変化 ーニゲバー4
退屈な時間は長く感じるもので、栃澤さんの受験が終わるまでの二ヶ月間は暇をもて余すことが多かった。学校にいる時、徒花としての任務や芸能関係のお仕事をしている間はまだ気も紛れたけど、何の予定もない休日や、平日でも早くマンションに帰れた後なんかはとにかく退屈だった。彼氏がいた時はデートに出掛けたり連絡を取り合ったり、彼氏がいない時は莉乃と出掛けたり話したりして潰していた時間が丸々残っているのだから当然と言えば当然なんだけど。
その間で起こった特別な出来事といえば麗さんが亡くなったことくらいだろうか。十年にも満たない短い歴史ながら最古参の徒花の死はニュースや新聞で大きく報じられた。沙良さんや元旦那さんへ突撃取材なんかもあって、そこで二人が一様に口を閉ざし続けたことから世間では様々な噂が飛び交うことになった。最近になってようやく落ち着いてきたっぽいけど。
そういえば麗さんが部隊を辞めた時も色々と騒ぎが起きていた。
麗さんと沙良さんの親子関係が発覚したり、退役した後に麗さんが川那子家で生活するということに近隣住民が抗議したり。結局、山奥に土地を借りてそこに建てた小さな家に暮らすことになったんだっけ。元旦那さんと二人きりで。それが確か一昨年くらいの話だ。
それ以降、麗さんと会った徒花は沙良さんを除いて一人もいないらしい。有名な人だったからその後を心配する声なんかは『Adabana』内でも度々あがっていたけど、退役の際に麗さんが口にした『辞めた人間のことは気にせずに自分の仕事に勤めなさい』という言葉と、沙良さんがたまーに『Adabana』のマイページに麗さんが健在であることを書いていたから大事になることはなかった。
そういえば、以前に知り合いのディレクターさんが現在の麗さんを取材してドキュメンタリー番組を作りたいって言っていたけど音沙汰がないところを見るに断られたらしい。
麗さんの告別式には多数の徒花と少数の一般人が参列した。扇野支部からは(身内の沙良さんは当然として)私と莉乃、隊長、奈緒、環ちゃん、メグちゃん、それから事務のちはるちゃんと幸恵さんが、その他は各支部の隊長さんや生前関わりのあった隊員、国軍のお偉いさん(大将もいた)なんかも参列していた。あ、そういえば希恵ちゃんもいた。空気を読まない笑顔を振り撒いていたからよく覚えている。
その死をきっかけに、最近では退役した徒花が置かれる環境に注目が集まっている。
現状、退役後の徒花に再就職先はないといえる。それどころか今回のように有名な徒花ともなると町中を歩くことすら難しい。
部隊を引退した徒花は近いうちに腐化するという噂のためだ。運悪く麗さんはそうなってしまったわけだけど、全体で見ると引退後に腐化した元隊員は全体の一割程度。残りの九割は今もひっそりと生活を続けている。
そんな実情が連日報じられたところに徒花人権の会等の団体がここぞとばかりに声をあげたことで、多くの一般人がそれに賛同。退役した徒花の待遇改善を要求する声は日増しに大きくなっていて、国も何かしらの返答をしなければならないであろう状況になっている。
普段ならこんなこと興味ないんだけど、暇潰しに『Adabana』を見るようになってから徒花関係のニュースには少し詳しくなってしまった。
まぁそれも昨日までの話。
電車に揺られること一時間弱で宇賀に到着した。改札の先に待っていた栃澤さんと合流して、行きつけだというラーメン屋さんに向かう。
扇野が都心と郊外の中間地点みたいな場所で、宇賀は都心とは反対方向にある比較的小さな町。観光するような場所どころかこれぞといったものもない地味なところだから、今までは通り道的な認識しかなかった。いやまぁ実際来てみてもその印象は変わらないけど。
「あの、本当にラーメンで大丈夫ですか?」
隣を歩く栃澤さんが遠慮がちにそう言った。
「はい。あんまり行ったことないんで楽しみです」
本当は何度か行っている。彼氏に『美味しいお店に行きたい』とか『行きつけのお店に行きたい』と言うとラーメン屋を提案されることが割と多かったから。
今回の場合は後者だ。理由は、
「それに今日は試験が無事終わったお祝いですから。栃澤さんが行きたい場所に付いていきますし、やりたいことに付き合います」というわけだ。思わせ振りな言葉をさらっと言えてしまう自分の口が恐ろしいね。
でも栃澤さんはそんな不純な思考には至らなかったらしく、はにかんで笑いながら「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。
なんかごめんなさい。
昼食後、私達は町内を歩いて回っていた。ラーメン屋さんで話した栃澤さんの昔話をきっかけに、彼のルーツを追ってみようということになったのだ。
栃澤さんが通っていたという幼稚園、小学校、中学校を回りながら様々な思い出話を聞くことが出来た。
小学生の頃は勉強よりも運動が好きな子供だったこと。バスケットボールクラブに入っていたこと。
中学生の頃に初恋をしたこと。馬鹿な人は嫌いだと言われて猛勉強を開始したこと。
「成績が学年上位に食い込むようになった頃にはその子には彼氏が出来てたんだけどね。まぁおかげで成績とお小遣いはアップしたけど」と栃澤さんは苦笑を浮かべて言った。
栃澤さんが高校に進学するのと同時にお兄さんが大学へーーーーそれも夕交大学へ進学したこと。
「その頃からですね。家庭内で『兄に続け』的なプレッシャーを感じるようになったのは」
高校一年生でバスケットボールを辞めて、二年生で友達を捨てて、三年生で休日すら返上して勉強に励んだ。
でも成績は伸び悩み、当時の担任から言われていた『厳しい』という言葉通り入試は不合格。
「兄と比べて頭のいいわけじゃない僕に両親が期待していたのは、中学時代に成績が急上昇したことも関係していたんだと思います」
過去形。
「やれば出来ると思わせてしまった。期待させてしまった以上はなんとか応えたいと思っていましたけど、高校三年間で夕交大学に受かるほどの能力は僕にはなかったんです」
「他の大学に進もうとは思わなかったんですか?」
「思わなかったーーというより考えもしませんでした。高三の頃は自分は夕交大学に行けると信じて疑っていませんでしたから。不合格という結果を受けてからはしばらく放心状態になっていましたし」
栃澤さんは笑って言うけど心なしか表情がひきつっていた。
今回はどうですか、と聞きたいけど我慢した方がいいよね。という思考に合わせて栃澤さんが「今回は」なんて切り出すから少しドキッとした。
「気が楽です。去年よりはずっと出来たと思いますし、落ちても二浪はないですから」
笑顔。心の底から気の抜けた感じの笑みだった。
「あまり大きな声じゃあ言えないんですけど、一度腐化して以来、前よりずっと勉強に身が入るようになったんです」
「へぇー」
思わず素の声が出た。驚き半分、疑念半分。だって、少なくとも今まで腐化によるプラス効果など報告されていなかった。まぁ仮にあったとしても大半の人は口にしないだろうし、口にしたところで因果関係が認められる可能性はないに等しいから無駄。一度腐化した人なんて基本的に注目されることを嫌うものだし。
そして何より、腐化→浄化によって生まれる何かしらのメリットが発見されたところで、上がそれを公表することはまずないだろう。人間にとってそれは百害あって一理なしの情報だ。
「溜め込んでた負の感情を吸収してもらった分、勉強内容を詰め込めたのかもしれませんね。そういう面でも戸舞さんにはいくら感謝しても足りません」
冗談めかした言葉には案の定何の根拠もなかったけど、でもまぁ負の感情がなくなったことで精神的な余裕が出来た結果、と考えると分からないでもなかった。
町内を散策した後は公園で缶コーヒー片手にお喋りをして過ごした。カフェに入るという選択肢もあったけど、今日はぽかぽか陽気が心地良かったから。
空が橙色に染まる頃にベンチを立って近くの駅へ。
「もし夕交大学に受かっていたら、またお礼をさせてもらえませんか」
駅の前で向かい合ったところで栃澤さんはそう言った。それは逃げ場を求めている私にとって有難い言葉で、当然のように笑顔で頷いた。
「じゃあ次に会うのは二週間後くらいですねー」
「あはは、合格してたら誘わせてもらいますね」
「結果に限らずしてくださいよー」
「そうしたいところなんですけど、滑り止めの方は県外になっちゃうんで引っ越しとか早め早めにやらなくちゃいけないことが色々あって……」
「え?」
県外?
「ここら辺の大学じゃないんですか?」
「あ、はい。滑り止めで受験したのはーーーー」
栃澤さんが口にしたのは県外も県外。新幹線でも六時間以上かかるほど遠い場所にある大学だった。
そっか。そういうこともあるんだよね。普通の人なら。徒花の場合、進学の際は管轄内の学校を選ぶことが当然だから考えが及ばなかった。
「そうなんですか……。それなら本当に、受かってて欲しいなぁ」
せっかくの逃げ場がなくなってしまう。こんな、私にとって都合の良い関係なんて余程の偶然が重ならなければ有り得ないのに。
栃澤さんは照れたように笑ってから「そろそろ電車が来ちゃいますよ」と言った。
これが最後、ということはないだろうけど、未来が不確実になった途端別れを惜しむ気持ちが膨れ上がった。
『帰りたくない』って言おうか。
いや、それは駄目、というか違う。
「栃澤さん、今日はありがとうございました。楽しかったです」
「いえ、こちらこそ」
「最近インフルエンザが流行っているみたいなので気をつけてください」
「あ、はい。戸舞さんもお気をつけてーーーー」
そこまで言ってから栃澤さんの表情が固まった。しまった、と思っているのかもしれない。
徒花は風邪を引かない。だけど心配してくれる気持ちは普通に嬉しいからそんなに気にすることないんだけどなぁ。
「はい。私も気を付けます」と笑みを浮かべて返すと、栃澤さんは一瞬間を置いてから照れたような笑顔で「はい」と言った。
受験と言えば健君の方はどうなったんだろう。
そんなことをふと思うと、視線は無意識のうちに向かいの席へ。そしていつも通り目敏く察した莉乃と目が合うのだった。
「どうしたの?」と莉乃はお茶碗を持ったまま小首を傾げる。
この二ヶ月、健君の話をした記憶は殆どない。受験が終わるまで勉強は教えていたし、特に話すネタがないというわけでもないだろうに。そういえば受験が終わってからはどうなんだろう。会ったりしてるのかな。いや、ないか。莉乃は相変わらず私にべったりだし。
「んーん、なんでも。見てただけ」
笑って誤魔化すと同時に思考も打ち切る。話題に出ないと余計に考えてしまう。ていうか二ヶ月経っても消えない恋心に我ながら若干呆れてしまう。恋愛ってこんなものなのかな。それなら別れてもなお復縁を迫ってきた元カレ達の気持ちが少しは理解できるかも。
って、あーくそ、思考打ち切れてないし。
今度こそ切り替えて、代わりに栃澤さんのことを考えることにした。栃澤さんは現実だけでなく脳内でも逃げ場になってくれる有難い存在だ。
でもきっと、栃澤さんが遠くに行ってしまえば、脳内でも逃げ場としての効力を失ってしまうのだろう。近くにいる、会おうと思えばいつでも会える距離にいることが重要なのだ。
もし栃澤さんが県外に行くことになったらどうしよう。
他の逃げ場を作る? 駅で考えたみたいに人を逃げ場にするのは偶然が重ならないと出来ないから、本当にそういう場所を作るしかない。
今、私が会いたくないのは莉乃だから、手っ取り早いのは私だけ引っ越すこと。今までそれをしなかった理由はたった一つで、莉乃がいないと家事をしてくれる人がいないからーーーーではなく、莉乃が気に病むと思ったから。家事なんか結羽ちゃんみたいに家政婦さんを雇えばいいだけだし。
今は気分的に会いたくない、距離を置きたいだけで、莉乃を嫌っているわけじゃない。傷付けるようなことはしたくない。
そんな心境を莉乃もなんとなく察しているのか、最近は会話もめっきり減ったような気がする。莉乃は健君のことを話さないし、私も栃澤さんのことは話さないし。前みたいに三人目のメンバーもいないし。
でも、もしかしたらこれもいい機会なのかもしれない。
今までずっと変わることのなかった私と莉乃の関係だけど、それでもいつかは終わりが来るんだから。
高校を卒業したら。
成人になったら。
どちらかが退役することになったら。
いつになるかは分からないけど、いつかは訪れるべき変化だ。私と莉乃が別々の部屋で暮らし始めたみたいに。
「莉乃」
でも、もし離れ離れで暮らすようになったとして、
「なに?」
私は今と同じように莉乃を大切だと思えるだろうか。
「流華?」
莉乃は私を大切だと思ってくれるだろうか。
環境は変わっても感情は変わらないなんて都合の良いことがあるだろうか。
いや、それよりも。何よりも怖いのが、私は莉乃を忘れてしまうんじゃないかということ。
見たくないものに蓋をしながら生きてきた。
離れて暮らすうちに莉乃への大切さを忘れて、ただ疎ましいだけの存在になって、記憶から消してしまうんじゃないだろうか。
それは嫌だ。
莉乃は大切だ。
なのに、一緒にいると辛い。
心配そうな表情をしている莉乃にギュッと抱き付きたい衝動と、この場から逃げ出したい衝動がつばぜり合いを繰り広げ、身体の中で何かがギジギジと削れていくような感覚。
痛い。気持ち悪い。苦しい。でも少し気持ちが良い。
右手で胸を押さえ、左手でテーブルの端を掴んで項垂れる。
「流華? 大丈夫?」
席を立って隣にしゃがみこむ莉乃を横目で見ると胸の痛みが少しだけ和らいだ。
ハァ、と熱い息を吐いてから顔を上げる。
「うん、大丈夫」
二週間後、栃澤さんから合格の連絡が届いた。合格を確認してすぐに電話をくれたみたいで興奮気味の声は新鮮だった。
その翌日に約束通りお祝いをした。お祝いと言ってもちょっと良いお店でディナーを食べただけだけど、合格の興奮は一日経っても冷めやらぬ、というかむしろ時間が経つにつれて沸々と沸き上がるものがあるらしく、栃澤さんのテンションは常時高めで話は弾んだ。
食事を終えた後、私と栃澤さんは肩を並べて駅への道を静かに歩いていた。三月の夜の冷たい空気に触れて興奮の熱が冷めたのかもしれない。でもそんな雰囲気も嫌いじゃあなかった。
「あの」と栃澤さんが不意に足を止めた。振り返ると白い息が空に消えていくところだった。
「戸舞さんには本当に感謝しています。今日のことも勿論ですけど、二週間前のことも、年末のことも、腐化してしまった時のことも。感謝しっぱなしです」
「あはは。知ってます。会うたび聞いてますよ。でも私も好きでやってることですから」
栃澤さんは笑みを浮かべた。でもなんだかいつもと様子が違って、まだ話は終わってないんだということが分かった。そしてその予想通り、栃澤さんは遠慮がちに口を開く。
「どうしてそんなに良くしてくれるんですか?」
その問いに対する答えはすぐには浮かばなかった。
「今までは、対カフカ部隊の隊員として心配してくれているんだと自分に言い聞かせていました。でも、そうじゃなければいいと思っている自分もいて……」
なんて答えよう、という言葉だけが頭にぽっかりと浮かんでいる。でも脳は思考を開始しない。
「僕は、期待してもいいんでしょうか」
栃澤さんは斜め下に顔を向けたまま吐き出すように言う。
どうしよう、どうしよう。今度はその言葉が頭の中を占領した。そうして固まっているうちに栃澤さんはゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐ見てから「すいません」と小さく頭を下げた。
「答えに困るような聞き方でした。というより、ついつい情けないことを言ってしまったような気がするので今言ったことは忘れてください」
「で、でもーーーー」
やっと口から出た言葉は、
「好きです」
その一言に遮られた。
「僕と付き合ってくれませんか」
明確な問い。イエスかノー、たった一言で答えられる。なのに私の頭の中では色んな言葉が飛び交っていた。
栃澤さんのことは好きだ。でもその好きは恋愛的な意味のものではないと思っている。少なくとも健君に抱いているような好きとは違う。
それなら断るべきなのかもしれない。でも好きは好きだ。付き合うことに対してマイナスの感情は全く抱かない。だって好きだから。
でもそれは恋じゃないの?
分からない。でも栃澤さんと会えなくなるのは嫌だ。今は、特に。
笑みを浮かべて「はい」と深く頷いた。
栃澤さんは嬉しそうに笑い、安堵からか大量の白い息を口から吐き出した。
男の人と付き合うなんて今までの生活を考えれば別に大した出来事じゃあないのに、何かが大きく動いたような気がした。
景色が変わったのかもしれない。
莉乃と出会った時のように、お父さんとお母さんの養子になった時のように、開花した時のように、記憶を取り戻した時のように。
変化を感じた。




