現実 ーリソウー4
展示されている絵画は先輩が言ったみたいにどれも風景画で、外国の街並みや自然などの景色を写実的に描いたものが殆どだった。
額田尚文が世界を回りながら描いた絵だと先輩が説明してくれたけど、個人的に絵を描いた経緯とか作者とかはどうでもいい。人を見にきたわけじゃないし。でも先輩は違うみたいで、絵の前で足を止める度に『これは額田尚文がーー』とか『彼の思考を察するにーー』とかどうでもいいことを話してくれた。
先輩は絵を見ていない。
絵の向こうにいる額田尚文を見て、更にその瞳に映った自分を見ているだけ。
「あ」という言葉が思わずこぼれて足を止めた。
目に飛び込んできた一枚の絵。
鍾乳洞。
地底湖から放たれる輝きが洞窟内をーー天井から垂れ下がる氷柱石をも青く染めあげている。
有名な場所だ。
額の下に貼られているプレートには『パロウェ国 セイセン洞』と記されている。
そっか。そんな名前だった。
パロウェはここからずっと東に行って更に海を渡った先にある島国。
セイセン洞はパロウェ南部の田舎町にある鍾乳洞。
通称、ヒトツメ洞。
鬼型ヒトツメの死体が発見された場所。
朽ちることも腐ることもなく。
地底湖の底で眠っていた。
「この絵が気になる?」
先輩が隣に立って訊いてきた。無意識に頷く。
「パロウェ、セイセン洞。聞いたことあるな……。パロウェってことはもしかしてヒトツメが見つかった場所か?」
そうですよ、なんて答えたら、きっとプライドを傷付けてしまうだろう。
「やっぱりそうなんですかね? 私もどこかで聞いたことあるなぁーって思ってたんです」
周囲にいるお客さんには『ものを知らない若者達だ』なんて思われちゃったかも。
「流華は鬼型ヒトツメに勝てる自信ある?」
「え?」
ちょっとムカッ。
唐突に、しかも答えが分かりきった質問をされたから。
「あはは。無理ですよー。徒花ーーカフカの力はヒトツメの搾りカスみたいなものなんですから」
嫌だなぁ。たとえ事実でも、勝てないっていうことを自分の口から認めるのは。弱い相手ならいくらでも下手に出られるんだけど、何故か強い相手には出来ない。それが私のプライドなのかも。そう考えると先輩に負けず劣らず面倒くさいなぁ。まぁ私より強い『人』なんていないからあんまり関係ないんだけど。
それから場内をぐるっと回って出入り口が近付いてきた頃、先輩が少し残念そうに口を開いた。
「プロウダの絵はないみたいだね」
「見たかったんですか?」
写真ならネット上にいくらでもあるけど。
「あぁ。額田尚文があの国をどういう風に描くのか気になっていてね。でもまぁ領内に入れないんだから難しいとは思っていたけど」
プロウダ。徒花とカフカが共生している国。多分、その二者にとっては世界で最も安全な場所。
ギャラリーを抜けて出入り口へ向かう。こういう場所を訪れるのはやっぱり物静かな人が多いのか、視線を感じることはあっても話し掛けられることはなかった。
「流華はプロウダについてどう思ってる?」
うわ、また答えにくい質問を。ズバズバいくことで有名なMCだって訊いてこないのに。まぁ万が一を考えて答えも用意してるけど。
「周辺の国に害が及ばなければアリだと思いますよ。カフカの隔離場所になってるという考え方も出来ますし。まぁ始まりがクーデターなので悪い印象は強いですけど」
「徒花とカフカの共生については?」
「可能か不可能かでいえば可能です。でも全く問題が起きないわけはないでしょうし、起きたときの損害は大きなものになると思いますよ」
「例えば?」
「危ないのは高知能のカフカですね。頭がいいカフカには狩りを好んで行う個体もいますし、他のカフカをまとめあげる統率能力を有してる場合が多いです。そんな個体がプロウダ国内で仲間を増やして近隣の国で狩りをする、とかですかね」
「なるほど。国内の問題は何かない?」
「国内ですか?」
首をかしげて思考を巡らせる。
美術館から出て車に乗り込むまで考えてたけど何も浮かばなかった。だって、カフカは人間以外には天使だし、個人的には徒花もそれに準じた生き物だと思う。
本能を食い止められるだけの理性が残ってるカフカ。それが徒花。
いや、人であろうと醜く足掻くただの化け物かも。
自らを人間と定義しながらも、人を嫌い、化け物に情を抱き、それでも人からの愛を求める。
助手席に座ると、先輩が運転席から身を乗り出して顔を近付けてきた。
なんでこのタイミング、と思いながらも目を閉じて唇を受け入れる。
七秒くらいの、あっさりともじっくりともいえない中途半端な口付けが終わってゆっくりと離れた顔が笑みを浮かべた。
「ごめん、難しいこと訊いたかな」
嬉しそうな、照れたような表情を作って「いえ」と笑った。
その矛で貫くべきは、その盾で守るべきは何なのか。
徒花はそれを考えないよう、矛盾にも似た心に蓋をして生きている。
夜の十時過ぎ。歓迎会からの帰り道。
あ、やば。デカデブに返信するの忘れてた。んー。まぁいっか、なんて考えながら奈緒と他愛もない話をしていると、後ろから「結羽?」という莉乃の声が聞こえてきた。
「莉乃、どうしたのーーーー」
そう言いながら振り返って莉乃の視線を追うと、そこには足を止めて俯いたまま険しい表情を浮かべる結羽ちゃんがいた。
「ってうわ!? どしたの、結羽ちゃん! すっごい汗!」
こんな汗の掻き方をする徒花は初めて見た。内心、好奇心が強かったけど、一応心配する体で駆け寄る。
なんとか抑えている風の荒い呼吸が聞こえるくらい近付いた瞬間、結羽ちゃんは膝から地面に崩れ落ちて、両手をつくと同時に口からーーって、
「うわっ」
思わず飛び退く。
まさか吐くとは思わなかった。足に付いてないよね? デートから直接来たから靴も靴下もお気に入りなんだけど……。見下ろしてみるけど暗くてよく見えない。
「だ、大丈夫!?」
奈緒が私の横を通って結羽ちゃんに駆け寄っていった。よく近付けるなぁ。ここにいてもちょっと臭うんだけど。無風っぽいけど風下なのかな、と軽く横に移動する。
奈緒が伸ばした手を結羽ちゃんが払った。
「大丈夫だから、触らないで」
あーあー、もう。なんでそんなにお子ちゃまなんだろう。『ごめん、ありがとう』の二言で済むのに。まぁ気持ちは分かるけど。私だって吐くところなんて人に見られたくないし。
「流華」という莉乃の声。「そこのコンビニでタオルとか手袋買ってきて? あ、あとお水も」
「え?」私が? 莉乃か奈緒がいけばいいのに。あ、でも靴の状態は気になるし、こんな場面を一般人に見られたくもないからいっか。
「う、うん。分かった」
踵を返してコンビニへ行く。店内に入り、そのままトイレへ直行した。催してるわけじゃなくて靴の確認。蓋を下ろしたままの便座に腰掛け、靴を脱いで爪先から踵、足裏を念入りに確認。
大丈夫そう。よかったぁ。
トイレを出たところにあった籠を持って、頼まれたものを適当に放り込んでいく。会計の時、若い男の店員さんに「ファンです」と言われたから、不機嫌を圧し殺して笑顔で対応した。やすりかなんかで精神が削れていく感覚。
コンビニを出て莉乃達の元へ向かうと、結羽ちゃんの叫ぶような声が聞こえてきた。なんて言ってるのかまでは聞き取れないけど怒ってるみたいだった。
近付くのやだなぁ。いきなり腐化されても困るし。まぁそうなったら莉乃が殺してくれると思うけど。
様子を伺いながらゆっくり近付く。私に構うな、っていう声が聞こえてきた。
やっぱり子供。まるっきりお子ちゃま。
構わなかったら構わないで寂しがるくせに。
承認欲求が作り出した『いつも強い自分』という理想。そこから生まれた『他人に弱いところは見せたくない』という気持ち。それが『弱いところをみせるくらいなら一人でいい』に変わった気がした。
誰もいない場所で、カメラを前に一人で踊ったって面白くないと思うけど。
「り、莉乃、買ってきーーーー」
「三人とも帰って。あとは一人でやるから」
結羽ちゃんの冷たい、孤独な声。
「で、でも空木さん……」
「早く帰れって! じゃなきゃ私がここでーーーー!」
「奈緒」
莉乃の声が響いた。ちょっと怒ってて、でも悲しげ。
「帰ろう。流華も」
奈緒はしばらく戸惑うように結羽ちゃんと莉乃を見ていたけど、そのうち立ち上がってゆっくり歩き出した。私もその横に付く。
じゃなきゃ私がここでーーーー、なんというつもりだったんだろう。やっぱり、殺してやる、かな。そんなの出来るわけないのに。
そっと振り返ると、結羽ちゃんと何か話していた莉乃もこちらへ歩き出した。
結羽ちゃんは一人、地面に座ったまま斜め下を見ている。これで周りには誰もいなくなった。結羽ちゃんの弱点を知ってしまうような存在も。
一般人に認められたいがために周囲を切り捨てる。
私からすれば馬鹿な選択だ。
大衆が見ているのは徒花としての私達。テレビ画面越しに見る私達でしかない。
私はたくさんの人に認められたいなんて思わない。
一人。
一人いればいい。
私の全部を知って、それでも受け止めてくれる人が。
あぁ、うん。
やっぱり先輩はその器じゃないよね。
スマホを取り出すと、奈緒が「隊長に報告するの?」と訊いてきたから「うん」と頷く。神妙な顔を作ることは忘れない。
手早く先輩にお別れのメッセージを送ってから隊長に電話を掛けた。コール一回で出た隊長に今さっきのことを話すと「分かった。私からも話を聞いてみよう」と返ってきた。
通話を終えて画面を見ると先輩からメッセージが届いていた。タッチして表示。
『どうしたの、急に? 俺達まだ付き合い始めたばかりでしょ。たった数回会っただけで、まだお互いのことを分かりきってない状態だ。このまま別れるなんてお互いに損だよ。それとも何かあった? 今の流華は自暴自棄になってる気がするよ』
メッセージを閉じてスマホを鞄にしまう。もう別れたからどうでもいいや。
「空木さん、大丈夫かな……」
微かに振り返りながら奈緒が言う。
奈緒はいい子だ。しかも可愛い。それなのに内気で気弱で自分に自信がない。今時珍しい子。そういう性格のブスは結構いるんだけど。そういえば私にも昔そんな知り合いがいた気がする。名前なんだっけ。確か徒花になって部隊に入ってすぐ死んじゃったんだよねー。
「大丈夫……じゃないかもしれないけど、でもしょうがないよ。結羽ちゃんがああ言うんだから」
「うん」と奈緒は小さく頷いた。
「でもどうして急に吐いちゃったんだろう。莉乃分かる?」
莉乃はふるふると首を横に振る。そりゃそうか。莉乃は基本的には他人の心に鈍感だし。徒花になって少しはマシになった気がしないでもないけど。
まぁ後のことは隊長に任せようよ、と言って結羽ちゃんのことは終わりにしたいんだけど流石にそれは奈緒に冷たい印象与えちゃうかな。ここにいるのが莉乃だけなら言うんだけど。
「心配だねー……」なんて心にもないことを口にする。
奈緒は本当に心配そうに「うん……」と頷いた。
無言のまま歩道を歩く。
たまに鳴り響く先輩からのメッセージとか電話の着信が最高に鬱陶しかった。