六章
ニューヨークは粉雪の中らしい。自宅を出る前に見ていたテレビで流れていた。フランスは晴れていればいいな。僕は知波を見送るために成田空港に向かった。外を見ると曇天の中で粉雪が舞っていた。
知波は最後まで方針を変えず、日本を去ることに決めていた。同級生には直前まで言わず、文化祭が終わってしばらくたってから突然表明した。クラス中にどよめきが流れたのを覚えている。いつ旅立つのか、何時の飛行機に乗るのか聞かれていたが、彼女は曖昧にぼかしていた。たぶん加藤さんにも伝えていないのだろう。僕は一週間前に出発日を伝えられて、「見送りに来て」とお願いされた。
空港には人がたくさんあふれていた。日本人だけでなく外国人も大勢いた。どの人たちも旅路に対して心躍らせている様であった。僕は今日の空模様と同じく晴れない気持ちを抱いていた。
待ち合わせの場所に対しては二十分前についてしまった。少し早いかなと思っていたが、知波はもうすでに来ていた。一緒にいる父親と思われる人と話していた。クリーム色のコートとネズミ色のロングスカートを着ていて、一足先の冬模様だった。
「お、汐早いじゃん」
彼女も僕を見つけて声をかけてきた。
「君が汐君か。こんにちは」
そばにいた男性も話しかけてきた。
「汐。私のお父さん」
「初めまして」
僕は父親に挨拶をした。
「初めまして。こっちで知波と仲良くしてくれたんだってね。どうもありがとう」
穏やかな顔をして礼を言っていた。
「い、いえ。こちらこそ。僕もお世話になりました」
想定していないことを言われ、僕はしどろもどろになってしまった。
「知波。まだ飛行機まで時間があるから、汐君と近くを回ってきたら?」
「はーい。汐、行こう」
彼女は先に歩きだした。僕も遅れて後からついていった。
僕たちは空港のカフェに寄った。周りには搭乗を待っている人たちでにぎわっていた。ちょうどよく飛行機が見えるところの席が空いたので、僕たちはそこに座った。
「こうして君とカフェに入るのも今日で最後だね」
「そうだね」
二人ともしみじみとしていた。いつの間にかこうして二人で会うようになっていたか、僕はぼんやりと振り返っていた。知波も同じらしく、
「なんか君とこうしてあっているなんて不思議だよね。二年生になったころは全然話さなかったのに」
笑いながら話していた。
「本当にね。クラスだけじゃなく図書室やあの喫茶店とか結構ニアミスしていたとにね」
「ねー。あの店主さん元気かな?」
「どうかな。何となくうまくやっていると思うな」
「ははは。確かに。君ってまだペンを使っている?」
「もちろん。君は?」
「当たり前じゃん」
と言って、荷物の中からシックなブラウンのボールペンを見せた。
「いつ見てもきれいだよね」
「だよね。案外あの不思議な人たちはこのボールペンが呼び出したのかもね」
「あー、それあるかも」
いつもより僕たちは饒舌になっていた。
「今更だけれど、最初の方つっけんどんになってごめんね」
急に知波は謝罪してきた。
「何を今さら。それに君って男が苦手なんでしょ。仕方ないよ」
ついつい笑みを浮かべつつ答えた。
「まあ、ね。君のことは何となくクラスの男子とは違うなあとは思いつつも、ちょっと警戒していたかな」
「過ぎたことは大丈夫だよ」
この話題が出てふと思い出した人がいた。
「そういえば、この前泉水さんと会ったよ」
彼女は少し顔をこわばらせて、
「そっか」
と、短くいった。
「僕が君に伝えるのはフェアじゃないけれど、泉水さん言ってたよ。自分も知波を恋愛対象として好きになれたらよかったのに。もしくは、ずっと知波と友達になれたらよかったのに。って」
「そっか」
ともう一回短くいった。それからぼそっと、
「私も男の子を恋愛対象として見れたらよかったのに」
僕は聞こえなかったふりをして、窓の外を見た。空からはエールフランスの便が飛び立っていた。時計の針は搭乗時間が近づいていることを教えていた。
僕たちは無言で入り口まで歩いていた。何かを話さなければいけない。でも何を話せばいいかわからない。そういう心境だ。お互いちらちらと相手を見ては、目をそらすのを繰り返していた。
出発ロビーには知波のお父さんがもう待っていた。僕たちに向かって、
「そろそろ中に入ろうか」
といった。知波はこくんとうなずいていた。
「田中君、改めて知波と遊んでくれてありがとう。おかげでこの子も楽しい高校生活をこっちで過ごせたよ」
僕はもごもごと「いえ」とか「そんな」とかを口にしていた。知波は何も言わず笑って僕を見ていた。僕は知波の方を向いて、
「色々とありがとう。僕も君といて高校生活を楽しめたよ。向こうでも元気でね」
陳腐なことしか言えなかった。もっともっと口にしなきゃいけないこと、伝えなきゃいけないことがあるはずなのに。そんな僕に対して目を細めて、
「ありがとう。私も君と出会えて楽しかったよ。今年の夏は今までで一番記憶に残ったな」
といった。もう遠く過ぎ去ってしまった夏を思い出しつつ、
「これからも元気でね。泉水と私の分まで仲良くしてあげてね」
といった。僕は彼女の言葉にうなずいた。
「それじゃあね」
といって、父親と一緒に入り口に向かいだした。と思ったら僕の方に顔を向けて、
「あ、そうだ」
少しイタズラめいた表情をしつつ、僕への最後のメッセージを口にした。
「本を読む馬鹿、私は好きだよ」
そうして彼女は新たな門出の旅に一歩踏み出した。僕は彼女が歩み始めたのを見届けて、自分の町へ足を向けた。これで良かったんだ。きっとこれで良かったんだ。旅立つ人を笑顔で送り届け、日常に戻っていく。これが僕の考える「かっこいい」やり方だったんだ。そう、これで良かったんだ。
『へえ。カミュを読んでいたんだ。面白い?』
頭の中で誰かの声が響いていたけれど、聞こえないフリをした。センチメンタルな気分に浸りたいだけだろう。本ばかり読んでいたからこうなるんだ。冷静になるように、かっこよくなるように意識した。
『あ、今度はヘミングウェイだ。面白い?』
また、頭の中で誰かの声が響いた。自分は嬉しかったのかもしれない。本のことについて話せる人を見つけられたことが。仲間が出来たことが嬉しかったのかもしれない。ただ、それだけだ。
『ありがとう。やっぱり君は頼りになるね』
僕は頼りになる人間じゃない。僕は何もできない。バスケがうまいわけじゃない。ギターを弾くこともできない。ただ本だけ読んでいる馬鹿だ。
『本を読む馬鹿、私は好きだよ』
かつ、と自分の足が逆方向に向け始めた。
――あれ、僕なにやっているんだろう。
かつ、ともう一歩踏み始めた。
――彼女とはすっきり別れるつもりなのに。
かつかつ、とさらに歩を進めた。
――かっこよく決めようと思っていたのに。
かつかつかつ、と次第に足の速度は速くなっていた。彼女の距離は一気に縮んでいった。足音に気づいたのか彼女が振り返り、そして驚いている顔が視界に入った。僕は彼女を力強く抱きしめた。
「え? どうして?」
彼女の戸惑った声がすぐそばから聞こえた。
「嫌なんだよ」
僕は小さくつぶやいた。
「えっ?」
「嫌なんだよ。君が海外に行ってしまうのが。二度と会えなくなるのが」
僕は何を言っているんだろう。
「初めてなんだよ。こんなにも本のことを話せる人は。こんなにも僕のことを認めてくれる人は」
すごく格好悪いや。
「失いたくないんだよ。ずっと一緒にいたいんだよ」
全然考えていたのと違うよ。
「行かないでよ。僕が君を好きなのと同じように、僕のことを好きになってよ」
言っちゃったよ。こんなことを伝えても知波を困らせるだけなのに。
「……」
知波はずっと無言だった。しばらく時が止まったように感じた。と思っていたら、左頬に強い痛みが走った。
「……」
知波は手をあげていた。どうやら僕は彼女にはたかれたようだ。
「あんたなんか大っ嫌い。どうして今そんなこと言うのよ」
とまた、左頬に衝撃が走った。
「なんでせっかく前に進もうとしているのにそんなこと言うのよ」
彼女は右手を振り上げた。今度は耐えるために目を閉じた。今度は予期していた分、少しはこらえられた。
「男のくせに。男のくせに。なんでそんなことを言うのよ」
今度は首根っこをつかまれた。殴られると思うに強く目をつぶった。そしたら頬に痛みはなく、代わりに唇に温かい感触が強く突きつけられた。驚いて目を開けると、彼女は瞳に大粒の涙を浮かべていた。
「なんでこんなにうれしいのよ。なんで」
今度は彼女の方が僕に強く抱きついた。
「なんで離れたくないと思うのよ。なんであなたと一緒に思うのよ。なんで。なんで」
彼女は肩を震わせて僕にしがみついていた。僕は改めて大切なものを見つけたと感じた。大切なものをいつくしむように、手稲に丁寧に彼女の背中をさすっていた。
ふとそばを見ると、知波のお父さんがあきれたような、うれしそうな笑顔で僕を見ていた。そして一枚の航空券を僕に向かって破いて見せた。
[あとがき]
右も左もわからない中で書き上げました。目標は一つ「最後まで小説を書ききること」だけでした。書き終えたときにホッとした様なくすぐったいような気がしました。やっと自分の人生を過ごしている感覚を抱いたのを今でも記憶しています。
はじめまして永岡萌です。色々と未熟な本作を最後まで読んでいただいてありがとうございます。汐と知波の物語を通して、あなた様に何か一部でも残っていただければと幸いです。