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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白い傘

作者: 七藤三樹

「電車の中に忘れ物をしてしまって」

 そう話しかけても、白茶色の疲れた顔をした駅員は目を瞬かせるだけだった。

 聞き取れなかったのだろうか。改札付近は行き交う人で混雑していて、騒がしいとは言えないまでもそれなりにざわついているから、くぐもったわたしの声は届かなかったのかもしれない。よくあることだ。小さい頃から母にも注意されてきた。もっとはきはき喋りなさい、何度も言わせないで、だからお前はだめなのよ……

 もう一度言い直そう、次はもっと話し方に気を付けなければ、と申し訳なさにかられて身を縮めたところで、それまで黙りこくっていた駅員が思い出したように口を開いた。

「じゃあ遺失物管理センターに行ってください」

 指示された場所は、同じ駅構内ではあったがずいぶん遠かった。人混みを掻き分けるようにしてエスカレーターやエレベーターを乗り継ぎ、連絡通路を渡る。ホームの端から端まで歩かなければならないこともあり、わたしがのろのろと足を進めている横に、吹き飛ばすような風圧や轟音と共に電車が滑り込んできて、耳の痛むような軋みを上げて停車し、ばらばらと乗客を吐き出し、また呑み込んで、来たときと同様に騒がしく走り去っていくこともあった。

 こんなに広い駅だったっけ、と汗を拭いながらわたしは一旦ベンチに腰掛けた。普段は必要な路線を行き来するだけで、限られた場所しか知らない。足がくたびれると、頭までずきずきしてきた。

 ベンチの近くの煤けた壁には、ポスターが何枚も横並びに貼り付けられている。旅行会社の広告、盗撮への注意喚起、健康食品の宣伝、自殺防止の呼びかけ――これをしてはいけない、これをしなさい、これはしてはならない、これはしなければならない……もう一度立ち上がり、よろよろと歩き出す。

 ひとけのない静かな階段の突き当たりに、ようやく「遺失物管理センター」のプレートを見つけた。仕切り付きのカウンターしかない貧相な窓口だったが、見落とさず発見できたことに胸をなで下ろした。錆びの浮きかかった呼び鈴に触れると、思いのほか澄んだ音で震える。しばらくして、磨りガラスの仕切りの向こうにぼんやりと人影がにじんだ。

「はい、どうなさいました?」

 聞き取りやすい落ち着いた声に尋ねられ、わたしはほっと息をついた。

「忘れ物をしてしまったんです。白い日傘です。こちらに届いていないでしょうか」

「分かりました。少々お待ちください」

 仕切りの向こうで、何かをさらさらと書き付けている音がする。

「何か目印のようなものは? 特徴を教えていただけますか」

 わたしはカウンターに手を添えながら考え込んだ。特徴、特徴、と口の中で呟く。

「縁にたっぷりとレース刺繍のついた日傘です。開くと万華鏡のように見えます。いかにも少女趣味な、雪みたいに白い――とはいっても、もうずいぶん黄ばんで見えるかもしれません。昔、母がどこへ行くにもさしていた新品の頃はそれは見事はレースフリルだったのですが、今はもうあちこち千切れたりほつれたりして、崩れた蜘蛛の巣みたいにおどろおどろしく垂れ下がっています。傘を開くとき、もつれたところが骨の先に引っかかってさらに破れてしまいそうで、はらはらします」

 そこで、わたしはふと思い出して唇をゆがめた。

「新婚の頃に父から贈られた傘だと母は言い張っていましたが、それは嘘です。母が自分で買ったのです。母にはそういうところがありました」

 わたしはそっと目をつむった。

「あれは、父がいなくなったときのことでした。母は、わたしの手を引いて父の実家まで乗り込んでいったのです。電車を何本も乗り継いで、足が痛くなったのを覚えています。着物を着た母は、片手にあの日傘を持って、片手でわたしの手を掴んで――疲れても立ち止まることは許されませんでした。疲労と緊張で舌が干上がったみたいになって、わたしは父の実家でろくに挨拶もできませんでした。追い返された帰り道、母はふと歩みを止めました。わたしも引っ張られるようにして立ち止まりました。そのまま母は、日傘を閉じました。白いレース刺繍のついた日傘を。くるくると魔法のように畳み込み、丁寧に留め紐を巻いた日傘を、母は握り、振りかぶりました。それは何度も何度もわたしの脳天に打ち下ろされ、異変に気付いた通行人が母を取り押さえるまで続いたといいます」

 目を開き、わたしは額を押しつけるようにして磨りガラスの向こうを覗き込んだ。

「――そう、あの白い傘には、わたしが殴り殺されたときの血痕が染みついているはずです。それが特徴です。届いていますか?」

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