『宮』と戒
「それじゃ。あとの桜桃は、揚羽様方にでも食べていただこうかしら。届けてくれる?」
『揚羽』とは、舞学舎で舞学徒たちを指導している引退した蝶を指す。
ローサは、東の方角にある『学徒の宮』をふり返った。
「届けるって……だども蝶は、許可なく『舞徒の宮』を出てはならぬ決まりだで」
「あら。徒妹が許しを得るべきは師で、師たる蝶たちに許しを与えられるのは白蝶だけ。私の許可を得ていれば、文句はないはずよ」
理屈でいえば、たしかにそのとおりだ。
「ルエ様に、許可をもらいにくるだか?」
森へと歩き出したルエが、ふと足を止める。
「そう言われてみれば、いちどもないわね。みんな、許可なく出歩いているのかしら?」
みんな、戒を守って『舞徒の宮』から出ないだけでは、とローサはおもった。
きっと数百年の歴史を遡っても、『謡徒の宮』とを隔てる石塀の上にのぼり、あまつさえそこで舞ったなどという蝶はルエひとりにちがいない。
ローサにはときどき、ルエの背中に本物の羽根が見えるような気がするときがある。
「おら、『学徒の宮』には選考舞会のとき、いっぺん行ったきりだすけど」
うなずいたルエは、ローサに舞学舎へ行き、黒い衣を着た揚羽に、ユナ様に届けものだと伝えるよう指示した。
舞学舎は同年代の少女ばかりだから、きっと見咎めるものはいないだろうとも。
それでも見咎められたら、白蝶の命だと言うよう言われたローサは、すこし考えて、腕の羽衣を外して行くことにした。
蝶とは常に羽衣を身につけているものだが、裏を返せば、羽衣さえなければ蝶だとは特定されずにすむ。
そもそもローサのもつ羽衣は特殊で、よけいな人目を引きかねない。
森を抜けたところで、ローサは百日紅の枝にふわりと羽衣をかけた。
「これは、ここへ置いて行くことにするだす。ユナ様へ、だすな。ルエ様のお師匠だすか」
手にしたかごに視線を落としたローサは、ルエの表情がやや曇ったことには気づかない。
「いいえ。私の師は、もう『宮』にはいないの。引退したあと元蝶のふたりで聖都を出て、舞をおしえながら暮らしているそうよ」
「あ。故郷でおらに舞を仕込んでくだすった先生もそうだっただす」
『神の蝶』は多くが三十才を節目に引退する。
大祭で舞うほど優秀だった蝶たちは、引退後も『信徒の宮』に残り学徒の指導にあたるが、他はみな『宮』を出て暮らしていた。
神国領内で子供たちに舞をおしえるかたわら、至るところにある聖堂で舞うことも役目とされる。
ひとたび『神の蝶』となった女性は、男性の伴侶となって生きる道から解き放たれ、舞で神に仕える聖職者として神国領民たる信徒たちから敬われつづけるのだ。




