朱色の守護者
成人向けではありませんが、15歳未満の方と百合が苦手な方には不適切な内容となっておりますのでご注意くださいませ。
◆
困ったことになった。
胡蝶という名の虫の精霊として生を受け、育ち、蛹から羽化して一年。青虫だった時なんて遠い昔のことで、前よりもずっと沢山のことを知って、賢くなったんだと思っていた矢先のこと。
「うーん、どうしてもダメだ……」
蜜を求めて甘い香りのする方へと近づいたのが数分前。
花の精霊にお願いして美味しい蜜をわけて貰おうと思っていたのに、わたしを待っていたのはこのネバネバした何か。
うっかり甘い香りに引き寄せられて、赤い触覚みたいなのを踏んじゃったのが始まりだった。
どんなに足を引っ張っても、ネバネバはなかなか取れなくって、同じところを何回も足踏みしてみても全然ダメだった。あまりにももがいていたら、思わず手を突きそうになってひやりと汗が落ちる。
――どうしよう……。
羽化したばかりの時、見守ってくれた年長者が言っていた。
女神の命の上に成り立つこの美しい森は、少し間違っただけで誰かに食べられてしまう恐ろしい世界。
もしも、恋人を見つけて卵を残したいのなら、たくさんたくさん気を付けて、一瞬たりとも気を抜いては駄目なのだと。
このまま動けないと、とてもまずい。
森には蟷螂や蜘蛛なんかがいて、いつどこからわたしのような胡蝶を狙うか分からない。
でも、いくら焦ってもこの謎のネバネバのせいで全然動けなくて、わたし一人ではどうしようもない。
「どうしたら、取れるの……?」
涙と震えが込み上げて来ても、状況は変わってやくれない。
そんなとき、ふと、温もりがわたしの肩を包み込んだことに気付かされた。
動けないながら振り返ってみると、途端に甘い香りがした。震えるわたしの腕をつかむのは、女の手。
花だ。花の精霊だ。それは匂いで分かった。いつも蜜をくれる人たちによく似た女が、いつの間にかわたしを背後から抱き締めていた。フェルトのような柔らかな肌触りを受けて、わたしはしばらく茫然としてしまった。
「あ、あの――」
「胡蝶……」
ようやくわたしが口を開きかけたとき、ほぼ同時に花の女が言葉を放った。その甘い吐息が首筋にかかる。どうしてだろう。わたしはまた震えてしまった。
優しげなのに、柔らかなのに、この花の女の眼差しがとても怖かった。
「怖がらないで」
鈴の音のような声でそう言って、花の女はゆっくりと、わたしの首筋にキスをした。
急な感触に身体が痺れ、膝の感覚が消えそうになった。
座り込んじゃ駄目だ。座り込んだら今よりもっと動けなくなってしまう。
焦るわたしの身体を花の女が抱え、その手が鎖骨辺りから臍の辺りまでゆっくりと這っていった。
――蜜の香りがする……。
鼻孔をくすぐられて恍惚としたわたしを、花の女は嬉しそうに抱き締めてきた。女の胸が当たる感触をぼんやりと受け止めていると、耳たぶが軽く噛まれた。
「貴女……は……」
止まりかける思考のなかでどうにか訊ねてみると、途端に花の女の愛らしい笑い声が耳元で響いた。
「初めまして」
丁寧に、彼女はわたしに囁いた。
「あたしの名は毛氈。貴女のことずっと見ていたの」
「もうせん?」
聞いたことのない響きに茫然としてしまう。
そんなわたしの様子を見て、毛氈はさらにぎゅっと抱きしめてきた。甘い香りがする。喉の渇くたまらない香り。触ると少しだけその蜜の味がした。でも、こんなものじゃダメだ。今すぐにこの花の女に口付けをして、濃厚な蜜をもらいたい。
わたしの意識が愛欲と食欲の間でうごめき、とても辛い。
けれど、そんなわたしを気遣うように、やっと彼女は己の指をわたしの口元へと差し出したのだ。遠慮なくその指を口に含むと、途端に幸せな感覚が広がった。夢の中にいるみたいで、動けない現状もどうでもよくなってくる。
「美味しい……?」
優しく問われ、口を放す。
「うん……」
幸福な気持ちが全身をかけめぐり、現実が現実でなくなっていくようだった。
そんなわたしを覗き込み、毛氈はその香りに勝るほど甘い声でわたしに囁いてきたのだ。
「じゃあ、ずっとここにいてくれる……?」
「ずっと、って……」
ふと目が覚めた。
動かない脚がぴくぴくと痙攣し、わたしの脳裏に危険信号を送っている。この女の言う事を聞いてはいけない。野生的な本能とでもいうべきものが、わたしを徐々に焦らせ始めた。
必死に力んでみたけれど、脚はちっとも動かない。粘々とした甘い香りの液体が絡みついていて、放そうとすらしてくれないのだ。
「あんまり暴れないで。あたしが壊れちゃうわ……」
うっとりとした声が耳元でして、寒気が生まれた。
動けないわたしとわたしを捕らえるねばねばの足場を覆うように大きな葉の壁がせり上がっていく。花特有の力だ。カーテンのように外とわたしとを引き離そうとしている。
毛氈に抱きしめられたまま、わたしは思わず悲鳴を上げた。
「待って! 閉じないで!」
自由を奪われたくなかった。でも、抗いようがない。どんなに足をあげようとしても、どんなに動こうとしても、全く動けないのだから。
全てが遮断された後で、毛氈の唇がわたしの首筋を刺激した。
「あたしはね、一人ぼっちなの。一人ぼっちでいつもここにいて、色んな虫を誘いこむの。でも皆、あたしのことを怖がって、あたしを拒絶して、あたしを怒らせて――」
毛氈がわたしの身体を撫でていく。怖いはずなのに、甘い香りのせいか興奮すら覚えてしまう。そんな自分が恥ずかしくて、情けなくて、泣きだしてしまいそうだった。
「結局、あたしは一人になっちゃう」
怒らせて、独りになってしまう。
――ああ、女神様。この土地の女神様。どうか、わたしを御救いください。
わたしは気付いてしまった。この毛氈とかいう独特な女がどういった種族の花なのか、今さら分かってしまったのだ。
「貴女も同じなのかしら? あたしを拒絶して、あたしを一人ぼっちにしちゃうの?」
「……貴女を拒絶したら、どうなっちゃうわけ?」
恐る恐る訊ねてみれば、毛氈は無邪気な声でくすりと笑った。
花らしく愛らしいのだろう表情が、わたしから見えるわけではない。それでも、毛氈の声にひと欠片も悪びれる様子がないことが嫌でも伝わり、わたしの額には冷や汗が浮かび上がる。
「このままずっと閉じ込める。《ねばねば》に捕まっている貴女をずっと、あたしの葉っぱの内側に閉じ込め続けるの。そうしたら、貴女は段々あたしの身体に吸収されちゃって、あたしはまた独りになっちゃうの」
「な、何よそれ……」
冗談じゃない。本当に、冗談じゃない。
どうやらわたしは、蜘蛛や蟷螂よりも厄介なものに捕まってしまったらしい。逃げようにも葉っぱは閉じてしまっているし、足のねばねばも消えそうにない。こうなったらもう、全力でこの毛氈とやらと交渉するしかなさそうだ。
そう、怯えてばかりはいられない。
何がどうなろうと、生き延びたものが勝ちなのだから。
「……どうしたら、貴女を独りにしないで済むのかなあ」
独り言つようにそう呟くと、毛氈の手の動きが反応を見せた。
抱きついてくる感触は柔らかくて気持ちいい。わたしの運命の全てを握ってしまっている女は、さっきよりもずっと幼い声でこう言ってきた。
「あたしを独りにしないでくれるの? 他の人のように怖がったりしない?」
「――も、勿論よ」
命がかかっているのだから。
わたしの答えを聞くと、毛氈はしばらく沈黙したが、やがて納得したように手を離した。ほぼ同時に、あんなにわたしの足を捉えていた粘々した液体が引っ込んでいった。
驚きつつ脚を動かしてみると、さっきまでの不自由がウソみたいに動けるようになったのだ。
「胡蝶」
幼い子供のような声で呼ばれてみて振りかえり、わたしはやっと毛氈の姿を見ることが出来た。
◆
物心ついた時からあたしは一人ぼっちだった。
自由気ままにあちらこちら進んでいく気にもなれず、ただじっと同じ場所にいるばかり。
どうせ生まれるのなら、虫に生まれたかったなと思ったのはいつのことだろう。美しい胡蝶に生まれていたら、あたしもきっと一人ぼっちなんかではなかったかもしれないのに。
でも、そんなこと幾ら思っていても、あたしが毛氈という種族のもので、胡蝶なんかではないのだという事実は変わらないのだ。
あたしは毛氈。
虫を食べる花。
美味しい蜜の香りで誘って、虫達の欲望をかきたてて、一時の夢心地と引き換えにその身体をいただく者の一人。
そんなあたしを虫たちは魔女と呼んだ。
違う。あたしは魔女じゃない。あたしは魔法なんて使えない。ただ生きていくためにほんのちょっとの虫の命が必要なだけ。
それでも彼らはあたしを嫌い、貶し、拒むのだ。
あたしを訪ねるのは蜜が目的の虫ばかり。あたしを拒み、吸収されていく糧となるものばかり。だから、あたしはいつまで経っても一人ぼっち。
それでも、あたしは期待した。次に来る虫は、ご飯なんかじゃなくてお友だちになってくれる人だって。騙されてもいいから、ちょっとだけでも甘い言葉が欲しかった。
そして、あたしの《ねばねば》に彼女は引っかかったのだ。
胡蝶。儚くも美しい種族の娘が、あたしの身体の一部でもがいている。あたしよりも年上で、綺麗な体が魅了するのはきっと同じ胡蝶の異性だけではないだろう。
あたしもそんな胡蝶の魅了に囚われてしまっていた。
――彼女が欲しい……。
その姿を見た瞬間、あたしはいつも以上にそう願った。
「……なるほど。じゃあ、貴女が欲しいのは、お友達なのね」
向き合って、その豊かな胸に顔を埋めているあたしに向かって、不運なその胡蝶は冷静にも確認してきた。
あたしは小さく頷き、彼女にすがる。
甘い香りはあたしの醸し出す蜜のものだ。けれど、こうしていると胡蝶自身の香りと混ざってとてもいい気持ちになる。うっとりとその感覚に浸るあたしの背中を、胡蝶は困ったように撫でていた。
安心感と共に不安が生じる。
彼女が拒んだらどうしよう。あたしを嫌ってしまったら、どうしよう。また一人にされるのは怖かった。
けれど、そんなあたしに胡蝶は言ったのだ。
「分かった、毛氈。お友達になってあげる」
さっきよりも堂々とした声と表情で、胡蝶はあたしを見下ろしている。きっとあたしが彼女よりも年下だからなのだろう。
あたしの葉っぱに囲まれる中で、胡蝶はじっとあたしの目を見つめて続けた。
「その代わり、貴女には約束を守ってもらいます!」
「――やくそく?」
「一つ。お友達になるのなら、わたしを食べないこと! はい、復唱」
どうやらお約束は複数あるらしい。
ぼんやりとしていると、胡蝶はその愛らしい顔であたしを軽く睨んできた。その目に急かされて、あたしは慌てて復唱した。
「ひ、一つ。お友達になるのなら、貴女を食べないこと……」
「二つ。さっきの《ねばねば》は、わたしには二度と使わないこと!」
「二つ。《ねばねば》は貴女には使わないこと」
「そして三つ! これが大事だからよく聞きなさい!」
なんだろう。
不安に思いながらあたしは胡蝶を窺った。その顔は完全にあたしを子供扱いしているけれど、そんなことはどうでもよくて、あたしは彼女の機嫌を損ねたくなかった。
不安げなあたしを見つめながら、胡蝶はふいにあたしの頬を両手で覆ってきた。驚くより先に、その口があたしの唇を奪っていく。
とうとつに与えられた感覚にあたしは戸惑った。でも、それよりも、気持ちよさと安心の方が強かった。
ひとしきりすると、胡蝶はあたしの口を放して得意気に笑って見せた。美しく、自信に満ちたその表情に、飲まれていきそうだった。
妖艶な笑みを浮かべたまま、胡蝶はあたしを抱き締めて言った。
「三つ。これから毎日、わたしに蜜を捧げること」
その言葉が魔法のように頭の中に響いて、あたしは急激に幸せな気持ちになった。胡蝶に抱かれたまま、のんびりとその感覚に浸っていると、胡蝶が、こら、とあたしに囁いた。
「復唱しなさいったら」
◆
胡蝶という種族はいつだって危険と隣り合わせだ。
わたしが幼い頃から見知っていた者たちも、今やもう殆ど生きていないだろう。
そして今日、わたしも同じく不運な一匹の虫けらとして命を落とすところだった。
――危ないところだった。
開けた視界の中、もう《ねばねば》とやらも出てこない肌触りのいい足場の上で、わたしは再び見ることのかなった森の景色を見つめていた。
そんなわたしの膝の上で寝そべるのは大人になりかけた一人の少女。花として生まれ、虫を騙して食うことを定められた恐ろしい食虫花の女の子。
あと少しでわたしはきっと彼女の身体の一部になっていたことだろう。
でも、もう大丈夫。大丈夫どころか、それ以上の結果になった。柔らかな手触りも、無垢な少女の心も、ただの花には生み出せない独特な味の蜜も、孤独を癒してくれるこの温もりも、全部わたしのものになったのだから。
「……胡蝶」
「なあに、毛氈」
「あたしを一人にしないでくれる?」
今日、同じ台詞を聞かされるのはこれで何回目だろう。
きっとこの恐ろしい血を引く少女は寂しくて仕方なかったのだろう。自らの内心も、ついでに隠していた蜜も、なにもかもさらけ出せるような相手に飢えていたのだろう。
毛氈の綺麗な髪を撫でながら、わたしはふと未来を想った。
片や食べるもの。片や食べられるもの。この関係は一体いつまで持つのだろうかと。
考えかけたところで、面倒になってやめた。
「当たり前じゃない。友達になったんだから」
そう言い聞かせ、毛氈の心を引き寄せる。
支配されそうならば、先に支配してしまえばいい。名もなきわたしはそうやって生きてきた。これからもきっと、わたしはこの恐ろしくも純粋な少女の心を支配し、そして、守り続けられるような存在であろうとするだろう。
食虫花すら欺くような悪い虫につかれないように。
そして何よりも、わたし自身が孤独を味わうことがないように。
安心して身を寄せる毛氈を撫で、ほんの少しだけその蜜をつまみ食いしながら、わたしは、ちっぽけなわたし達を包み込む色彩豊かな森の景色を眺めた。
すっかり日も暮れ、闇が広がる空を、この大地を支配する女神の化身が照らしていた。
その清らかな光を浴びながら、わたしは幽かな幸福に酔いしれていた。