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一章

 六月の終りの梅雨まっただ中、外はくもり空でしとしとと雨が降っていた。六限目終りの英語の授業は体育のあとだけに、ずっと睡魔と戦い続けていた。なんとか関係代名詞の説明を聞いていたけれど、頭にほとんど入ってこなかった。早く帰って本を読みたい。

 僕の祈りが通じたのか唐突にチャイムが鳴った。周りはおしゃべりを始めたり部活の準備を始めたり。

「健司ー。これからカラオケでもいかねー?」

「オーケー亮介。真希ちゃんたちー?  この前話した通り駅前のカラオケ館に行こー」

 クラスの中の会話を耳に挟みつつ、僕は図書室に向かった。



 司書さんといつものように挨拶をしたあと、一番奥の席に定位置の席に座った。ここが一番静かで落ち着く。受験に備えた三年生の人たちが何人かいただけだった。

 カバンの中からいま読んでいる『羊をめぐる冒険』を取り出した。雨の静かなメロディーを背景にして、僕は小説の世界にひたり始めた。

 十五分くらいたった後、斜め前のテーブルから人の座る音がした。顔を軽く向けると同じクラスの佐々木知波さんがいた。黒く長い髪をして整った顔立ちをした人だ。先方も僕に気づいたようで軽く会釈をしてきた。こちらも簡単に頭を下げた。すぐに彼女は何かの教科書とノートを広げて勉強を始めた。

 たまに佐々木さんとは図書室で遭遇することがある。同じクラスで見かけるのは彼女ぐらいなので、いつも気になってしまう。見続けるのも失礼なので僕はすぐに本の方に戻った。小説では主人公が旅に出かけるシーンに入っていて、僕も登場人物と一緒に冒険の気分を味わっていた。



 閉館のチャイムが鳴って、周りの人たちは片づけの準備を始めていた。僕も本をカバンにしまって家に帰る用意をしていた。佐々木さんはすでに去っていたみたいだ。彼女のいたスペースには何も置かれていなかった。

 外を出ると小雨が降っていて、じめじめした空気が広がっていた。僕はクツを泥で汚しながら帰路についた。道中は近所の買い物客でにぎわっていた。豆腐屋やコロッケ屋では人があふれていた。



******************



 体育館の中はもわっとした空気で満たされていた。コートを半分にして男女それぞれバスケをしていた。ちょうど僕のチームは休憩時間だったので、ぼんやりと他の人たちの試合を眺めていた。男チームは健司君がスリーポイントシュートを何度も決めていた。

「てめ健司バスケ部だろ!  少しは手を抜けよ‼ ミッチー気取ってんじゃねえぞ‼」

「うっせー渉。悔しかったら止めてみろ。負けおしみはダセーぞ」

 健司君おとなげない。女子コートの休憩ゾーンを見ると、真希ちゃんさんがニヤニヤしながら男子をみていた。

 試合のほうでは佐々木さんがドリブルしているところだった。一人ずつ抜いていった。前の方に三人がかりで防ごうとしていた。佐々木さんは加藤泉水さんにパスを回した。加藤さんはまさか自分にボールが来ると思っていなかったようだ。おろおろしていると一斉に女子たちは加藤さんの方に向かっていた。どうしようかと迷っていると佐々木さんが“パス! “と大声で言ったのでそちらにボールを投げた。ボールを受けた佐々木さんは見事シュートを決めた。加藤さんは汗をぬぐいながら、ホッとした様子で佐々木さんを見ていた。

「うっしー誰みてるの?」

 いつの間にか隣に亮介君が来ていた。

「いやー女子いいよねー。やっぱ体操着姿そそるよねー。知波ちゃん?  泉水ちゃん?  うっしーだと泉水ちゃんでしょ!」

 うるさいなーもう。正解だけれど。

「いやー泉水ちゃんとかいいよね。顔きれいだし。黒髪ショートだし。胸でかいし。おとなしそうな雰囲気あるし。知波ちゃんとは大違いだよね」

 この人ひとり失礼なこと言っているよ。

「そう?  佐々木さんもキレイだと思うけれど」

「うっしー甘いね。顔面偏差値はいいんだけれど愛嬌偏差値は低いんだよね。俺なんて声かけても華麗にスルーされてるし」

 それは君が悪いのでは。とはいえ彼女が男子と話しているのは見たことないな。女子とは仲良くやっているけれど。今だって、

「泉水ー。ナイスパスじゃん。今日の試合のMVPだよ」

「そんなことないよ。知波決めてくれてありがとう。ほんとボール来たときなんかどうしようかと思っていたよ」

「いやー私は君のこと信じてたよ。絶対助けてくれるって。いやー期待通りの結果だよ」

 と佐々木さんは加藤さんの肩を組みながら和気あいあいと話していた。

「あー。彼女欲しいなー」

 隣で亮介君の声が聞こえる。まだ言っているよ。



 学校終りの帰り道では雨が上がっており、久しぶりに茜色の空を見せていた。僕は駄菓子屋や古いポストがつらなる道を歩いて、なじみの喫茶店に向かった。アンティーク調のイスやテーブルなどの内装が好きだし、小さく流れている音楽も好きだ。何より読書のための空間をテーマにしていて、会話ができないのが僕にとって一番好きなところだ。中学一年生のころから通っているから、もう五年間はお世話になっている。おこづかいが厳しいので週の真ん中にだけ行くと決めている。

 喫茶店に入るといつもの店主さんがいたので、僕は目だけで挨拶をした。先方もにっこり笑っていつもの場所に案内してくれた。店はあまり人がいなかった。僕は読みかけの『羊をめぐる冒険』を広げて小説の世界に心を向けた。やっぱりここは本を読むのに最高だ。耳にはやさしい音楽と店主さんが準備する食器の音だけが聞こえた。



 外の景色が紺色になり始めたころ、僕は家に帰る準備したくをした。会計をしている最中にそばの張り紙をみると、こんなことが書いてあった。

『常日頃ご利用ありがとうございました。諸事情により七月×日(金)を持ちまして、店を閉めさせていただきます』

 僕は驚いた顔をして店主さんの顔を見た。店主さんは申し訳なさそうな表情で笑いつつ、僕にだけ聞こえるようにかすかな声で、

「いつもごひいきにしていただきありがとうございました。ぜひ最終日に遊びに来てください」

 僕は残念に思いつつ店主さんに微笑みながら言った。

「こちらこそ長い間ありがとうございました。最終日も伺います」

 店主さんは僕にうなずいてくれた。僕は店を出て家路についた。



******************



 七月×日(金)。この日は例年より早く梅雨明け宣言がされた。今までの鈍色の風景はいつのまにか消え去り、青空が広がる季節がやってきた。

 今日は期末テストの最終日。教科は物理・数学Ⅱ・現代文。前からわかっていたけれど理数系の科目が続くことに気が重くなった。

 第一ラウンドは物理。問題用紙をめくるとパスカルの定理やら静止摩擦力・動摩擦が出ている。それに伴って数式やらがいっぱいだ。頭を痛めつつ僕はシャープペンを走らせた。これ楽しめる人いるのかな。

 第二ラウンドは数学Ⅱ。微分やら積分やらの問題が目いっぱい詰まっている。さらに頭痛がひどくなった。微積は経済やら人工衛星やらに必要みたいだが、朝から晩まで付き合っていたら気が狂いそうだ。理数が好きな人たちに対して本当に尊敬の念を覚えるよ。

 ボーナスラウンドの現代文。やっと楽しめる教科が来たよ。漢字の問題と教科書で並んだ問題、さらに実際の入試問題で使われた問題が載せられていた。題材は林真理子の『本を読む女』。戦争に巻き込まれた人の生涯を描いた小説だ。淡々としていて思わず引き込まれる文章だった。林真理子は普段読まないけれど今度手に取ってみよう。ふと時計を目にすると残り二十分を切っていたので慌てて問題に取り組んだ。



「はい。やめて。答案用紙を回収してください」

 先生の一言で一斉に弛緩した空気が教室中に満ちあふれた。やっと終わったよ。クラスではここかしこで雑談が交わされていた。

「健司ー。俺テスト死んだわ。マジ赤点フラグ立ったわ」

「亮介ー。俺もテストやべーわ。全然勉強しないで一発勝負だわ。一緒に補修受けようぜ」

 あれ健司君って図書室にいたよね?  閉館時間まで黙々と勉強していたよね?

「健司ー。これからファミレスでも飯食わねー?」

「オーケー亮介。真希ちゃんたちー? 行こうぜ」

「いいよ。健司のおごりね」

「マジか」

 僕は早足に教室の出口に向かった。テストを頑張った自分へのご褒美のためだ。今日を楽しみにしていたので自然と頬が緩んだ。



 目的地の途中で僕は小さな花屋に寄った。派手さはないけれど雰囲気のある花がたくさん置いてある店だ。ちょうど向日葵が置いてあったので小さなブーケにしてもらった。

 喫茶店の中はいつもと違って混雑していた。最後だからみんな顔を出しに来たのだろうか。店主さんにいつものように言葉を出さず挨拶すると席に案内された。最後の日だから本を読む前に店の雰囲気を味わっていた。今まで家具ばかりに目をとられていたけれど、他にもたくさんの工夫がされているのがわかった。品のよいちょっとした小物・透明感あふれるアクアリウム・心を安らげてくれる観葉植物。一つひとつがこの店を作っているのを感じた。店を一通り見渡した後に僕は本を読み始めた。サン・テグジュペリの『夜間飛行』だ。僕はこの店での最後の時間にひたり始めた。



 気がつくと時計は五時を回っていた。周りを見るとまだまだ人がたくさんいた。他にも利用したい人がいるだろうから、僕は名残惜し気に席を立った。会計場所に行くと学生が店主さんにブルースターの花束を渡していた。店主さんは嬉しそうに受け取っていた。店主さん人気者だなと僕は少し嬉しくなった。どんな人が花束買うのかと気になってみてみたら、驚いたことに佐々木知波さんだった。

 先方も僕に気づいたようで少し驚いた顔をしていた。店主さんも僕たちの表情で二人が顔見知りであるとわかったようだった。佐々木さんは会計が終わって帰ろうとしたが、店主さんが少し待ってほしいと言って止めた。僕は店主さんに対して代金を払いつつ、今までのお礼と言って向日葵のブーケを渡した。店主さんはやっぱり嬉しそうにして受け取ってくれた。目の隅の方で佐々木さんが“へえ”という表情で少しだけ微笑んでいるのが見えた。

会計が終わると店主さんは佐々木さんと僕を外に呼び出した。僕たちに思いつつ店主さんについていった。

「お二方とも長い間どうもありがとうございました。お友だちだったんですね。いつも別々の日に来られているので気がつきませんでした」

 外に出ると店主さんは人の良さそうな顔で僕たちに言った。それに対して、

「そう、ですね。同じ、クラスですね」

「はい。あまり、話したことはありません、けれど」

 と僕たちは歯切れの悪い口調で答えた。それに対して店主さんはニコニコした表情で聞いていた。

「そうですか。お二人にはいつもごひいきにしてくださったので、私の方からも少しお返しをしたいと思いまして。少々お待ちください」

 と言っていったん店の中に戻った。すぐ戻ってきて大きめの木の箱を持ってきた。中には店の中に置いてあったアンティーク調の小物がたくさん入っていた。

「ぜひ何かお好きなものをお持ち帰りください。手前味噌ですが質の高いものがそろっていると思います」

 僕はびっくりして答えた。

「そんな。こんないいものをいただくなんて悪いですよ」

 佐々木さんも同感らしく、

「そうですよ。ぜひまた店を開くときにお使いくださいよ」

 と答えた。店主さんは相変わらず穏やかに笑いつつ、

「店はもう十分やりつくしたので開くことはないかと。この物たちも引き出しの奥にしまわれるより、誰か良い人に使われる方が幸せだと思うので。お二人だと大切に使ってくださると思うのでよかったら」

 と変わらずに勧められた。

「そこまで言われるのでしたらありがたく受け取ります」

 そう言って僕は紺色のシックなボールペンをもらった。

「ではお言葉に甘えまして私も」

 と言いつつ佐々木さんもボールペンを手に取った。僕のとはまたデザインが異なっていて深いブラウンをしていた。

「どうもありがとうございます。長く使っていただくと幸いです」

 と店主さんは言った。

「こちらこそこんないいものをありがとうございました。お元気で」

「どうかお身体に気をつけてください」

 僕らは店主さんに向かって別れの挨拶を述べて店を後にした。



 外は夕焼けと夜の暗さがまじりあっていた。周りは晩御飯の支度が始まっていてどこからかカレーのにおいが漂っていた。僕たちは成り行きで一緒に帰った。

「佐々木さんもよくあの喫茶店に通っていたんだ」

「うん。そうだね」

 気まずい沈黙が漂う。

「田中君。あそこがなくなって寂しくなるね」

「うんそうだね」

 再び気まずい沈黙が流れる。ダメだ。会話が続かない。接点のない人と一緒に帰るのはとても難しい。先方も同じ気持ちかどうかは知らないけれど、

「それじゃ私はコンビニに寄っていくわ。また学校で」

 と切り出した。

「そうだね。また明日」

 と僕も内心ほっとしつつ返した。そうして僕たちは別れた。

 家に帰って自分の部屋に入るといただいたボールペンを眺めた。改めて光沢のある藍色や今まで見たことない落ち着いたデザインに心ひかれた。僕はどこか不思議な印象を覚えた。手に取っていたボールペンを僕はペンケースに入れた。せっかくだから普段から使っていこうと心に決めた。



******************



「まずは今回のテストの総評をします」

 と先生は言って黒板に字を書き始めた。“HIDOI”。

「かなり平均点は低かったですね。正直もっと頑張ってくれると嬉しいですね。とりあえずテストの返却をします。名前呼ばれたら取りにきてください。まずは浅井××さん」

 週明けの一時間目は物理のテスト返却だった。先週の金曜日にテストしたのに、もう採点終わったんだ。早いね。周りでは「わー」とか「ぎゃー」とか「赤点だー」の声があちこちで聞こえる。

 前の方に健司君が通り過ぎた。ちらっとみると点数が見えた。九十四点だ。すごい

「健司ー。俺赤点だわー。補修だわー」

 と三十二点の答案を堂々と見せていた。あらら。

「亮介ー。俺も点数やばいわ。もう全然見せられる点数じゃねえ」

 この人たちの友情大丈夫かしら。少し心配。

「はい。おしゃべりやめてください。今から解説します。まず問一は」

 とクラスの雰囲気が授業モードになったので一斉に黒板の方に向かった。僕は金曜日にもらったボールペンを早速手に取ってみた。特に重くなく軽くなくちょうどいいバランスだ。字も書きやすい。改めていいものをもらったと感じた。

 ふと気になって左前の方にいる佐々木さんの背中を見た。集中して授業を聞いている様子だ。右手には先週の金曜日に店主さんからもらった濃いブラウンのボールペンを持っていた。ちゃんと使うのは佐々木さんっぽいなと僕は思いつつ授業に集中しなおした。


 学校が終わる時間帯になると穏やかな風が吹いていた。僕は心地良い天気に惹かれて散歩を始めた。このあたりの街は所々に昭和の頃の建物が残っている。歩いているとどことなく郷愁を感じるから僕は好きだ。商店街の様子を横目に見つつ僕は目的もなく歩いていた。

 ちょうど人通りが少ないところを歩き始めた。丸型のポストが印象的な通りだ。歩いているとリラックスしてきて僕はついつい口笛を吹いた。♪~♪~。

「ほう。カーペンターズのイエスタデイワンスモアですな。いやはや懐かしい」

 とおじいさんの声が聞こえた。僕は恥ずかしくなって、

「すみません。一人だと思ったのでつい」

 と振り返りつつ答えた。しかし、そこには誰もいなかった。あれ?  気のせいかな。狐につままれた気分でいると、

「いえいえ。きれいな音色でしたのでむしろ続けていただきたいぐらいです」

 とさらに声が聞こえた。やっぱり人一人も見当たらない。僕は背筋が寒くなってきた。これって幽霊? 

「あ、幽霊ではないのでご安心を。私はそんな抽象的な存在ではないので」

 心読まれた⁉ いやいやそれに安心できないよ‼

「あ、あのお。どちら、様、でしょ、うか」

 僕は緊張した声で尋ねた。

「申し遅れました。私はポストです」

 なるほど。だから気づかなかったのか。それは失礼なことしちゃったな。そうだよね。今どきのポストもしゃべれるし。って、

「へ?」

 今なんとおっしゃいました。ポストがしゃべるって。

「そうです。一九四九年生まれの丸形ポストです。仕事は郵便を一時的に保管しておくことになります。最近はメールという便利なものが出来まして私の仕事は少なくなってきたのが悩みです。しくしく」

 確かに投入口のあたりが口の様に動いている。え、えっと。どういうこと。

「あ、僕は田中汐です。あのー、何でポストがしゃべっているんでしょうか」

 根本的に疑問が思って口に出してみると、

「何でポストがしゃべってはいけないのでしょうか。昔から物には魂が宿ります。ですので私がこうして自分の意見を述べるのは何の問題もないはずです。そもそも日本国憲法の第十九条で保障されておりますし」

 確かに。おかしいことじゃないのか。

「そうですね。最近色々ありますし。ポストがしゃべることがありますよね」

 と答えるよと後ろから、

「ねえ。ママー。あの人何でポストに向かってしゃべっているの?」

 と子どもの声が聞こえた。

「さあ、あの人はポストに言いたいことがあるのでしょうねえ。早紀ちゃんは真似しなくていいからね」

 と、すごい不審者扱いされたんですけれど。

「ちなみに、今まで私の声が一般市民に聞こえたことはないので」

 それ先に言って‼

「えっと。すみません。これから色々とお話ししたいのですが私はそろそろ帰ろうかと。少し疲れてきたので」

「これは。お引止めして失礼いたしました。ぜひゆっくり休んでください。健康はすべての資本になりますから」

 と言って僕はここを辞した。頭がすごく痛い。今日はもう帰って寝よう。明日になったらこんなことはもう起きないでしょう。うん。そうしよう。寝よう寝よう。



******************



 翌日になっても昨日のことが頭から離れなかった。今は家庭科の授業で調理実習の時間だが、どうしても作業がおろそかになっていた。

「田中君だいじょうぶ?  なんか顔色悪いよ」

 加藤泉水さんが心配して僕に声をかけてきた。そんなにひどい顔をしていたのかな。

「ごめん。だいじょうぶ。ちょっと疲れているみたいで」

「そう、ならいいけれど」

 加藤さんは納得していない顔をしながらもそれ以上は特に何も聞かなかった。

「あ、加藤さん。そういえばポストがしゃべっているのって見たことある?」

 思わず頭に浮かんでいることを口に出してしまった。

「え?  えーと。アニメや漫画の話?」

「すみません。なんでもないです。忘れてください」

 いやそれが自然な反応ですよね。普通ポストなんかしゃべらないですよね。やっぱり僕の勘違いだったのかな。これはもう一度確認したほうがいいかもしれない。よし今日もあそこに行こう。

 僕は決心した。ふと気づくと佐々木さんがこっちを見ていた。一瞬目が合うとすぐに先方はそらした。はて? 



 夏が本格的になるにしたがって暑さも強くなった。今日も蒸したような空気があたりに流れている。僕は気乗りしない足取りでポストの方に向かった。

 ポストは一見すると特に不審な点は見当たらなかった。どこをどう見ても赤いポストだった。今日は特に僕が近づいても何も話しかけてこなかった。周囲に誰もいないことを確認して、

「こんにちは」

とポストに話しかけてみた。返事はない。

「今日はいい天気ですね」

 再度試みてみた。相変わらず特に動きはない。良かった。どうやら昨日の出来事は僕の思い違いみたいだ。

「おはようございます。田中さん、またお会いしましたね」

 思い違いではなかったよ。

「いやー、ついうとうとしてしまって、ふと寝てしまいましてね」

 そのままずっと寝てくれていればよかったのに。

「それで、今日はどうされましたか」

「あ、えーと、昨日の出来事は僕の夢じゃないのかなあと思って」

 と口に出したけれど夢じゃないことはすでに実感していた。

「幸か不幸かこれが現実です。世の中あるがままに受け入れることも大事ですよ」

「どうやらそうみたいですね」

 諦め半分で答えていると、

「田中君?」

 と後ろから女性の声がした。振り返ってみると佐々木さんが怪訝な顔をして立っていた。しまった。ポストと話しているのを見られたかな。傍目だと一人でしゃべっているようにしか見えないんだよね。

「あ、あの。これはね」

 僕はしどろもどろになりつつ言い訳を探していると、

「田中君もポストが話しているのが見えるんだ」

 と答えてきた。

「え?」

 それってつまり? 



 佐々木さんもこの前の休日にこのあたりを歩いたときにちょうどポストに話しかけられたらしい。最初は僕と同じように気のせいだと思って、日を変えてポストを見に行ってみたけれど相変わらず。どうしたものかと考えていたところ、僕がポストについて話をしているのを耳にしてひょっとしたらと思ってきてみたら、案の定ということだ。

「いったいなんなんだろうね」

 佐々木さんはアイスティーを手にしつつ固い顔で言った。僕たちは近くの喫茶店に入って話していた(ポストの近くは暑いし目立つので)。

「分からないな。こんなこと聞いたことがないし」

 僕もさっぱりお手上げだ。

「佐々木さんは何か神様の食べ物を勝手に食べたりとかした?」

「特には。そもそもまず豚にされちゃうんじゃないの?」

「だよね」

 僕も諦め気味に答えた。

「ねえ、田中君は?」

「豚になっていないから違うと思う」

「そうだよね」

 佐々木さんは諦め気味に答えた。お互い心あたりないみたいだ。とりあえず、

「一応、変に害はなさそうなのが心の救いだよね」

 慰め気味にでも答えた。佐々木さんも同感らしく、

「確かに。貞子が出るよかマシだよね。心臓に悪くないし」

 と答えた。続けて、

「ひとまず様子見ようか。何か分かったりしたらお互いに情報共有ということで」

「へえ、田中君は思ったより楽観的だね」

 と彼女は少し驚いた顔をしていた。

「良い面だけをみて、良いことだけを考えるようにしているんだよ。悪いことが起きたら、その時点でまた考えればいいかなって」

 と僕は返した。

「へえ。ちなみに誰のセリフ?」

「……。村上春樹です」

「なるほど」

 と、おかしそうに笑っていた。そういえば彼女が僕に向かって笑うのは初めてかも。

「でもまあ、気にしていたらどうにもならないか」

 とお互い合意が取れたということで店を出た。外は相変わらずカンカン照りだ。佐々木さんは仏頂面のまま、

「それじゃ、明日学校で。何かあったらよろしく」

 僕も、

「うん。また明日。これ以上なにもないことを祈って」

 と言って別れた。



******************



 ずっと後に振り返ってみるとこれは単なる始まりに過ぎなかった。このとき僕たちはこの後起こることを何一つ予想していなかった。ここからが僕たちの不思議な夏の始まりだった。


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