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なるかみ【女邂逅篇】

作者: 青丹彩

 川を流れてゆくのは無数の花々であった。

「ひとつ、ふたつ、みっつ……」

 上を向いた花びらは、女の口紅のように赤くつややかで、今しがた枝から摘んだばかりのように見える。それは、深紅の椿である。

 私は鼻頭にじくじく汗をかきながら、ひとつ、ふたつと流れてゆく椿を目で追った。見えなくなったそれから正面に視線を戻すまでに、ひと筋ふた筋の汗がこめかみを伝い落ちる。じりじりと油照りの夏である。勿論、椿の花がそこかしこに咲いている筈もない。あたりは茎の細い草とよく乾いた土の他に、目の前をさらさらと流れる川しかないのだ。

「ひとつ…ふたつ……」

 どこの家から流れてくるかも知らぬ椿を、私は再び数えだす。川を流れる花を見れば、暑さは少しマシになった。

 川上にある剣道場は、今朝から物騒な喧騒が絶えない。刀を持ったちょんまげが数名の群れになり道場へ押し入ったと聞くから、きっと死人が出たろうなと、他人事に思うくらい。ここ鳴神の国では人死にも日常茶飯事だ。


 *


鳴門(なると)家の私生児、ですか」

 深く頭を下げたまま、尼々(あまに)はポツリと呟いた。その子供の存在は、彼女が己を縛る鉄のような理性を超えて、心を揺さぶるほどの脅威に満ちていた。尼々の座る板敷きの床より、一段高い上座で胡座をかいていた男は、この杓子定規な女学者の珍しい失態を興味深く眺める。彼の纏う、深い紫に染められた柔らかな布地の衣は、夏用だというのに涼しくもない。何か無聊(ぶりょう)を慰めるものがなければ、このようにじっとしてはいられなかった。

「御前で、ご無礼をいたしました」

 終始無言であった尼々がようやく気付いた様子で床に額を落とした。打ち付けるほどの勢いはないが、床に触れるほど頭を下げるのはこの国で最上級の礼、または謝罪の仕草である。これで許されないのは人殺しか盗みの再犯、はたまた(すめらぎ)に無礼を働いた者であるが__さて。

「よい、気にするな。此方(こなた)其方(そなた)の飾らぬ口を買ってここに通しているのだ。」

 男は紫の袖を振って鷹揚に彼女を許した。

 鳴神において、紫とは常人に許されぬ特別な色である。この国の領地でしか育たず、また僅かな量しか採れない特別な蔦を、何年もの間継承されてきた方法で抽出し、衣を染める。この国で触れることが許されるのは現役の国主たる皇のみであり、つまり男は鳴神を掌握する今代の王なのであった。

「ご寛恕に感謝いたします……主上、鳴神猛仁(なるかみのたけひと)さま」

 もう一度、尼々は深々と頭を下げ、退室を許された。


 長々と続く廊下に出ると、そこには一人の少年が立って尼々(あまに)を待っていた。年頃は八か十くらいの、小枝のような足をした御殿童子(ごてんどうじ)の一人である。眉と唇が薄く頬の白い顔は、どことなく切ったばかりの瓜を彷彿とさせる。尼々は薄く微笑んで童子の名を呼んだ。

深緑彦(ふかろくひこ)、主上さまから仰せつかったの?」

「はい。尼々女師(じょし)を奥の宮にお連れするようにと」

 言って、深緑彦はさっさと歩き出してしまう。普段読み書きを教えて貰っている尼々に、働いている姿を見られるのは複雑なのだろう。気難しい態度の教え子に肩を竦め、後をついて尼々も歩き出した。

 広間をいくつも過ぎて、大人の尼々がくたびれた頃、ようやく前を行く御殿童子の足が止まった。他の部屋とは違い、柔らかに薫る花竹(香木のように香りがする竹)で作られた御簾が、尼々を阻んでいる。廊下の板も御簾を境に色が変わり、墨に浸けたような黒木の床が広がっていた。奥の宮に間違いない。尼々は我知らず唾を飲み込んだ。緊張で手が震えたのは、後にも先にもこれ一回きりである。

「此処から先へは(せんせい)しか行けません。お話の終わる刻限に、また迎えに参ります」

 幼さの残る瓜実顔がぺこりと頭を下げる。待ってと呼び止めることも出来ず、尼々は去ってゆく背中を見送るしかなかった。影一つ見えなくなった廊下に背を向けて、彼女はとうとう花竹の御簾に手を掛けた。シャラシャラと竹の擦れ合う涼やかな音がする。キシともならない黒木の床に足を乗せ、尼々は挑むような目つきで前を見据えるのだった。


 *


 物心ついた時から、私の側にはいつも青い水の流れる川があった。流れは早かったり遅かったり、渦を巻いて荒れているときもあって、一日たりとも同じじゃない。魚などは泳いでいないので、眺めていれば3日と経たずに飽きる。

「ひとつ…ふたつ…」

 過ぎる日々の騒々しさと私の退屈を慰めたのは、どこからか川を流れてくる無数の花々であった。不思議なことに、流れてくる花に季節は関係ないようである。私は春に桔梗、夏には紅白の梅の花、秋に桜の川錦(かわにしき)、冬は青紫の紫陽花を数えて過ごした。年の頃は、もう随分数えていない。


「皇が貴方をお探しです。共に来て頂く」


 ある時、ちょんまげの群れに囲まれて、どこへともなく運ばれた。それからというもの、私は自由に川を見たり花を数えることができなくなった。与えられた書はむつかしい字ばかりで、読み書きの出来ぬ私には何かの模様にしか見えなかった。高名な絵師の書いた絵は、川のように目まぐるしい変化を見せてはくれない。一刻も見てはおられず、私は次第に部屋の中をうろうろと歩き回るようになった。

 うつけ姫、と呼ばれていることに気づいたのは、私が外に出られなくなってひと月は経った頃である。何かと世話を焼きたがる袖を紐で括った女たちが、廊下でひそひそとやるのを、珍しく静かにしていた私が小耳に挟んだのだ。やれ落ち着きがない学がない、これでは入内させても鳴門の恥だ。女たちの使う言葉の殆どを私は理解しなかったが、嘲りの言葉を聞かせても構わないと思われるほど、侮られていることは理解できた。

「……」

 なんだか、無性に川を流れる花が見たかった。

 私はじっと部屋の奥深くに蹲り、誰が来ても会わなくなった。とにかく水に触れたくて風呂には毎日入った。そのうち髪が伸びて世話が面倒だと言われると、顔の手入れに使うカミソリで、掴んだ髪の毛をてんで出鱈目に切り捨てるなどした。世話をする女たち(女房というのを後に知った)はもう何も言わなくなった。部屋に閉じ込めておいて、なにかの拍子に池にでも入られたら困ると思ったらしい。

 うつけ姫の暴れっぷりは噂になって外へと流れ、一時「一目でいいから逢いたい」と他所からたより(手紙)が舞い込むほどであった。好奇の目と共に目の前に積み上げられた紙の束に、私は女房たちの前で火をつけた。うねりを上げて燃える男たちの情熱は、私と女房の衣の裾、それから部屋の一部を燃焼させただけにとどまり、阿鼻叫喚の喧騒を引き起こした。この事件は私の中でひどく愉快な出来事となった。 


「近頃、女房たちを困らせておるそうな。其方、何が不満か申してみよ」

 ある時、一人の男が私を訪ねてきた。先触れもたよりも無く、彼は単身でやってきて気軽に御簾をひょいと潜る。声を上げかけた女房は口を開けたまま固まり、次の瞬間、皆揃えたように低頭する。女たちの一人が震える声で男を呼んだ。

「主上さま……!」

 ざんばら頭もそのままに部屋の隅でうずくまる私を、主上と呼ばれたその男は、ニヘラと笑い覗き込んだ。

「俺の子を産め、うつけ姫。其方の望みは全て叶うぞ」

 唇の端が面妖なほど吊り上がる。目も口も三日月のような弧を描く。まるで物の怪のように気味の悪い笑みだった。


 *


 奥の宮で尼々(あまに)を待ち受けていたのは、体に合わない大きな着物を着せられ、女房連中のように髪を結んだ、痩せっぽちの童女である。皇の正室が住まう奥の宮にはおよそ似つかわしくない、捨てられた子猫の如きみすぼらしさだ。薄闇の中、光って見えるのは童女の両目ばかりである。貴人の住まいというより罪人を閉じ込める檻のようで、尼々は身震いした。ここは、あまりに暗い。

 尼々がたじろいでいると、少女の方に動きがあった。

「……あまに?」

 細い声が彼女を呼ぶ。明確な意思をもって_というよりも、目の前の女が許しを得てやって来たのかを、確認するための問いのようだ。我に返り、尼々は深々と頭を下げた。

「はい、尼々と申しまして。奥の宮さまに仕えるよう、主上さまから仰せつかっております」

 名乗りをあげた尼々に、しかし童女は応えない。ペタペタと足音を鳴らして遠ざかったかと思えば、また直ぐに戻ってくる。次に、小さな手によってバサバサと投げ散らかされたのは、どれも貴人の教養に必要な書物や絵巻ばかりである。

「これは……」

「いらない。何も、いらない」

 驚く尼々に、きっぱりと強い口調で姫が言う。顔を上げた尼々は、底光りする少女の視線を受けて言葉を呑んだ。丸く黒い瞳に宿るのは怨みにも似た怒りの色である。空を飛ぶ野の鳥を、無理やり竹籠にいれたような窮屈さがあった。童女の瞳には、置き所ない苛立ちが炎の如く揺らめいていた。



 続





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