくしてから店員が来た。
定型文で注文を終えると後、店員が居なくなった席で私は同僚に向き直る。それは、今日ここに来た目的を果たすために――即ち、高卒でロクな資格も持っていない転職活動中の女を、420万の高給で雇ってくれるらしい仕事の詳細を聞くためだ。
目が合い、互いに見つめ合う――数秒の沈黙の後、同僚が先に口を開いた。
「――じゃ、さっそく本題に入ろっか♪」
「……ん」
「んーと、そうだねぇ――じゃ、まずは業務内容から話していこっか――♪」
――
……――――
○
仕事の概要について一通りの話を聞き終えた私は、届いたアイスコーヒーを啜りながら非常に苦々しい表情をしていた……いや、コーヒーが苦いからではなく、別の理由で。
コーヒーが入ったカップを置き、口を開く。というのも――
「要するに――『想定年収420万前後、入社試験は面接のみ、今のところ社員は社長と副社長の他に一人だけで、募集人数はたったの1人。それで――』」
「うん。業務内容は面接で伝えられて、社長いわく――『アットホームな職場です』だってさ」
「だろうねぇ!? なんせ新入社員込みでも社員四人しか居ないもんねぇ!?」
と、あまりにぶっ飛んだ求人募集に、落ち着いた物腰に定評のある私も思わず声を荒らげてしまった。いやだってそんなのさぁ……
「そんなの――どう考えても法に触れているタイプの仕事じゃん!?」
――そりゃ、ちょっと反社とつるんでる程度の企業が20歳女性を年収420万で雇ってくれるって言うなら、カタギなんて喜んで辞めるけれども。――けれども。なにもかも不審な募集要項で、その上『アットホームな職場です』とまでくれば、さしもの私でも尻込みするというもので――まずまともじゃないのは明白だし――。これだけ不審な企業にうっかり入社してしまった日には、犯罪に加担させられるどころか、下手を踏めば海外マフィアに売られるまである。
私の懸念もつゆ知らず、ホットココアを勢いよく呷り、熱さに口を抑えて呻く同僚。私の今後がかかっているそこそこ大事な次の仕事先を紹介する人が、こんなアホ丸出しのバカ女って……。――そう考えると、なんだか非常に空しい気持ちになった。
「フーッ……フーッ……で、なんだっけ。」一通り騒いだ後、水を飲み干して私に向き直る同僚。あれだけ暴れておいて何故これほど真剣な顔ができるのか不思議でたまらないけど、まぁそれはさておき。
「……その会社怪しすぎないかって話だけど」
「…………あぁ、そうだったね。――うん、まぁ、しゃーなくない?」
「えっ」
「いやだってさ、この就職難のご時世に緋秋ちゃんみたいな弱すぎる経歴の女の子がそんなに仕事選り好み出来る余裕、はっきり言って殆どないよ」
――む……まぁ、それは確かに。
「それに前職だって大して専門性があるわけでもないし――そんな状況でこの高給料だよ? しかも資格不要と来た」
――それも、まぁ確かにそう。
「正直、私が緋秋ちゃんなら、何が何でもここ受けるね。多少怪しくても目をつむるよ」
――それもそう。何ひとつ間違っていない。……間違ってはいないんだけど。
真面目な顔してもっともな理論を並べ立てる同僚を見てると、なんというか、その――
「――同僚がまともなこと言うと、なんか……きもちわるいな」
「こんなに真剣に緋秋ちゃんのこと考えてあげた結果がそれ!? ねえそろそろ泣くよ!?」