01
勇者よ……
太古の時代において魔神を封印せしめし勇者よ……
我が身わが声わが魂と……
女神の加護をもって……召還を願わん……
声が聞こえる……
とても悲痛で、何かにすがるような声だ……
ぼんやりとした頭の中で、自分が今、目を閉じて眠っているということを少しずつ認識する。
昨日は夜遅くに仕事から帰ってきて、すぐに眠ってしまったことを思い出す。ああしまった……風呂にも入ってない……洗い物もあったぞ……今日も早く起きないと……電車に乗り遅れる……このままずっと眠っていたいという欲望を抑え込み、朝のうちにやらなければいけないことを思い出しながら、俺は重い瞼をゆっくりと開けた。
目の前は見慣れた自分の部屋の天井ではなく、岩肌が広がっていた。
あれ? どこだここは? 目を左右に動かす。
どうやら洞窟のようだ。入口からは太陽の光が差している。洞窟内部は陽の光で照らされており、それほど広くないことが見て取れた。自分の部屋で寝ていただろうに。俺はまだ夢の中にいるのだろう。そう思い、頭を無理矢理覚醒させようと、全身に力を入れようとする。
その時、そう遠くない場所から声が聞こえた。
「おお……! おお! 女神よ! ありがとう……ありがとうございます! 我が今生の願い! 救世の勇者を召還せしめんこと! 心より感謝いたします!」
救世の勇者? なんだそりゃ? 突飛な台詞が耳に入ってきたことで頭がはっきりしてきた。ゆっくりと体を起こし、声が聞こえてきたほうへと目を向ける。そこには頭から頭巾と一体となったローブを被った一人の女性が、祈るように両手を組んだ状態で座っていた。
「救世の勇者よ! 不完全な状態での召喚をお許し下さい! しかし我が王都グランドリオは、太古に封印されし魔神復活を目論む魔族による襲撃を受け、王都は壊滅し、かつて王都に封印された魔神マガラツォは、魔族によって徐々にその力を取り戻そうとしております。どうか、かつて魔神を封印したそのお力で、この世界をお救い下さい……」
「勇者召還の聖地たるこの地において、我が一族の秘儀をもって蘇りし、救世の勇者よ! どうか魔神復活を阻止し、世界に平和をもたらさんことを! そしてどうか我が息子リアンと娘レーナが幸せに暮らせる世界を……どうか……」
いやあのえっと……
とりあえず女性に声をかけようと俺が寝ていた石造りのベッドから立ち上がる。その時、女性の体から眩しい光が発生し、彼女の体が、足下から徐々に光の粒子となり、空中に舞い上がりながら消えていく。
あまりの光景に、唖然としながら、彼女が消えていくのを見続けるしかなかった。
祈るように、縋るように、どうか世界をという彼女の声を空気中に残しながら。
彼女の着ていたローブだけがそこに残された。
ベッドから立ち上がりながら考える。彼女の話したことは、聞いたことがある単語ばかりだった。俺は前から知っている。
『ビィルガリア・クロニクル・オンライン』 通称BCO
数年前に発売されたマッシブリー・マルチプレイヤー・オンラインロールプレイングゲーム(MMORPG)の冒頭のストーリーに非常によく似ている。異世界を舞台とした王道的な剣と魔法のアクションRPGだ。魔族を封印した一族の末裔が住む王都グランドリオ、そこの王女エメラダの要請を受け、召喚されたかつての勇者が魔神の復活を阻止せんと、仲間たちと一緒に冒険していく。時には、オンラインの仲間と強敵に挑んだり、牧場を経営したり、カジノで遊んだりとか、まあ、よくあるオンラインゲームだ。
このゲーム、確かに俺は遊んでいたのだが、ここ一年ほどは仕事が忙しくて、なかなか遊べないでいた。そのため、ここ最近のBCO情報はとんとご無沙汰だったのだが、BCOがヴァーチャルリアリティゲーム(VR)になったとは聞いたことがない。そもそもBCOの画面は3Dクォータービューで、キャラクタをマウス操作とキーボードで動かして遊ぶゲームだったはずだ。俺の知っているBCOはこんなに綺麗な画面で、手足を動かして遊ぶゲームではない。
頭の中に大量の疑問符を並べながら、たしかBCOのオープニングは、今いる洞窟を出ると、壮大なバックミュージックを鳴らしながら、広大なフィールドマップを眺めるムービーが流れ、タイトルがデデンと出てくるはずだと思い至った。BCOがVRゲームに変わったからと言って、その辺りを変えるようなことはないと思ったのだ。
俺は太陽の光が照らす洞窟の入口へと歩いていった。
太陽は高く昇っており、目の前には、確かに広大なフィールドが広がっていた。鳥は囀り、遠景にある山は色づいている。川のせせらぎも聞こえる。かくも綺麗な光景が眼前にあるのだが、ムービーが始まったり、タイトルが出てくるような気配はない。
若干嫌な汗をかきながら、そういえば、山の緑の匂いも感じることができるとわかる。近くに小川が流れているのを見つけた俺は、少し駆け足で近づいた。視覚、聴覚、嗅覚は分かった。あとはつまり……と小川の中に手を入れてみようと小川を覗き込んだ時に、今まで混乱していて真っ先に気付くべきことに気づいていなかったことを知る。
水面に写っていたのは、金髪で耳が長く尖っていて、透き通るような蒼い目をした、いわゆるエルフと呼ばれる種族の少女だ。
手は小川に入れていて冷たい。触覚もあるようだ。小川の水をすくって飲む。口に含んだ感覚と、のどを潤す感覚。確実に味覚もあるだろう。
水面に写ったエルフの少女は、誰よりも俺が知っている。BCOで育てていた自分のプレイキャラクターだ。
頬をつねってみたり、その場でジャンプしてみたり、ラジオ体操の動きをしてみたり、ゴリラの真似をしてみたり、自分の思う通りに体を動かしてみれば、水面に写った少女もまた同じ動きをする。俺の意識はあるが、その身体のみがゲームのキャラクター『セルビィ』となっているのだ。
水面をもう一度のぞき込む。中肉中背であり、胸もそこまで大きくはない。セミロングの金髪で、目は吸い込まれるように蒼い、自己主張の強いエルフ耳は、水平にピンと伸びている。キャラクターメイキングで悩みに悩んで作成したキャラクターの姿なのだ。
自分の理想のエルフ像を体現させたつもりなのだが……俺自身がそのキャラクターになるのはさすがに違うだろ……そうじゃない……そうじゃないんだ……
ぼんやりと水面に浮かんだ少女を見つめていたが、はたと着ているものが、上下ともに下着のような布地しか着ていないのに気付く。
男の俺でも、この格好のまま出歩くのはまずいと思い、ひとまず先ほど出てきた洞窟へと引き返すことにした。