厭離穢土
夜の帳は昏く垂れ、落ち窪んだ瞳を包み込む。一歩、一歩と踏み締める度アスファルトによって底冷えし、思考が凝固していく。
その活況を失った街を歩く女は夜だ。
音を纏わぬ様慎重に運ぶ足が、吐息の権利すら奪い静謐を深め、病的な程の気後れに駆られる姿が、昼の姿を褪せさせる。
その女は間違い無く夜だった。
彼女は我が子の臍の緒に縋るかの様に、ショルダーバッグを抱え込み、足早に目的地へと歩を進める。
そして幾つもの光を避け、陰らせた身を止める頃には、息は既に切れ肩は丸みを帯びていた。
辿り着いたのは、長い年月を窺わせる痛み切った二階建てのアパート。階段や欄干は赤錆びて歪み、色褪せたベージュの壁にはカビが姿を覗かせる。彼女はそんなアパートの階段を上に登り、扉を二度叩いた。
その後聞こえてくるのは不規則な足音。軋む床板を鳴らしながら玄関に徐々に近づいて来る。女はその間に何度も振り返り、扉が開かれるのを待ち侘びた。故に、扉が音を立てた瞬間に初めて眼を輝かせた。
「……お前か……どうした?」
出て来たのは不潔な男。細く精気の無い三白眼に、妖しくてかてかと光る分厚い唇。脂ぎった髪は乱れ、塗された黒胡麻の様に髭が繁茂している。
「……お金、持って……来た」
「……入れ」
男は静かに背を向け奥へと溶け込み、女は男の後を追い敷居を跨いだ。
中は闇だ。日に焼け赤茶けたカーテンは閉じ切り、照明は眠りについている。しかし予想に反し、目を凝らし見遣れば部屋の中は存外に綺麗だった。朽ちた壁や、所々に出来た本とDVDケースの塔に目を瞑れば、物自体が少なく嫌悪は無い。
男はやがて唯一の部屋の中央で足を止め、木板の床に座り込んだ。玄関から部屋までは仕切りも無く数歩、そしてその狭い部屋以外にはユニットバスがあるのみで、その他の空間は存在しない。故に一本道。女は決して迷う事無く、男の眼前で腰を下ろす事となった。
「……出せ」
男はぶっきらぼうに太い腕を伸ばす。
その腕は脂肪を粘り気のある汚泥に溶かし、掻き混ぜ練り固めたかのような質感。それには女も厭忌の情を湧き上がらせざるを得ない。そして彼の重力に従う肉が、黒ずんだ爪と太い指の隙間が、女の心に蛮勇と狂気を忍ばせる。
「……待って」
しかし厭な感情は億尾にも出さない。女は静かに自身のショルダーバッグの中を弄り始める。その動きはどこかぎこちなく、固い。だが目的の物は直ぐに見つかったようで、鞄の中で一方的な握手を交わす。
そして把持する冷えた取っ手の感触に、口角を吊り上げた――




