278 初恋かもしれない
2021. 1. 4
王との話し合いから数日が経った夜。
侯爵家の庭にファナは一人立っていた。その日は昼間から、少々気になる気配を感じていたのだ。
ただ、どうやらファナが一人になるのを待っているような気がした。だから、シルヴァとドランが眠ってから庭に出たというわけだ。
いつもよりも明るく丸い月を眺めていると、その人は距離を置いた場所で立ち止まり、膝を突いた。
壮年の男だ。黒い装束。影に紛れて行動する者の出で立ち。なのに、手首に巻いた白いリボンはとても目立っていた。
そんな彼が口を開く前に、ファナは告げた。
「確かあの人はクランバードって名前だった。まあ、そんな名前は一度も呼ばずに、マスターって呼んでたけどね」
「っ……やはり……」
男は顔を上げて目を細めた。
「リボンの固結びは恋人に贈らないとダメだって、言ってやりたかったんだけどな〜」
「っ、なるほど。ですが、あの方はそれをお待ちだったのでしょう……創設者の言葉をお伝えいたします」
「うん」
それを待っていた。ファナは男に真っ直ぐに向き直る。
「『俺にとってファルナは、ただ一人、傍に居てほしいと願い、帰りを待つ女で、忘れることの出来ない者。だから、邪魔をした教会は絶対に許さない。必ず報復を』」
「……」
それではまるで、本当に恋人のようではないかとファナは笑った。幼女相手によく真面目に思ったものだ。
そして男は続ける。
「『もしも、ファルナの生まれ変わりが現れたら、その時には教会を潰し、この言葉を贈る』」
男は言葉を区切ると、立ち上がり、リボンを解いて折り畳んでから固結びにする。それをゆっくりと歩み寄ってファナに差し出した。
「『愛していた』」
「っ……そう……」
そのリボンを受け取り、握りしめる。涙で視界が滲む。そんな気持ちが自分に湧き起こるなど、考えたこともなかった。
「ふふ……バカマスター……年齢考えてよ……ふふっ……ありがと……」
「……はい……っ」
伝えてくれてありがとうと、自然に礼を言っていた。それがとても不思議な感覚で、とてもいい気分だった。
男は数歩下がると頭を深く下げた。
「これにより、我らの役目は終わりました。失礼いたします」
「うん……もう自由に生きて。付き合わせて悪かったね」
頭を上げた男は、ゆるりと目を和ませた。
「いいえ……幸せでした。役目を持つというのも、受け継ぐという使命を持つことも……あなたに出会えたことも……」
「そっか……」
「はい……」
そうして、男はまた頭を下げると、背を向けて木々の影に溶けて行った。
手に残る白いリボンは、月光を浴びてその光を反射していた。
「……バカマスター……」
もう一度呟くように言って、ファナはあの頃の何も知らない無垢な少女の時の笑顔で笑った。
「会いたくなったな〜」
その笑みを浮かべたまま月を見上げ、思ったのはマスターの生まれ変わり。
真面目で、真っ直ぐな青年。
「どうしようかな〜」
気付いた気持ちを育てるかどうか。それさえも楽しんでしまえるのが魔女だ。初めて抱いた恋心に振り回されるようなことにはならない。
しばらく考えていると、近くに懐かしい気配が降り立つのを感じた。その人に背を向けたまま問いかける。
「ねえ。師匠。初恋って、実らないって本当ですか?」
この質問に、その人は吹き出した。
「ふ、はははっ。それは人の場合だよ。魔女が失敗するわけないだろ?」
「なるほど」
ニヤリと笑って振り向いた先には、不適に笑う美女が立っていた。
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