裁判所事務官
裁判所事務官の面接当日。
私は天候を操るスタンド使いに襲われました。
2018年7月。この年は私にとって重要で、自分の人生について考える必要があった。就職活動である。5月に受験した裁判所事務官採用試験の一次試験を通過し、今日は二次試験が実施される。試験内容は面接だ。私はこれまでに面接を経験したことがない。アルバイトの面接は、面接というよりも面談だった。1月から一カ月に四回ほど面接練習をしていたが、それはあくまで練習で、本番ではない。本番の緊張感は本番でしか体感できない。
会場には、14時までに到着するようにと受験票に記載されていた。場所は赤坂にある福岡地方裁判所だ。一次試験の合格通知が届かなくて、わざわざ裁判所まで取りに行ったので、場所はきちんと把握している。だから、別に急いで福岡まで来ることはないのだ。それにもかかわらず、私は午前7時に家を出た。
現在の時刻は午前9時。キャナルシティ周辺にいる。何か用事があったというわけではなく、高速バスを蔵本で降りて、適当に歩いていたらこんなところまで来てしまったのだ。傘が邪魔だな。今日の天気予報によると雨らしいので、念のために持ってきたんだけど、全然降らないじゃないか。
昨日はゼミの先生に面接練習のお願いをした。質問に対して、私はよくフリーズしてしまう。その理由について先生に尋ねられた。
「言葉を選んでしまいます。百点満点だと思えるような文章が組み立てられなくて、そのままフリーズしてしまいます」
このように答えたけど、本当は少し違う。自分がいったことを相手は受け止めてくれるだろうか、否定されたり攻撃されたりしないだろうかという不安があって、フリーズしてしまうのだ。
このまま歩き続ければ、面接を受ける体力がなくなってしまう。博多駅周辺にあるベローチェに行こう。そこで13時くらいまで休憩して、体力を温存しよう。進路を博多駅の方角に変更して歩き出した。それから5分くらい歩いていたら、突然大雨が降りだした。
なにーッ!なんなんだ、この降水量は?しかも風が強い!事前に雨が降ることはわかっていたが、台風のような雨だとは聞いていないぞッ!傘をさしていても、すべての雨を防ぐことはできない。もう、すでに靴下は雨のせいで水分を帯びてきた。
間違いない。これはスタンド攻撃だ!広範囲にわたって強い影響を与えるスタンドだ。もし本体と近距離で戦闘になれば、私に勝ち目はない。天候を操るスタンド。ウェザーリポートか?
靴下がぬれるのは構わない。乾かせばいいんだからな。私がおそれていたのは、二次試験の受験票がぬれてしまって、面接を受けられなくなるのではないかということだ。敵スタンド使いの狙いはこれなのか?敵の裁事の採用試験を受けていて、少しでもライバルを減らすため、雨を利用して受験票を傷つけようとしているのか?スタンドにはスタンドでしか対抗できない。私はスタンド使いではないので、なす術もなく、受験票は入った鞄を抱きしめながらベローチェに向けてひたすら歩いた。
「アイスコーヒーをお願いします」
ベローチェに来ると、植木先生のことを思い出す。かつてお世話になった憲法の先生だ。今は別の大学で楽しい講義をしているはずだ。まだ私が在籍している大学にいた頃、授業の合間に楽しい雑談、というか体験談を話してくれた。
「喫煙者の私はよくベローチェに行きます。そこで、たまたまそばにいたママ友集団の話を聞いてしまったんですよ」
「うちの子がね、どうしてもやりたいっていうから、今度芸能事務所のオーディションを受けさせようと思ってるの」
「あらー、そうなの?うちの子はね、モデルをやってるのよ。やめたほうがいいって説得したんだけど、本人がどうしてもっていうから今では家族みんなで応援してるのよ」
「この話を聞いて私は指摘したくなりました。本人の意思じゃなくて、親の見栄でしょ。あんたらが無理やりやらせてるんでしょ。職業選択の自由の侵害じゃないか」
この話は植木先生の雑談のなかでも、たぶん一番おもしろかったから、今でもはっきりと憶えている。二番目がどらやきかな。
「私が前回の授業で、最近ファミマのどらやきにはまっているという話をしましたよね。それから、北九大周辺のファミマのどらやきがすべて買い占められてしまって、私が食べられなくなったんです。だからみなさん、私に嫌がらせをするのはやめてください」
懐かしいなあ。今頃どうしているんだろう。あの人は確か、憲法が規定している法の下の平等に障がいがある人を関連付けた研究をしていたな。どうして障害がある人に関心を持ち、憲法の世界に入っていったんだろうか。先生の人生で、障がいがある人の人権を守る仕事がしたいと決意するような、何か特別な経験があるんだろうか。
円卓のような、大きなテーブルの席を選んだ。一つの大きなテーブルに、5、6人の人が座っていた。かなり歩いたから疲れた。しばらくここで休もう。
受験票は、あまりぬれていなかったので、何とかなりそうだ。あまりぬれていないということは、少しはぬれているということだ。ぬれている部分を、ポケットティッシュで挟んで水分を吸収する。これを二回繰り返して、あとは放置。アイスコーヒーを飲みながら自然に乾くのを待った。
ベローチェを出る頃には、少し雨の勢いが弱くなっていた。敵スタンド使いも体力の限界のようだ。風も弱くなったので移動しやすい。博多駅から地下鉄に乗り、赤坂に向かった。赤坂についた頃には、さっきまでの大雨が嘘だったかのように、青く澄んだ空が広がっていた。
13時50分に、福岡地方裁判所に到着。裁判所内に入るには、空港で実施されているような、厳しい手荷物検査を受けなくてはならない。小倉支部では手荷物検査自体なかった。
「こちらの部屋で面接の注意事項を読みながらお待ちください」
控室には私のほかに、女性が二人、男性が一人いた。面接は最初に男性、その次に女性たち、最後に私という順番だった。待っている間、ほかの受験者の面接時間を計ってみた。だいたい20分から30分だ。面接としては長いほうだ。長い時間をかけて、じっくり一人ひとりの話を聞いてくれるのか。二次試験の受験者は120人。少なく見積もっても、面接だけで40時間もかかっている。
14時までに集合だったので、14時半には面接が開始されると思っていた。しかし、面接はなかなか始まらない。結果から言うと、一時間半くらい待った。緊張を緩和させるため、波紋の呼吸をしていたが、効果はなかった。控室にいるのが、私一人だけになったときが緊張のピークだったかもしれない。
15時半に男性職員が控室にやってきて、次はあなたの番だと告げた。
「ベルが鳴ったらそれが合図なので、ノックをしてから入室してください」
チリーン。
鳴ってしまった。こわい。なかに入りたくない。でも逃げるわけにはいかない。
コン、コン、コン。三回ノックした。
「どうぞ」という小さな声が聞こえた。
「失礼します」
ドアを開ける前にも挨拶をした。ドアノブに手をかけ、手前に引く。その際、隙間からなかの様子を確認すると、一人の面接官と目があってしまった。ペコリ。こういうときは会釈をすればいいんだよね。
なかにはいっても、ドアを閉めるまでドアノブから手を離さない。音を立てないよう、そっと閉める。
「左手にある机の上に荷物を置かれてください」
「ありがとうございます。失礼します」
鞄を机上に置くと、一礼して前に進んだ。広い部屋だった。入口から椅子まで、15歩くらいだ。
「受験番号は結構ですので、自己紹介をお願いします」
せっかく暗記したのに、無駄な努力だった。
「私は、木村裕太と申します。本日はよろしくお願いいたします」
緊張しているせいで、名前しかいえなかった。名前しか伝えられなかった。これは自己紹介なんてものではない。
「どうぞおかけになってください」
「失礼します」
初めての面接ということもあって、とても緊張していたので面接の内容はあまり憶えていない。憶えている部分だけを文章にして再現してみる。
「面接カードに志望動機を書いていただいていますが、これについて補足があればお願いします」
面接官は三人いて、私の正面に座っている人が最初に質問した。髪はほとんど白く輝いていた。ほかの二人はまだ若々しい。面接官は全員男性だったけど、こわい人はいなかったのでちゃんと話ができそうだ。
「は、はい。補足はございます。刑事訴訟法の授業で、なぜ手厚い手続きの保障が、犯罪をした人にも保障されているのか学びました。冤罪を防ぐためという理由など様々な理由があるのですが、私は犯罪をした人の境遇に注目しました。つらい子供時代を過ごした人が多く、生きづらさを抱えたまま大人になり、犯罪をしてしまいました。事後的ではあるんですが、子供時代を子供らしく過ごせなかった彼らに、中立で公正な裁判を保障するため、裁判所職員として微力ながら力を尽くそうと考えています」
文章だとすらすらいえているように感じるが、実際は違う。何度もつっかえて、咳き込みながら、長い時間をかけて伝えた。
「勤務希望地についてうかがいます。第一希望が福岡ということですが、その理由をお聞かせください」
「両親と離れて暮らしたいからです。現在も同居しているわけではないんですが、両親も北九州市内に居住しているので、両親から離れるために福岡市で働きたいと考えています」
緊張のあまり本音をいってしまった。もうだめだ。落ちた。
「福岡には、北九州の小倉にも支部があります。そちらに配属された場合はどうしますか?」
「たとえ小倉に配属されたとしても、裁判所で働けることには変わりはないので、与えられた仕事に取り組みます」
「先ほど、北九州から出たいとおっしゃいましたよね?本当に大丈夫ですか?」
たぶん、この面接はもう終わってしまった。取り返しのつかない失敗をしてしまった。最終合格はありえない。
私からみて左側に座っている人に、どんな質問をされたのか忘れてしまった。右側の人も私にどんな質問をしてくれたのか、まったく思い出せない。ただ、言葉がつっかえて答えるのに長い時間がかかっても、三人は熱心に話を聞いてくれた。そのことは憶えている。
「裁判員に選ばれたら、裁判に参加するのは義務と権利、どちらだと思いますか?」
こんな質問もあった。答えは権利だ。でも、選挙権と同様に、その性質は権利だとしても与えられた以上、その権利を行使する義務はあるんじゃないか。
「義務だと思います」
思いますという表現は、責任を回避しようとする、無責任ないいまわしなので面接の場面で使うべきではない。
質問タイム。
「裁判所の職員として、長年お勤めになったみなさんが、やりがいを感じた瞬間を教えてください」
この質問には右側に人が答えてくれた。この人が三人のなかで一番若くみえる。
「私はかつて家庭裁判所で勤務していました。離婚調停にかかわることがありまして、私が担当した方は離婚されましたが、丁寧な対応のおかげで安心して調停に参加できたという言葉をいただいて、とてもやりがいを感じました」
裁判所事務官は、離婚という人生の大きな節目に立ち会うこともあるんだな。当事者にとって離婚というのは大きなストレスだ。人に感謝する余裕なんかあるわけがない。離婚の一歩手前にいる人の、精神的苦痛や抑うつは想像を絶する。なのにだ。そんな状況にいる人から感謝されれば、その喜びはひとしおだろう。
こちらからの質問が終われば、それと同時に面接も終わると思っていた。
「先ほど裁判員裁判についてお尋ねしましたが、その答えをお教えします。裁判員裁判は権利です。これまで国民は司法に参加することはできませんでした。そこで、国民の司法への参加を実現するために、裁判員裁判が導入されました」
実際はこんなに短い解説ではなかった。10分くらい時間をかけて、丁寧に説明してくれた。
「本日の面接は以上です。気をつけてお帰りください」
「本日はありがとうございました。失礼します」
面接時間は30分。長かった。私は面接慣れしていないし、むしろ苦手なので、はっきりと流ちょうに受け答えすることはできない。それなのに、面接官のみなさんは長い時間をかけて、熱心に話を聞いてくれた。ひどい受け答えでも、30分という長い時間私と向き合ってくれたんだから、感謝の気持ちでいっぱいだ。
結果はD判定。不合格。D判定の場合、たとえ筆記試験で百点満点を取ったとしても、合格はありえない。残念だとは思うけど、大丈夫。あんなに熱心に話を聞いてくれたんだから、たぶん受け入れられる。次だ。次の面接で、今日のような失敗をしないように気をつければいい。まだチャンスはある。チャンスがある限り、チャレンジし続けよう。
栽事の面接は不合格でしたけど、このときはまだ精神は壊れていません。
これから崩壊していきます。