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夕べの向こう岸

作者: 鏡原レイ

 ひどい暑さの続く中、何年かぶりで盆に里帰りをした。里帰りをしたところで、何があるというわけでもないのだが、何年も続く猛暑のせいもあってか、盆の頃に休暇をとることが心身に良いと考えるようになった。

 実家には私が願って引き取ることにしたシロという犬がいる。シロは生後六か月で家に連れてきた。生まれた後、母犬や兄弟、そして穏やかなご夫妻と共に幸せに暮らしていた。ご夫妻には子供がなかったためか、犬をよく可愛がっており、生まれた子犬を譲るにあたっても、犬を幸せにできる人物かどうかを見ていると話していた。シロが私の家に来た頃は、昼間は誰かを探しているような素振りを見せ、夜はよく鳴いていた。しかし、一か月もしたら新しい環境にも慣れたようだった。

 私は大学を出た後、東京で勤務することになり、シロを残して家を出た。幸い、シロを飼うことに反対していた両親も、元来は動物好きであったため、シロを可愛がってくれていた。シロも既に十二歳を過ぎていた。犬としては高齢のうちに入るだろう。

 シロは人見知りが激しく、家族とそれ以外の人物への接し方が大きく違っていた。平たくいうと、家族以外の人物には、たとえ家族の友人だろうが恋人だろうが近づかず、ややもすると唸り声をあげてしまう性質であった。散歩に出ると、その解放感からか、人への警戒心も薄れるのだが、それでも行き会った知り合いがシロに接しようとすると吠えたり、唸ったりする。こちらとしては、何とも申し訳ない気持ちになるのだが、生来のものなので仕方がないと思っている。

 夏の日の犬との散歩は、早朝か夕刻にしか行く気がしない。特に、近年の夏はそうだ。その日もビールをおいしく飲みたいがために、シロを連れて、ヒグラシが鳴く頃に散歩をしていた。少年の頃、カブトやクワガタを取るために数えきれないほど通った山を歩く。その頃に比べれば、虫が少なくなったようだが、それでも山の匂いはそのままだ。カブトやクワガタが飛び交っている匂いもはっきり残っている。だが、自分も年齢を重ねたので、風で葉がこすれ合う音、木々や草花の様子の方に目が向くようになった。

 山道の途中、片側が崖になっている所がいくつかある。崖の下は川だ。少年の頃、友人たちと泳ぎ、釣りをした川だ。しかし、愉快な思い出ばかりの場所ではない。その川は、私に、死は意外と身近なものだということを教えてくれた場所でもある。      

 夏場は水の事故のニュースが必ずある。この川でも何度か事故が起きている。私はその場に居合わせたことがある。少年が深みにはまり、溺れたのだ。川岸では母親と思しき女性と老女が声をあげて泣いていた。引き上げられた少年は青白かった。その夜、その少年は亡くなったと聞いた。その少年は私と同級生だったということだ。

 その翌年、私もいま眼下にある同じ川で溺れそうになったことがある。私は泳ぎには自信があった。水深二メートルくらいある所に潜って魚を突いていた時、川底から上がって息継ぎをしようとしたら、水面に出るタイミングがずれてしまった。私は水をしたたか飲み込んでしまった。息継ぎをしようとしたところで、水が入ってきたので、少年だった私は慌てた。私の体は水中に沈み、手足をバタバタと動かしたが、一向に浮上しなかった。焦った。このままでは溺れてしまう。そう思った時、何かが降りてきたように、水中に光が差し込む先に、川底の石が照らされた場所が目に入った。その頃の自分の背でも立てそうな場所だ。私は夢中で水中を蹴った。何とかそこにたどり着いた。死なずに済んだのだ。

 その夜、私は溺れ死んだ少年のことを思い出していた。あの時、何かが降りてきたようなことも。私は、不思議という言葉を初めて身に染みて感じていた。

 川での事故は他にもあった。生後六か月にわたってシロの飼い主だったご主人も川で亡くなった。

 ある日、シロの元の飼い主のご夫妻は夕涼みもかねて山を散歩していた。途中、見事な山百合が咲いていたそうで、ご主人はその山百合を細君にプレゼントしようと考えたようだ。山百合は崖に咲いていた。ご主人は、少し崖を下り、山百合に手を伸ばしたが、足をとられたのか、バランスを崩して崖を転がり落ち、川に突っ込んでしまった。少し飲酒していたこともあり、ご主人は水面に浮上することなく、溺死した。

 どれだけ綺麗な山百合だったのだろうか。この辺りでは色々な花を見ることができるが、立ち止まるほど、積んでみたいと思うほど美しい花は見たことがなかった。あるいは、私が幼かったがゆえに、目に入っても何も感じなかっただけなのかもしれない。いまだったら、その美しさに少しは感じるものがあるだろうか。

 山道も既に半分を行き過ぎていた。喉が渇いてきたので、少し早足で道なりに歩を進めていた。

 左カーブになっている所を曲がりきると、前方に初老の男性が、川の方角を向いて立っていた。その男性の横を通り過ぎる際、右手が後ろに引っ張られた。何かと思ったら、私の後ろを歩いていたシロが立ち止まったのだ。シロはその男性の横に立ち、尻尾を振っていた。その男性はしゃがんでシロの頭を撫で始めた。私は驚いた。シロが家族以外の人物になつく姿を初めて見たからだ。シロがその男性の膝の上に飛び乗ろうと前足をかけたので、男性の服が汚れたと思った私は咄嗟に謝った。

「すみません。シロ、だめだぞ。」

「いいんです。」

「しかし、服が汚れてしまったのではないでしょうか。」

「いいんですよ。」

 シロはなおもその男性から離れようとしなかった。

「・・・うちの犬は人見知りがひどい性質なんです。人さまにこんなになついている姿は初めて見ました。犬は犬好きな人が分かると言いますが・・・。」

「私も犬を飼っていました。犬は可愛いですよ。子供のようなものでした。この子の名前は何といいますかな?」

「シロです。」

「幸せそうだね。」

 夕闇が迫ってきていた。私は男性に御礼を言い、別れを告げた。しかし、私は何度か立ち止まることになった。シロが立ち止まって、来た道を振り返っていたからだ。

 山道を下りきって、川岸に出た。シロがまた立ち止まった。私はシロの視線の先を追った。崖の中ほどに花が咲いている。

 シロが歩き出す。

 私はシロに導かれて、川岸を崖に向かって歩いた。近づいて分かったのだが、花は山百合だった。とても大きく、立派な、美しい花だ。

 私とシロは、西の空が深い群青色になるまで山百合と崖を見つめていた。



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