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かわいそうな人。

作者: 刀根のぞみ

気が付いたときには、天気予報は雨続きだった。

じんわりと身体に纏わり付くような空気。

縮毛矯正をかけたのがいつだったか、美容院に行った日すら思い出せない記憶。

じとりと重い何かが、私の思考を停止させるよう。


傘をさしても濡れる足元。

“靴の中で金魚が飼えそうだわ。”

なんて思ってしまったのは、思考が停止せずに狂い始めたから。らしかった。

存在感のない水溜まりを避けたって、私の気分は晴れないのだから。


建物に入り歩き始めれば、誰かが私の足に畳んだ傘を引っ掻ける。

ようやく乾き始めた足元に濡れた傘をあてられるなんて、泣きたくもなる。

振り返りすらしないその持ち主。

なんでこう、こういう日には、こういった目にばかりあうのかしら。


むしろ私はここに居てはいけないのではないか。

私がここに居ること……存在している事から、間違っているのではないか。

いや、むしろ人々に“私”は見えていないのではないか。

そんな風に思ってしまう。


その瞬間、全てが無駄で。

全てが馬鹿らしく思えて。

今度こそ。

私は考えることをやめた。

やめようと思った。


“無”


頭の中に、たった一文字の漢字が浮かぶ。

帰路に向かう電車の中、ぼんやりと無になろうとする私の目の前を、見たことのない大きな虫が横切る。

寄ってこないのを願いつつ、そのフォルムに背筋がぞっとしていた。

ああ、無になるのを邪魔されてしまった。


ヘンテコな虫一匹なんかのせいで。


窓に目をやると、スコールのような雨がたたきつけられている。

そんな雨にあたらなかっただけ、私はまだ運が良かったのだろうか。

ふとそう思った時、電車は駅のホームに滑り込む。

扉がひらき、乗ってきた一人の男性がいた。

かわいそうに、その激しい雨にあたったのだろう。

その手に傘はあったが、さしても無駄だったことを意味している。

全身ずぶ濡れだったから。


「僕、かわいそうですか?」

大学生くらいだろうか。

私は目があっているにも関わらず、辺りを見渡す。

「いやいや、あなたですよ。

あなたしか、居ないじゃないですか。」

「……すみません。まさか話し掛けられるとは……、思ってもいませんでしたから」

私はそう言って目をそらす。

「なんだか僕。いつも、タイミングが悪いみたいで。雨男なんですよね……ああ、正しくは悪天候男かもしれませんが」

なかなか面白いことを言う。

思わず私はもう一度その姿を見つめ、こんなことを言ってしまう。

「一瞬でも、ひどい雨にあたってかわいそう、と思ってしまった事は謝るわ。

けれども貸してあげられる大きなタオルすら持ち合わせていない私なんかに声をかけるなんて……

ついてないわね」

せめてもと思い差し出すハンカチ。

その人はキョトンとした顔をして、私を見る。そして、

「雨ってなんでこう、人の気持ちをどんよりさせるんでしょうね」

と笑いながらハンカチを受け取った。

「私なんかって言っちゃいけませんよ。あなたはこんな素敵なハンカチを差し出してくださる心優しき素敵な女性じゃないですか。

こんな格好で実家に帰ったら、雑巾……は言い過ぎだけど、使い古しのバスタオルとか飛んでくるだけですよ。

それに比べたら素敵なシチュエーションじゃないですかこれ」

そう言われ、今度は私が目を丸くする番となっていた。

「そう……かしら。

でもこのシチュエーションを作ってくれたのはあなたの方じゃない。たまたま雨にあたって、たまたまこの時間の、この電車の、この車両に乗って……」

「そしたらたまたまこの時間の、この電車の、この車両に……あなたが乗ってた。

僕はこんな全身びしょびしょで、誰かとはなしがしたかった。

はなしをしてみたかった。

聞いてほしかったんだ。」

私は黙ってしまった。

「どうしたの?」

足もとに小さな水溜まりを作っているその人は、私の顔をのぞきこむ。

「ううん……。私ね、なんだかずっと落ち込んでて。私は世の中から見えてない存在なのかな、なんて考えちゃってたわけ。

でも、あなたが話しかけてくれて。ああ、私、人に見えてる。ちゃんと存在してるって思えたから……」

「なかなか面白いね、それ。」

私はそう言われ、

「あなたこそ。僕かわいそうですかって、なかなか言えないわよ」

と反撃をする。

「でも、そんな出会いも、たまには良くないですか?」

「悪くないわよ。あなたの言葉を借りるとね、むしろ“素敵”って言うのかしら……」

「あ!雨、完全にやんだみたいですね!」

遮るように言われ、私は面食らう。

「役立たずだった傘に、次は役に立ってねって言っておきなさい」

気づけば降りる駅だった。

だから私は最後にそう言った。


「待って!」

呼び止められて振り返る。

「僕もこの駅なんです。」

「え……?」

「せっかくのご縁です。良かったら、ごはん食べて帰りません?」

私の答えは“Yes”と決まっていたが、こう聞く。

「あなたの家、駅から何分?」

「え?えっと……5分ってとこかな。いや、家散らかってるし。そんなつもりじゃ……」

「どんなつもりよ。あなた自分がずぶ濡れってこと覚えてる?

風邪引く前に着替えてらっしゃい」

「あ、忘れてた。なるほど。待っててくれるんすか?」

「ええ……待ってるから」

私は濡れた髪のせいか、子犬みたいなその人がなんだか可愛らしくて、目をそらす。

「それじゃ、行ってきます!

絶対、待っててくださいよ!」

私は「はいはい、」と言いながら、戻ってきたら聞くことがいっぱいあるのだと思った。


待つ間に、聞くこと考えておこう。


なんて思ったら、湿気も髪も靴も。

どうでも良くなってしまった。

けれどもひとつ、どうしても心配なことがあった。


歳の差はどのくらいかしら?


名前よりも歳が気になるなんて、私も年を取ってしまったと。

ため息をついて笑った。




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