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「”れ”と”わ”って似てるよな......あと”め”と”ぬ”も......」
冬も半ばに入った頃か。
天井に取り付けられた空調機械は忙しなく温風を部屋に吹き込み続け、飽きて外を見ようとしても結露によって阻まれ雪化粧を見ることさえ叶わない。
私もこの家での生活にようやく慣れてきた。
霧島の手伝いをしたり一般常識を教わったり、テレビを見て時間を潰したり、便利なものに感嘆したり。
私が一番最初に覚えたのは時計の見方で、農村暮らしを謳歌していた私に時間という概念を思い出させたのがこれだ。
あちらでは朝と昼と夜の区別さえつけられればどうとでもなったが、こちらではそうもいかない。
そして、私は言葉なら分かるが、文字は分からなかった。
この国の識字率は恐ろしいほど高く、なんと六歳から子供が学校へ通うのだ。つまり、私はこの国の六歳児と同程度の知識というわけで......。
何かと不便だし本も読めないから、私はまず読み書きを教えてもらうことになった。
だが......なんなんだこの国の言葉は!
平仮名? 片仮名? 漢字? どうしてこんなにいっぱい文字があるんだ!
漢字に限っては常用の文字だけで二千文字以上? それに読み方も複数あって意味まで含まれている......?
......心がおれそう。
「はあ、頼みますから......」
背中越しにも霧島の呆れ顔が見える。
仕方がないだろう。私の方の文字は42しかなかったし、こんなに複雑な形はしていなかった。
「似てるってだけだ。もう平仮名と片仮名の読み書きはできる」
「では、こちらは?」
「『あめんぼあかいな あいうえお』。そういえば”あ”も複雑な形をしているな。煩わしい」
「ふむ、平仮名と片仮名の練習はそろそろ良いですね」
小言が多いのはお前も同じだろう。
霧島はあくまで紳士的な使用人を装っているが、時々性根の悪さが垣間見える。
悠一に対応しているときそれは顕著で、主人相手にハリセンなんて使うもんだからびっくりだ。喜ぶだけじゃな いのか、その変態は。
あんまり生意気な態度をとっていると、いずれ私の背後にもハリセンを持った霧島が立つことになるかもしれない。
普段丁寧で柔和な人間ほど怒ると怖いのだ。
あんまり生意気を言わないようにしよう......。
「リミナ様は数学はできるのですよね」
「ああ。数字の形は違うが、同じ十進法で良かった」
「平方完成や微積分、というのは聞いたことが?」
「び、びせき……?」
数学一式は学校で叩き込まれた嫌な思い出がある。
魔法に数学が必要だとは思わない。役に立ったのは今が初めてだ。
異世界に来て初めて役に立つ能力なんていらないだろ。
「テキストを一式揃えましたので、後で解いていただいて。進度を確認しましょう」
「ああ」
日本の学校制度は随分と整っている。
小学校、中学校までの九年間が義務教育で、次いで高校と大学、大学院がある。高校は大半の学生が行くものらしい。
悠一は死ぬまでこの家で好きに過ごせば良いと言うが、あいつに借りをつくり続けるのも癪だし、ずっと迷惑をかけるのも気がひける。
慣れたら働きに出たいし、独立は難しいかもしれないが、この家から出ることだって視野に入れているんだ。
霧島によると『高校卒業認定書』なるものがあるようで、これをとれば高校を卒業したのと同じ扱いになるという。
とりあえずこの認定を目指して勉強しよう。
それにしても、私はアメリカに住んでいたんだろう?
日本と同じ先進国なら学校制度も整っているはずだし、私が学校を出ていないのは不自然じゃないか? まさかそこも捏造するのか?
「いや、偽の学歴を作るのは犯罪ですよ」
「偽造戸籍は犯罪じゃないってのか?」
「偽造戸籍?」
「悠一が私を血縁者にするために戸籍を作ったと言っていたが」
「ああ。あれですか」
すると霧島は分厚い教科書を持ってきた。背表紙には縦書きで『ハム......』とある。
ハムか。あれだろう、あのピンク色の美味い加工肉のことだろう。ハムも好きだがソーセージも中々……。
霧島は机に教科書を開くと、つるつると滑らかな紙をめくって何かを探しているようだった。
そういえば、本の安さにも驚いたな。そりゃあ学校教育が充実するわけだ。
活版印刷技術とやらから始まり、木から紙を作り出す技術が広まってーー私のいた国も、あと数十年か百数年か経ったら同じ技術改革が起きていたかもしれない。
なんだかこの世界のことを知れば知るほど、自分がいかに不便な生活を送ってきたのかがよく分かる。
私にできて彼らにできないことなんて魔法くらいだ。その魔法もほとんど科学で補えるし。くそ......何の優越も感じないぞ......。
「ああ、これですよ」
「ええと......漢字はまだ得意じゃないんだが」
漢数字は一通り覚えた。
一、二、三までなんだ単純じゃないかと馬鹿にしていたら四で出鼻をくじかれた。は? 三まで三本線書くんなら四も四本線書けば良いじゃん。
そう文句を言ったら漢字の由来がどうとか言われた。そんなもん知るか!!
「アメリカは出生地主義です。こちらです」
霧島の指先には『出生地』とある。そうか、『しゅっしょうち』と読むんだな。
生まれ出る地、なるほど、生まれた場所というわけか。
「ざっくり説明すると......アメリカで生まれた場合、どこの国の血が入っていようがアメリカ国籍が与えられます。例えば日本人夫婦がアメリカで子供を産んだ場合、その子供はアメリカ国籍と日本国籍の両方を持つことになります」
「日本は出生地主義ではないのか?」
「はい。日本は血統主義といって、例えば父が日本人、母がイギリス人だった場合、子供には日本とイギリスのどちらかの国籍を選ぶ権利があります」
「選ばなきゃいけないのか」
「そうです。22歳までに届けを出して、正式に日本人となるか他の国の人間となるか決めるわけ ですが......」
「ええと、つまり......」
ちょっと混乱してきたぞ。
私はアメリカ生まれで、母がアメリカ人、父は日本人で......ああ、なるほど。
「私は日本国籍を取得したのか」
「そうです。まあ嘘はついているわけですから、犯罪だと言われれば何とも言えないのですが......世間の目から見れば、なんら不自然なことでもありません。まあ、隠し子という時点でどうかとは思うのですが父親役が了承していますので問題ないでしょう。元の身分証明などは悠一様がどうにか誤魔化しました。日本にも無国籍の子供は割といますし」
ちゃんと辻褄合わせをしたらしい。
私を悠一の父親の隠し子にしたのは、そういう理由もあったのか。ただ妹欲しさに突っ走ったわけじゃないんだな。
「教育に関しては、ずっと僻地に隔離されていた深窓の令嬢、ということにすれば世間知らずでも 多少問題はないでしょう。隠し子ゆえに戸籍もこの年になるまで申請されていなかったことにすれば良いのです」
「うわあ」
「主人の軽さにもほとほと困ります......戸籍がないのはもっと困りますが。隠し子も世間に公になればスキャンダル間違いなしだというのに」
原因としては、実にいたたまれない気持ちだ。
「私は明らかに日本人ではない風貌なんだが、これは大丈夫なんだろうか......アメリカ人とやらに近い容姿、ということで良いのか?」
「ハーフでも、リミナ様のように外国血統の強い容姿の方はいらっしゃいますから、ご安心を。それにしても、お美しいブロンドです。金、というより黄色が強いようですね」
髪の毛のことを言っているのだろう。
「ありがとう。髪を褒められるのは嬉しい」
「『髪は女の命』という言葉がありますが、リミナ様の国ではどうだったのですか」
「うーん、そんな言葉はなかったな。でも信仰対象の女神が長髪で、それに倣っていた女性信者は多かったし、美しく真っ直ぐな髪は理想的な女性の要素の一つでもあった」
一房、髪を掴んでみてみる。
こっちの”シャンプー”と”リンス”を使ってから、髪の毛の艶が更に増した。
わざわざ口にしたりはしないが、実はかなり嬉しい。 あの変態が触ってこようとしなければなお良い。
「日本に少し似ていますね。平安時代......1000年ほど前の日本の貴族の女性は、髪の毛を何メー トルも伸ばしていたんですよ」
「それは......ちょっとやりすぎだと思う」
*
季節は冬。
春夏秋冬という奇妙な気候の変化に恵まれた日本において、私に最も馴染みの薄い季節は冬だった。
というか、そもそも季節の意識が自分の中にあんまりなかった。
暑くなる時期、涼しくなる時期、肌寒くなる時期の繰り返し。四季なんて考えたこともなかった。それに周りは常葉樹ばかりだったから。
しかしこちらはそうでもない。
信じられないくらい寒い時期が何ヶ月も続くおかげか、防寒対策がよくとられていた。
屋敷の窓は全て特殊性で、暑い空気と寒い空気を通しにくい構造になっているらしい。おまけにエアコンの効力もあって、私の部屋は身体に優しいのどかな温度に保たれていた。
悠一は毎日家に帰ってくるが忙しいようで、朝と夜以外は中々会えない。
だから朝食と夕食は必ず一緒に食べることにしている。
一方、私は割と暇。なんだか申し訳ない。
霧島はこの家の切り盛りをしているのでやることが山ほどあり、私だけに割ける時間はそう多くない。
だから、勉強を教えてもらうといってもほんの一時間か二時間。 一人になった私は自習をしたり、本を読んだり、掃除を手伝ったり......正直、退屈な毎日だった。
冬は長い。娯楽の少ない私にとって、あまりにも。
暇つぶしに散歩をするにしても寒すぎる。悠一ないし世間一般の方々は、よくこんな寒い中外に働きに出られるな。尊敬に値すると思う。
この頃になると私は、小等学校の課程で覚える漢字と理科、社会を網羅していた。
理科は凄い! 私は自分が惑星にいるなんて知らなかったし(あちらはどうか知らないが)植物がどうして太陽に当てるとよく育つのかもまるで知らなかった!
きっと私の使える魔法も、すべてカガクテキに解明できるのだろう。
そう考えるととてもワクワクする。
私は疑問にすら思ったことがなかったのに、解明してしまうなんて。
この世界の研究者たちは優秀なんだな。魔法がないからこその科学と技術の発展なのかもしれない。
「リミナ、明日は休みだからさ、一緒にどこかに行かない?」
いつもより早く帰宅した悠一とテレビを見ながら紅茶を飲んでいると、彼は唐突にそんなことを言い出した。
「えっ、休んで大丈夫なのか?」
「休んじゃダメなわけじゃないよ。僕が毎日出ずっぱりなのは警視庁での仕事だけじゃなくて、パーティとか会合とか、公事が多いからなんだ。年が明けたからねえ」
「貴族みたいだな」
しかし仕事のようだし、一組織の長ともなれば公務も多いだろう。
貴族......いけ好かない連中が多かった印象だ。私は好きじゃなかった。
王都に住んでいたことに加え、帝国魔法学校と謳っているだけあって名門で、貴族の子供が多かった。だから貴族に関わる機会は少なくなかった。
全ての貴族が傲慢で守銭奴であるとは限らないがーー少なくとも私が会った貴族たちは皆、金と権力に取り憑かれていた。
昔、ある中年の貴族に妾にしてやろうなんて言われたこともあってーーああやだ、思い出さないでおこう。
「悠一も疲れてるだろう。休みの日ぐらい家でゆっくり休め」
「いや、どっちみち私用で出かける予定だったから良いんだよ。『初詣』ってやつに行こうと思っ て」
「ああ。手を叩くやつか」
年末のテレビでやってた。
”今年のイチオシ神社特集!”みたいな。八百万も神様がいるなんて変だなとは思ったが、まあ、そういう宗教なんだろう。
文化の根底にあるのは宗教だというし、この国の文化を知って馴染むには、まず神道とやらに触れるのが一番の近道のはずだ。
「そう。年が明けてそれなりに立つってのに、まだ行けてないからさ。それにリミナ行きたがってたでしょ」
「私は信者じゃないんだが、行っても大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ! 今じゃむしろ、日本人の参拝客よりも外国人の参拝客の方が多い神社もあるし」
悠一は紅茶を一気飲みして喉を潤すと、
「日本人でも、ぶっちゃけ形だけみたいなところあるからさ!」
「それ言って良いやつ......?」
お行儀が悪いですよ、と霧島は小言を言いながらカップにお代わりをついだ。
「でしたら明日は一色を連れて行ってください。リミナ様は目立ちますから、不遜な輩に絡まれるやもしれません」
「そうだね。一色なら安心だ」
一色というのは、この家の護衛の一人だ。
ガタイの良い強面の男性で、腕の筋肉を見せてもらったことがあるのだが、私のいた村で一番の腕っ節よりも立派な上腕二頭筋だった。
もう一人護衛ーー山名という名前の男だーーがいるのだが、私はそちらには数えるほどしか会ったことがない。
というのも、一色は基本的に家にいるが、山名は悠一の仕事中の身辺を警護するからだ。
そうか、一色が一緒に来るのか。
「山名はいいのか? 普段はそっちだろ」
「山名には休みを取らせてあります。悠一様の休みが彼の休みです」
「うわあ、可哀想に」
もっと休んでやれよお前。
というか護衛を増やせば良いのに。金は腐るほどあるだろうし、人員を増やせば負担も軽くなるんじゃないか?
というと、霧島はそうもいかないと反論した。
「こう見えて警視総監というお立場ですから、信用に足る人物でないと中々引き入れられないのです。一色も山名も一家代々天野家の護衛で、本家ーーつまり旦那様のお住まいになられている邸宅から派遣されてきた者たちです。それに今はリミナ様もいますから、口も堅い者でないといけませんし」
「なんか、悪いな」
「滅相もございません。リミナ様がやってきてから、この家はとても明るくなりましたよ。お手伝いも、とてもありがたいです」
気遣われているのか本気なのかは分からんが、上辺だけでもそう言ってもらえて何よりだ。
村のような、一人で自給自足ができるような環境ではないから、しばらくは依存して生きていかなければならない。
霧島は私の魔法を面白がってくれる。
私も家事の手伝いをするが、使える魔法はごくごく限られている。
火や植物をわざわざ出す必要はないし、攻撃的なものも使う機会がない。最近専ら多様しているのが物を浮遊させる魔法で、踏み台がなければ手が届かないような高い場所を掃除したり、大きな家具をいっぺんに運んだりするときに使う。
ちなみに需要はそこそこない。
翌朝。
私は霧島に選んでもらった外出用の服を着て、姿見の前であまりの似合わなささに呻いていた。
洗練されていて可愛らしい。うん、確かに可愛らしいが、どうにも浮いて見える。
きっと私がこちらの服に慣れていないのが原因だろう。 これで変に目立ってしまったらどうしよう......せめて髪の毛と目を黒くする魔法があれば何とか悪目立ちはせずに済むだろうが、そんな都合の良い魔法はない。
時刻は11時少し前。
これから家を出て、神社に行って、お昼ご飯を外で食べてから少しぶらぶらして帰宅。
よし、昨日の夜に霧島から聞いたスケジュールはばっちりだ! 今日は私の、この世界での常識を試す絶好の機会でもあるのだ。
柄にもなくわくわくしてる。
「リミナ、その服すごく似合ってるよ。可愛い」
廊下に出るとすぐに悠一と鉢合わせた。
流石に今日は正装ではないようで、ネクタイは締めておらず気楽な着こなしだ。
玄関で霧島からコートを受け取り、一色に挨拶をする。
「おはよう一色」
「おはようございます」
任侠映画に彼に似たような人相の男がいっぱい出てきたというのはさておいて、見かけによらず、一色は気の優しい男だ。
悠一と違って女性に対して紳士的で、屈強で、三人揃って手も足も出なかったジャム瓶の蓋も簡単に開けてしまう。
彼が扉を開けると同時に、冷たい空気が我先にと滑り込んでくる。
すっかり温室に染まった私は身震いし、一瞬外へ出ることを戸惑ったが、先導する二人はまるで何事もないように振る舞うので私もそれに倣うことにした。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
霧島はそう言うやピシャリと扉を閉めた。なんだよ、お前も寒いんじゃないか。
「今朝にかけて雪が降りましたので、少々滑りやすいかと。足元にお気をつけください」
「お、まだ積もってるな」
「さっそく雪かきしてもらわないとね」
庭師は冬季休暇を終えて職場に復帰していた。最近は雪が酷いため、何日か屋敷に滞在して仕事をしている。
私は雪景色も好きなんだが、定期的に雪を落とさないと危ないんだそう。
こればっかりは私が魔法で手伝うことはできない。可能性は低いかもしれないが、隣人に誤って見られてしまったら大変だ。
ああでも、認知できなくなる魔法をかければどうにか......それにしたって、庭師は私の裏事情を知らないしな。
はあはあと白い息を出しながら懸命に冷え切った手袋の向こうを温めようと努めるがそうもいかない。
運転手が開けたドアの奥にすぐさま飛び込み、私は温かい風が出る隙間を探した。
ほら、早く乗ってこい寒いだろ!
私が手の快適さを取り戻した頃には、車は既に動き出していた。
思えば、車に乗るのは人生で二回目だ。
もう少し感動を味わうべきかもしれないが、今の私にとっての最重要はいかに温まるかだった。たった数メートル歩いただけだったが、私の身体はすっかり慣れない寒さにやられてしまった。
「寒いなら僕が抱きしめて温めてあげようか?」
「一色、その不届きものを外に叩き出しておいてくれ」
「悠一様、外は昼といえど辛いですよ」
「まさか本気で言ってるのかい?!」
窓は開けられないが、ガラス越しに人々の姿がよく見える。
街並みはどこもかしこも忙しなく、新年の浮かれた空気感はすっかり消え去っていた。赤信号で止まる人々を見ても、もう私は驚かない。
寒さに震えていたり、手袋をしたままスマートフォンを触っていたり、互いのコートのポケットに手を入れあって笑っていたり。 楽しそうだな。でも凄い寒そう......。
天気予報のお姉さんによれば、寒さはこれから厳しくなっていく一方。
私が外で元気に飛び回れる日はまだまだ遠い。
ものの数十分で車は目的地に辿り着き、空いた駐車場の一番端の方に止まった。
石畳を通って鳥居をくぐる。
せめて教会のような形だったら寒さもしのげるのだが、生憎と参拝は外で行う。
外国人向けの写真付きガイドを見ながら手を洗い、賽銭を投げ入れ、大きな鈴を鳴らして二礼二拍手一礼。
あの薄い膜の向こうは和室になっていて、一番奥の方の真ん中に大きな鏡が置いてあるのが見えた。
悠一曰く、あれが”ご神体”とやららしい。 人が少なく、いても散歩途中の老人や暇を持て余した学生で、私たちのように複数人で来ている者はいなかった。
悠一は売店で何か小さな袋のようなものをいくつか買うと、一つを私に渡してきた。
「これは?」
「お守りだよ」
「”お守り”?」
私の手の中で忙しなく動かされるそれは赤い袋で、金と紫と白の刺繍がされていた。中には固い板か何かが入っているが......一体これがなんだっていうんだ。
「そう。うーん、リミナのところにはなかったのかな。おまじない......って言っても分からないか。その中には神社の霊力ある木が入ってて、持っていると神様の力で守られるんだ」
「へー。守ってくれるのか」
あんまり馴染みのない文化だが、”レーリョク”というのが神の力なら、きっと凄いものなんだな。 これも科学的に証明された結果なのだろう。
「ありがとう。大事に持っておくよ」
「うん。一色にはこれね」
「毎年ありがとうございます。『厄除け』のお守りですね」
「最近物騒な事件が多いしね! 何よりまず巻き込まれないようにしないと」
お守りってどう持っておけば良いんだろう。
首から下げるには紐が短すぎるし、かといって手で持ったままにしておくわけにもいかない。
とりあえず一旦ポケットの中に突っ込んでおいて、家に帰ったら霧島にどうすれば良いか聞いてみよう。
丁度お腹が減ってくる時間帯だったので、私たちは近くの喫茶店に足を運ぶことに した。
ふふん、馬鹿にするなよ。これもテレビで見た!
『トーキョー喫茶ぶらり旅』は出演している芸人が面白くって毎週見ている。これ以外のテレビ番組で紹介されるカフェのメニューも、見た目が華やかで実に魅力的だ。
一度あの、パンケーキとやらを食べてみたいと思ってたんだ。
私がそわそわし始めたのを察知したのか、一色が私の肩をがっちりとつかんだ。
なんだ、別に急に走り出したりしないぞ。
店内は少し混雑していて、私たちは店員に案内されて窓際の一番奥の席に座った。
木調で小綺麗な店内には甘い匂いが充満しており、それは私の食欲を掻き立てるには十分すぎるほどだった。
窓際の席だが、ガラスの向こうには街路樹が立っていて外の様子を伺うことはできない。見るものを探して私は他の客に視線を向けた。
通路を挟んだ向こうの席に座る若いカップルは、男の方はサンドイッチを、女の方は赤いソースのかかったパンケーキを食べていた。 あ、あれだ! 早く食べたい!
「はは、リミナがカフェに行きたがってるって霧島に聞いてね」
「そんなことより、早く」
「リミナはせっかちだなあ」
店員を呼んで注文し、20分ほど経った頃だろうか。
頼んだパンケーキとサンドイッチランチを店員が持ってきたとき、私はカップルの座っていた席に違う客がいることに気がついた。
客が変わるのはなんら不思議なことではないが、彼らは嫌でも目についた。
黒い服を着た男女ーー女の方の顔は見えないが、少なくとも二人の動作の距離感や男の表情から察するにカップルではないらしく、店の中でも浮いた異様な雰囲気を醸し出していた。
いや、我々の方にも一色や私がいるから彼らだけが悪目立ちしているとは言い難いが、私はどうにも彼らをちらちらと見てしまった。
おっと、気を取り直そう。
私の手元にきた大きなパンケーキは、五種類ものソースとホイップクリームの乗った、この店で一番人気のメニューだ(そして一番高額でもある)。
普通の人からすればただのよくあるパンケーキかもしれないが、私にはこれがまるで宝石のようにきらきらと輝いて見えた。
悠一と一色は純粋に腹を満たすためにここに来たためか、普通のサンドイッチプレートを注文していた。
いただきます、と小さく呟き、ナイフを真ん中にざっくり入れるーーあ、湯気が! 甘い匂いがする!
一口大に切って、口の中に放り込んだ。中いっぱいに甘ったるいラズベリーと砂糖の刺激が広がる。自然と自分の頬が緩むのを感じた。
こんなに美味しい食べ物があるなんて! 霧島にも何度となくパンケーキを作ってもらったが、それとは比べものにならないほどの感動が痺れとなって全身に広がる。
「フフッ、リミナってば超可愛い」
「お、おい、連写するな!」
スマートフォンの連続的な機械音に、悠一の声で初めて気がついた。
一色はなんだか微笑ましげな顔で私を見ているし、悠一は写真を見ながら満足げに頷いている。
くっそ......してやられた......。
最後の一口の名残惜しさは大きい。
私がパンケーキを食べきったのは、相席の二人が完食して数十分後のことだった。皿の端につい たソースやクリームも賞味したいものだが、ここは公共の場。流石にお行儀が悪すぎる。
ああ、本当に美味しかった。
「リミナが喜んでくれて良かった。美味しかった?」
「すごく! ......もし時間があれば、また、連れてきてほしいな」
「勿論だよ」
また寒さをしのいで車に乗り込み、もう家へ帰らなくてはならないのかと少し寂しい気持ちになっていると、
「よし、じゃあドライブしよう!」
「ドライブ?」
「東京タワーとか、レインボーブリッジとか。東京の有名な観光地を車で回ろうよ。外に出るのは寒いから、車の中から!」
「あっ、え......?!」
エンジンは有無も言わせず車を急発進させた。 悠一は楽しそうに私の様子をうかがっているし、一色は何も言わずにニコニコしている。
まるで悪戯に成功した子供みたいだ。
こいつが、無闇に休みを取ったり外出できない立場であることは、まったくの世間知らずである私にだって分かる。
私は所詮部外者だ。
貴重な休みを割いてまで喜ばせようとするなんて、血の繋がりのない保護者が取るには行き過ぎている。少なくとも私はそう思った。
結局、家に帰り着いたのは夕方の7時過ぎで、夕食の時間に遅れた我々は霧島のお小言をくらい、 食器を全て自分たちで洗う羽目になったがーー満ち足りた、楽しい一日だった。