別れ ーユウー2
遺体安置室の前に着くと流石の希恵ちゃんも口をつぐんで大人しくなった。莉乃に促されて室内に足を踏み入れ、そのまま数歩歩いて結羽ちゃんの遺体の前に立つ。
何を思っているのだろう。
二人に生前の面識はない。ただ希恵ちゃんは結羽ちゃんの大ファンで最期に生の姿を見ておきたいとかいう理由でわざわざ公休を潰してまでやってきた。子供だということを差し引いてもなかなかの変わり者だと思う。
最後に私が部屋に入ると莉乃はドアをゆっくり閉めた。薄い灯りのなか静寂に包まれた室内で、ドアの前に並んで小さな背中を眺める。
希恵ちゃんはふっと両手を上げると、顔先で掌を合わせて僅かに俯いた。
それにしても結羽ちゃんのお母さんは本当に来ないつもりかな。外国にいるとか特別な事情がない限り遺体を保管しておけるのは最長一週間という決まりがある。結羽ちゃんはあと四日で強制的に合葬墓行きとなるわけだ。
希恵ちゃんがゆっくり顔を上げて再び遺体を見下ろす。
そして両手を寝台についたかと思うと結羽ちゃんの顔に口先を近付けた。
あらら。よく見えないけどチューしてる? 最近の小学生の間で流行ってる挨拶……なわけないよね。
そんなことを呑気に考えている間に莉乃が少し慌てた様子で希恵ちゃんに駆け寄った。右肩を掴んで軽く引く。無理やり振り向かされた希恵ちゃんは驚いたように目を丸くしていた。
「駄目」と莉乃は短く言う。
「な、なにが?」
軽く混乱している様子の希恵ちゃん。
「遺体に……えっと……口をつけたら駄目」
それでようやく自分が良くないことをしたことが分かったらしく、希恵ちゃんはしょぼんと肩を落として俯き、
「ご、ごめんなさい」と言った。
莉乃は頷いて「そんなに結羽のことが好きだったの?」と問う。
返答は否定だった。首を横に振って、
「結羽ちゃんが泣いてたから」
と言った。
「泣いてた?」
莉乃は遺体に顔を向ける。私もその隣に移動して見てみたけど涙は見えなかった。左頬のテカりは希恵ちゃんの唾液っぽいし。
でもそれは当然だ。人の死体なら死後に涙を流すこともあるらしいけど徒花は違う。核が破壊された瞬間生体活動は全停止して残された身体は内外問わず硬化するのだから。
子供の言い訳。
莉乃もそう思ったのだろう。私と同じように遺体を見てから「どっちにしろ駄目」と言った。
その後、環ちゃんと会う約束があるという希恵ちゃんと別れてから車で帰路につく。車窓の向こう、夕暮れの町を制服姿の学生が自転車で走っていった。
明後日は終業式。明日も明後日もお客さんが来るから、今週に入ってから一度も登校できないまま一学期は終わりそうだ。別にいいけど、夏休み中に補習いかなきゃいけないのは面倒だなぁ。
前方にマンションが見えてきた。その入口に人影が立っている。
マスコミ……じゃないな。白いポロシャツに学生ズボン。そして丸い頭。
健君だ。
マンションに近付くことを躊躇うように車の速度が緩まった。隣の莉乃はそんな車の動きに不思議そうな表情で前を見てようやく健君に気付いたらしい。ほんのちょっとだけ目を大きくしてから「知り合いです」と言った。車の速度が少し上がる。
マンションの前で車がゆっくり停まる。窓越しに目が合うと健君はペコリと頭を下げた。
うん? なんか変な感じ。いっつも有り余ってる元気が感じられない。表情も明らかに沈んでるし。何かあったのかな。それとも結羽ちゃんが死んだことを気にしてるとか?
車から降りて「ヤッホー」と手を上げると「お、お疲れ様ですっ」となけなしの元気を振り絞ったような声が返ってきた。
「どしたの? 莉乃に用事?」
健君は「う、うっす」と頷いて莉乃に身体ごと向ける。
「紋水寺先輩。あの……、今、いいっすか」
「ん」と頷く莉乃に変わった様子はない。
「流華、先に上がってて」
えー。気になるんだけど。
「りょーかい。あ、ご飯どうしよう。遅くなるなら出前でも取っておくけど」
そう言うと健君が「い、いえ!」と首を横に振った。「そこまでお時間とらせないっす!」
「そ? んじゃ莉乃、先帰ってるねー」
手を振りながら歩き始める。莉乃は頷いて、健君は小さく頭を下げた。
マンションに入る時に後ろをそっと覗くと二人は並んで歩き出したところだった。その横顔はやっぱりどこか沈んでいる。ホントにどうしたんだろ。実は結羽ちゃんのこと大好きだったとか? いや流石にそれはないか。
部屋に戻って着替えてからソファに 寝転がる。私用のスマホのスリープモードを解除すると智幸からのメッセージの通知が届いていた。開いてみると『会えないのは寂しいけどなんとか我慢するから俺は大丈夫。また会えるようになるまで全然待つから』という一文が表示される。
莉乃が死んじゃったからしばらく会えないので別れましょうと遠回しに言った結果である。
ちぇっ。やっぱ素直に別れてはくれないか。いい機会だと思ったのに。ま、いいや。とりあえず後でテキトーに返信しとこ。
スマホをテーブルの上に置いてから上体をゆっくり倒した。ちょうど頭の位置にクッションがあって、顔半分くらいがモフッと埋まる。
なんか疲れた。もちろん精神的な意味で。
それからすぐに莉乃が帰ってきて夕御飯を作り始めた。私はソファで俯せになってウトウトしながらキッチンに顔を向ける。カウンターの向こうに莉乃の姿は見えない。でも調理音は絶えず聞こえている。
「今日のご飯なにー?」
「ハンバーグ」
キッチンの奥から聞こえてきた答えに「おー」と返してから「ふわ」と欠伸をした。自然と滲んでくる涙でぼやけた視界に莉乃が映った。多分、こっちを見てる。
「眠い?」
「うん」
「疲れた?」
「うん」
「お吸い物とかポテトサラダとか先に出来たものから食べとく?」
「うん」
「じゃあちょっと待って」
ぼやけた莉乃がカウンターからいなくなる。
「うん」
健君と何を話したんだろう。訊くことは容易いけどきっと答えてくれないし結果的に困らせるだけだ。だから訊かない。タイミングがタイミングだし結構気にはなっているんだけど。
「ねぇ、莉乃」
「なに?」
声だけ返ってくる。
「結羽ちゃん、なんで腐っちゃったんだろう」それに続く言葉を口にする際の僅かな間が妙に長く、そして静かに感じた。「負の感情を溜め込んでたってことだよね、多分。結羽ちゃんの苦手な感情ってなんだったっけ」
「特になかったけど、強いていうなら『空虚』」
まぁ知ってたけど。
「虚しいとかそんな気持ちだよねー? 大活躍の真っ最中にそれが原因で腐化するかな」
「分からないけど、他の感情ってことも有り得る」
「まぁねー」
「それに」と莉乃はどこか言い淀むような口調で話す。「負の感情って、自分で生み出すだけじゃなくて人から向けられても駄目なんだと思う。納得出来ない理由で人から恨まれたら誰だって恨み返したくなるだろうし」
結羽ちゃんのこと? ううん、自分のことを言ってるのかな。でも莉乃はそんなタイプじゃないと思うけど。
「まぁ負の感情は連鎖するって昔から言うもんね」
「ん。でも、どうして急に結羽のことを?」
「ほら、さっき希恵ちゃんが結羽ちゃんが泣いてたって言ったでしょ? 多分つい口から出た言い訳なんだろうけど妙に気になっちゃって」
というちょうどいい口実が出来たから。
本当ならもう少し時間を置いてから訊いてみようと思ってたんだけどね。
「莉乃、結羽ちゃん最期に何か言ってなかったの? 結羽ちゃんのお母さんよりも先に私が聞くべきじゃないのかもしれないけど……」
無人のカウンターに目を向けること五秒。
「言ってたけど……」と声が聞こえた。
「でも腐化した理由が推測出来るような内容じゃないよ」
「そっか」
徒花が負の感情により腐化する場合、人間と違って瞬間的に腐ることはない。身体の一部から少しずつ腐っていき、それには苦しみを伴うようだった。もちろん腐化した人に聞いたわけじゃなくて見た感じだけど。
三日前に聞いた隊長の言葉によると、当日の結羽ちゃんの行動はこうなる。
①マンションの自室から飛び降りる。
②女の子(腐化した女の人の子供らしい)を襲っていたカフカと戦闘を開始。
③撃破後、腐化。
④莉乃に殺される。
そして同じく隊長の言葉から当日の莉乃の動きを導きだす。
①マンションから飛び降りた結羽ちゃんを健君が目撃。それを聞いて結羽ちゃんを探し始める。
②女の子の泣き声が聞こえて現場へ向かう。
③腐化している結羽ちゃんを発見。
④殺す。
でもここに私が知りながらも隠していたこと、結羽ちゃんの能力は『感知』ではないという事実を補足すると少しおかしなことになる。
まず①。結羽ちゃんがマンションを飛び降りた理由。カフカを感知したから、と隊長は言ったけど、多分違う。
じゃあ結羽ちゃんはどうしてマンションから飛び降りたのか。
多分デカデブの時と同じだ。
①腐化させる標的を見付けてマンションを飛び降りる。
となると当然②も変わってくる。
②標的を拘束、腐化させる。
この時女の子がどうしていたのかは不明。母親と一緒に拘束されていたということも考えられなくはないけど可能性としては低い気がする。それなら確実に目撃者を消すため、そんでもって活躍のために母親と一緒に腐化させそうなものだし。だから多分たまたま近くにいなかったとかだと思う。
②の直後女の子に目撃され、そして問題の③。
隊長曰くカフカを殺したのは結羽ちゃんらしいけどそれはおかしい。だって女の子が生きてるから。
だから多分カフカを殺したのも莉乃だ。
そして莉乃がどこまで目撃したかで③の内容は全然変わってしまう。
莉乃があの能力を見ていないのなら結羽ちゃんが腐化していて仕方なく殺したという証言に嘘はないのだろう。
でももし見たのなら。
隊長は結羽ちゃんが腐化したと疑ってなかったけど身体半分が腐ってるからと言って腐化しかけたとは限らない。徒花は死ぬと『そのままの形』で残るんだから、例えば大きなハンマーで殴って左半身を吹っ飛ばしたところで殺せばあんな遺体は何体でも作れる。
でも私が選んだ答えは前者。莉乃は能力を目撃したわけではない。
理由はさっきの会話。
結羽ちゃんは最期に言葉を遺した。莉乃の口調からして嘘はついてないし罵詈雑言の類いでもない筈。
莉乃に殺された場合、プライドが高くてお子ちゃまな結羽ちゃんはその事実をすんなり受け入れたうえで言葉を遺すような真似はしない、というか出来ないと思うから。
③自らも腐化してしまう。腐化によって結羽ちゃんは行動不能。母親カフカは娘を襲う。
そんで④でまとめて莉乃に殺される。
つまり私的あの日の本来の流れは、
①結羽ちゃん、腐化させる標的を見付けてマンションから飛び降りる。
②標的を拘束、腐化させる。それを目撃した女の子が泣き声をあげる。
③結羽ちゃん自身も腐化してしまう。
④莉乃到着。二体とも殺す。
うん。なかなかいい出来なんじゃないかな。
腐化した原因は分かんないままだけど、まぁあんな能力を使いまくってたらそうなってもおかしくはないと思うし。
問題があるとすれば被害者の女の子だよね。一命はとりとめて意識も戻ってるけど事件のショックで殆ど喋れない状態らしい。もし女の子が結羽ちゃんのやらかしたことを目撃していて快復後に喋ったりしたら対カフカ部隊は今までにない大批判を浴びることになるだろう。そんでもって同じ支部、しかも同じ班だった私達にもその矛先は少なからず向けられる。
しかも世間では『自らの命を投げ出して少女を救った』みたいに報道されてるし……。
まぁだからと言って女の子をどうこう出来るわけでもないから結局何も見ていなかったことを祈るしかない。あー、でも自分のお母さんが腐化するところは目撃してるわけだし、結羽ちゃんがカフカを人に戻そうとしなかった点はどうしても追及されるかも。あ、だから隊長ってば莉乃じゃなくて結羽ちゃんがカフカを殺したことにしたのかな。莉乃が保身のために嘘を吐くとは思えないし。
「流華、寝てる?」
「起きてるよー」
目を開けると莉乃がテーブルの横に立っていて、その手にはポテトサラダの乗った小皿とお吸い物のお椀を持っていた。
立ち上がってテーブルへ。
「ご飯とハンバーグはもう少し待って」
「うん。いただきまーす」
湯気を立てている汁椀を手にとって口へ運ぶ。
んー、温かい。




