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五章

 数日前の旅行後、知波は様子がおかしかった。ぱっと見るといつも通り快活だけれど、ふとした瞬間に疲れた顔をしていた。溜息をついている姿も目立ち始めた。今日も文化祭の準備をしているときに、

「ちょっと知波だいじょうぶ?  なんか今日生気がないように見えるんだけれど」

 と、周りの人たちに心配されていた。そのたびに、

「大丈夫大丈夫。ちょっとした夏バテだよ」

 となんでもなさそうに答えていた。そういいつつやっぱり溜息をついていた。加藤さんも気になっていたらしく、

「知波、大丈夫?」

 と声をかけていた。

「なんでもないって言ってるでしょ!」

 と声を荒げていた。周りの人たちがびっくりして彼女を見ていた。

「ごめん。少し外の空気を吸ってくる」

 といって教室を出ていった。僕たちは彼女の様子に驚いていた。



 文化祭の準備が終わった後、僕は学校の図書室で本を読んでいた。今は趣向を変えてフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んでいる。アクションメイン思っていたけれど、人間の優しさとは何か、といった哲学的なことも含んでいてなかなか面白い。

 と、集中していたら目の前に人が座っていた。知波だった。今もまだ疲れたような顔をしていた。それでもルーチンワークとなっているフランス語勉強は続けるようだ。

『最近どうしたの?』

『何か疲れることがあったの?』

『僕でよかったら相談に乗るよ』

 喉元まで言葉が出かかっていたけれど、僕は何とか押しとどめた。加藤さんに対しても、拒絶の意志を示していた。ここ数カ月来の友人である僕にはいっさい話さないだろう。

それに知波の性格だと話すべき時には話すような気が何となくする。今はまだ本人の中で逡巡する時期なのかもしれない。と、

「ねえ。汐」

 彼女は話しかけてきた。夏休みなだけあって教室には僕たち二人しかいなかった。

「ん?」

 僕は今の暗い顔の理由にかかわることだと思っていたら、

「君って人を好きになったことある?」

「え?」

 予想外の質問に戸惑った。彼女の表情に冗談めかしたところはなかったので、

「ないかな。あったとしても、ちょっといいなと思った程度。小説みたいな強い気持ちに焦がれたことはないよ」

と、伝えた。

「知波は?」

「たぶん。あるかな」

 と答えた。僕は続きを待っていたけれど、彼女は数秒間をおいた後、

「あー。変なことを聞いてごめんね」

 と、から笑いで答えた後、

「ごめん。用事があるんだ。先に帰るね」

 あわただしく荷物をまとめて、図書室を出ていった。部屋の中は一気に静寂に包まれた。



 彼女は好きな人がいるんだろうな。恋愛話に縁がない僕にでも察しはついた。一番思い当るのはあの人かあの人なんだろうけれど、どちらもピンとこなかった。やっぱり本人がもう少し詳しく話してくれるのを待とう。



******************



 翌日。文化祭の準備もだいぶできてきて、夏休み分のノルマは達成できる見込みだ。テーブルクロスやら壁紙やらが教室を彩っていた。知波はまだ来ていなかった。いつも学校に遅刻しないので僕たちは意外に思っていた。

「遅いね。知波」

 加藤さんも心配しているみたいだ。ここ最近の疲労感を目にしているから、彼女も気になるのだろう。と、噂していたら、

「遅れてごめん」

 という声が教室の後ろの扉から聞こえてきた。

「いいよ。だいたいできているし」

 と振り返りながら答えていた。彼女はさらに顔色を悪くしており、もはや蒼白という言葉が似あうほどだった。

「あの。知波。大丈夫」

 加藤さんも僕と同じ気持ちらしく、おどおどしながら話しかけた。

「平気。気にしないで」

 とそっけなく答えていた。



 準備中は知波の雰囲気のため非常に重い空気が流れていた。

「あの。これ。借りても。いい?」

「はい」

 とか。

「ここ。切っても。いい?」

「いいんじゃない」

 とか。

「ごめん。こぼしちゃった。怒ってる?」

「別に」

 とか。みんながみんな彼女に気を使っていた。夏の青空とはかなり対照的だ。

「汐」

「なに?」

「作業に集中して」

 ごめんなさい。



 今日も図書室で知波と二人だけで過ごしていた。さっきのこともあったから僕は本に集中するようにした。知波も黙々とフランス語の教科書を読みこんでいた。と思っていたら、

「ねえ。汐。今日って私感じ悪いよね」

 と、いきなり話しかけてきた。

「え。突然どうしたの」

 びっくりして、とりあえずはぐらかしたけれど、

「いいの。自分でも気づいているし。ごめんね」

 と謝ってきた。

「特には気にしていないけれど。いったいどうしたの」

 僕は訳を聞いてみたけれど、

「今は言えない。あと少ししたらケリをつけるから」

 ケリ?  一体何のことを言っているんだろう。

「ごめん。ちょっと今日も家の用事があるから先に帰るね」

 すっと彼女は立ち去って行った。



******************



 この日の彼女は前よりは普通だった。相変わらず疲れた雰囲気は出ていたけれど、クラスメイトとの受け答えはてきぱきとしていた。

「これ借りていい?」

「いいよ。はい」

「ちょっと持っててもらっていい?」

「おっけー」

 特に変な様子は見られなかった。



 今日の作業が終わったらすぐに帰宅を始めた。今日は知波な予定があるらしく図書室に行かないとのことで、僕も気分転換にまっすぐ家路につこうとしていた。もう夕方になっていて、階段はオレンジ色に染まっていた。下駄箱で靴を履き替えようとしていると、

「汐。待って」

 と声をかけられた。そこにはメリーさんが立っていた。

「やあ。久しぶりだね」

 と話しかけてみても、彼女はにこりともせず険しい顔をしていた。

「ねえ。まだ帰らないでもう少しここで待っていて」

「それはまた何で?」

 突然の申し出に僕は面食らって聞いてみたけれど、

「ごめん。訳は言えない。とにかく待っていて。理由はちゃんとわかるから」

 と、真剣な表情で訴えていた。理由は分からなかったけれど、僕は彼女の意図をくみ取って、

「分かった。もうしばらくは待つよ。とりあえず三十分とかかな」

「そうしてくれると嬉しい。ありがとう」

 と頭を下げていたら、ふとまた見えなくなっていた。相変わらず彼女は神出鬼没だった。

 とくに急ぎの用があるわけでもないから、玄関前でのんびりとしていた。もういい時間だったので生徒たちはどんどん帰っていた。亮介君や健司君とも会って「さよなら」「また今度」と他愛もない挨拶をしていた。

 そうして人影も見なくなってきた。夏休みっぽくひっそりとした校舎に様変わりした。外では野球部のバットの音と部員たちの掛け声が響いていた。メリーさんが言ってたその時っていつなんだろうと思いめぐらしていたら、上の階から駆け足で誰かが下りてきた。玄関でみたシルエットがなじみの人だったので、

「やあ。知波」

 と、いつものように声をかけた。

「えっ」

 と言って、彼女はこっちをみた。僕はその表情を見て声を失った。彼女は涙で顔を濡らしていて、目も赤くはらしていた。体裁なんか取り繕う様子もないみたいだ。

「やっ。なんでもないの。気にしないで」

 と言って、すぐに玄関の方へ向かった。僕も急いで靴を履き替えて知波の後を追った。



 とりあえず知波と一緒に歩いていても会話はなかった。知波はずっと泣き続けていた。僕は落ち着くまで何も言わないことにした。

 あたりは赤とんぼが飛び回っていて、秋の始まりの空気を漂わしていた。そして近代的な建物も減っていき、以前蛍を見たあの土地と同じような景色が見えてきた。どうやらマヨヒガのところに来たみたいだ。気づいたら目の前に古い豪華な屋敷がそびえていた。

「ここで休んでいく?」

 僕は知波に提案してみた。彼女は無言でうなずいた。

 中は相変わらず誰かがいる気配が漂っていた。ごはんを焚いている匂い、囲炉裏で火を焚いている音、一見きれいだが隅に埃がついている床など。僕たちはあめ色をした木の床を歩きながら居間の方に向かった。

 居間にも同じように誰もいなかったが、二人分のお茶と豆大福が用意されていた。湯呑を触ってみると、ちょうど今入れたような温度になっていた。

「せっかくだからもらおうか」

 と聞いたら、やっぱり彼女はこくんと頭を少しだけ傾けた。

 僕たちは出されたお茶を黙って飲んでいた。以前はお茶の味を気にしなかったが、今までで一番おいしいお茶のような気がした。この屋敷の懐かしい匂いに合うからかもしれない。

「いったいどうしたの?」

 ずっと気になっていたことを僕は尋ねた。

「えっと」

 何から言えばいいのか。何を言えばいいのか。どうすれば伝わるのか。彼女は言葉を探している風だった。長い沈黙の後、


「私ね。泉水に振られたんだ」


 と、彼女は静かに言った。僕は体中の血が抜けたような気分を思えた。

「そうなんだ」

 と、答えた。意外だという気持ちと、やっぱりという気持ちを覚えた。

「さっき放課後に泉水に言ったんだ。私、君のことが好きなんだって」

 一度言葉を発すると抵抗がなくなったのか、あとはためらいなく話してくれた。

「あの子、戸惑っていたな。ごめんなさいって。当然だよね。今、渉と付き合っているのにさ」

 疲れた顔で彼女は自嘲気味に笑った。僕は聞きたいことがたくさんあったが、まずは

「いつから好きだったの?」

「小学生の頃から。周りの子たちは男の子の話で盛り上がっている中、私は泉水を目で追っていたなあ」

 と懐かしそうな顔をして彼女は話していた。

「最初は普通だと思っていたんだ。男の子が好きな女の子がいるように、女の子が好きな女の子もいるって。バカだよね。ドラマ・漫画・小説。ほとんどが異性間の恋愛を描いているのにね」

 同性愛者の割合は十人に一人。左利きの数と同じくらいだから、想像以上にいるのだろう。

「みんなと好きな子について話していた時があってね。だいたい足の速い子とか顔がかっこいい子を言っていたんだけれど、私はつい泉水って答えちゃってね。周りの子からは当然非難されていたし、泉水からも困るよと言われちゃったな。で、ちょっとだけ喧嘩しちゃったんだよね」

 と、今度は寂しそうに笑っていた。

「もう今ではあまり覚えていないけれど、何とか泉水とは仲直りできたんだよね。でも二度と泉水が好きってことは口に出さないで、心に秘めるようになったな」

 長い間、誰にも吐き出せない気持ちを抱えることがどんなことなのか、僕には想像できなかった。

「ちゃんと社会に合わせようと思って。男子を好きになろうとしてもだめだった。どうしても嫌悪感を持っちゃうんだ」

 暗い顔で彼女は言葉を綴っていた。

「どうして今さら告白なんてしたの?」

 そんなに慎重に過ごしていたのに、どうして今さら。

「父親がフランスに赴任することになったんだ。そして一緒にいかないかって誘ってくれたんだ。私が前からフランスに行きたいことを知っていたから。突然言われて迷ったんだ。まだ高二だし、大学は日本で通うつもりだった。けれど、いいタイミングだからついていこうと思ったんだ」

 彼女がフランスに行くということを聞いたとき、身体の血の温度が下がった気がした。もっと先だと思っていたのに。想像以上に僕は心の中で狼狽していた。

「フランスだと同性婚を認められているんだよね。まだうまくは回っていないみたいなんだけれど、法律面だけでも認められている国で好きな人と結婚したいと思ったんだ」

 そっか。だから今までずっとフランス語を勉強していたんだ。好きな女性と結婚するために。

「泉水と顔を合わせるのはあと少しだと思ったから、自分の気持ちの整理をつけるために言ってみたんだ。あの子に迷惑かけちゃったな」

「どれくらいで旅立つの?」

「色々と手続きをする必要があるから、あと一~二カ月だね。君ともあと少しの付き合いだね」

 彼女は寂しそうに笑った。



 彼女と別れて宵闇の中を僕は歩いた。町は生活の灯りに彩られていて、どの家も食卓の声でにぎわっていた。僕は心の中で行く当てのない気持ちを抱いていた。

 彼女は以前から言葉にしていた。いつかは異国に行くと。僕はそれがずっと遠くの想像もつかい未来だと感じていた。今日突然、知波がいなくなることを告げられて戸惑っていた。

 何となく家にすぐ帰るのが億劫で、近所の道を歩き回っていた。心の中のもやもやを振り払うように歩き回ったけれど、一向にこびりついたままだった。そうやって少し古びた通りを歩いていると、

「お困りのご様子ですな」

 と、落ち着いた調子の声がかかってきた。振り返るとおなじみのポストがそこにいた。

「別に特には」

 何もないよと口に出しつつ、僕は思わず足を止めていた。

「そうですかな?  顔色が優れないように見受けられますが」

「そんなことないよ」

 誰とも話したくない。けれども誰かと話したい。そんな気持ちがあったかわからないが、僕は立ち去らずポストとの雑談をすることにした。

「ポストってさ、誰かと別れたことがある?」

「はてはて」

 この質問を想定していなかったらしく、しばしの沈黙が流れた。

「私にとって別れだらけですよ」

 どこか懐かしむような声で言った。

「私たちと同じように作られたポストはもうだいぶ数を減らしました。古くなると安全のために新しいのに変える必要がありますし。そもそも手紙や郵便を使う人が減ったので撤去されることもございますな。一緒に働いていた郵便局の方も別の町に移ったり、亡くなられたり。はは、あの世の方がむしろ知り合いが多いかもしれませんな」

 彼が作られたのはたぶん僕よりもずっとずっと前のことだろう。僕よりもずっとずっと多くの人や仲間と別れてきたのだろう。

「どなたかとの別れが待ち受けられているのですか?」

 穏やかな声で彼は僕に話を聞いた。僕も何のためらいもなく、

「実は……」

 と、知波から聞いたことを彼に伝えた。特に余計な口を挟まずに最後まで僕の話を聞いてくれた。

「さようなことが。人間関係は難しいですな」

「うん」

 知波も加藤さんも互いのことを丁寧に接していることは感じる。お互いに尊敬の念をもって接していることも感じる。それでも、すぐにすれ違いが起きてしまうのか。

「あなた様はこれからどのようにされる予定でしょうか?」

「正直に言ってわからない。彼女を止めると今の人たちとの人間関係を守れて良いと思う。同時に息苦しさを感じると思う。彼女を送ると新しい世界が待っていると思う。けれども、日本の人間関係を終わらせる痛みが待っていると思う。どう転んでも彼女は痛みを覚えると思う」

 一気に言葉を吐いた。ポストは僕に続けて、

「では、あなた様はどちらが嬉しいのですか」

「同じだよ。一緒にまた日本で楽しく過ごしてほしい反面、向こうで楽しく過ごしてほしいと思う。どっちかなんて決められない」

「そうでしょうな。世の中はあちらを立てればこちらが立たずということがたくさんあります。中々スパッと決めることは難しいですな。そして、物事の背景や結果などは人々にすべてがわかることは不可能でしょうな。本人自身、自分の気持ちを理解しきれていないものですし。ただ」

「ただ?」

「そういうときに良いやり方の一つを私は存じております。聞きたいですかな?」

「聞きたいな」

「十年後二十年後立った時に、あの時の自分の行動は『かっこよかった』と思える選択をすることですな」

「ははは。何それ」

 思わず笑ってしまった。

「いいじゃないですか。どう転んでも後悔するなら。自分のことを誇りに思えて、時折笑い話にできることをやろうじゃありませんか」

 冗談めかして彼は言った。

「そうかもね」

「そうですとも」

 もやもやはだいぶ軽くなっていた。あたりの暗さも濃くなってきたので、

「色々とありがとう。僕はそろそろ帰るよ」

 と、ポストに手を振りつつ後にした。

「お休みなさいませ。どうか『かっこいい』やり方を選んでください」

 と、僕に短いエールをくれた。



******************



 文化祭の準備はパッと見は滞りなく行われている。夏休みもあと少しなので、みんなだいたいは終わらせようと頑張っている。大道具の方も七割がたできていて、二学期が初めったら微調整だけをすればいい段階だ。

 知波と加藤さんは予想通りギスギスしていた。二人とも会話をせず、用件はそれぞれ別の人を介して伝えている状態だった。もともと大道具班は口数がそこまで多くない人たちが集まっていたから、どんよりとした雰囲気に包まれていた。

 知波はフランスに旅立つことを加藤さんと僕以外には伝えていないのだろう。クラスでは全く話題に上らなかった。彼女は他のクラスメイトとはいつも通りに接していた。



 夏休み最終週に入った土曜日。この日は文化祭の準備もなく漫然と過ごしていた。昼ぐらいまでは本を読んでいたけれど、少し飽きてきていた。僕は気分転換もかねて、町で一番の本屋に向かった。特に購入をしないけれど、本棚をサラッと見ていた。本屋は見ているだけで楽しくなる。次はどの本を読もうか。

 本屋を出ると次は何しようか考えていた。喫茶店に行って本を読もうか、それとも近所の公園に行こうか。色々と頭を巡らしていると、

「あ、田中君」

 と声をかけられた。振り返ってみると加藤さんと渉君がいた。どうやら二人ともデート中らしく、仲良く手をつないでいた。僕はせっかくのデートを邪魔してはいけないと思い、二人に軽く会釈をして立ち去ろうとしたが、

「待って」

 と、加藤さんに引き留められた。加藤さんは渉君に何度か言葉を交わした後、僕の方に向かってきて、

「ごめん。少しだけ私の相手をしてくれない」

 と、言ってきた。



 僕たちは以前知波といった喫茶店に入った。店内は半分くらい人が埋まっていた。適度に活気があって、適度に落ち着いている状態だ。僕たちは隅の席に通された。

「デート中なのによかったの?」

 不粋だとは思ったがつい口に出してしまった。

「あはは。大丈夫だよ。渉君とは頻繁に会っているし」

 加藤さんは苦笑しつつ答えた。

「ちょうど田中君と話したいことあったし」

「そうなんだ。どうしたの?」

 何となく予想はついたけれど、念のため彼女に問いかけた。

「ちょっと知波のことでね」

 それまで元気だった顔が沈み始めた。やっぱり。

「知波のこと傷つけちゃったよね」

 と、彼女自身傷ついている表情でいった。

「隠してもしかたのないことだからいうけれど。知波、結構自己嫌悪に陥っていたよ」

 涙におぼれていた彼女を僕は思い出した。

「でも、彼女はそうなることがわかっていたと思う。そうなったうえで、知波は泉水さんに気持ちを伝えたのだと思う。僕がいうセリフじゃないけれど、加藤さんのせいじゃないよ」

 口先の慰めに聞こえるだろうなと思っても、ついつい口に出していた。目の前の人は表情を晴らすことはなかった。目には一滴のしずくが浮かびあがっていた。

「私も。なんかいつかこういう日が来るんだろうなって思ってたんだ」

 声の震えも抑えきれないようだった。

「小学生の頃にも一度、同じようなことがあったんだよね」

 マヨヒガでの話を思い出しつつ、僕は口に出した。

「あ。やっぱり知波覚えていたんだね。あの時はびっくりしちゃった。想像もしたことなかったから。自分の中でどう反応したらいいか分からなかったんだ。思わず喧嘩しちゃった。後にも先にも知波がそういうことを直接言ったのは一度きりだったな」

 僕に伝えているように見えるが、彼女は言うことで気持ちに整理をつけているのかもしれない。

「知波ってずっと男の子と仲良くならなかったんだ。興味がない上にトラブルが起きることが何度かあったから。ほら、知波ってきれいじゃない。よく男の子から言い寄られることがあって。それでゴタゴタが起きることが多くてね」

「なるほど。だから彼女は男子からの評判が悪いんだ。亮介君は彼女のことを冷たいっていってたよ」

「あー。亮介君はど真ん中に知波が嫌いな男子だからねあ」

 少しだけ笑いながら加藤さんは言った。

「だから私びっくりしたんだ。知波が田中君と仲良くなっているの。ちょっと嬉しかったな」

 彼女の言葉が心にささくれを作ったけれど、気にしないよう努めた。

「どっちにしろ僕と彼女はこれから会わなくなる」

 ネットワークが発達した今、世界は狭くなったように思われるだろう。どこに行っても今生の別れではないという考えもあるかもしれない。ただ、僕には歩んできた歴史が違い、言語が違い、宗教が違うあの国は、遠く遠く離れた国のように感じる。そんなところに行く彼女とは、少なくとも今の距離感と同じような距離感を持つことは不可能だろう。

「うん。そうだよね」

 加藤さんはまた沈んだ声で話した。

「それとなく知波がフランスに行こうとしていること私も聞いたことがあるんだ。遠い未来だとぼんやり思っていたから、いきなり言われてショックだったな。何となくずっと友人でいると思っていたから」

 過去を少し振り返るような口調で彼女は言った。

「知波は言っていたよ。日本だと法律的に同性婚が認められていないから、フランスに行きたいって」

「そっか」

 続けて加藤さんは口にした。

「恋愛って難しいよね。異性を好きになったり同性を好きになったり。うまくいったりうまくいかなかったり。雑誌とか上手にやる方法をたくさん書いていて、たくさんの映画や本で描かれているのに、私たちって全く器用にできないよね」

 と一息ついて、

「私ってよく思ってたんだ。私が知波のことを異性と同じように好きになれたらいいのに。知波が男の人に恋をするようになれたらいいのに。お互いがお互いの気持ちを分かりつつ、うまく折り合いをつけられたらいいのにって。結局最後は壊れちゃったな」

 と、寂しそうにつぶやいていた。

「自分勝手だけれど、結婚式になったらお互いに祝いあう。そんな間柄のままでいれたらなって」

 僕も同じような気持ちなんだろう。何となく加藤さんが言っていたことも共感できた。ただ、僕たちは何もできない。一人の人間の意志を曲げる権利はない。やるせない気持ちを持ちつつ、僕たちはそれぞれ何もない空間をぼんやりとみていた。


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