花冠 ーフランー3
莉乃と喧嘩をした。
私自身でさえ最近まで忘れていたことを莉乃は知っていた。
知ったうえで、今まで一緒にいた。いてくれた。徒花を殺した私と。
嬉しい。でもなんであんなに怒鳴ってしまったんだろう。
その答えは簡単に出た。
莉乃には知られたくなかった。知っていてほしくなかった。
今までみたいに、私の嫌な過去も、弱い部分も、何も知らないまま、ただ一緒にいてほしかった。
莉乃は昔から私の後ろに付いてきた。
私が記憶を思い出さないように配慮してくれていたのかもしれない。少なくとも、私の記憶の消失に気付いてからは、ずっと。
だって、そうじゃなきゃいくらなんでもおかしい。記憶の鍵が美織や摩耶、島谷の時のように『名前』だとすれば、それを耳にする、あるいは目にする機会なんていくらでもあった筈だ。特に美織と摩耶なんて、他の隊員との会話ならどれだけ出てきても不思議じゃない。
多分、そういう話になりそうな時は莉乃が口を挟んで話題を変えたりしていたんだろう。
いや、でも。
あさやけ園の人達は記憶のことを知っていた。さっき問い詰めたとき、莉乃は否定しなかった。
それなら部隊の人達にも同じように事情を説明して、私の前で美織や摩耶に関する一切の話題を禁止したと考えた方が現実的じゃあ? 私と莉乃だって二十四時間ずっと一緒にいるわけじゃあないし。大将から命令してもらえば箝口令くらい容易く敷ける。
知っている?
大将も、隊長も、仁美さんも、メグちゃんも、奈緒も、環ちゃんも、沙良さんも。
どこまで?
ただ単に私の前で摩耶と美織の話は禁止という指示が出ているだけなのか、その理由まで言及されているのか。そしてそこまで話したとすれば、勘のいい人達が揃っている扇野支部のことだ。他に忘れている記憶がないか確認する人が絶対に現れる。その問いに莉乃が正直に答えたとすればーーーー。
でも莉乃がそんなことするだろうか。
するかもしれない。
今回の件で分かったのは、私のためなら莉乃は何だってするということ。殺される可能性があっても三人目の班員を迎え入れて、私が記憶を取り戻さないようあさやけ園に根回しをした。
例えば、摩耶と美織について箝口令が敷かれた理由を隊員に説明したとする。そこで必ず反対意見が出る筈だ。これは人間でも同じだと思う。カフカ譲りの仲間意識がある徒花なら尚更。そんな人達を説得するのに島谷のことはお誂え向きだ。みんな、さぞ同情してくれることだろう。
でも、もしも支部の人達が私の過去を知っているのなら、私の居場所はあそこにはなくなる。
私は誰よりも強い、ナンバーワンの徒花だ。
自分より弱い人達に同情なんかされたくない。そんな惨めな思いをするために記憶を取り戻したんじゃない。
好きな人を好きなままでいられればそれでよかった、筈なのに。
湯槽から上がると同時にその思考を打ち切った。脱衣所に出てバスタオルを手に取る、と、
「あ、流華ちゃんお風呂上がったみたいだから切るね。大丈夫だから莉乃ちゃんも元気出して」
壁を幾つか隔てた場所からそんな声が聴こえてきた。
まぁ連絡くらいするよね。莉乃が心配することなんて分かり切ってるし。と思う反面、どうしようもなく嫌だと感じた。理屈も何もなく駄々をこねる子供みたいな感情だ。
そんなモヤモヤした心の中で、不意に、
お母さんとお父さんは何も知らないよね?
という疑念が生まれた。
知らない筈。だって、お母さんは美織のことをサラッと口にしたことがあるし、島谷のことだって莉乃がわざわざ言う理由がないから。
パジャマを着てリビングに行くと、テーブルの上にカレーとポテトサラダ、それから野菜炒めが並んでいた。
「ごめんねー、これしか作れなくて」お母さんは手を合わせながら言った。「今日お父さん出張でね、お母さん一人だからあるもので済ませようと買い物に行かなかったの。だから何にもなくて……」
「ううん。全然大丈夫」
お母さんの向かいの席に腰を下ろして「いただきます」と合掌する。スプーンを一度口に運んでから正面を向いて「お父さん出張なんだ?」と訊いた。
「うん、昨日からね。明日のお昼に帰ってくる予定だよ」
「そうなんだ」
「流華ちゃんはどうする? 明日、学校行く?」
気持ち的には行きたくないけど、お父さんとお母さんに心配かけるのも嫌だし、担任にも謝らなきゃいけないから。
「うん、行くよ」
「莉乃ちゃんと仲直りできそう?」
うぐ。
「分かんない。でも話してみる」
「そっか」とお母さんは微笑んだ。仲直りできると確信しているみたいだった。
莉乃のことを嫌いになったわけじゃない。
ただ怖いだけ。
怖いって何が?
ご飯を食べながら考え続けて、ようやく答えは出た。
莉乃は今までずっと一緒にいてくれた。それは、ただ単に境遇が似ているだけでなく、お互いを好き合っているからだ。
今まで深く考えるまでもなく心にあったその『当然』が変わること。
それが怖い。
「流華ちゃん」
その声で我に返る。目に映ったのはスプーンと空っぽのお皿。いつの間にか完食していたらしい。
顔を上げると微笑みを浮かべているお母さんと目が合った。
「ぼんやりしてたけど大丈夫?」
「うん」
「莉乃ちゃんと会うのが不安?」
「ん、うん。少しは」
「大丈夫。絶対仲直りできるから」とお母さんは両手をぐっと握りながら言った。
私は「うん」と笑みを作って返したけど、どちらかといえば不安なのは仲直りできるかじゃなくて、私の中にある当然がこれ以上変わらないでいてくれるかだ。
仲直りは……、まぁ出来ると思う。
私が全部許せれば。
いっそのこと記憶をまた忘れちゃおうか。そしたらきっと仲直りなんて容易いし、また何も知らないまま、都合の悪いことを忘れて生きていられる。無敵の私に戻れる。
その代わり、栃澤さんとは別れることになっちゃいそうだけど。別れても前みたいに会ってくれるかな。くれないよね。嫌だなぁ、それは。
まぁどちらにしても記憶を忘れるつもりはない。また何らかの拍子で思い出した時、時間が経っていればいるだけ大きな歪みになりそうだから。
今の私が本来の戸舞流華だ。
『全能』なんて呼ばれる程、強い存在じゃあなくなっちゃったかもしれないけど。負の感情への耐性が変化する可能性については前々から論じられているし、そもそも耐性テストの精度に関しても疑問の声が度々上がっている。今の私がテストを受けたら一つくらいは何かしらの感情が引っ掛かりそうだ。
だから莉乃も退職なんて勧めてきたのかな。そんなの、いくらなんでも無理なのに。
大体、たとえ私に苦手な感情が出来たとしても、どうせ吸収するのは莉乃なんだから問題ないし、そもそも私が辞めるなんてことを上の人間が許すわけーーーーーーーー
あれ?
『北詰大将にも許可はもらってあるから』
そんな莉乃の言葉が頭の中で響いた。
あの時は他のことで頭がいっぱいで気にも止めなかったけど、許可をもらった? 許してもらえたの?
いや、嘘だ。許可なんか降りるわけがない。大将には莉乃からのお願いも聞くようにとは前々から言っているけど、流石にそこは譲れない筈だ。
だって、上の人達が私や莉乃の我が儘を聞いてくれるのは戸舞流華を手元に置いておきたいがため。我が儘を聞いて私を手放したら本末転倒もいいところだ。
莉乃の嘘? いや、あの場面で無理に言う必要のあることじゃあなかったからそれは考えにくい。
大将が了解したのだとすれば、それはどういう考えがあってのものだろう。
莉乃から私の状態を聞いて『全能』と呼ばれる程の能力を失ったと見た?
まさか。それはあり得ない。疑いをもったのならまずテストを実施して確認するに決まっている。
一番高い可能性としては、部隊を辞めた後も何らかの方法で手綱を握ることが考えられるけど、それを私本人への相談もなしに決める筈がない。そもそも上の人達がそんなーーーー元隊員とはいえ世間的に微妙な立場にいるフリーの徒花と関わるなんてリスキーなことをわざわざするとは思えない。
いくら考えても確信の持てる答えは浮かばない。
これじゃあまるで、本当に戸舞流華がいらなくなっただけみたいだ。
そんなわけない。こんな簡単に手放せるなら、好き放題に我が儘を言っていた時点で見限られてもおかしくなかった。
何か状況が変わった?
もしかして、全ての負の感情に対して完璧な耐性を持つ徒花が私以外に現れた? いや、だからって私を易々と手放す理由にはならない。それこそ、全ての徒花が『全能』の力を手に入れたりしない限り、私の能力の価値は変わらない。
じゃあ、何が変わった?
上の人達からすれば私の記憶の認識なんてどうでもいいはずだ。必要なのは能力。そこさえ変わらなければ。
変わっていない。少なくとも確証はない。にも関わらず退職していいだなんて、まるで初めっから私のことなんかいらなかったみたいだ。
初めっから?
もしも初めから、上の人達にとって私は必要ない存在だったとしたら? 私の我が儘を聞いてくれていた理由が他にあるとすれば?
「莉乃?」
思わず口からこぼれると同時、室内のどこかで着信音が鳴り響いた。音を追うとソファサイドテーブルの上にお母さんのスマホを発見。メールが届いたみたいだった。差出人はお父さん。
着信通知と共に本文の書き出しが表示された。
『流華が家に帰ってるって莉……』
り? 莉乃? 莉乃がお父さんにわざわざ連絡したのかな。
着信通知にタッチする、と、暗証番号入力画面に切り替わった。何回か間違ったらしばらく入力出来なくなるんだよね、これ。
お母さんは暗証番号に対する知識が乏しい。昔、クレジットカードの暗証番号を自分の誕生日で設定していて、お父さんと二人で説得して変えさせたことがあるくらい。
自分の誕生日はない。家族の誕生日も危ないと教えたから単純に月日で設定していることはない筈。でも誕生日は関係している。娘の勘だけど自信がある。
お父さんと私の誕生月の組み合わせ、失敗。
お父さんと私の誕生日の組み合わせ、失敗。
ふむ。
私の莉乃の誕生月の組み合わせ、成功。
画面が切り替わってメールの全文が表示される。
『流華が帰ってるって莉乃ちゃんから電話があった。メールはいま読んだところだ。気付かなくてすまない』
やっぱり連絡してたんだ。わざわざお父さんに言わなくてもいいと思うんだけど。心の中で文句を言いながら文を追って視線を下げる。
『莉乃ちゃんに事情を聞いた感じ、今の流華は精神的にかなり参っているようだから労ってあげてほしい』
事情? え? 莉乃話したの? どこまで?
『それから、あのことをいま話すのは反対だ。このタイミングだと二人の間に溝が出来てしまう可能性が高いと思う。もっと心が落ち着いている時に言うべきことだよ。
今日はどうしても帰れないから、流華のことよろしく頼んだよ』
それで文は終わっていた。
「あのこと?」
なんのこと? 二人の間に溝ができる? この二人は誰を指すんだろう。私と莉乃? それとも私とお母さん?
お母さんはどんなメールを送ったんだろう。
でもそれを確認する前に背後から浴室のドアが開く音が聞こえた。
スマホをソファサイドテーブルに置いてから、その隣に腰を下ろす。
少しぼんやりしていると頭にタオルを巻いたお母さんが戻ってきた。
「お母さん、お父さんからメールが来てたよ」
「あら、ホント? やっとお仕事終わったのかな」
ソファに座りながらスマホを差し出す。お母さんは「ありがとー」と受け取ると私の前に立ったままメールを確認し始めた。
「あれ?」と小さな声が響いたのはその直後。お母さんの表情はスマホで隠れてしまってよく見えないけど、微かに眉をひそめたことだけは窺えた。
「流華ちゃん」
その声は小さく震えていて、そしてスマホを持った手を下げたことで露になった顔は血の気を失い、明らかにひきつっていた。ひきつり過ぎて元の表情が分からないくらいには。
「このメール開いたの流華ちゃん?」
「うん」
「全部読んだ……よね?」
「うん。お母さん、あのことってなに?」
敢えて軽い口調で、大して気にもしていない風を装って問う。だから、
「お母さん達も私に何か隠してるの?」
無意識に発せられたその言葉の刺々しさには私自身少し驚いた。
リビングに流れた重い沈黙からお母さんの逡巡が伝わってくる。
「ごめんね、流華ちゃん。確かにお母さん達には流華ちゃんに隠していることがあるの」
「うん」
「で、でも悪い話とか嫌な話じゃあないからね? ただ、言い出すタイミングがーーーー」
「悪い話じゃないなら教えてよ」
お母さんは言葉を飲み込んでから首を横に振る。
「ごめんね。お母さんも、今はタイミングがよくないと思う」
「タイミングなんか関係ないよ。もう知っちゃったんだもん。これで何も教えてくれなきゃ、悪いことばっかり考えちゃうよ」
「ごめんね、でも本当に悪い話じゃあーーーー」
「だったら教えてって言ってるの! じゃあ莉乃と話したことってなに!? 事情ってどこまで聞いたの!? 私がお風呂に入ってる間、お母さんだって莉乃と話してたんでしょ!? なに話したの!? それも言えないの!?」
「そ、それは流華ちゃんに聞いたことと同じだよ?」
「嘘! ただ喧嘩したってだけならお父さんがあんなメール送ってくるわけないじゃん!」
今の私が落ち着んでいるかも、くらいの内容ならまだしも『精神的にかなり参っている』だ。莉乃から聞いたような文面じゃあないし。
「流華ちゃん……」
お母さんは悲しげに目を伏せる。その姿が夕方の莉乃とかぶった。
なんなの? 落ち込みたいのは、泣きたいのは私なのに。
「莉乃は知ってるの?」
「え?」
「お父さんとお母さんが私に隠してること、莉乃は知ってるの?」
お母さんは一瞬だけ首を横に振ろうと
したけど嘘はバレるだけだと思ったのか、動きを止めてから俯くみたいに頷いた。
「そんなに仲が良いなら、私なんかじゃなくて莉乃をもらえばよかったのに」
ゆっくりと立ち上がり、お母さんを避けて歩き出す。廊下に出るドアのノブに手を置いてから、こちらに背を向けたままのお母さんを見た。
「ねぇ、お母さん。どうして私を引き取ったの?」
『どうして私を選んだの?』
この家で暮らし始めた日の記憶が頭をよぎった。
『また、いつか教えてあげるね』とお母さんは言った。
答えはまだ知らない。
もしかして。
それが隠していること?
私を引き取った理由。
でもなんでそれを莉乃が知っているんだろう? お父さんとお母さんが話した? そんなことをする理由がないし、莉乃が隠し事に感付いたとしても私の家のことに首を突っ込むとは思えない。
じゃあ、最初から知っていた?
お父さんとお母さんが私を引き取った理由を? 当時小学生だった莉乃が? そんなわけない。そもそも当時お父さん達と莉乃に面識はなかった。お父さん達が園に来た時も園長先生立ち会いの元で他の子達がいない部屋で会っていたから。
でもそれは逆を言えば莉乃とお父さんお母さんが会っていても私は気付けなかったってことじゃ? いや、児童養護施設の職員がそんな品定めみたいなことさせるはずがない。大体、あの頃莉乃が園長先生に呼び出されていた記憶なんてないーーーー。
いや、あった。私が覚えているわけじゃないけど、そう言っている奴がいた。
『少し前、莉乃ちゃんが園長先生に呼び出されていたことは覚えているかい?』
島屋は確かにそう言っていた。そして『あれはね、莉乃ちゃんの親戚が訪ねてきたんだよ。今の莉乃ちゃんを見て、問題の無さそうな子なら引き取りたいって言ってね』とも。
私を脅すための嘘だと思っていたけど、これが本当だとしたら。
ノブに触れている指先が小刻みに震え出す。
お父さんとお母さんが私を訪ねてきたのは島屋から日常的に性的暴行を受けるようになってすぐのこと。
私が島屋にされていることを莉乃は知っていた。
莉乃は私のためならなんでもする。
「お母さん」ドアノブに視線を落としたまま問う。
「もしかして、お父さんかお母さんって、莉乃の親戚だったりする?」
息を飲む音。
答えはそれだけで十分だった。
廊下へ出て自室へ向かった。
パジャマから適当な服に着替えて一階へ戻る。
玄関で靴を履いていると、リビングから啜り泣いているお母さんの声が聴こえてきた。胸がズキズキする。でも、お母さんのことも、自分の胸の痛みも気にかけるほどの余裕はなかった。
リビングから聴こえる声を振り払うように玄関扉を開いた。
そうして全身に受けた春の夜風は、涼しくも暖かくもなかった。




