花冠 ーフランー1
目を覚ますと隣には誰もいなかった。
寝起きのボーッとした頭で周囲を見て、部屋の隅に置かれたテーブルの上にスマホを発見。ハイハイで移動して手に取る。着信を告げるランプがチカチカ光っていた。
莉乃からの連絡が一件。
『今日は学校行かないの?』
今の時間は八時過ぎ。遅刻は確定かぁ。今からマンションに帰って制服に着替えて行くのも面倒だしサボっちゃおっかなぁ。
テーブルの上には菓子パン二個と栃澤さんからの書き置きも残されていた。
『ごめんけど先に出掛けます。ゆっくりしていってください。
帰る時は玄関横の靴棚の上に鍵を置いてあるので施錠をお願いします。スペアキーなのでそのまま持っていてもいいですし、ドアポストに入れてもらっても大丈夫です』
おー、親切。いいねいいね。昨夜に下がった好感度がちょっとだけ盛り返したよ。
クリームパンの包装を開けて一口かじる。こんな適当な朝食は久し振り。
右手でスマホを操作して莉乃への返事を考える。学校に行くのは面倒だけど、だからって平日の昼間から街をブラブラするわけにもいかないし、マンションに帰ってもすることはない。このままここにいるっていう選択肢は端からないし……。
んー……。
咀嚼しながら悩んでいるとスマホが小刻みに振動した。画面を見ると奈緒からの着信。通話をタッチして耳に近づける。
「はーい?」
『あ、戸舞さん、おはよう』
「おはー」
『起きてた?』
「一分くらい前に起きたとこ」
奈緒は短く苦笑する。
『えーと、今日は学校来る?』
「どうしよっかなーって考えてるとこ」
『午後の授業は進路の話だし、午後からでも来た方がいいんじゃないかな』
「あー、そういえばそっか」
先週にそんなことを聞いたような聞いていないような。
「んじゃーとりあえず午後までには行くね。莉乃にもそう言っといてー」
『うん』
「んじゃ、また後でねー」
スマホをテーブルの上に置いてからクリームパンをかじる。
進路かぁ。高三だもんなぁ。友達の大半が進路を決定している中、私は未だに考え中。進学かな、とはなんとなく考えてはいるけど、どちらにせよ栃澤さんみたいに猛勉強しなきゃ入れないようなところを目指す気もないから、適当に学力にあった大学をゆっくり選べばいいかなと思っている。
今週末は公休だし、実家に帰ってお父さんとお母さんに相談してみようかな。
クリームパンとジャムパンを食べてから洗面所へ向かう。
あれ。そういえば昨日服を脱いだまではいいけど洗濯したっけ。私も栃澤さんもシャワーの後に割とすぐ寝ちゃったし。まぁ別にいいや、と思っていたけど、そこは流石栃澤さん。家を出る前に済ませてくれたらしく、浴室に干して乾燥機まで掛けてくれていた。あらま、下着まで。
生地の薄いものは大体乾いていたけど厚手のカットソーとデニムパンツはせいぜい半乾きといった具合。着られないことはないけど急いでいるわけじゃないし乾くまで待とうとリビングへ戻った。
スマホを持ってベッドに座る。アプリ一覧から何気なく選んだのは『Adabana』だった。
トップページ。
『プタテミスにて徒花が不正に出国。亡命目的か』というニュースの見出しに自然と目が止まった。小さな文字をタッチして本記事へとぶ。
『プタテミス国内に波紋が広がっている。
昨日、プタテミスのネクベル首相は現地時間の十六時に会見を開き、プタテミス国籍の徒花、ウェルミナ・クロノティア氏が正規の手続きを行うことなく出国したことを明らかにした。ネクベル首相はこれを亡命だと断言、祖国への大きな裏切りであると非難した。その上でティニトル(プタテミスの対カフカ部隊)の精鋭を集結させた追跡部隊を結成、既に行動を始めていると述べた。
それと同時にウェルミナ氏の最終的な目的地はプロウダ以外に有り得ないとしている。
記者から他国への協力要請の有無を問われた際には『必要ない。ウェルミナはティニトルによってすぐ捕らえられるだろう』と答えた。
プタテミスでは全ての徒花がティニトルへ入隊することが定められており、国外からは人権を無視していると度々非難されていた。
そういったこともあり今回の亡命を支持する声が少なからずあがっている反面、徒花がプロウダへ入国するということに危機感を示す声もあり、この件がどういったかたちで収束するのか全世界が注目している』
へぇー、亡命。別に驚くほどのことじゃないけどね。家族とか大切な人がいない、あるいは気にする必要がない程度の存在であれば国に固執する理由はないし、なにも徒花限定の強制的な徴兵だけが問題ってわけでもない気がする。大体その一点に限ればどこの国だって同じようなものだ。カフカと戦わない徒花に居場所は用意されない。強制的ではなくとも現実的に、人が支配するこの世界で生きていきたければ選択肢は一つしかない。犬や猫が愛玩動物になったように、牛や豚が家畜になったように。生きていくには人と戦ってはいけない。他の生物を生かすも殺すも人間次第だから。その強大な力は人間すら制御することが出来ず、垂れ流しにされた毒は容易く他の生物の命を奪い、種を絶やす。だからヒトツメが現れて、そしてまた同じ過ちを繰り返そうとしている人間達のもとにカフカが現れたーーーーっていうのは神眼教の言い分。
私的には弱い生き物が死んじゃうのは当然って感じだ。人間が台頭してきた環境に上手いこと合わせて生きている生き物もたくさんいるしね。
弱きを助け強きを挫く、なんて古い言葉がある。でもこれは本当にくだらない。弱きは死ねとまでは言わないけど、少なくとも助ける価値はない。強者が如何に自分勝手な人間であろうと、強者である以上は弱者よりは上だ。
だって、弱さは何も生まない。優れた人の足を引っ張るだけ。それなのに弱者を救おうなんて戯言が世界中に溢れ返っている。
だから人はいつまで経っても成長しない。次のステージに進めない。
弱者の数が多すぎる。遺伝子レベルで足を引っ張っている。
そういう考え方をすればカフカは当然のことをしているだけだ。弱肉強食。カフカの方が強いから人間が食べられる。食べられなかった強者が生き残る。
でも力があるからといって、種として優れているかというとそうじゃない。
人間という種が他の生き物より優れているのは知能。特に、文字や言語を用いた高度なコミュニケーション能力により、知識を後世に残せるということが大きい。というのをいつだかテレビで聞いたことがある。そして徒花や人型カフカが人間を超えられないのもそこにあるんだと思う。
知能は、そりゃあ個体差はあれど平均じゃあ負けていないと思う。そして身体能力の面では明らかに圧勝。だけど徒花やカフカには、後世に言葉を伝える相手がいない。人がいなければ徒花もカフカも新たに生まれることはないから。
あ。
じゃあもしも徒花やカフカに繁殖能力があるなんてことになったら。
どうなるんだろうなぁ。
学校に到着したのは一時過ぎだった。午後の授業は一時二十分から。今は昼休み中で、校庭にはサッカーをする男子の姿、体育館からはボールの弾む音と声が外まで響き、校内に入っても人の姿と声が途切れることはなかった。
教室に入ると私の席に集まっている莉乃達と目が合った。莉乃の他には二人、奈緒と新鷲さん。新鷲さんだけ椅子に座っていないところを見るに、莉乃と奈緒が二人でいたところに入ってきたという状況なんだろう。まぁ新鷲さんって基本誰とでもそんな感じの人だし。定位置がないというかなんというか。
笑顔を浮かべて「おはー」と言いながら近付くと、奈緒と新鷲さんは笑みで、莉乃は凝視で出迎えてくれた。
「莉乃ー、ごめんね、昨日連絡が遅くなっちゃって」
「ううん」と莉乃は首を横に振る。
「流華ちゃん、彼氏の家にいたんでしょ?」と新鷲さんが口を挟む。「そりゃあ連絡も忘れちゃうよねぇ」とニマニマ。
「はいはい」と軽く流してから「でも昨日は何もなかったよ」と言うと、新鷲さんは「えぇ?」と目を丸くした。
「何もなかったって、流華ちゃん泊まったんでしょ? 彼氏の家に。あ、もしかして実家で親がいたとか?」
「ううん、彼のマンション」
「えぇー? 流華ちゃん達付き合い始めてどれくらいだっけ?」
「んーと、一ヶ月半くらい?」
「なのに何にもなかったの? あ、何か理由があったとか?」
視界の隅にいる奈緒が少し困った表情で目を泳がせている。こういう話苦手だもんね。
「んーん、別に。私としては普通なつもりだったんだけど、なんか彼にはそう見えなかったみたいで『今日は何もしないからゆっくり休んで』的なこと言われた。それでそのまんまおやすみなさい」
「えー、信じらんない。あ、でももしかしてゴムがなかったとかかな。でもそれなら適当な理由つけて買いにいけばいいのにね」
「あー、コンビニに行こうとはしてたかも。私が止めちゃったんだけど」
徒花相手に避妊する男がいるのかはさておき。
「それで脈無しって思っちゃったとか? にしても簡単に諦めすぎじゃない?」
「まぁ私もそういう気分じゃなかったからよかったんだけどね」
「えぇー、一ヶ月半付き合った彼氏と同じ部屋に泊まってそういう気分にならないっておかしくない?」
「同じ部屋っていうか同じベッドだったけど」
視界の隅で奈緒がほんのりと顔を赤くしている。かわいい。
「えぇー、私的にはその状況は有り得ないよ」
新鷲さん交際経験一回だけじゃん、とは言わない。私としても昨晩みたいなことは初めてだったから。
そこでチャイムが鳴り、担任と副担任が教室に入ってきた。午後からの授業の全時間を使って進路指導の授業が始まる。レベルの高い大学を目指すことは勿論大切だが、将来やりたいことがあるならそれに適した進路を選ぶべきだと担任は熱く語る。
将来やりたいこと。徒花になってからは考えたことなかったなぁ。子供の頃はどんな夢持ってたっけ。それとも夢なんて持ってなかったっけ。全然思い出せないけどまぁいいや。考えたって仕方のないことだから。
熱い語りを終えた担任は、現時点で希望している進路について個別に話し合うと言った。ランダムに名前を呼ばれ、待機している生徒達は副担任の監視のもと進路に関する映像を観ることに。
話し合っている間は観られないわけだし割とどうでもいい映像なんだろう、なんて考えると瞼が重くなる。ぼんやりした意識の中で教室から出ていく奈緒を見送り、教室のドアが開く音で微睡みから覚めた。
戻ってきたのは奈緒ではなくクラスメイトの男子。開くとき同様乱暴にドアを締めてから近くにいた男子グループに入っていった。イライラして物に当たっているわけではなく元からガサツな性格なだけ。そのせいで一部の女子からは敬遠されているけど。
三十分くらいうとうとしていたらしい。何人くらい進んだんだろう。莉乃は終わったのかな。
莉乃を見てみると、いつも通りの無表情でテレビをじっと見ていた。面白いのかな。でも莉乃ってバラエティ番組とかでもほとんど笑わないしなぁ。たまに変なところでツボに入ることもあるけど。
奈緒はテレビを見ながら新鷲さんと何か話している。進路の話かな。新鷲さんの恋バナに付き合わされているのかもしれない。
知り合いを観察しているうちに副担任が私の名前を呼んだ。席を立って教室を出る。
通常授業をしている他のクラスの前を通って突き当たりの空き教室へ。
室内の中央には二台の机と椅子が向い合わせで置かれていて、片方に担任が腰掛けていた。私を見ると笑みを浮かべて座るように言う。
不意に、無い筈の心臓が大きく跳ねた。
なんだろう。個人面談なんて緊張するようなことでもないのに。
ドクドクと脈打つ胸に手を置いて小さく呼吸する。脈動は変わらないけど気持ち的には少し落ち着いて、ゆっくりとした動作で椅子に腰掛けた。
ドクンドクン。背中にじわりと汗が浮かぶ感覚。
「さて、戸舞はーーーー」とわざとらしく手元の紙に視線を落としてから私に向き直る。「希望進路は就職ということだが、個人的な意見では正直勿体ないと思う。戸舞の成績は言うまでもなく良いし、内申もーーーー」
ん?
「先生」
「いや、戸舞の考えも分かっているつもりだ。こういう場だから腹を割って話すが、確かに現状、徒花の人達の進路は」
「あの」
「どうした?」
「私、就職希望でしたっけ……?」
「んん? あぁ。前に提出してもらった進路希望調査にも……」
先生が私の前にプリントを差し出す。どういうわけかビクリと肩が震えた。
第一希望の欄に『就職』と書かれていて第二、第三は空白。
んー?
「考えが変わったのか?」
「はい。大学に進学しようかなぁ、って。まだ志望校までは決めてないんですけど」
「そうか。勉強してみたいな、と思うことなんかはないのか?」
「はい、特には……」
「となると戸舞の場合はまず扇野支部管轄内の学校を志望するかどうかを決めないといけないな。とりあえずこれが扇野支部管轄内の大学のリストなんだが……」
進路希望調査の上に新しいプリントが重ねられる。そこに手書きで記された複数の学校名に目を通すと、徒花の受験を断っている大学がしっかり除外されていることが分かる。莉乃用か奈緒用か。それとも私用に作っていたのだろうか。もっと単純に徒花用かもしれない。
「戸舞の成績ならその学校はどこも難しくないと思うが、逆にレベルに合っていないとも言える。もっと上の大学の通信制教育を受けるのも手の一つだと思う」
「通信制……」
それはやだなぁ。通信制とか定時制って落伍者のイメージあるし。
「進学先に合わせて異動させてもらえるよう部隊に掛け合うというのもいいんじゃないか? 紋水寺や茅野とも同じ話をしていてな、戸舞ほど部隊に貢献していればそのくらいの融通は利くんじゃないかと二人は言っているんだが」
そりゃあ大将に言えば大抵のことはなんとかなるだろうけど……。っていうか、
「莉乃がそう言ってたんですか?」
面談やったんだ。
「あぁ。茅野も紋水寺も同じように言っていた」
「そうなんですか……。莉乃は進学ですよね? どこの大学に行くとかは……」
「すまないがそれは言えないんだ。本人から聞いてくれ。紋水寺とそういう話はしていないのか?」
「進学としかーーーー、あ、いえ、管轄内の大学に行きたいとは聞いてます」
嘘だけどね。
「そうか。それなら話してもいいだろうな。確かに紋水寺はさっきの面談でもそう言っていてな。今と同じように通信制や転勤を勧めたところだ。どうするかは本人次第だがな」
ふぅん。それなら私が管轄外の大学に行きたいって言ったら莉乃も付いてくるのかな。扇野にはあさやけ園もあれば健君もいるのに? ていうかそれなら最初から志望校は未定にしておけばいいと思うし、やっぱり莉乃的には扇野から離れたくないのかな。
「紋水寺の進路が気になるのか?」
「はい、少し」
「そうか。まぁ二人の学力はほぼ同じだし、一緒の大学を目指すというのもいいだろう。学年トップクラスの成績の二人には可能な限りレベルの高い大学に挑戦してもらいたい気持ちはあるがな」
担任は腕時計に視線を落としてから椅子を鳴らしながら腰を上げた。
「よし、じゃあこれくらいにしておこう。なかなか時間を取れないかもしれないが、今話したことについてご両親とも話し合ってみて欲しい」
「はい」と頷いてから立ち上がる。
担任は空き教室の入り口まで付いてきて「次は松谷を呼んでくれ」と言うと、私の肩をポンと叩いた。
その瞬間、全身に寒気がはしり、両足から力が抜けてその場にへたりこんでしまった。
「戸舞!?」
驚いた声と同時に担任の顔と手が近付いてきた。その光景が何かの影と一瞬だけ重なる。
気付けばその手を払っていた。
無意識の行動。
しかも一般の女子じゃない。徒花の。
私が手を弾いた衝撃で先生は半身ごと仰け反り、その顔は驚きから痛みに歪んだ。
倒れることこそなかったけど先生の右腕は肩からだらんと垂れ下がり、額には油汗が滲んでいる。
その光景を動転しながら、でもどこか冷静に見ていた私がいた。
だって、しょうがない。悪いのは先生だし。先生が…………。
先生が? 先生は別に何も悪いことをしていない。私を心配していただけ。
でも本当に? 肩に触れた手の感触が全身に広がる。
なにこれ。気持ち悪い、気持ち悪い。
身体を叩いてみても感触は消えない。肌の一枚内側まで染み込んでしまったみたいに。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
肌を叩く。
痛みは感じない。
足が千切れても、お腹が抉れても、その感触だけが消えてくれなかった。




