恋 ーコイー5
その日の夜。夕食の片付けを終えて自分の部屋に帰ろうとする莉乃を呼び止めて、ソファに寝転がったまま「莉乃って健君のこと好き?」と訊いてみた。
莉乃は不思議そうな顔をして少しの間を置いてから「うん」と頷く。予想していた反応である。流石に嫌いってことはないだろうし。
「それって異性として?」
再び間が空く。今度は戸惑っているのが見てとれた。あれ、もしかしてーーーーと思ったとき、莉乃は首を横に振った。
「ううん。弟みたいな感じ」
「そっか」
「どうして?」
「んー、まだ自分でもはっきり分からないんだけど……、私ね、健君のこと好きになったかも」
莉乃の表情に変化はない。
「だからもし莉乃まで健君を好きだったら取り合いになっちゃって嫌だなぁって」
莉乃は一瞬の間を置いて「そうなんだ」とだけ言った。
やっぱり莉乃の方はなんとも思ってなさそう。仮にこれから気持ちに変化があったとしても、私の気持ちを知っちゃった以上何も出来ないだろうし。
「応援してくれる?」
「うん」
「へへ。ありがとー。それじゃあおやすみー」
「うん。おやすみ」
リビングを出ていく横顔はやっぱり無表情。
廊下を歩く足音。ドアの開閉音。施錠音。
そして室内は静寂に包まれる。でも耳をすますとエアコンと食器乾燥機の駆動音が聴こえた。
ふわぁ、と欠伸が出た。心なしか疲れている気がする。明日は朝から仕事だし、早いけどもう寝ようかな。
よいしょ、と上体を起こすとソファの上に置いていた写真が目に止まった。
今日、健君のクラスで三人で撮ったものだ。
座った状態で撮ったもの。半目。
立った状態で撮ったもの。赤面。
ポーズを決めたもの。唯一まとも。
たかが写真撮影を三分の二の確率で失敗するってなかなか凄い。一枚目なんて狙ってできるものじゃないし。
写真を眺めていると小さく笑みがもれた。
思い出し笑い。
笑みを浮かべたまま写真片手に寝室へ向かった。
文化祭翌日は珍しく一人っきりでの下校となった。莉乃は『支部に用事がある』とか言ってたけど、私が『付いていく』と言ったら『だ、駄目。一人でいく』と少し狼狽えていたところを見ると嘘っぽい。
じゃあなんでそんな嘘を吐いたかって言うとーーくるっと角を曲がると、前方二十メートルほどの場所に人影が見えたーー多分莉乃は知っていたんだろう。今日、健君が待っているっていうことを。
家の塀にもたれていた健君は私に気付くと「うっす!!」と大声を発して頭を下げた。相変わらず体育会系だなぁ。
たたっと近付いてくる健君を眺める。こうして会うようになった頃と比べると遠目に見ても身長が伸びたと分かる。でも髪を伸ばす気はないのか、坊主頭をずっとキープしている。顔は悪くないから髪を伸ばしていじれば微イケメンくらいにはなりそうなのに勿体ない。
「うっす!」二度目の挨拶。
「うっす」
「あの、今日は流華先輩一人っすか? 紋水寺先輩は……」
「莉乃は支部に用事があるみたいで今日は別行動」
「え、そうなんすか? 珍しいっすね」
「うん、珍しい。一人で下校なんて久し振りだもん」莉乃は私にべったりだから。「てなわけで一緒に帰ろうよ。ここで待ってても莉乃来ないよ?」
「そっすね。じゃあ帰りましょ」
健君と並んで歩き出す。
いつもの通学路。
いつもの風景。
違うのは、私の隣に健君がいるっていうことくらい。健君はいつも莉乃の向こう側にいたから。
満足。充足。優越。そんな感情が心を満たしていくのが分かった。
もう少しこの感覚に浸っていたかったけど、こうして一緒に歩く時間は長くない。
「今日って学校休みでしょ? 文化祭の片付け?」
「はい。クラスのは昨日のうちに終わったんですけど、部活の方までは手が回らなかったんで。まぁ片付け自体は午前中に終わって、午後からは普通に練習してたんすけどね」
「あれ? 部活って昨日の劇で引退したんじゃないの?」
「そうっすね」と健君は笑う。「今日は流れで……っていうか正直名残惜しい気持ちもあって参加しちゃいましたけど、もうこれで完全に引退するつもりっす。引退した奴が頻繁に行っても後輩は鬱陶しく思うでしょうし」
「まぁ、それはそうかもねぇ」
後輩に好かれている人でもそういうのはほんの時々でいいと思う。
「でもじゃあこれからは毎日一緒に帰れるんだねー」
「あ、いえ。これからは受験っすから放課後は面接の練習とか補習とか色々やらなきゃいけないんす」
「あー、そっか。受ける学校ってもう決めてるの?」
「はい。商業を第一で受けるつもりっす」
扇野商業高校。私と莉乃が通ってる北校と大雑把に比べるとランクは三つくらい落ちる中堅高校。ちなみに徒花の入学を全面的に受け入れている学校で、扇野支部からも環ちゃんが通っている。今三年生だから健君が入学できたとしても入れ違いになっちゃうけど。
「成績的に大丈夫?」
「うぐ。い、いえ。成績はちょっとギリギリっぽいんすよね。二年の時に結構サボってたから内申も期待出来なくて、受かるかは微妙な感じっす。なんとかテストで良い点取って、あとは面接で出来る限り良い印象を与えるしかないっすね」
面接かぁ。健君は良い子だけど、見た目といい話し方といい第一印象は必ずしもいいものとは言えないと思う。そりゃあ万人に好かれる性格なんてないけど、健君の場合はそこがかなり綺麗に分かれそうだ。元気で明るい子と思うか、バカっぽい子と思うか。
「そうだ。勉強だったらまた莉乃に教えてもらえば?」
「あ、はい。実は昨日お願いして、それで今日から教えてもらうことになってたんすけど……、まぁ用事が出来たならしょうがないっす。先輩達が忙しいのは分かってますから」
快活な笑みを浮かべる健君だけどどこか残念そうだと感じる。
そんな表情をじーっと眺める。
すぐに気付いた健君が「な、なんすか?」と顔をたじろかせながら言った。
む。私には『勉強見てくれ』って頼まないんだ。
なんでだろ。莉乃と私で親しみやすさを比べたら百人中百人が私を選ぶと思うんだけど。やっぱり盲目状態なのかな。
「私が見てあげよっか?」
「えっ!? 勉強っすか?」
すっとんきょうな声。どうやら考えもしなかったらしい。むー。
「うん」と頷くと健君は「いや、でも……」と口ごもった。
「何か不都合なことがあるとか?」
「いえ、俺は大丈夫……というか凄く有り難いんすけど、その、そういうのは彼氏さんに悪いんじゃないかと思って……」
「彼氏?」
あっ、そっか。健君ってば知らないんだ。
「私今は誰とも付き合ってないよ?」
「え? あの、一学期に会った人は……」
「夏休み明けくらいに別れちゃった。ほら、一学期の最後らへんから色々あったでしょ? あれで夏休み中とか全然会えなくてーーって感じで」
「そうなんすか……。えっと……、こういう場合って何て言えばいいんすか」
「別に『そうなんすか』でいいよ。相手がフラれた立場なら励ましてあげるべきだと思うけどそうじゃないし」
「そうっすか」
気まずそうな顔が安堵で緩んだ。
「んでどうする? もうすぐ別れ道についちゃうけど」
「えーと、俺には妹と弟がいるんすけど」
「うん」
「妹は小三、弟が三歳でまだ小さいんで俺が面倒見なきゃいけないんす。だから勉強するならウチの居間でってことになっちゃうんすけど……」
「莉乃もそうだったんでしょ? なら全然オーケー」
「そうすか」
なーんだ。そりゃあそんな状況なら莉乃と健君の仲も進展しないよね。今となっては有難いけど。
でも有り難がってるだけじゃあ駄目だ。なんせ、今の私は莉乃と同じ状況になりつつある。今日のところは普通に家で勉強して健君(とその家族)との距離を縮めることにして、次からは勉強の名目で何とか二人きりになりたい。子供は嫌いだし。
「健君家かー。どんなとこなんだろ。楽しみー」
「楽しみにするような家じゃないっすよ。築四十年の貸家ですから」
「へぇー」
ホントに貧乏なんだなぁ。いやでも家を買うより賃貸に住み続ける方が経済的にはお得だって聞いたことがあるし、もしかしたら健君の親はそれを知っているのかもしれない。まぁ子供を子供に任せて親が働いているって時点で少なくとも裕福ではないんだろうけど。
「健君の親って何してる人なの?」
低年収な職業ってなんだろ。介護士とか工場とか?
「親っていうか、父親はいなくて、母親は看護師やってます」
「お父さんいないの?」
「弟が生まれる前に事故で死んじゃったんで」
「あー、そうなんだ」
普通に離婚かと思ったら死別だった。まぁこの御時世珍しくはないけど。
「それでお母さんが看護師さんかぁ。あ、じゃあ徒花が助けた人もお世話になってるのかも」
「はい。よく話してますよ、誰それに助けられた人が運ばれてきたとか。ていうか俺が運ばれたのも母親が勤めている病院でしたし」
「えぇ。お母さん驚いてたでしょ」
「はい」と健君は困ったように笑った。たっぷり怒られただろうし、そのことを思い出したのかもしれない。
別れ道をいつもと違う方向へ進んですぐに健君の家に着いた。本人が言っていた通り決して綺麗とは言えない外観。両側の建物に圧迫されているような縦長の家だった。
健君はポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込んで回す。けど解錠音は鳴らなかった。鍵を抜いて引き手に指先をかけると戸は抵抗なく開いた。
健君に続いて玄関に入ると白と薄ピンク色の小さな靴と、青色のもっと小さな靴が目に入った。妹と弟のだろうなと考えたとき、家の奥からダダダダダと小刻みな足跡が聞こえてきた。
「弟の良介っす」
健君が言うと同時に姿を見せたのは坊主頭の男の子。顔立ちはまんま幼い健君だ。
「おにいちゃーーーー」
言葉と同時に足音がピタリと止まる。その丸い目は完全に私に向けられていて、数秒間の沈黙の後、一歩後ずさったかと思うと身を翻して家の奥へと戻っていった。
「逃げられた」
「紋水寺先輩が来るって伝えてたんで違う人が来てびっくりしたっぽいです」と健君は笑いながら言った。
莉乃はなつかれてるのかな。私と違って子供好きだしそうだとしてもおかしくはないけど。
靴を脱ぎ、健君に案内されるままに奥へ進むと畳敷きの居間に出た。食事で使っていると思われるテーブルと椅子。四脚ある椅子のうちのひとつには赤いランドセルが掛けられている。
その持ち主であろう女の子は、テレビに向けて置かれた二人掛けのソファに弟君と一緒に座っていた。
「あれが妹の茉莉奈っす。ただいま」
「おかえり」
「玄関の鍵閉め忘れてたぞ」
「あ……、ごめんなさい」
妹ちゃんは小さく返してから私を見て「こんにちは」と言った。「こんにちは。お邪魔します」と返すと視線はテレビへと戻っていった。
反応なしである。いちいち反応されるのも疲れるけど何もなしっていうのはちょっと癇に障る。まさか私に気付いてない筈もないだろうし。実際、三歳児だって私の顔に見覚えがあるらしく、テレビを見ている姉の袖を引っ張って時折私をチラチラ見てくる。
「流華先輩、テキトーに座ってください。俺、勉強道具持ってくるんで」
健君はそう言うと廊下に出ていった。二階へ上がる足音を何気なく聞いていると視界の隅で妹ちゃんがゆっくり立ち上がった。見知らぬ客に緊張しているのかただ単に甘えん坊なのか弟君が腰にべったり抱き付いている。
「あの、コーヒーとお茶どっちがいいですか?」
「え? あ、じゃあコーヒーでお願いします」
「はい」
頷き、弟を引き剥がしてから台所へと入っていく妹ちゃん。愛想はないけど思ったよりしっかりしている子だ。お客さんに牛乳かリンゴジュース、水道水の三択しか与えない沙良さんよりかはずっと。
その場に残されて所在なさげに佇んでいる弟君と目があった。本当に健君に似ている。妹ちゃんも目元とかは似ている気がするけど、この兄弟ほどじゃない。
弟君はその短い足をひょこひょこ動かして近付いてきた。椅子の横に立って、じっと私を見上げる。なんだろう。私から何か言った方がいいのかな。でも下手になつかれて勉強まで邪魔されたら嫌だし。
「あのね」と弟君が口を開いた。「ぼく、おねえちゃんみたことある。おねえちゃんといっしょにてれびでてた」
声変わり前の甲高い声。健君ほど声は大きくないけど。
「お姉ちゃんって莉乃のこと?」
「うん」と弟君は頷く。「きょうおねえちゃんはこないの?」
「急な用事で来れなくなったの。それで私がその代わりだよ」
「えぇー。たのしみにしてたのに」
「良介」と台所から注意するような声が聞こえてきた。しかし幼い弟君にはその声色で言いたいことを判断することは出来なかったらしく「なにー?」と言いながら台所へ駆けていった。
やっぱり莉乃はなつかれているらしい。まぁ今でも公休のたび『あさやけ園』に行ってるみたいだし子供の相手は手慣れているのだろう。
戸が開き、勉強道具一式を抱えた健君が戻ってきた。テーブルの上に置かれた教科書を見て「数学?」と訊くと「はい」と返ってきた。
教科書の他にはノートと筆箱、それから皺のついたプリントがあった。
「お兄ちゃんは? コーヒーかお茶」
「じゃあお茶」
「ん」
そんなやり取りを聞きながらプリントを手に取ってみる。
数学のテストだった。点数は四十五点。うーん、酷い。
「あ、それ一学期の期末です。他の教科は六十とか取れてたんすけど数学だけ低かったんで今回は重点的にやろうかと」
「それがいいかもねー」
六十点も低い気がするけど、と思いながら教科書をパラパラと開いてみる。うわー、懐かしい。
「どうぞ」という声と同時にテーブルにコーヒーが置かれた。湯気と香りがふわっと漂う。
「ありがとー」
「あ、はい」
「どういたしましてー」
無愛想な妹ちゃんの隣に立っていた弟君が笑顔で答えた。顔はともかく性格はあまり似ていない三人兄弟だ。
私達は勉強を開始し、妹ちゃんと弟君はテレビ鑑賞に戻った。画面に映っているのは少年マンガ原作のアニメ。漫画とかに殆ど興味がない私でもタイトルがパッと浮かぶ程度には有名な作品だ。
少年マンガは嫌いだ。少女漫画も妄想臭くて好きではないけど、少年マンガはハッキリと嫌い。戦ってばっかで面白くないというのもあるけど、何よりも敵と戦うその理由。
仲間のため、友達のため、恋人のため、好きな人のため、家族のため。
誰かのため。
そんな世界が、どうしようもなく気持ち悪い。
全部自分のためで、それによって生じた被害も怨恨も全て背負うならいいけど。
まぁフィクションだし、被害を受けた人達は笑って許して、怨恨なんて生まれもしないんだろうけどさ。
『お前はこの村の人達に酷いことをした!』
その叫び声と同時に主人公の顔面がアップで映る。
馬鹿みたいだ。見ず知らずの人を傷つけられたくらいで、勝てるかも分からない相手に立ち向かえる人間はいない。
こんなことを考えるのはすごく久し振りだった。それは当然だろう。嫌いなものをわざわざ見るなんて馬鹿らしいことはしない。少年マンガのあるあるに詳しいのはあさやけ園にいた頃小さな子達が好き好んで見ていたから。こうしてテレビの音を聞きながら勉強をしている光景なんて当時のまんまだ。
「流華先輩、ここって……」
「そこはねーーーー」
健君の質問に答えているうちに、テレビの中では主人公はボロボロになりながらも敵を倒していた。
弟君は興奮気味の表情でそれを見ていて、妹ちゃんはアニメに興味はないらしく冷めた表情をしていたけど隣の弟君を見ると笑みを浮かべた。
もしあの画面に映っているのがアニメーーーー作り物じゃなくて、徒花とカフカが戦う現実だったら、一般人はどんな表情でテレビを眺めているのだろう。
今の楠姉弟と同じだろうか。興奮、あるいは無関心。
カフカに襲われた経験のない大多数の人間にとって、その現実はノンフィクションの物語となんら変わりない。
きっとアニメや映画を見るように眺めて、画面の中で徒花が死んだら涙を流して、そしてまた戦いが始まれば興奮する。そうしていつしか死すら慣れて、呆気なく殺された徒花を評論家染みた口調で批判するようになる。
既にネットの一部では表れ始めている現象だ。ネットと現実じゃあ違うなんて声も上がっているけど何も変わらない。作り物でない以上それは既存の現実を容易く侵食する。徒花、花腐化、対カフカ部隊の歴史、その全てを置き去りにして。
歴史はそれの繰り返しだ。そういった現実が遠く過ぎ去った未来で誤りだったと認められることもあるけど、犠牲の年代というのは歴史の至るところに点在している。
今の時代がそれとは言わない。カフカや徒花が現れてまだ七年だし、一般人にもまだ徒花に対する人間的感覚、倫理観が残っている。でも世代を跨いでいくうちにそれすらも薄れれば、きっと犠牲の年代はやってくる。
そしたらどうなるかな。
人間VS徒花? 徒花側にはカフカも加わるかもね。
でももしそうなれば。
その結果にかかわらず。
今の徒花がしていることは全て無駄になる。
いつからか、そんな未来が頭に浮かんだから私は仕事に熱心になれない。『全能』の力のおかげで手を抜いても並み以上には動けるし、色々と特別扱いしてくれるからそれでも何の問題もない。
仕事にうちこむんじゃなくてプライベート優先。
好きなことをやって、好きな人といる。
私の一生はそれでいい。
どうせ人並みのーーーー結婚して子供を産むっていう、たったそれだけの幸せも、もう私には掴めないんだし。
「流華先輩、ここは……」
「ん? えーと、それはーーーー」
弟君のはしゃぎ声が室内に響いた。「良介、しっ」と注意する妹ちゃんの声も。




