変化 ーニゲバー8
マンションには帰りたくなかった。というか莉乃に会いたくなかった。あさやけ園での話は間違いなく伝わっているだろうから。
それを証明するかのように、あさやけ園を出てしばらく経ってから現在に至るまでポケットの中でスマホが何度も振動している。
膝を抱えて顔を埋める。ぎゅっと目を瞑った暗闇の中で感じるのは私の肌を撫で回す大きな手。その記憶が、感触が、肌にこびりついたまま、いくら時間が過ぎても消えてくれない。
『少し前、莉乃ちゃんが園長先生に呼び出されていたことは覚えているかい?』
島屋はカーテンを開けながらそう言った。
私は何も答えられなかった。
窓の向こうでは莉乃が荒詞君や龍一郎と楽しげに遊んでいた。
『あれはね、莉乃ちゃんの親戚が訪ねてきたんだよ。今の莉乃ちゃんを見て、問題の無さそうな子なら引き取りたいって言ってね。流華ちゃんは莉乃ちゃんと仲がいいし幸せになって欲しいでしょ?』
私は頷いた。
『じゃあ今日のことは誰にも言っちゃいけないよ。僕なら莉乃ちゃんの親戚に莉乃ちゃんのことを色々言えるんだからね』
私は頷いた。
だけど、結局それからいくら経っても莉乃がいなくなることはなかった。親戚が手を引いたのか島屋の嘘だったのか(多分後者だろうけど)は分からないけど、莉乃よりも先に私が引き取られることになってーーーー
なって、どう思ったんだっけ?
嬉しかった。
怖かった。
前者は、お父さんとお母さんが出来る、あさやけ園から抜け出せるという喜び。
後者は、私がいなくなったら島屋が代わりを欲するかもしれないという恐怖。そうなるのは莉乃かもしれないし妃ちゃんかもしれない。
それは絶対に駄目だと思った。莉乃は大切な友達だし、妃ちゃんはすごくなついてくれて可愛い妹みたいな存在だったから。
他の職員に告げ口しても効果が薄いことは知っていた。これは噂だけど、島屋はどこかの偉い人の息子で他の職員もあまり強く出られないとかなんとか。
どうしよう、どうしよう。と考えているうちに日は過ぎて退所を目前に控えたある日、島屋が私の部屋に入ってきた。その時、莉乃は小学校の用事で帰りが遅くなっていて部屋には私一人だけだった。
島屋は大雪の日以来隙あらば手を出してきたけど、お父さんとお母さんが現れてからはすっかり大人しくなっていたので油断していたのだ。
短い行為を終えると島屋は『誰にも言うな』と言って部屋を出ていった。いつもより脅すような言い方だったのは、島屋なりにバラされることへの恐怖があったのかもしれない。性欲が勝ったらしいけど。
私はすぐに部屋を出た。廊下の先には階段を降りようとしている島屋の姿。
迷いはなかった。
全速力で駆け寄って、寸前で私の行動に気付いて振り返った島屋の腹部を両手で押した。
私を掴もうと伸びてくる手は宙を切り、手摺もギリギリのところで掴むことが出来ず、島屋はそのまま転げ落ちていった。
床に座り込んだまま階下を覗くと、うつ伏せに倒れている島屋と、その周辺に広がっていく赤い液体が見えてさっと頭を引いた。
「なんの音?」と後ろのドアから他の子供が出てきて私に駆け寄ってくる。
すぐ大騒ぎになり島屋は救急車で病院へ運ばれ、私は他の先生に事情を聞かれたけど黙っていた。
そして翌日、島屋が死んだという話を聞いてから私は事情を話した。
『一緒に一階へ降りようとしたら島屋先生が足を滑らせた』と。
私のことを疑う人は誰もいなかった。少なくとも当時はそう思っていた。
でも誰かには気付かれていた。
私が島屋を殺したことを。
そして、島屋にされたことも。
気付いていたのに、助けてくれなかった。
ぎゅっと更に強く膝を抱き締めた時だった。
「流華さん?」
顔をあげて瞼を開く。通路灯の光が眩しかった。
「大丈夫?」
私の前にしゃがんだ栃澤さんをじっと見る。
「どうしたの、こんな時間に。もう十一時ーーーー」
腰を少し浮かせて、そのまま胸に飛び込んだ。加減が足りなかったのか栃澤さんは「ぅおっ」と小さく声をあげながら尻餅をついた。
そのまま数十秒が経ち、どうしたものかという心情を表すように動いていた栃澤さんの手がそっと頭に乗っかった。
「とりあえず部屋に入ろうか。今日は少し冷えるし」
頷くと栃澤さんはゆっくりと立ち上がってから私の手を優しく引いた。
玄関に入ると栃澤さんが後ろ手で鍵を閉めた。ガチャ、という無機質な音に恐怖を感じると同時に記憶が浮かんできそうになり、慌てて頭を振って掻き消した。
「大丈夫?」
頷いてから玄関に腰掛けて靴を脱いでいるとポケットの中でスマホが震えた。静かな室内に振動音はよく響いて、間違いなく栃澤さんも気付いているだろうけど何も言わなかった。
手を引かれてリビングへ。久し振りに来た部屋は少しちらかっていて、全体的に物が増えたみたいだった。部屋中央のテーブルの上には数枚のプリントと教科書が乱雑に置かれている。その周辺の床に敷かれているタイルカーペットは前に来た時はなかった。
握った手でリードされてソファに腰掛ける。
「コーヒー淹れてくるよ」
栃澤さんはそう言ったけど、私は手に少しだけ力をいれてそれを止めた。
自分がここにどうして来たのか。理由があるとすれば何なのか、栃澤さんに何を望んでいるのか、求めているのか分からないけど、でも、コーヒーは欲しくなかった。
栃澤さんは私の隣に腰掛け、そのまま沈黙が流れた。何分くらいだろう。もしかしたら十分を越えていたかもしれない。でも決して気まずいものではなくて、むしろそのおかげで少し気持ちが落ち着いたような気がした。
それを破ったのは私でも栃澤さんでもなく、私のスマホだった。
「でなくていいの?」
いいわけじゃあないけど。多分、心配してるだろうし。でも話したくない。
「紋水寺さん?」
「たぶん」
「喧嘩とか?」
「ううん。莉乃は関係ない」
それだけ答えて具体的な返事はしなかった。出来なかった。
だって、昼間のことなんか栃澤さんに話せるわけない。それなのにこんな風におしかけて心配をかけてしまっている。
うざい奴だと自分でも思う。弱い奴だとも思う。
でも受け入れて欲しい。傍に置いて欲しい。こうして手を繋いでいる間は、その温もりに触れている間は、肌にこびりついている嫌な感触を思い出さなくて済むから。
「帰ってこないから心配してるんじゃないの?」
「うん、たぶん」
「流華さんが話したくないなら僕が代わりに話そうか?」
顔を上げて栃澤さんと向き合う。
栃澤さんと莉乃が会話をする。それは二人の間に繋がりが出来てしまうということだ。
「ううん」と首を横に振る。「心配しないでって連絡しとく」
「それがいいと思うよ」
「栃澤さん」
「うん?」
「今日泊まってもいい?」
短い沈黙。
「ん、あぁ、うん。大丈夫。あ、夕御飯は食べた?」
首を横に振ると栃澤さんは困った顔をした。
「どうしようか。僕はバイト先のまかないで済ませちゃったし、ここにも大したものはないし……。コンビニで適当に何か買ってこようか」
「一食くらい抜いても大丈夫。食欲もないし」
莉乃がいたら許さないだろうけど。
「そっか。でも何も食べないのもよくないだろうしヨーグルトくらい食べとく?」
「うん」
イチゴヨーグルトをちまちま食べている間、栃澤さんはシャワーを浴びると言って廊下へ出ていった。私が莉乃に電話をかけると思って席を外してくれたのかもしれない。
小さなスプーンを口に運びながら右手でスマホを操作する。
『栃澤さん家に泊まります。心配しないでね』という文章にニコニコ絵文字を付けて送信。いつもならすぐに返事が届くんだけど、その日は十分くらいかかった。長文なのかと思ったら『分かった』の一言だけだし。
「着替えどうしよう」
その言葉が自然と口からこぼれたのは、リビングに戻ってきた栃澤さんのスウェット姿を見たときだった。
「僕もそれはちょっと思ってた」
少し考えてから、着ている服を見下ろしてみる。
ブラックボーダーの長袖カットソーにスキニーデニムパンツ。子供と遊ぶ展開を考えていたから仕方ないし今更だけど可愛いげのない格好だった。
いや、それより。寝るときにスキニーパンツは窮屈過ぎる。
「スウェットがもう一着あるけど……」
「下はずれ落ちちゃいそう」
「やっぱりそうだよね……」
なんせ身長差三十センチだ。
吟味した結果、相変わらず数少ない服の中から選ばれたのは丈が少し長めのロングTシャツだった。丈が長め、というのは栃澤さんが着用した場合だから、私の身体に合わせてみると膝上くらいまである。シャワーを浴びた後に着てみたら、肩幅とかの違いか膝まですっぽり隠れたけど。
沙良さんとかこういう格好似合いそうだなぁ。鏡に映った自分を見てそんなことを考えながら洗面台に軽く身を乗り出してみる。
着る前に想像していたより足は出なかったけど、その代わりに余りに余った襟袖がペロンとめくれて谷間どころか本体まで丸見えである。いや、別に見られるのが嫌だってわけじゃないけどさ。
今日はすることになるのかな。
気は乗らない。どうしてもあの記憶と結び付いてしまう気がするから。
でも彼氏彼女だし。こんな迷惑かけて『それは嫌です』なんて言うのは流石に勝手だと思うし、嫌われても嫌だし。
生理だって嘘吐いちゃおうか。
でも徒花の生理なんてあってないようなものだ。ただ身体が覚えているから行われているだけ。あるいは子供が出来ない事実を認めたくないための悪足掻き。そもそもヘドロを身体から排出することをそう呼んでいいものかも怪しいし。
でも嘘はやめておこう。そう決めてから廊下に出た。
リビングに入るとさっきまでソファがあった筈の場所にベッドが出現していた。ついでにテーブルが部屋の隅へ。
「ソファベッドだったんだ」
「うん」
座面が折り畳み式になっていたらしく、三人掛けのソファはシングルというには少し大きいサイズのベッドになっていた。
んー、これじゃあ『私はソファで寝させてもらうね』作戦が使えない。なんて考えていると、栃澤さんはソファの背もたれに掛けてあった毛布を一枚取った。
「僕は床で寝るから流華さんはベッド使ってね」
「え?」
栃澤さんはニコリと笑うとカーペットに腰を下ろした。あぁ、だからテーブル移動させたんだ。と納得したものの、本題の方には納得する筈もない。
「と、栃澤さん」
「ん?」
「私がそっちで寝るから栃澤さんはベッドで寝て?」
「いや、そういうわけにはいかないよ」
まぁそう言うよね。私は徒花だからそこまでちゃんと睡眠をとる必要がないーーーーとか言っても聞かないだろうし、無駄な押し問答をするのも面倒だ。もう夜中だし。
「一緒のベッドで寝るか私が床で寝るか。さぁ、栃澤さんはどっちがいい?」
「その二択ならそりゃあ一緒に寝る方がいいけど……」
「けど?」
「いや、ちゃんと眠れそうなのはむしろ後者かな、って……」
沈黙。
「あっ、そういう意味じゃなくて」
何も言ってないけど。
再び沈黙が流れた後、栃澤さんは意を決したように「分かった」と頷いた。
「じゃあお言葉に甘えさせて一緒に寝させてもらうけど……」
「けど?」
「えーっと、今日のところは僕は何もする気はありません」決意表明をするみたいに言う。「そういうことは気持ち的に弱っている時にするようなことじゃあないと思っているので」
「はい。立派な心掛けだと思いますよ?」
うぐ、と栃澤さんが怯む。
「とりあえず今はそう思っていますから、僕がそれに反する行動をとったら思い切り殴って止めてください」
死んじゃうよ。
「えー、カッコいいこと言ってると思ったのに自信ないのー?」
「大丈夫だとは思うけど……、いやでも付き合いたての彼女ーーーーしかもそんな格好してる彼女と同じベッドで寝て何もせずにいられる男がいるかっていうと悩むところだし、そういう僕も男の一人だし……」
面倒臭い悩み方するなぁ。
「栃澤さんなら大丈夫だって。私、信じてるから」
ベッドに並んで寝てから栃澤さんがリモコンを電灯に向けた。室内がゆっくり暗くなっていく様子に、少しの間忘れられていた記憶が蘇る。
やっぱり忘れられない。一旦頭から消えればもしかしたらと思っていたのに。
スマホのメモは消した。莉乃やあさやけ園の人が自分からその話題を出してくることもないだろう。
私の頭の中にある、この記憶さえ忘れることが出来れば。
もう全部消えてくれるのに。
一度思い出すと頭の片隅で自動再生される記憶を掻き消したくて栃澤さんの腕に両手で触れた。暗闇の中でずっとそわそわしていた栃澤さんの身体がびくりと小さく跳ねた後にピシッと硬直した。
「大丈夫?」
栃澤さんの声。こっちの台詞だよと言うべきかと考えているうちに、栃澤さんの腕が小刻みに震えていることに気が付いた。
いや、違う。震えているのは私の手だ。
「うん、大丈夫」
少しだけ強く腕を掴みながら返す。栃澤さんはそれ以上何も言わず、そして結局何があったのか具体的なことも聞かないまま、気付けば寝息を立てていた。
あんなに緊張してたのに。それほど疲れていたっていうことなんだろう。
それなのに嫌な顔ひとつせずに私の相手をしてくれて、それに対する見返りも求めない。
新鷲さん、私達はおかしいかな。
おかしいのかもしれない。何もかも忘れていた頃の私なら多分おかしいって即答すると思う。
でも、今、私は。
今まで生きてきた中のどんな時より、愛しさを感じているよ。




