256 影に希望を
2020. 3. 2
影の気配というのは特殊だ。
本来存在するはずのないもの。触れることもできないものだ。肉体などないはずなのに、それがさも存在するように見えてしまう。
魂は本来、削れれば削り落ちてしまった部分は消えてなくなるものなのだ。だが、それが個として存在し続けるのが影と呼ばれる『もう一人の自分』だった。
「シルヴァも気付かなかったみたいだし……これは本当に成り代わるってことがあるんだねえ」
ファナはその人物の元へ向かいながら、抑えきれない興奮を感じていた。顔が笑みの形を作ることを止められない。
存在するはずのないもの。その存在が確かな存在となる例は師である魔女からも確認できていないと聞いている。推測は立てていた。だが、現実では無理だと思っていたのだ。
「ふふっ……」
奇跡のような存在。それが今、ファナの前に居た。
「ねえ。お兄さん? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……」
その人は、三十後半か四十代といった所。灰色のフード付きの外套。肩に提げている布で包まれた物は楽器だろう。前に守るようにして抱えていた。
「お兄さん……奏楽詩人とかいう人?」
「……そうだが……お嬢さんは……迷子か?」
「ううん。逆。迷子を探してるの」
「そうか……」
細い路地。彼とファナ以外、この路地に見える範囲には誰もいない。薄暗く感じるそこで、ファナは堪らず笑みをうかべる。
「お兄さんさあ……影だよね?」
「……何のことだ……」
「『影魂』って呼ぶこともあるんだっけ? こっちの大陸では稀にあるって聞いたけど、影が生まれても、大人になる頃には消えるんだよね。でも……影の中には、意思を持って、本体に成り代わろうとする者もいる……」
「……っ」
彼の目には、警戒の色がはっきりと宿る。ファナはそれでも構わなかった。真実を知りたいだけなのだから。この存在が、奇跡が起きるのだと知れればそれでいい。
「お兄さん……成り代わったんだね?」
「っ……」
「あ、別にどうこうしようってわけじゃないよ? 私は知りたいだけ。本当に、そんなことが起こり得るのかってこと。それを確認したいだけだから」
「……」
しばらくの間。睨み合うようにして沈黙する。身動きも一切せず、ただ向かい合う。そして、男が口を開いた。
「……そうだ……あいつは、私に全てを譲った……あいつは、あいつとして生きることに耐えられなかったのだ……」
俯き、悲痛な表情で目を閉じる。その人を思い出すように。
「影は本来、耐えられない苦痛を逃す為にできるんでしょう? 切り離せなかったの?」
苦しいと、精神が悲鳴を上げる時。それでも生きなくてはならない葛藤から、その苦しみの部分を切り離す。その切り離されたものが影だ。長い時間を生きる彼らだからこそ、精神も特別だった。
人族ならばその苦痛に耐えられず病んで、いずれ衰弱して死んでいく。だが、魔族はその特質から影を生み出すことでその苦痛から逃れる術を持ってしまった。
彼の本体も、苦しんだのだろう。そして、彼が生まれた。本来ならば全ての苦痛を彼が引き受けているはずだ。
「いいや……完全に切り離せていた……私は私として存在できるまでに……お互いの存在を忘れるほどに……」
「……そんな事あるの? 本体が影の存在を知らないってことはあり得るよ? けど、影が本体の存在を忘れるなんて……」
あり得ない。影はどうしても本体の存在を気にしてしまうのだ。一つに戻ろうとする力なのだろう。それが第一段階。
存在を知りながらも離れようとするのが第二段階だ。そこまでいくと、本体の方に異変が生じるようになるはず。そして、影諸共に消滅するのだ。それが魔女の研究結果だった。
だが、それに当てはまらない者がいた。
ファナは男へ意識を集中させる。精神世界にまで手を出せるファナには見えた。
「……なるほど……お兄さん、半分だね。普通はそこまでいくとお互い消滅すると思うんだけど……こっちの大陸にある特性と特別相性が良かったのかも……」
「そうか……そうなのかもしれん……」
男が疲れたように肩を落としたのが分かった。
「お兄さんの本体は……まだ死んでない」
「っ、生きているのか?」
「うん。辛うじてって感じ? ん? あ、これは封印術? かも。かなり離れてるから本当にギリギリ留めてる感じ」
「っ……」
「あ、ダメだよ。もう引き合う力がないから、帰ろうとしても無理なの」
「では、本当に成り代われというのかっ」
影が成り代わろうと思うのではない。存在を確かなものにしたいと、不確かな存在が思うのは当然なのだから。
「お兄さんもギリギリか……うん。なら、私が保護するよ。本体もお兄さんも消えないように、助けてあげる」
「っ……」
男はファナに確かな希望を見出す。ただし、ファナの内心は違う。良い拾い物だなと思っていたのだ。
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