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網棚の紙袋を……

作者: 桜田裕田

 膝から力が抜けて目が覚めた。とっさに足に力が入り、地面に倒れそうになった体を支える。増井は右手をつり革に入れていたおかげですぐに体勢を立て直す。

 右側にいる男性から舌打ちの音が聞こえて、反射的に謝罪の言葉が口から出る。

 増井は、男性を見ないように体を少しだけ左に向ける。

 黒と茶色の鞄がずらりと並んだ網棚の、さらにドアを挟んだ向こう側の網棚の上に端に紙袋が置いてあった。取っ手がついている茶色の紙袋だ。ハードカバーの書籍を数冊入ればいっぱいになってしまうような大きさの紙袋が、ビジネスバッグと一緒に並んでいた。

 通勤時間を過ぎたあとの電車なら珍しいものではないかもしれないが、平日どころか土日も電車に乗っている増井にとってはじめての光景だった。

 なにが入っているんだろう……。

 紙袋はかすかに膨らんでいた。袋の口が正面、おそらくは持ち主のほうを向いているため、増井から中をのぞけない。

 なにが入っているんだろうか……。

 ふと人に押されて、我に返る。気づけば降車駅に着いていた。

 降りる人の波に慌てて乗る。ドアを降りるとき網棚を見ると、紙袋はなかった。




 あの紙袋はなにが入っていたのかな……と、仕事中、ふとした瞬間に紙袋のことを思い出した。

 そしていまも、電車を待ちながら朝に見た紙袋を思い出している。

 普通に考えれば、返さなければいけないものやプレゼントなど、鞄の中に入れられないものが入っていたのだろう。

 そんなことはわかっている。はずなのに、なぜこんなにも考えているのか。

「見とけばよかった」

 悩むのなら、降りるとき紙袋の中身を見ればよかった。近いドアではなく、少し離れたドアから出るだけで、すぐに紙袋のことを忘れることができたのに。

 後ろに人に押されて、歩き出す。すでに電車が来ていて、人の流れに身を任せるようにして増井も中に。すぐに周囲を見回して、押されるふりをして中へ中へと進んでどうにか吊り輪を確保できた。いつものように輪っかの中に手を入れて、ポケットからスマホを取り出して顔の前に持ってきたとき、視界の端に見覚えがあるものが映った。

 網棚の端っこに紙袋があった。

 あれは朝見たものを同じだ。

 なぜだか確信した。朝見たものがあるはずはない。そうわかっているはずなのに、増井の中では、すぐそこにある紙袋は朝と同じもの。増井の肌が粟立つ。

 惜しむらくはこの位置からでは中身が見えない。袋の口は増井とは反対に向いていた。

 それでも、一日中考えていた答えがほんの数歩でわかる。すみません、と言いながら頭を下げて端まで移動する。増井の行動に押しのけられた乗客が迷惑そうな顔を向ける。だが、増井は気にすることなく紙袋の前に来た。紙袋の口の真正面には人が密集していて移動することは適わない。

 つま先立ちをして体を横に伸ばす。見えた。だが、紙袋の口はきっちりと閉まっている。

 まだ中身がわからない。

 誰のかわからないものは開けられない。触れば中にあるものがわかるかもしれないが、あれは他人の持ち物だ。勝手に触るといらぬ問題を起こしてしまう。

 そもそも、朝持って行ってものを持って帰っているんだから、仕事で使うものではないんだろう。私物。もしかしたら同僚や友達と貸し借りしたものが入っているのかもしれない。

 次の停車駅を確認するふりをして、すばやく辺りを見回す。どの顔も見覚えがなかった。朝と同じ人が乗っていれば、その人が紙袋の持ち主だとわかる。それをヒントに中身がわかればと思ったが……。

 人が動く。気づけば、すでに降車駅に着いていた。

 開いたドアから出て行く。すぐに増井の周りから人がいなくなる。横にも、前にも、紙袋の下にも。

 紙袋の近くには人がいない。

 忘れ物……もしかして、朝からずっと置いてあったとか。

 そんなはずはない。

 いま持って行っても、誰も気にしないんじゃないか……。

 目を左右に動かす。誰もこちらを気にしていない。網棚に手を這わせ、紙袋へと歩く。鉄の冷たさを感じていた指先が、紙袋に触れて、手を引いた。

 椅子に座る。

 強く脈打つ心臓の音が聞こえる。深呼吸をして、周りを診る。

 大丈夫、誰も気にしていない。

 あのまま盗ることはできた。でも、できなかった。

 腕を組んで、震える手を押さえ込む。

 ドアが閉まる。電車が動く。紙袋は網棚の上。

 見上げると、紙袋が見える。

 持ち主が気づいて、今頃駅で駅員に話しているかもしれない。少ししたら、車両が入ってきて、さっと紙袋を盗って行ってしまうかもしれない。

 周りに人がいなくなれば。終点まで着いてもなお、頭上に紙袋があるのなら、もう持って行こう。

 ああ、紙袋がすぐそこにある。まだ胸の鼓動が収まらない。額ににじんだ汗を拭く。ぬるりとした手触りがする。

 ああ、盗ろうと思っただけでこんなにも不安になるなんて。

 大きく息を吸おうとして、むせる。甲高い咳が耳の中で反響する。

 瞼が重たくなってきて。

 このままじゃ紙袋を見失ってしまう。

 目を開けてないと。

 誰かが持っていってしまう。

 ああ、目の前が暗くなってきた。

 紙袋の輪郭がぼやける。

 力を抜いてしまうと、紙袋が消えてしまう。

 あれの中身を知るまでは……。




 けだるさを感じた。

 腕が重い。足が動かない。

 紙袋はどこだ……。

 息苦しくて、大きく息を吸い込む。

 そのおかげで体に力が戻ってくる。

 瞼を開けると、見覚えのない色があった。

 カーテンに点滴に淡いクリーム色の天井。消毒液のような酒のような不思議なアルコールの匂い。

 病院みたいだな。

 歯科医の端に液体の入ったパックが吊られた、銀色の棒が立っていた。パックからはチューブが伸びていて、増井の腕に繋がっていた。

 それを見て、なぜか腕がちくりとした。

「起きたんですね。大丈夫ですか?」

 そう言った女性は増井の手首を握る。指で脈を測っているのだろう。

「看護師……さん」

「そうですよー。なんでここに来たか覚えてますかー?」

 間延びした声とは裏腹に、女性は動作はきびきびとした動く。手首から指を放して、点滴とそのチューブを見る。

「増井さんは電車で倒れたんですよ-。あとで先生と話してもらいますけど、過労でしょうね。ちゃんと寝てます?」

「二、三時間ぐらい」

「少ないですねー。仕事忙しいんですかー?」

「ええ。あの、俺……どうして?」

「過労ですよ。先生呼んできますね。ああ、もしかしたら入院してもうらかもしれないですけど」

「入院……あの、紙袋は?」

 慌てて口を紡ぐ。なにをいっているんだ。そんなこと言ってわかるはずない。

「荷物なら、そこのカゴに入れていますけど……紙袋あったかな?」

「いや、なんでもないです。ちょっと混乱してて」

「わかりますよ。とにかくいまは休んでください」

 看護師は規則正しい足音をさせて離れていった。




 増井は会社を辞めた。過労死寸前と医者から言われたことで決心がついた。辞めるときや引き継ぎでゴタゴタはあったが、無事に退社。半年あまり無職を楽しんでいたら、大学の先輩に遭遇して居酒屋へ。無職であることを話したら、うちで働かないかと先輩から誘いがあった。無職の増井を見かねて声をかけてくれたのだ。失業保険のこともあるので、月に一、二回程度バイトに入っている。無職の間はほとんど口を開かなかったので、月に一度でも人とがっつり話せるバイトが楽しい。

 電車に乗った増井はすぐさま座席に座る。会社員も出社していない朝の時間帯のため、乗っているのは若い男女や始発帰りでくたびれたサラリーマンぐらい。

 サラリーマンを見て、俺も前はああだったんだよな……。

 懐かしさがこみ上げてくる。だが、昔に羨望はない。いまがいい。

 胃からこみ上げてくる空気をかみしめる。口と鼻にお酒の匂いが広がる。

 知らない内に歳を取っていたんだな。だが、気分は悪くない。そう思うぐらいの余裕があるいまの生活を気に入っていた。

 背もたれに体を預けると、増井の後頭部がこつんと窓に当たる。

 頭上にある網棚が見えて、そういえばもう紙袋への執着がないことに気づく。あのときはなんであんなに執着していたのか……。疲れでおかしな気分になっていたのだろう。そう結論に至る。もしかしたら、あれはなにかの忠告だったのかも。

 働き過ぎだ、少しは休め。なんて。

 益体もない考えが次々に浮かぶ。

 いまも疲れているな……。帰ったらすぐに寝よう。

 電車が止まる。降りなきゃとドアに向かっていったとき、遠くの網棚に紙袋があった。

 遠目からでもわかる。

 あのときの紙袋。

 素早く目を動かすと、車内には誰もいない。

 今度こそあの袋がわかる。

 紙袋へと足を向ける。

 一歩、二歩……乗ってくる客はいない。

 三歩、四歩……胸が高まる。

 五歩、六歩……紙袋まであと数歩。

 止まっていた呼吸を動かす。ヒューヒューと喉から音が聞こえる。胸の鼓動が大きくなる。

 あの日と同じだ……。

 これ以上紙袋に近づいたら。

 なんでだろう。先ほどまでまったく感じなかったのに、いまはどうしても中身が知りたい。

 七歩……あれを見たら、俺はどうなるのか。ただの気のせいか、それとも……。

 いまならドアから出られる。

 紙袋と外。

 俺は、八歩目を踏み出して――。

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